拾捌

 館にたどり着く頃には熱が上がり、先に帰っていた母子に帰宅を告げたあと、敷かれた布団に、キラは早々に横たわる。ややして運ばれてきたゆるい粥の中には、焼いた鮭の身をほぐしたものが、まぶしてあった。

「ボレイって、まだあったよな」

「ええ、入れた」

「そう。ならいいや」

 食後には、サラが調合した薬を飲んで、また布団に身を横たえる。軽くとも食事をすれば、体温が上がる。じっと安静にしていれば、左腕の痛みは全身にまで響くほどに、鋭く、重かった。

「右じゃあなくて、よかったな。利き腕じゃあ、不便さが段違いだろうから」

「そうね。とりあえず、熱が引いて落ち着けば、少しずつ動けるようになるでしょう。今日と明日あたりは、しっかりと安静にしていることね」

 濡れ布を兄の額に乗せ、サラは部屋を出ていく。遠ざかる足音を耳にしながら、キラは熱に茹だる頭と、体にまとわる疲労感に、抗うことなく目蓋を閉じた。


 ふと、彼は覚醒した。しんと静まり返った暗い場所に、ひとり。

(あ、そうか。寝床か。真夜中だ。サラは)

 普段は同じ布団に潜り込んでいる妹は、隣にもう一式敷いて、くうくうと静かな寝息を立てていた。

 ぬるくなった額の布巾で、首や胸を拭う。

(襦袢がビショ濡れだ。随分、汗をかいた。かなり熱いが、悪寒がする。まだ上がるんだろうか)

 痛みと頭のグラつきに耐えながら、ようやく上体を起こしたキラは、枕元に置いてあった水呑に口をつけた。だが、一息ついたのも束の間。腹がギュルリとなって、こわばった。

(ハァ。便所、行かねえと。一人じゃあ、さすがに無理だな。起こすか)

「サラ。悪い、ちょっと、いいか」

「ん。どうしたの」

「厠に行きたい。途中、支えてくれないか」

 と言えば、サラはムクリと起き上がって、兄に身を寄せ脇と腰に手を回しながら、支える準備を整えてしまった。その上で、障子の向こうの縁側の、その向こうを目で示す。

「小水なら、お庭でしてしまいなさいな」

「うぅん。そっちじゃない」

「あら、そうなの。それでも、そこでしてしまっていいと思うけれど。気にするのなら」

 左腕に負荷がかからないよう、キラは妹に支えられながら、腰を上げようとした。しかし。

「あ、だめだ。眩む」

「いけない。もう一度、横になって」

 そうして、振り出しに戻る。

(起き上がれる気が、しないな。どうするか)

 息を整えている間に、サラは置行灯に火をつける。ぼんやりと、部屋の中が明るんだ。

「大して食べていないし、出るものも少ないでしょう。ここで、してしまいなさい」

「ええ。嫌だな」

「だって、動けないでしょう」

 押し入れから、古くなった肌着やらを引っ張り出して、厚くなるように重ねて折りたたむと、問答無用とばかりにキラの下帯を解いて、尻の下に敷いてしまう。

「勘弁してくれねえかな」

「満足な抵抗もできないくせに、四の五の言わないでよ。お湯を汲んできますから。その間に済ませてしまえばいいでしょう」

「出たものは、見るじゃん」

「自分で片付けられないでしょう。仕方ないじゃない。それじゃあ、行ってきます。ごゆっくりどうぞ」

 と、障子を閉めて、さっさと出ていく。

「嫌だって、言ってんのに」

 下半身を晒しながら、放置されたキラは、途方に暮れたように呟く。グルリと、またはらわたが唸る。

「はあ。しょうがねえ。しょうがねえって。どうせ、いずれはこうなったんだ。先祖も、みんな、こうだったんだって。諦めろ」

 ぼそり、ぼそりと、自分自身に言い聞かせるように。グルリ。

「ああ、なんだって。嫌だよ。なんで、妹にシモの世話なんか、されなきゃならねえんだよ。ふざけんなよ」

 グルリ。

「もうちょっと、粘れると思ったのになぁ」

 ジワリ。

 根負け。右の腕の下に隠された瞳が、滲んだ。


「終わったかしら」

「うん」

 障子向こうから声をかけられ、キラは半ば放心したまま声を返した。スッと、涼しい空気が流れ込んできて、盥を抱えたサラが戻ってくる。

「あら。臭わない。本当に出したの」

「出したよ」

 動じたふうもなく振る舞う妹の姿を、直視もできずに、虚空を眺める。

(このくらい、無感動でいてくれるくらいが、ちょうどいいのかなぁ)

「片付けるから。ほら、脚、立ててちょうだい」

「んぅ」

(いいよもう。ヤケだよ。こっちだって)

 沈黙、静寂。キラのはらわたから出たものを見下ろしたサラの気配が、揺らぐ。それが、キラにはよく分かる。なぜなら、彼もはじめはそうであったから。

「まあ、鮮やかだこと」

 ポツリと、サラは言った。

「そうだろ」

 妹の目に映っているのが、糞便ではなく、鮮血であることを、キラは確認せずとも分かっていた。行灯の薄明かりの中でも、その血液は紅よりも賑やかな朱の色を、見せているであろうか。

 サラは言葉が浮かばないのか、呑み込んでいるのか。黙りこくって、血を吸った古着を退けて、血濡れた兄の尻を拭って、下帯を巻き直した。赤色の中に、黒い破片が散っている。それは、食物の成れの果てか。それとも、深い場所から流れ落ちてきた、血の塊なのか。後者であると判じるのは、サラにとって、大して思考する必要があることでもない。

「膿が混ざっているのね。結構、長く続いているの」

「初めて気づいたのが、ふた月前かな。それからは、ほぼ毎日、ずっとだ」

「そう。これが毎日なら、とっくに血も足りなくなっていたでしょうね。お腹の具合は悪そうだったけれど。こんな事になってるとは思わなかった」

「言わなかった」

「そうね。言われなきゃ、気づかないから、わたしは」

(ああ、なんだろうな。いっそ、いつもみたいに、どうして黙っていたんだ、って、責めてくれたほうが、気楽だったのかもしれない)

「あっ、そうだ。月のものに使っているやつ、当てておけばいいわ。血を絞るためだけに、毎度お手洗いに行くのも大変でしょう。何枚か、あげるわ」

 そう言いながら、サラはまた押し入れを開けて、段の下の方に置かれたかごの中をあさって、古着で仕立てた吸血用の当て布を、手にとって戻ってくる。

「ちょっと、横向いて。こうやって、ホラ。お尻のところに入れておけばいいのよ。ゆるくてだめかしら。あ、挟んでみたら」

 下帯の中に手を突っ込んで、兄の尻肉を広げたり抑えたりする妹。キラは好きなようにやらせた。

「ねえ、これでどうかしら」

「ゴワつくな。でもまあ、いいんじゃないか」

 妹の満足げな顔に、キラの胸のこわばりが、いくらか抜ける。

「ああ、ちょうどよかった。ねえ、わたしが女でよかったわね」

「一緒にしていいのかなぁ」

「血が出るのは一緒じゃない。それに、使い勝手がいいなら使えばいいのよ」

「すげえな、開き直り方が。おれも見習いてぇわ」

「あなたと同じものが使えて、ちょっと嬉しい」

「はは。なんだそりゃ」

 薄い布団を被せられながら、サラの朗らかさに、キラもまた笑った。

「眠れそうかしら」

「うん」

「なにかあれば、起こしてよ」

 サラは柔く言って、行灯の明かりを落とす。ゴソゴソと、隣の布団に潜り込む。

 また暗くなった天井の影を眺め見て、キラはふぅ、と息をついた。

(初めてこうなったとき、愕然としたんだ。目に見えて、いよいよおかしくなってきたって、突きつけられた心地がしたから。だるさも、痛みも、目には見えねえから、まあ、そんな時期もあるだろう、そのうち良くなってくるだろう、なんて。ガキの頃から、覚悟はしていたはずなのに、いざってなったら、やっぱり、嫌なもんだ。まだ死にたくない。怪我もしてないのに、内臓から出てくる血なんて、見たくもない。いつまで経っても止まりゃしないのを、見たくない、向き合えない。だから、自分自身にも誤魔化して、そのまんま、誰にも気づかれなきゃいい、くらいに思っていたのに。でも、おまえが、大したことじゃないように扱ってくれるのが、存外、いいものらしい。分かってるさな、おれも、おまえも。これが、十分に大したことだってことは。おまえの言うとおりだ。ちょうどいい。おれにとって、おまえはちょうどいい。おれが大して気にしていないことを、おまえは気にかけてくれる。おれが、怖がるくらいに気にしていれば、おまえはむしろ、気にしない。そういうふうに、振る舞ってくれる。だから、おれはおまえを離してやれないんだ。おまえと同じ想いを、返せないくせに。情緒も知らねえくせして引っ張り込んで、もたせちゃならない感情をおまえにもたせておいて。おれは先に死ぬけど、幸せになれよ、なんて言葉が、おまえにとってどんなものなのか、わかりもしないくせに。なんにも、わからないくせに)

 もう一度深く息を吐き、キラは目蓋を閉じた。

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