拾漆
「あれマァ、そんなビショ濡れで。旦那の着流し取ってくるから、そこで待っててちょうだい。小さかろうが、そこは我慢しておくれ」
骨接師の家を訪ねれば、玄関先で奥方が出迎えた。土間で濡れた着物を変えていると、家の奥から骨接師である夫が、なんだなんだと出てくる。
「ああ、スクナさんところの。久しいね。どうしたね、腕をやったのかい」
「うん、転んだ拍子に。ボキッと」
怪我人が医者であることを、当然ながら骨接師は知っている。双子の妹の助けを得ながら、貸された着物をまとっていく後ろ姿に、多くのものを省いた質問を投げかけた。
「前腕か。どっちだい」
「尺骨は、結構シッカリ折れた。橈骨は分からない」
着付けが終わったところに、奥方が革袋に冷水を入れたものを持ってきて、キラの腕に軽く添える。サラは礼を言って、革袋を受け取った。
「じゃあ、上がって。そうか、尺骨か。そこそこ、しっかりした骨だからなあ。今晩は熱もだいぶ出るだろう。どうする、解熱の薬を飲んでおくかい」
「調合書を見せてもらえるか」
「はいよ。ええと、どこにやったっけな」
双子は処置用の座敷に通される。骨接師は文机のそばに置かれた棚の引き出しを漁って、「あった、あった」と薄い紙を取り出した。
「これだね、うちで使っているのは。よくあるやつだよ」
解熱薬の調合書を受け取り、キラは目を通す。
「ん。ああ、分かった。飲んでおこう」
「良さそうかね。じゃあ、諸々を取ってくるから。冷やしておいてくれなぁ」
「わたしにも見せて」
「はいよ」
サラもまた、薬の調合書に目を通した。彼女は頷くと、文机の上に紙をそっと置いた。
ややして、骨接師は部屋に戻ってきた。
「どうする、白湯で流し込むか、溶かして飲むか」
「溶かしたほうが、効きが良いだろう。溶かしてくれ」
「大したもんだね。あたしはとてもじゃねえけど、ぬるま湯に溶かした薬なんて飲めねえや」
骨接師は、湯呑の中に顆粒を流し込み、さじでカリカリと混ぜて、キラに渡した。
「あぁ、まっず」
ぬるい薬湯をゴクリと呷って、キラは唸った。
「いいかい。それじゃあ、診せてもらうよ。うん、うん。そうだね」
鬱血して腫れ上がっているキラの左腕を、そっと持ち上げながら、骨接師はよくよく観察する。そうして、肩から上腕、肘、手首、指の先までの要所を、軽い力で押していく。
「ここは痛むかい」
「いや。少し痺れる」
「ふむ。こっちは」
「なんとも。あっ、そっちは痛いッて」
「はいはい。次、ここだ」
「うあぁ、いでぇ」
「よしよし。橈骨は大丈夫そうだ。見た感じより、肉や神経に障っているところもない。真っ直ぐにしておけば、ちゃんと、くっつくだろう。よかったね」
キラは冷や汗を浮かべながら、息を整える。
「それじゃあ、固定しよう。これ、渡しておくから。適当に、噛むなりなんなり」
骨接師は手ぬぐいをキラに渡して、木板の上に薄く綿を張った台を移動させてくる。キラは渡された手ぬぐいを忌々しげに見て、とりあえず唇に挟み、右肩を下にして横になった。体の前に置かれた台の上に、左腕を乗せる。
(噛めって言われたって、この口じゃあ、噛めねえんだよなぁ。グラついてはいねえけど、噛み締めに、今の歯茎が耐えられると思えん。また血が止まらなくなってもなぁ)
などと、兄が考えていることを、傍らの妹は気づいているらしく。
「口、塞いでおいてあげましょうか。叫んでも聞こえないように。あと、暴れないように」
「あ、うぅ、ん。そうだな。じゃあ、頼むわ」
(ハァ。いよいよ、逃げ場はねえな)
厚手の晒を切ったのと、それで包んだ木の角材を近くに置いて、骨接師は「さあ」と気合を入れるように膝を叩いた。
「筋肉が縮こまってるんで、引っ張りながら動かして、戻すよ。一回では戻らんから、二回か、三回に分ける」
小柄ながらも鍛えられた骨接師の腕が、捲くられる。長身のキラとさして変わらない大きさの手を、台に載せられた怪我人の腕に添え、覚悟はいいか、と青年の黒い瞳を覗き込む。人好きのしそうな、ニッコリとした顔で。
「一、二、三、と数えて、グッ、だ。いいかい。一、二、三、グッ、だよ」
「うん」
「それじゃあ、一回目だ。一、二、三」
キラは吸った息を止めた。
「ンゥッ、ンゥ、ンウゥッ」
視界が明滅し、キラは目を開けているのか閉じているのか分からなくなった。妹の手で覆われた口、その奥で鳴っている音が、自分が発しているものだという自覚もなく。脳から血が逃げていく心地に、キラの意識がフラリと揺らぐ。
「よし、だいぶ戻った。息を整えたら、もう一回。あと一回でいい。そうしたら、固定して終わりだ。頑張れッ」
骨接師は勇気づけるように、キラの腕を引っ張ったまま言う。遠くに聞こえるその声を辿って、いつの間にか開放されていた口で、キラはとにかく息をした。手ぬぐいが、冷たく滲んだ額の汗を拭う。
しかし、一度引いた血の気は、待てども戻ってこなかった。心臓は慌てふためき、悪寒に奥歯が鳴る。
(血が、足りない)
「酷い顔色だ。早く終わらせたほうが良いかもしれないね。おおい、キラくん、聞こえるかい。先に始末しちまうから、それから息をつこう。いいね」
「ァ」
ああ、と返事をしたつもりでも、キラの口から漏れたのは、声にもならぬ吐息だった。彼自身は、自分の喉はしっかりと鳴って、分かりやすく返事ができたつもりであったが。反応を測りかねて、骨接師は参った顔をした。まさか、中断するわけにも行くまいに。
「わかった、と言っています。お願いします」
伝わりにくい返答しかできない兄に代わって、サラは頼んだ。骨接師は、怪我人の、双子の妹の言葉に頷いた。
「それじゃあ、やるよ。一、二、三ッ」
「よぉし、整った。固定するぞぉ」
キラは意識を飛ばしていた。それは、ほんのわずかの間。グラグラと頭に血液が周り、悪寒は和らぐ。少しずつ焦点を結び出す視界の中で、手際よく晒に巻かれていく左腕を、ボンヤリと。
「終わったよ。お疲れ様。よかった、さっきより顔色が戻ってきて。休んでから帰るといい」
「ありがとうございました」
「何かあれば、お互いさまだ。薬は、自分のところで調合できるんだから、そのほうがいいだろうよね」
「ええ、わたしが面倒を見ます。お世話さまです」
「あたしャ、これからちょいと往診に行かにゃならんので、悪いが出るね。ゆっくり帰りなよ」
骨接師は、さっさと片付けると、出ていった。
「ああ、だいぶ、マシになった」
息も整い、痛みも和らいで、キラはようやく人心地がついた様子である。彼は、しっかりと固定され保護された腕に振動が響かない程度に気をつけて、仰向けに転がった。妹の膝の上に、川の水と冷や汗で湿った頭を乗せる。サラは着物の合わせを引っ張り、キラの前を隠した。
「着付け直さないと、外には出られないわね」
「そんなに、のたうち回ってたかな」
「脚がね。暴れてた」
「下帯はずしてたからなァ。こぼれてたか」
「ええ」
「ふぅん、まあ、いいけど」
「痛かった」
「そりゃあね」
「ひどい顔色だったわ。死人みたいな」
「道理で。死んだかと思った」
そんな軽口を叩ける程度には、意識がハッキリとしてきたらしい兄の姿に、サラのこわばっていた表情はゆるむ。首や胸元にも滲んでいる冷たい汗を、フワリとした手付きで押さえて拭いながら、彼女は口の端をキュッと上げた。
「おまえ、おれより酷いツラしてるんじゃねえか」
「失礼ね」
「うん。心配かけたな」
キラは妹のやわらかな頬に、右手を伸ばし、撫ぜた。
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