朝夕の冷え込みも和らぎ、明け方に雨戸を開けるごとに、庭園の華やかさは増してゆく。

 休館日の午前。サラは池に沿った長岩に腰掛けて、古い書物を読んでいた。読んでも読み切れぬほど、この医館に蓄えられた、医学書の一冊。

 キラは目覚めてもなお、寝床から出てこようとせず、開け放たれた障子と、その奥の雨戸の先を、ただぼんやりと眺める。その光景の中には、春も半ばを過ぎて強くなりはじめた日差しに輝く、妹の姿がある。彼女がよく好む、桃色の着物。二人きりだからと、化粧をせずにいる素顔。並の男ほどの背丈があって、男である兄と似た、涼しげな美しい顔立ちをして、それでも、彼女の姿はどこかあどけない。

(おれの、ひいき目かな)

 高い塀に囲われた、隔絶された世界。賑わう街の中にいても、囲いより外の音は、遠い。時折、子供の高く、無遠慮な大声くらいが、せいぜい届く程度。ならば同様に、この囲いの中の事情が、外に漏れることもない。

 今日は、重い門も閉め切っている。客人がやってくることはない。丸一日の休暇をとることは、月に一度きり。その月に一度の休日を、館に籠もりきって、ゆるやかに過ごすのも、珍しいことだった。


 そうして、また仕事に明け暮れる日々に帰る。

 医者として経験を積んだ祖母が亡くなって、三年。母は双子を生むと同時に命を落とし、父親はどこの誰かも知れない。残された、当時十六になって間もない、若すぎる医師らを頼る者は少なかった。昔からの馴染客くらいが、二人を気に掛けがてら、仕事をさせてやった。

 それが、月日が経つごとに、やはりスクナの医師は、若くとも知識があると広まり、新しい客も訪ねてくるようになり、せわしさは増してゆく一方である。

(この忙しさに、いつまでついていけるだろうか)

 全身にもたれ掛かってくる倦怠感を抱えながら、それをおくびに出さぬよう努めながら、キラは日々へと向かう。

 その日々を追うごとに重くなっていく、見えない荷物の預け場所は、どこにもない。


 春先に咲いた花たちの、庭の石畳に落ちた、薄茶けた弁。それらを箒で掃き片付ける朝に、気の早い訪問者らはやってきた。門は開けていたが、大抵の患者は、のんびりと家を出てくる。

「あら、お早うございます」

 サラは箒を門の近くに立て掛けて、客たちを出迎えた。

「どうも、お早うございます。すみません、こんな時間に。この子が、お二人に早く会いたいと言って、聞かなくて」

 訪ねてきたのは、カヲリと、ミノリ。そして、ふっくらとした老婆と、カヲリと歳近そうな、知的な雰囲気の男性が、共にいた。

「まあ。嬉しい。兄も喜びます」

「あんなふうに、お話を聞いていただけたのは、初めてでした。この子も、あれから気が楽になったのか。頂いたお薬も、頑張って飲んでいますし。少し、具合も良いのかな。ね」

「うん」

「それは、よかった。お祖母様と、そちらは」

「初めまして。ミノリの叔父です。これから、是非にお世話になりたいと、義姉あねも甥も言っておりますので。一度ご挨拶に伺おうと思いまして」

「ようやくね、いいお医者様と出会えて。よかったわ。この子には、つらい思いはさせたくないもの。本当にね、ありがとうございます。若いのねぇ」

 色白で、ぽっちゃりとした老婆は、愛嬌よく微笑みながら、愛してやまないのであろう孫の頭を撫ぜた。だが、その愛嬌のよい雰囲気も、水っぽく浮腫んで垂れ下がったまぶたのために、気だるげである。

(この方、元々はお孫さんと同じ体質だったようだけれど)

「お祖母様は、体調の方はいかがですの」

「わたしですか。そうねぇ、歳を取りましたからねぇ。若い頃は、忙しなかったけれど、今は随分とのんびり屋になりましたわ」

「お体、怠くはありませんか」

「体は重いわねぇ。太りましたから。若い頃は食べても食べても太れなかったのに。今はね、大して食べないのに太っちゃうのよ。でも、年を取ると、みんな、こんなものじゃないのかと思うの」

(若い頃に働きすぎた臓器が、今度は動けなくなってしまったのかも。見て分かるのは、浮腫みくらいだから、なんとも言えないけれど。この人からも、お話を聞いたほうが良さそうだわ。ミノリ君や、カヲリさんのことも、もう少し知っておきたいし)

「診察の前に、少しお話をしましょうか。お上がりくださいな。よもぎのお饅頭がありますから。ミノリ君、よもぎは食べられるかしら」

「それって、甘いの」

「こし餡が、たっぷり」

「じゃあ、食べられる」

「もう、すみません。遠慮しらずで。おむすびを、たっぷりと食べさせてきたのに」

「子供が、食べ物で遠慮をするようじゃあ、寂しいじゃないですか」

 サラは四人を玄関に招き入れ、一室に通した。そして、茶菓子を用意する前に、厠に向かった。

「キラ、ミノリくんたちが来ましたけれど。出てこられる」

「ああ、うん。まあ、大丈夫だろう」

「それじゃあ、ぼちぼち来てちょうだい。ミノリくん、あなたに会いたいようだから」

「ちゃんと、行くよ」

 扉越しに声を掛け合う。キラは腹の具合が悪いと言って、昨晩から厠を頻繁に出たり入ったりしている。

(疲れた声。夜中、何度も起きていたから、そりゃあ、疲れているでしょうね。もう、出るものも無いでしょうに)

 サラは用を伝えたら早々にその場を立ち去って、客人たちをもてなす準備に取り掛かった。


「綺麗なお庭ですね。木陰で読書でもしたら、気が休まりそうだ。あれは、椿の樹ですか。庭木とは思えないほど、立派だ。幹が随分と太いですね」

 風通しのよい部屋で、円を描くように座り込んだ一同。ミノリの叔父は、熱い茶をすする。草花が活き活きと光を浴びる庭園を眺め、感心しきった様子で、緑の葉をつけた椿の巨木を仰ぎ、彼は言った。

「ええ、古いんです。四百歳くらいになるのかしら。元々は、二本の樹が隣り合っていたそうなんですが、成長していく際に、くっついてしまったようで。紅白の花が咲くんですよ。色違いの樹だったから」

「へぇ。根本から分かれて、二本の樹のようになっているものは、時々見かけますが。逆は、初めて見たな。不思議なことですね」

「悪い、悪い。ちょいと立て込んでてな」

 内の廊下側の襖から、キラが姿を現した。体調不良で動けずにいた、などとは言わずに、いかにも仕事をしていたふうに言う。

「兄です」

「あれ、家族が増えてら。なんだよ、サラ。先に言っておけよ」

「ごめんなさい、言ってなかったかしら」

「聞いてない。でも、そっちは祖母さんかい」

「ええ、ええ。キラさんね。ミノリとカヲリさんが、よく話してたわ。まあ、妹さんもだけれど、あなたも背が高いのねぇ。スラッとしていて、なかなか男前ですこと。ホホ」

「やあ、どうも、気さくな婆さんだな。ちょうど良かったよ。あんたからも話が聞ければな、って思っていたんだ」

「いくらでも、お話しますとも。こっちはね、ミノリの叔父。家計を支えてくれているのよ。我が子ながら、大したものだと思うわ」

 ミノリの叔父は、正面に座ったキラに軽く頭を下げた。

「初めまして。先日は、甥たちがお世話になりました。今後とも、よろしくお願いしたいと思い。一度、ご挨拶をと、参じました」

「そんな、堅苦しくしないでくれよ。どうせ、おれらはあんたより年下なんだから。しかし、キビキビしてるのも、いいね。おれも真似してみようかな」

 ミノリの叔父は、双子を見比べて、不思議そうな顔をした。

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