第8話 まずはひとり目に

 シュガーパインが閉店する前に、冬暉ふゆき夕子ゆうこは帰って来ていた。20時ごろに冬暉が店に顔をのぞかせる。


「兄貴、晩めし作っとくわ。食材、何使こたらええ?」


「あら、ありがとう助かるわ〜。冷蔵庫の中のもん、何でも使てええわよ〜。あ、今日はデミグラスが多めに余りそうだから使いたいわね〜」


「ん、ほな……」


 逡巡する時間はわずかだった。その間に冬暉の頭の中にはデミグラスソースを使った料理のレシピが巡ったことだろう。


「オムライスに掛けるか? バターライスを炊飯器で炊いてまえば、後は卵焼くやけだし」


「それいいわねぇ〜。でも冷蔵庫に鶏肉とかあったかしら〜?」


「ハムでもベーコンでもええやろ。無かったら取りに来る。こっちには何かしらあんやろ?」


「そうね〜。じゃあよろしくね〜」


「おう」


 冬暉に夕飯の支度をお願いできるなら助かる。里中さとなか家では両親も含めて男性陣が料理上手なのだ。女性陣は揃って微妙である。レシピ通りに作れば難の無い味に仕上がるのだが、そうで無ければ何かが足りない、もしくは余計な何かが入っている。兄弟は父親の手料理で育ったのだった。


 そうであるのに茉夏まなつが朝ごはんの支度をしているのは、ただ卵を焼くだけだからである。味付け皆無で火加減さえ間違えなければ、ただシンプルに卵の味だけがする卵料理が仕上がる。味付けはそれぞれが皿の上ですれば良いのである。塩なり醤油なりソースなり。春眞はるまはたまにマヨネーズで食べたくなる。


 ちなみに夕子も料理の腕は微妙である。しかし幸いにも本人がそれを自覚しているので、今のところ大事故には至っていない。


 ひとり暮らしを始め、初の自炊でカレーを作った時のこと。コクを出すには仕上げにチョコレートを入れたら良いと言う話を聞いた覚えがあったので、美味しくなるのならと入れてみる事にしたそうだ。


 しかし夕子はチョコレート1〜2片で充分のところを、板1枚まるまるどぼんと入れてしまったらしい。味見してコクどころか甘さたっぷりの気持ちの悪い味に、夕子は思いっ切り顔をしかめた。


 それをカバーしたいと思い、甘いのなら辛さを足したら良いとひらき、唐辛子パウダーを追加した。そしたら今度は変に甘辛い、しかも結局美味しくないカレーが出来てしまったのだ。


 炒めた玉ねぎと水とカレールゥを足したらそこそこリカバリできただろうに、それに思い至らなかったのだ。そこが料理下手の所以ゆえんと言える。


 とは言え捨てるのも勿体もったい無く、結局数日我慢して食べ切ったらしい。もうすでに笑い話だと、在りし日の夕子はビール片手に笑っていた。


 夕子はそれ以来、自炊しようと思わないそうだ。




 さて21時になり、シュガーパイン閉店である。あれから冬暉が店に顔を出す事は無かったので、冷蔵庫に何かしら入っていたのだろう。閉店時間には冬暉と夕子も降りて来て、5人で後片づけを速やかに済ませる。そしてダイニングに移動して晩ごはんだ。


「今日はオムライスな」


 ベーコンの短冊切りと玉ねぎの荒微塵切り、グリンピースなどが入ったバターライスを皿に山なりに盛って、ふんわりとろとろに焼いたオムレツを乗せ、シュガーパイン特製のデミグラスソースを掛ける。


 特製と言いつつ、実は業務用のアレンジである。こだわりの洋食屋ならともかく、シュガーパインほどの規模のカフェでいちからデミグラスソースを作るのは難しいのだ。


 テーブルの上でほかほかと湯気を上げ、バターの甘い香りとデミグラスソースの香ばしい芳香ほうこうを放つそれを前に、春眞は口を開いた。


「お、美味しそ」


「バターライス炒めてねぇから、ちと香ばしさが足んねぇかもだけどよ。ま、食えっだろ」


「ううん〜、冬暉の料理の腕もなかなかだもの〜。久々の冬暉の手料理嬉しいわ〜」


 秋都あきとは嬉しそうだ。弟の手料理であることと晩ごはん作りの手間が省けた事の相乗効果だろう。実際にはいつも作っているのは春眞なのだが。


「たまにゃあな。けどよ、やっぱ春兄のメシがうめーからよ」


「これでも一応調理師免許持っとるしね」


 冬暉の褒め言葉に、春眞は満更でも無い。


「ま、俺が作るんが早よう食えっし手間も掛かんねぇでええよな。今さらやけど明日からそうすっか。早く帰れて、そんでくたびれてなけりゃあな」


「助かるわ」


 そうして全員がテーブルに着く。


「いただきます」


 行儀良く手を合わせて、各々スプーンを手にした。きらきらと輝くオムレツを割ると、とろりと仕上がった卵が流れ出てくる。それをバターライスと絡めて口に運んだ。


 バターライスは炊飯器で作ったのだろう。バターと胡椒は炊き上がってから入れた様で、ちゃんと香りが立っている。玉ねぎとベーコンから出た旨味とバターのコクが卵と絡み合い、豊かな味わいになっていた。


「うん、美味しい」


「美味しいで、ユキちゃん!」


「そっか? 味とか足りなくね?」


「ううん、充分よ〜」


「ええなぁ、料理上手な〜ん」


 兄弟がオムライスの感想を言い合う中、料理下手な夕子が羨ましがって項垂れる。


「おら、とっとと食ってまえ。捜査の話聞きてぇんやろ?」


「そうやで! 第2回捜査会議やるんやからね!」


 茉夏のスプーンを動かす手が俄然がぜん速まった。




「はい! 第2回捜査会議〜!」


 リビングのテレビ前で仁王立ちする茉夏が手にしているのは、赤ワインのオレンジジュース割りである。茉夏のテンションは今日も絶好調だ。そんな茉夏を前にソファに掛ける春眞と夕子は缶ビール、秋都はウィスキーのお湯割り、冬暉はハイボールである。


「へいへい」


 冬暉は呆れ半分諦め半分の様な溜め息を吐きつつ、仕事用のショルダーバッグからA4サイズ程のコピー用紙を取り出した。


「昨日の掲示板に書き込んどった3人の身元が割れた。うちのサイバー隊仕事早えぇわ」


 テーブルに置いた用紙を全員が覗き込む。そこには3人の女性の名前と住所が印刷されていた。


「全員前科は無かった」


「……同じやね」


 秋都の呟きに、春眞と茉夏が頷いた。


「うん、同じやな」


「同じやね」


「同じって、何が?」


 夕子が首を傾げるのを横目に、春眞は立ち上がってソファの後ろのローボードに置いてあった用紙を取る。昼にくだんの女性に書いてもらったアンケート用紙だ。2つ折りにしていたそれを、コピー用紙に並べて置く。


「お昼にね、田渕と来た3人の女性の内のひとりが来店されたんよ〜。せやからね、ほら、うちのアンケート、お名前とお住まいを書いていただく欄があるから、書いてもろたの〜」


「マジか。つかよく来る気んなったな。騙された思い出のヤな店やろうが」


 冬暉が眉をしかめる。


「やんね。お昼に来はった時はまだ騙された確定や無かったから、もしかしたら被害に遭う前やったんかもと思ったんやけどさ。あのね、うちのレアチーズをお気に召してくださったみたい!」


「レアチーズひとつで?」


 冬暉には理解できない様だ。確かにいくら美味しいと感じ、また食べたいと思ったとしても、嫌な思い出が上回る人がきっと多い。冬暉はそうなのだろう。だがこの女性は違ったのだ。レアチーズケーキの美味しさが上に立ったのだろう。店側としては嬉しいことではあるのだが。


「これで田渕の顧客3人は確定やね。これ以上は名簿が手に入れられへんから何とも言えへん。けど仕返しとか不穏なこと言うてるわけやから、今日さっそく話聞きに行ってみたんやけどね」


「仕事早いね!」


 茉夏が驚いた声を上げる。春眞はその行動力に感心し、秋都は当然と言う様にたった1度頷いた。


「他の仕事の合間やからよ、ひとりしか行けんかった。けどよ、もしこの3人が何かしらしやがったとしたら、俺たち警察が接触したことで、何か動きがあるかも知れん」


「こういう時って、何て聞くの?」


 茉夏が夕子に問う。前のめりでメモでも取り兼ねない勢いだ。


「ん? 聞き込みであなたとお付き合いしてるて聞いたから話訊きに来た、自殺云々うんぬんに心当たりあれへんかって。ざっくり言えばこんな感じ」


「掲示板のことは?」


「言わへん言わへん。そんなこと言うたら警戒されてまう。話何にも訊けへんくなってまうわ」


「そっかー」


 茉夏のこのテンションを見ていると、田渕が殺されたことをうれいている様にはまるで思えない。春眞とてたった1度お客さまとして会った事があるだけの相手なのだから、さほどダメージがあるわけでも無い。それでも感情が波立つくらいはあるものだ。


 たまに春眞は茉夏の情緒じょうちょが心配になる。茉夏の行動原理は何なのだろうか。女性が酷い目に遭えば怒りをあらわにするが、それだけでは無いだろう。以前「面白そうだから!」と堂々と言い放ったことがあるが、多分それが正直な気持ちなのだろう。あまり良い傾向では無い。


 しかし春眞が何を言っても多分聞いてくれないだろうし、無駄だろう。何がどう悪いのか、どうしたら良いのかは春眞には正解が判らない。目に余ることがあれば、秋都が話をするだろう。今はその秋都が何も言わないのだから、春眞としては静観するしか無い。


 ふと秋都の方を見ると、視線が合った。秋都は少し困った様に苦笑を浮かべた。


「ええん?」


「大丈夫よ〜」


 どうやら秋都の懸念事項でもある様だった。しかし秋都がそう言うなら大丈夫なのだろう。春眞は少し安堵あんどして息を吐いた。少なくとも茉夏の明るさは長所なのだから。


「今日話を聞きに行けたんは、掲示板では返信しとったひとりね。この」


 夕子がコピー用紙に並んでいる名前のひとつを指差す。


萩原薫はぎわらかおるっていう女性。公式の死亡推定時刻のアリバイはあったけど、ひとり暮らしらしくて、そんな夜遅くにアリバイがある方がむしろおかしいんや無いかとも思うんよね。翌日仕事が休みやったから遊んどったって言うけど、それにしては深夜のファミレスて」


「ひとりでファミレスにおったんですか?」


 春眞の問いに夕子は頷いた。その土地の治安にも寄るだろうが、深夜に女性ひとりでファミリーレストランとは、あまり一般的では無いだろう。勿論あり得ない話では無いのだが。


「家から1番近いファミレスにね。本人はそう言うとるし、裏も取れた。テーブルにお冷やをぶちまけてもたらしいて、店員も覚えてた」


「工作っぽい! わざとや無い? そうやって店員に印象付けてさ、アリバイ証明してもらねん!」


「茉夏ったら推理小説の読み過ぎじゃなぁい〜? でもそれっぽいわよね〜」


「明日時間見付けて、残りふたりにも話訊きに行くつもりなんやけどよ、そのふたりも似た感じやったら、むしろ容疑はかなり濃くなるで」


「ほな、明日は第3回捜査会議やね!」


「姉貴さ、わざわざ捜査会議にする必要無くね?」


「こういうんは雰囲気が大事やねん!」


 きゃんきゃんと言い合う茉夏と冬暉を横目に、秋都が夕子に訊く。


「萩原薫さん、どんな感じだったかしら〜?」


「目が泳いでました。ちょっとどもってもたり。冷静に努めようとはしとったでしょうけども、普通の女性ですからね、そう成り切れるもんや無いでしょう」


「素直なお嬢さんなんでしょうね〜、そう思うと可哀想だけど〜」


「まだ確定や無いですよ、里中セ・ン・パ・イ」


「まぁね〜」


 そう言いつつ、元刑事である秋都の中では、ほぼ先の事が固まりつつある様だった。

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