回想されない犬

マツ

回想されない犬

 朝、ベランダから空を見上げたら、雨が降りそうでもあり降らなさそうでもあり、テレビをつけてモーニングショーの天気予報も確認したけれど、お天気キャスターは念のために折り畳み傘を携帯すると安心です、と曖昧なことしか言わない。こういう朝、傘を持つか持たないかは、シカクにとって今日いち日の運命に関わるというのに。

 

 結局シカクは降らないほうに賭け、傘を持たず9時30分に家を出た。最寄り駅から電車に乗って15分ほど経ったころ、車窓を雨粒が斜めに横切りだした。さらに15分後、バイト先のFバーガーがある駅に着くと、雨はもう本降りだった。シカクはホームから電話をかけ「すいません昨夜出た熱がまだ下がらなくて、今日は休みます」と悲痛な声でマネジャーに嘘を伝えた。こんなところから電話をすれば、雨音や雑踏の賑わいで室内からの電話ではないことがばれるかもしれない、というような思慮は、シカクにはできなかった。アパートに帰ろう。今日は一歩も外に出ないようにしよう。打ちひしがれたシカクは、反対側のホームへ続く階段へ、重い体をひきずっていった。

 

 17時15分、職場から帰宅したユカリはFバーガーで働いていれば18時まで見ることのないはずのシカクの背中が居間に転がっているのを見て、ああ負けたのか、と心の中で微笑んだ。「ただいま」と言いながらシカクをぴょんとまたぎ、冷蔵庫を開け、野菜庫に残っていたキャベツとニンジンを手早く千切りにし、フレッシュボックスの豚コマと炒めて塩コショウしながら「炊飯器のごはん、よそいでよ」と、まだ丸まっているシカクを動かした。

 

 テーブルに、野菜炒め豚コマ入りと即席みそ汁とごはんと麦茶の入ったコップを並べ、二人で「いただきます」と言って手を合わせた。沈痛な面持ちで豚コマを口に運ぶシカクに、「今日はどうした?」と白米をもぐもぐしながらユカリはさりげなく聞いた。重々しいのはダメ。そっけなくても傷つく。シカクが最小限の負い目で答えられるさりげなさの加減をつかむのに、ユカリは1年を要した。ことの次第を話したあと、シカクは「ごめん、こんなで」と上目遣いでユカリに謝った。「またクビになるかも」と付け加えた。「なんでこんなに根性なしなのかな」と即席みそ汁をすすりながら独り言みたいに漏らした。ユカリは「ほんと根性なしね」とにやにやしながらシカクに言った。ユカリが責めないことで、代わりにシカクは自分で自分を責めるだろうことも、かといってユカリが責めれば、自分で自分を責める余裕さえなくして憔悴しきってしまい、しばらく立ち直れなくなるだろうことも、ユカリにはすっかり分かっていた。この一年で、ユカリはシカクという、世間一般の規格に収まりきれない人間の取り扱いに、すっかり慣れた。そして慣れてしまえば、シカクほどわかりやすい人間はいない。少なくとも、ユカリにとってはそうだった。

 

 シカクと出会う前のユカリ。22歳で、派遣社員で、心の中に毎日嵐が吹き荒れていて、心療内科で処方される抗鬱剤に頼りながら、一日一日を必死に生きながらえていたユカリ。自分になじめず、自分以外のすべての人間にもなじめず、孤立無援だったユカリ。

 あのとき、私は自暴自棄だったのだろうかとユカリは思い返す。でなければ、夜半アパートの前で倒れていた見ず知らずの若い男を介抱し、三日も何も食べていないという男の言葉をうのみにして部屋に招き入れ、冷凍ピラフをチンして食べさせ、その日の晩は泊め、行く当てがないという言葉をまたも信じてそのまま泊め続け、気が付いたら一緒に住んでいた、などという顛末があり得るだろうか。ただ、普通の状態ではなかったにせよ、極度の人間恐怖症だった私が、積極的に人間と関わったことを、どう説明すればいいのだろう。

 アパートの前で、倒れるというより転がっていた、白いTシャツ姿のシカク。胎児みたいに縮こまり、月明かりに照らされたそれは、遠目からは白い丸々した犬に見えた。近づいて、人間だと分かっても、ユカリには、シカクが、やはり犬のままに見えた。犬を介抱し、犬にごはんを食べさせ、そのまま家に居つかれた……それならばあり得ることだ。そうだ私はあのときシカクを犬だと思い込んでいて、だから警戒しなかったのだ。意識をとりもどした時、シカクの目は月灯りを反射して、きらきら光った。鼻が夜露で濡れていた。体から、けものの匂いがした。がつがつと冷凍ピラフを頬張る姿も犬を思わせた。でもそれは、あの時の一部始終に整合性をもたせるために、ユカリの脳みそがねつ造した記憶かもしれなかった。

 

 シカクは、シカクという名前以外は、自分のことを何も話さない。ユカリも、シカクの過去を知ろうとは思わない。シカクとの出会いを契機に、人生をリセットできるかもしれないという希望を持ったユカリにとって、シカクには過去なんてない方がよかった。

 一緒に暮らしてみると、シカクはますます犬みたいだった。やや神経質だったが、ユカリには従順で、彼女の気持ちを先取りし、細々したことによく気がついた。何より、シカクはやさしかった。黒目の奥に、ユカリのためならなんでもする、という強い光が宿っていた。

 アルバイトができる程度の社会性はあり、少しはお金をかせいでくれるが、ユカリは収入面ではシカクをあてにしていない。どこに勤めても、シカクは長続きしなかったからだ。出勤するかしないかを、シカクは毎朝、賭けをして決めていた。それは天気の場合もあったし、昨夜の夢のこともあったし、朝起きて最初に見た時計の数字の並びのこともあった。お金なら、私がかせげばいい。生まれてはじめて、心安らかに、いっしょに過ごせる存在に出会えた僥倖を思えば、取るに足らないことだとユカリには思えた。ユカリを苦しめている、人の世の見えない鎖。シカクは、その鎖から自由なせいで、かえってこの世に居場所がない。それなら私がシカクの居場所になろう。シカクは私を広場にして、自由に走り回ればいい。そして私も、シカクの中で、鎖を断ち切って、思いっきり駆け回ろう。シカクの目に映る光景と、私の目に映る光景が、いつか一つになればいい。私の世界とシカクの世界が、いつか一つになればいい。

 

 ユカリと出会う前のシカク。28歳で、養護施設出身で、心の中に毎日嵐が吹き荒れていて、天涯孤独だから頼るものもなく、一日一日を必死に生きながらえていたシカク。自分になじめず、自分以外のすべての人間にもなじめず、孤立無援だったシカク。あのとき、自分は天使に出会ったのだとシカクは思う。天使でなければ、夜半アパートの前で倒れていた見ず知らずの若い男を介抱し、三日も何も食べていないという言葉をうのみにして部屋に招き入れ、冷凍ピラフをチンして与え、その日の晩は泊め、行く当てがないという言葉をまたも信じてそのまま泊め続け、気が付いたら一緒に住んでくれていた、などという顛末があり得るだろうか。

 ユカリと暮らし始めて三か月ほど経った頃、一つのバイトを続けられないシカクに、ユカリはこんな話をしてくれた。

「それはあんたの習性なのよ。だから気にすることは少しもないの。あんたはね、人間の神様とは違う神様を持っていて、その神様に毎日試されていて、試しに勝てば働き、負ければ休むの。シカクはシカクの世界の神様を優先しているだけだから、シカクはそのままでいいの。気にしなくていいの。」

 じゃあユカリは?とシカクが尋ねると、ユカリは少し寂しそうに、

「私はまだ、私の世界の神様に縛られているの。でも、いつか、あんたの神様が見えるようになったらいいな、と思っているよ。ただし賭けには参加しないけどね。そこまで一緒になったら、私たち、収入がなくなって、生きていけなくなるからね。」

 シカクはうれしくて、これまで感じたこともないほどうれしくて、ユカリの目の前で、わんわん泣いた。シカクは、一生この人にやさしくしようと心の中で誓った。今のシカクには、やさしくすることのほかに、自分にできることが思いつかない。だから、とにかく、何があってもやさしくしよう。ありったけの力を振り絞って、命がけでやさしくしよう。やさしくしよう、やさしくしよう、やさしくしよう。お祈りのように、心の中で繰り返した。

 

 麦茶のポットを冷蔵庫にしまい、食器を丁寧に洗い、乾燥機に入れてスイッチを押す。それから米を研ぎ、炊飯器に入れ、炊き上がりを明日の7時にセットする。時計を見ると22時だった。ユカリは食卓で家計簿をつけている。終わったよ、とシカクが声をかけるとユカリは手を止め、それから二人は少しおしゃべりした。

「明日、Fバーガーに行く?」「明日は天気がいいからいけると思う」「そう、よかった」といってユカリは笑った。話すことがなくなると、あとはもう眠るだけだった。ユカリとシカクはひとつの布団で眠る。恋人同士でも、夫婦でも、親子でもない二人の関係は、いったいなんと呼べばいいのだろう。いや、呼ばなくていい、とユカリは思う。私たちはこのまま、この名前のない関係のまま暮らし、年を取り、家族にはならず、子供もつくらず、何も残さず、私たちの代で、終わればいい。だれにも回想されることなく、二人で、シカクの神様に看取られて、二人だけの最期を迎えよう。ああ、私に、こんな生き方のできる空き地が、まだ残されていたなんて。だれかに叫んで伝えたいような衝動を、ユカリは、胸の中でなだめ、沈めた。

隣で眠るシカクは、やっぱり、犬の匂いがする。

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