当たり前の日々

 2024/04/02



 昨晩は呑んだ。

 無理に引き留めた編集担当の奴に出した秘蔵の酒は出したのを後悔するほどに、美味かった。

 妻が作ってくれたつまみも最高だった。

 昨晩は、いつになく楽しい夜だった。

 かといって呑みすぎるでもなく、そこそこに食って、呑んで、解散。

 担当を送りがてら、仕事場である2DKの別宅から、妻と一緒に本宅へと帰った。

 軽くシャワーを浴びてさっさと布団に入ったのが夜十時。

 精神的充実は気力を充実させる。

 気力の充実は良質な睡眠を促し、良質な食事の吸収を良くする。


 というわけで、朝の八時までぐっすりと寝、且つ、ぱちりと目が覚めた。

 ゆっくりと体を起こすと、それだけで体が軽いことがわかる。

 肉体が若返ったような感覚に心まで張りを取り戻したように嬉しくなる。


 枕元の煙草を一本取り出し、火を着ける。

 深呼吸するように吸い込んで、吐く。

 カーテンの隙間からは陽光が差し込み、鳥が鳴いていた。


 やがて鳴き止むと、しん、とした音と共に、小さく、本当に小さく、とんとんとん、と小気味良い音が聞こえてくる。

 これは、包丁の音か。

 なにやら妻が作っているのだろう。


 そう思うと、腹が鳴った。

 うむ、健康的だ。


 さて、とばかりに寝室を出る。

 扉がぎいと音を立てた。


 私がいなくても、部屋は綺麗で埃ひとつない。

 それでも主人を半分失ったようなこの部屋は、出入りも少ないせいでずいぶんと不満が溜まっているようだ。

 よく見れば、こいつも歳をとった。

 運良く、最初に出した小説が小当りして、喜び勇んで建てた本宅だった。

 建って三日で、茶を持って上がった私は横着してこいつを足で開けた。

 横着なんてするものだから、勢いよく開いたこいつが跳ね返ってきて当たり、茶をひっくり返し、当たった湯呑みがこいつに傷を付けた。

 あのときはずいぶんと落ち込んだものだ。


 そのときの傷を撫でる。

 あとで蝶番に油でもさしてやるから、機嫌をなおしてくれ。


 考えれば不思議なもので、廊下も、階段の手すりも壁も天井も愛おしく思えてくる。

 

 子はいないが、子というものがいればこういう気持ちなのだろうか。


 そんなことを思いながら階段を降りる。

 一歩一歩降りるにつれて、妻の音がする。


 水道の流れる音、ガス火のコンロ、調理器具が擦れる音。

 

 窓が開いているのだろう。

 外から、子どもやそれを追いかける母親の声。

 自転車の車輪が回って通り過ぎていく。

 雀が鳴く。遠くでカラスが羽ばたいた。

 おはようございますと挨拶をする声。

 

 そして、妻の歌声。

 知らない歌だが、小気味良い。


 壮大なバックオーケストラと、妻の歌声。

 こう表現するとなんともチープだが、それがよい。

 そうとしか表せん。


 そのリズムに合わせて、階段を降りる。



「おはよう」

「あら、おはようございます」


 それだけ交わす。

 テーブルを見ると、湯呑みがふたつ、それと急須が置かれていた。


「いい頃合いだと思いますよ」

「そうか」


 言って、湯呑みに茶を淹れる。

 香り立つ茶の匂い。

 ひとくち呑むと、口いっぱいに広がった。


 開け放された台所の窓から、風が吹いた。

 ふわりと味噌汁の香りがした。

 腹が、鳴る。

 

「すぐ出来ますからね」

「ああ」


 そう言って、煙草に火を点ける。

 昨晩汚した灰皿は、綺麗になっていた。

 昔ながらのガラスの灰皿。

 重くて、分厚い、ガラスの灰皿。

 年季が入って、それでいてなお、美しい工芸品。


「あ、今日は買い物に付き合ってくださいね」

「ああ」


 炊きたての飯と、味噌汁が置かれる。


「今日は午後から着物教室がありますから」

「終わりのほうにでも顔を出すよ」


 目玉焼きと、浅漬が置かれる。


「いただきます」

「はい、どうぞ」


 味噌汁をひとくち、塩気と味噌の香りが広がって、汁の温かさが胃からじんわりと体に染みていく。

 思わず、ほぅ、っと声を漏らしてしまう。

 それを見て、妻が笑う。

 そして、おずおずと言うのだ。

 

 

「……今晩はなにが食べたいですか?」


 どきり、とした。

 たぶん、私も妻も同じことを思っていた。


 寂しいのだ。

 無性に。


 年季の入った、重厚なガラスの工芸品。

 それは美しく貫禄があるが、一瞬の隙で割れてしまう。

 だから、せめてそのときが来るまでは共にありたい。


 私が朝起きてから、家を、家庭音をしみじみと感じるように、妻も感じていたのだろう。

 

 長年連れ添った夫婦であっても、こういうことに気付けない夫婦はたくさんいる。

 私は、私たちがそれをわかりあえることが嬉しかった。

 年甲斐もなく、妻を抱きしめたいとさえ思った。

 恥ずかしくて、そんなことはしないけれど。

 

「……煮魚がいいな」


 そういうと、妻はぱあっと花が咲いたように笑顔になった。

 私の惚れた、太陽のような笑顔だった。


 今日はここにいよう。

 一緒に買物に行って、妻の生徒たちと話し、一緒に夕飯を食べ、風呂に入って、おやすみを言う。

 それでいい。

 

 それがいい。


 だから、今日は、書かない。

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