過日残夜

育毛剤と五十肩

 





 ───少しだけ、あの夜を思い出していた。






 過日残夜1






「頼む、この通り!アズマくんしかいないんだよぉ!」


 目の前で両手を合わせ、ペコペコと頭を下げる男。俯く度に薄くなった頭頂部が見える…育毛剤、オマケでつけてあげようかしら…思いながらアズマは溜め息をいた。


「何で俺なのよ?他に居るでしょ頼れる人」

「いないよぉ!!いないからお願いしてるんだよぉ!!」


 涙目のオッサン───チャンはメソメソとアズマに追い縋る。イツキはその光景を月餅を齧りつつ眺めていた。


 チャンは【東風】に漢方を買いに来る常連客。絶賛更年期障害真っ只中、この蒸し暑い九龍で年中身体の冷えに悩まされている。普段はもっぱら丸薬や粉薬などを購入していくが、本日の来店は全くもって別の相談事。



 新宝公司という建設会社の敷地内に、一緒に潜入してほしいとの依頼だった。



 新宝公司は貧民街やスラムなど、下層階級の若者を集め山奥で何やら土木工事を請け負う業者。ここ最近城砦内でチラホラ名前を聞くようになった比較的新参の会社…チャンはそこに潜り込んで寮内や従業員名簿を見に行きたいとのことだ。


「老い先短いジジィの最後の頼みだと思って!ね!後生だから!」

「そんなに歳食ってないじゃないの。還暦もまだでしょ」

「もう近いよぉ」

「そうだっけ?んじゃ紅包おいわい用意しなきゃ」

「え?本当?アズマくん優し…じゃなくてぇ!!お願いお願い!!」


 のらりくらりとかわすアズマに食い下がるチャン。フードを掴まれてブォンブォン揺すられ、アズマは天井を見詰めた。


 侵入となると‘鍵開け要員’が要る。ピッキングは確かに得意技、前に鍵を無くしピィピィ言っていたチャンの物置も針金で開けてやった事がある。それを覚えていての人選か。

 にしても、こういうの【天堂會】以来だな…ボケっと考えるアズマの耳元で、頼む頼むとチャンが連呼。騒々しい。


 チャンは城砦の下町でそれなりに人望のある男だ。時折ちょっかいをかけてくる警察なんかも──腕っぷしは弱いのでちまちま小銭を渡して──追い払ってくれる。アズマもたまにチャンがどこかから仕入れてきたレア物の老酒を買い取ったりしており、まぁ何と言うか、仲良し・・・ではあった。



 仕方ない。



「わーかったよ!行ってあげる!てかなんでそんなに入り込みたいのよ新宝公司そこに?」


 了解の返事をもらい明るい雰囲気を見せたチャンだが、アズマが次いだ質問にすぐショボンと口をへの字に曲げる。


劉帆リュウホが帰ってこないんだよ」


 劉帆リュウホとは貧民街に住んでいた人柄の良い快活な青年で、チャンは彼を息子同然に可愛がっていたらしい。けれど住み込みの仕事をしてくると言って家を出てから久しく、以降は連絡も皆無。どうやら新宝公司の建築現場へと出稼ぎに行った模様。様子を見る為にチャンも新宝公司へ派遣バイトの打診をしたが門前払い、年齢も年齢だし体力も無さそうだったからだろう。もちろん劉帆リュウホの事を訊けども教えてはもらえず。悩んだ末、チャンは侵入を試みることに決めたらしい。割かし大胆なオッサン。


劉帆リュウホって奴、九龍ここ出て普通にどっか他の街に行った可能性は無いの?」

「地域のみんなとも仲良くしていたから、黙ってそのままどこかへ行くようなことはないはずなんだよ…礼儀正しい子だし…」


 首を傾げるアズマ、腕組みをするチャン九龍城このまちで人の印象などはてんで当てにならないことが多いが───ここはチャンを信じるとしよう。


「端午節で街がバタバタしてる今がチャンスだと思うんだ。工事現場もおおもとの社員達はきっと休みだし、いつもより色々と手薄なんじゃないかなぁって!ね!?」


 場所も調べてあるんだよっ!とチャンはスマホでマップの画面を見せてくる。相当山奥。


「準備いいな。物知りねあんた、どこから仕入れたのよその情報」

「この山林は美東村に所有者が居た区画でね、城砦福利の一部いちぶにも使用権利があったんだ。今はもう所有権自体は関係無いけど、まだ噂は入ってくるんだよ」


 感心するアズマチャンは得意気にウインク、意外にフサフサな睫毛が揺れた。可愛くはない。


「…俺も行く?」


 イツキが上目遣いで尋ねてくる。しかし、顔に大きくハッキリ書いてある‘端午節’の文字。


 きたる祝日端午節に備え、香港及び九龍城砦は熱気が上昇中。街を包む祝賀ムード、始まりだすイベントの数々、この祭事に付き物のちまきを片っ端から食べ歩こうとイツキがいつもの面子メンツと約束をしていたのをアズマは知っていた。

 唯一の趣味である大食い──大食いが趣味のカテゴリに入るかはさておき──を取り上げるわけにはいくまい。


「だいじょぶよ。お祭り楽しんできて?ま、ヤバそうだったら呼ぼうかね」


 アズマがヘラッと答えると、申し訳無さそうにしつつ瞳を輝かせるイツキ


 決行は早い方がいいか、今日も別に暇だし。暗くなったら行ってみましょと提案するアズマチャン萬歲ばんざいと両手をあげる。


「ありがとうアズマくん!本当にっ好痛ぁいたた!」

「なに?五十肩?」


 変なポジションで固まるチャンアズマに手伝われてやっとこさっとこ腕をおろすも、痛みが取れずショモショモしている。泣き顔の絵文字みたいな表情。ぴえん。イツキチャンに新しい月餅を差し出した、お見舞い。


 また夜に戻ってくると言って店を出て行くぴえんを見送り、アズマはスクーターの鍵を探す。最近全然使ってなかったけど動くかしら?燈瑩トウエイ、大型持ってたっけ?そっち借りたほうがいいかな…桑塔納サンタナはちょっと…。どれを足に選ぶか悩んでいると、イツキがチラシを2枚突きつけてきた。龍光堂と吉祥賛記の文字。


「どっちのちまきがいい?」


 お土産みやげの話であろう。印刷されたイラストを見るに肉巻きor海鮮。足と違ってこれは選ぶ必要が無かったので、‘両方買っておいで’とアズマは笑った。

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