好耐以前 昔話

武器商人と情報屋

 好耐以前2






 家庭は裕福だった。両親は不仲だった。


 様々な女と連日連夜遊び歩く父と、それに腹を立て怒りを子供にぶつける母。俺の見かけが年々と父に似てくるのも虐待ぎゃくたい拍車はくしゃをかけていたのだろう。

 反対に、弟の容貌ようぼうは母に似てきていたので手を上げられることはほとんどなかったから、弟を守りたかった俺にとってそれは唯一の救いだった。

 だが心的ストレスからか弟は口数が極端に少なく、俺たちはいつも2人、部屋の隅で静かに寄り添って暮らしていた。


 なので、しばらくぶりに帰宅した父を母が中華包丁でメッタ斬りにして殺し、俺たちを巻き込んで無理心中を図り家に火を放った時も、さして驚くことはなかった。

 父の死体と共に笑いながら炎に巻かれる母を残し、俺は、まだ幼く状況が飲み込めていない弟を連れて命からがら逃げ出した。


 他に親族もなく、金もなく、家もない。そしてここ九龍は無法地帯、警察や保護施設なんてものもないのは言わずもがな。

 スラム街の近くへ流れ着き、残飯をあさり廃墟で眠る日々。手に入った食べ物はほとんど弟に渡し自分はパン一欠片で1日を過ごす。

 弟だけは命にかえても必ず守る…そう思っていた。守る術すらもわからないというのに。


 そんなある日、路地を歩いていて急に倒れた。

 さすがに食事を摂らなさすぎたのか、起き上がろうとするも身体に力が入らない。

 弟が泣きながら俺の名前を呼んでいる。


 あぁ…弟は元気で良かった。俺はこのまま死ぬのか?弟を1人にして?

 必ず守るって誓ったのに、こんなザマだ。なんにも出来なかった。

 兄ちゃん失格だな。ごめんな、駄目な兄貴で。


 目の前が少しずつ暗くなる。


 誰か、頼む、弟だけでも助けてくれ。誰か─────……




 ザリッと砂を踏む音がして、俺達を見下ろす人影が視界にうつった。煙草の匂いが鼻をかすめ、柔らかい声が耳に入る。


「なんか……訳アリ、って感じ?」




 そこで俺の意識は途切れた。






 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






「ん…」

「あ、おきた…おきた!」


 瞼を開くと、心配そうにこちらを覗き込んでいる弟と目が合った。あれ?俺、路上で倒れて、それからどうなったんだっけ。


 周りを見渡すとどうやらここは誰かの家のようで、俺はベッドに寝かされていた。整頓された殺風景な部屋。弟の声が聞こえたのか、キッチンから煙草をくわえた男が顔を出す。


早晨おはよ。具合どう?」


 落ち着いた柔和にゅうわな雰囲気の男で、長い黒髪を後ろで半分束ねていた。さっき──気を失う寸前──に、聞いた声だ。この人が助けてくれたのか。


 いや、助けてくれたのか?本当に?


 スラムでは、人身売買や臓器売買が日常的に行われている。労働力として子供を連れ去る人間もいる。この人がどんな人かなんてわからないじゃないか。


 黙っている俺の袖を弟が引っ張り呟く。


「だいじょぶ、と…おもう…」


 根拠は無いのだろうが、態度や接し方などからそう察したのか。

 確かに、売り飛ばすならわざわざ家まで運ばなくてもいいし、寝ている間に内臓を盗ったっていい。

 だけど何か別の目的かもしれないし──…。


 戸惑う俺の元に男が港式奶茶ミルクティー曲奇クッキーを持ってきて、ベッドサイドのテーブルに置いた。


「ごめんね、うちお菓子くらいしか無くて。おかゆとかあったら良かったんだけど」

「あ、いえ……」


 言葉が続かない。俯向く俺に男は微笑み、ゆっくりでいいよ、話せるようになったら話して、と言ってキッチンに戻っていった。

 男が運んできた港式奶茶ミルクティーを一口飲んで、曲奇クッキーをかじってみる。


 おいしい。久しぶりのマトモな食べ物だ。


 気が付くと全部食べてしまっていて、弟がおかわりを貰いにキッチンへ駆けていった。戻ってきたその両手にはたくさんのカラフルな曲奇クッキーの袋。


「みんながくれるから、種類だけはあるんだよね」


 ドアから顔を覗かせた男が笑う。


 正直、これまで俺はおおよそ‘大人’と呼べる人間にあまり触れたことが無かった。

 直接的に知る限りの‘大人’とは、ほぼ両親が全てで、他はその両親を介して聞いた話に出てくる人達。

 両親に関しては言うに及ばず。周囲の人間も、一言でいえばロクなものではなかった。


 そんな浅い知識ではあったが、俺は目の前の男が、今まで見てきた‘大人’とは明らかに違うことを感じていた。



 この人は、本当に好意で助けてくれたんだろう。



 そう思い、たどたどしくなったがこれまでの経緯をなんとか説明した。男は静かに一部始終を聞くと、煙草をふかし、これからどうするつもりなの?と言った。

 また言葉に詰まる。弟はまだ幼く、俺自身も何かが出来る歳ではなかった。自分の力の無さがとことん嫌になる。


 だけど、やらなきゃ。泣き言いってる場合じゃない、俺が頑張るんだ。

 兄貴だろ?俺しかいないんだ。こいつだけは、絶対守るって決めたんだから。


「仕事探して…なんとかします。俺達の問題なんで俺達でなんとかせぇへんと。助けてもろたこと感謝しとります、いつか恩返しますんで…迷惑かけてもうてすいませんでした」


 自分達でやらなければ。

 すぐに他人に頼るような真似をしていてはどの道、このさき生きてなんていけない。


 少しの沈黙。

 ふいに男がこちらへ歩いてきた。俺に笑いかけて、そして、頭を撫でる。


「…良い兄貴だね」


 その言葉と温かい手に驚き、泣きそうになった。


 人の掌とはこんなに優しいものだったんだ。

 殴ったり痛め付けたりするものじゃなくて────もっと、相手を包み込めるような、そんなもの。

 自分も弟に対してはそう在ったはずなのに、我が身となると忘れてしまっていた。


 いや…忘れていたんじゃない。

 してもらった経験が、今までの人生で自分にはなかったんだ。頭を撫でてもらったのも褒めてもらったのも、産まれて初めてだったから。



「行く所が無いなら、しばらくここに居たら?」


 言いながら男がカーテンを開けた。その窓の外には綺羅びやかな街並みが広がっていて、色とりどりのネオンに息を飲む。宝石箱をひっくり返したみたいとはこのことだ。


「ここ、って…」

「花街だよ。ごめんねちょっと如何いかがわしいところに住んでて…でも、スラムよりは安全じゃないかな」


 子供を連れて来るには適切な場所ではないとの判断からか、男は言葉に申し訳無さそうな気配を含ませる。景色を眺めつつ続けた。


「落ち着くまで俺の家にいていいよ。俺は迷惑じゃないし、働きたいなら仕事も紹介出来るしね」

「けど…」


 男はゆったりとした動作でタバコの煙を吸い込み、少しずつ吐き出しながら言葉を紡ぐ。


「自分達でなんとかしなきゃって気持ちはわかる。人を信じられないって気持ちも。今迄の体験のせいなんだろうけど…でも俺は本当に、2人の手助けをしたいと思ってる」


 その表情に、一瞬、かげりが見えたような気がした。

 裏表があるなどという訳ではなく、何かどことなく───憂いを含んだような視線。

 まばたきをする間に消えてしまうようなわずかな時間だったが。


「もし2人がいいって言ってくれるなら」


 また元の柔らかい笑顔を見せて男が言う。


 いいに決まってる。だが…本当に迷惑じゃないんだろうか?こんな身元も知れない、いや一応身の上話はしたんだけれど、出会ったばかりの兄弟なのに。


「…ええんですか?」

「俺はね」


 きっと何度聞いても返事は同じだろう。

 だったらもう、答えはひとつだ。


 ベッドの上に正座で座り直して頭を下げた。ついでに弟の頭も押して下にさげる。


「えっ?なに、どうしたの?」

「俺、カムラって言います。こっちは弟の大地ダイチです」

「あっ、俺は燈瑩トウエイって言います」


 慌てた男がつられて敬語になった。


燈瑩トウエイさん、俺ら、役に立てるように頑張ります。不束ふつつか者ですが宜しくお願いします!!」


 頭を押された大地ダイチが痛いと抗議をしたが、ええから頭下げ!と返すカムラ

 その可愛らしいやりとりに長髪の男──燈瑩トウエイ若干じゃっかん吹き出し、こちらこそ宜しく、と優しく微笑んだ。




 ───‘大人’だと思った燈瑩トウエイの年齢が自分と5つほどしか変わらないことにカムラが気が付くのは、もう少し先の話だ。

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