第5話 疑惑の矢(2)

 澄み切った空気に鳥のさえずり。

 水色の空に緑の色彩が輝く。空を見上げていた霞は自然が生み出す美しい光景にため息を吐いた。


(偶には自然の中にいるのもいいわね……)


「霞!見て!鷹狩たかがりに参加される殿方とのがたよ。皆、美しいわね」


 舞台の手すりに寄りかかりながら菖蒲が無邪気に声を上げた。霞はすぐに現実に引き戻される。

 霞たちが牛車ぎっしゃに乗ってやって来たのは都に程近い山だ。切り開かれたこの場所には鷹狩を見物するための木材で作られた舞台がある。

 この特等席から皇族は鷹狩を見物することができた。屋根がつき、山の中にぽつんと屋敷が建っているように見える。

 しかしこの建物に壁は無い。鷹狩や自然を楽しむことができるように四方しほうを眺め渡すことができる作りになっていた。

 普段は野ざらしになっているこの舞台だが、定期的に使用人が整備しているのでその美しさを保っている。


(四方が筒抜けのこの舞台では狙われやすいということね……)


 霞は静かに舞台を見渡した。木々の間から化け物が様子を伺っていそうな気がして落ち着かなくなる。


「ほら!特に女房達は蔵人頭くろうどのとうかえで様に夢中みたい。特に今日のよそおいは素敵ね」


 菖蒲の指さす方角に楓を見つける。


(いつも以上に目立っているじゃないの!隠密おんみつ行動に向かないお方ね……)


 霞は眉をしかめると心の中で悪態あくたいいた。

 烏帽子に付けられた藤の花飾りが揺れるさまはその場にいる者達の視線を独り占めしていた。矢筒やづつを担ぎ、弓を手にした姿はたくましく、男らしく見える。

 それは他の参加者も同じで、いつもよりも着飾った男性陣は華やかで輝かしく見えた。舞台にいる女房達は彼らを見て黄色い声を上げている。

 そういう霞や菖蒲達も今日ばかりは動きやすい小袖こそで姿だった。

 こういった行事は宮中の女性や男性の出会いの場でもある。盛り上がるのも無理はない。


(私にはそんな風に浮かれている暇などないのに)


 周囲の盛り上がりにため息を吐いていると、


「もしや菖蒲も楓のとりこか?」


 後ろから衣ずれの音と快活かいかつな声が聞こえてきた。


「殿下!いえ、そんなつもりは……。つい、はしゃいでしまって」


 顔を真っ赤にさせながら菖蒲が答える。霞は慌ててその場に平伏した。

 その人物は帝だった。

 よわい二十八になる青年だが、その精悍な顔つきをしている。若々しくある一方で数多くの人生を経験してきたかのような深みを感じる。その神々こうごうしい雰囲気から誰もが自然とひれ伏してしまうような……恐れ多い雰囲気を醸し出していた。それでいて人柄がよく、まつりごとにも熱心で貴族や民衆から慕われている。

 宮中の歴史の中でまれに見る、理想的な君主であると霞はひょうしている。


「案ずるな。冗談だ!俺も楓に見惚みとれていた。いや、今日は皆に見惚れてしまうな!」

「私がとりこになっているのは殿下、だけですから……」


 菖蒲は着物のそでで口元を隠しながら照れくさそうに答えた。


(あら、菖蒲様……。ちゃんと教えた通りにできているじゃない。いや、それ以上だわ)


 霞は菖蒲の振る舞いに感心する。自分が教えたこととはいえ、いざの当たりにすると威力の強さに驚いた。


(その人物が口にするのに相応ふさわしい言葉は、その人物に絶大な力を与える……。菖蒲様のような天真爛漫てんしんらんまんな可愛らしい姫が恥じらいながら好意を述べられたら誰だって心が動くでしょう。

私には合わない言葉だから、私が言ったところで何も効果を成さないけれどね)


 帝は菖蒲に優しい眼差しを向けると、愛おしそうに菖蒲の肩に手をかける。


「それは嬉しいことを言ってくれるな。此方こちらの席に座って、鷹狩を見物しようじゃないか」

「……はいっ!」


 菖蒲は上ずった声で答えると、帝と共に皇族が控える特等席へと移動する。その途中、ふと帝が霞と目を合わせる。そして少しだけ笑うと再び菖蒲に視線を移した。

 その一瞬の行為で霞はそれとなく察する。


(どうやら帝にも私のことは伝えられているようね……。化け物探しのこと頼むぞということかしら)


 霞は会釈えしゃくすると菖蒲たちの後ろから静かに付いて行く。


「相変わらず兄御前あにごぜ達は仲がいいのですね」


 皇族の席に移動すると、帝の弟である東宮とうぐうが既に座していた。帝と顔つきが所々似ているが、はかなげな印象的を受ける。帝よりも三つ下で少し幼く見えた。

 学問に通じており、帝の政にも積極的に参加しているという。焦げ茶色の瞳は遠く、先を見越しているようで、思慮しりょぶかい人物であることが伺えた。

 あまり体が丈夫でないらしく、肌の色が白い。霞たちは内裏の西側で生活しているのに対し、東宮は東側で生活していた。早々お目にかかることのできない人物だったので思わず見入ってしまう。


「そういうお前こそ。随分と山茶花さざんか様に夢中じゃないか。俺は立場上他にふたりの后を持っているが、お前は他のきさきを作らずにいる。そのような者に言われたくはないぞ」

「ははは。それもそうですね!お互い様でした」


 そう言って二人は笑い合った。兄弟水入らずの光景に場の雰囲気がなごむ。


「立派なご兄弟がそろわれたから、天子てんし様もお喜びになって快晴にしてくださったのでしょうね。本当に今日はいいお天気で気持ちが良いです」


 東宮の左隣に座していた美しい女性、山茶花が扇を口元に当てて微笑んだ。その姿は妖艶ようえんで不思議な魅力に溢れていた。

 男子だんしであれば視線を寄越さずにはいられない。二十三歳とは思えぬ色香いろかただよわせていた。

 東宮の妃であるのにも関わらず恋文こいぶみが絶えないのだという。

 彼女は東宮が突然宮中に連れてきた女性だった。何でも神社の参拝途中に出会って一目ぼれしたのだとか。宮中の女性にしては異例の出自。中級貴族の家の出だったのだ。

 それにも関わらず、彼女の容姿、頭脳は上級貴族に劣ることは無かった。寧ろその上をいく。

 宮中で女房達にさげすまれ、噂になっていたのは最初だけ。才覚さいかくを認められた彼女は今や、宮中の女性のあこがれのまとだった。東宮との馴れ初めは恋物語のようで、誰もが夢中になっている。


「山茶花様ったら!お言葉が上手なんだから」


 菖蒲の言葉に再び皇族一同に笑いが巻き起こる。霞はただ静かに高貴な者達のやりとりを聞いていた。


「そう言えば。あの悪戯いたずらふみの件は大丈夫なのか?」

「ええ。問題ありませぬ。しっかり陰陽師にも祈祷してもらいましたから。つまらぬことで皆が楽しみにしている野行幸のぎょうこうを中止する訳には参りません」


 そう言って東宮は舞台の前に広がる光景に視線を移す。その瞳は野行幸を楽しむ人々を映し出しているように見えた。


「警護の者達もこんなに沢山いるのです。何かしようという方が無理だわ」


 山茶花も舞台の周辺を取り巻く近衛府の者達を眺めて言った。


「山茶花様の言う通りです。お陰で沢山人がいて前の様子がよく見えませんけどね」

「本当に。菖蒲様のおっしゃるとおりね」


 菖蒲の無邪気な指摘に山茶花が微笑む。


(確かに。これだけ厳重に警備されていれば安全ね。とても化け物が仕掛けてくるとは思えない……)


 厳重な警備を見て霞はため息を吐いた。


(私が化け物だとしたら、こんな厳重な警備がされている場所を狙わないわね。何かしようとしてもすぐに捕まってしまうもの。だとしたら私の備えも無駄だったかしら……)


 美しい自然に温かな気候。賑やかな人々の声……。とても何かが起こりそうな雰囲気ではなかった。


(これから起こるかもしれないし、起こらないかもしれない最悪な出来事を想定して……私だけ違う世界にいるみたい)


 舞台を見渡し、霞は一人で虚しい気持ちを持て余していた。

 ふと視線を正面に向けると楓の姿があった。馬に乗り、何やら鷹狩の参加者と楽しそうに会話している。


(協力者と言っても結局貴方も私とは違う世界にいるんでしょう)


 同時に稲妻の如き思考が頭の中を貫いた。


(もしかして……化け物の目的って……!)


 霞は鷹狩の開始を告げる帝の祝詞のりとなど耳に入ってこなかった。

 頭の中で盤上の前に座ると敵の駒を睨んだ。

 






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