姫は盤上に立つ

ねむるこ

第一章 あづさゆみ

第1話 宮中は盤上、人は駒

 この世界なんて遊戯盤ゆうぎばんみたいなもの。

 適切に人……いわゆるこまを動かせば、己の人生は思うがまま。胸に秘めた願望も達成することができる。


「ああ!またかすみの勝ちね。本当に強いんだから……」


 ここは南向きに立てられた巨大な建物の一角いっかく。帝の第一妃だいいちひが控える部屋で、妃の名から『菖蒲局あやめのつぼね』と呼ばれていた。

 悔しそうな声の主は菖蒲姫、その人のものだった。彼女の正面には妙齢の女子おなごが座り、上品に微笑んでいる。

 2人は盤上遊戯ばんじょうゆうぎ……お互いの陣地を取り合う駒遊びにきょうじていたのだ。駒を囲えば相手の駒を奪うことができる。


「いえ、菖蒲あやめ様。これで二勝二敗、同点ですよ」

「ということは私とかすみは同じぐらいの実力ということね!次も負けないようにがんばるわ!」


 菖蒲姫は十七歳の姫だ。最近帝の妃になったばかりで、溌剌はつらつとしたその姿は可愛らしく、波打つような長い緑髪みどりがみも美しい。

 長袴ながばかまに、何枚か重ねた明るい色の着物……うちきの重なり合った色が春を思わせ、見る者をなごませた。

 子供っぽい仕草が目立つ彼女だが、今まさに帝の寵愛を一身いっしんに受けている女子おなごでもあった。

 一方、正面に座る霞という女子はよわい二十四と物静かな雰囲気を醸し出していた。女房にょうぼうとして菖蒲の世話役を引き受けており、身なりは整っているものの地味なその姿はあまりぱっとしない。華やかな菖蒲姫と並ぶと更に印象に残らなかった。

 身に付けているうちきの色がぼんやりとした薄紫色だからだろうか。噂にあがることのない、とにかく影の薄い女性だった。


(実は私が負けてあげているから二勝二敗なのだけどね……)


 無邪気に喜ぶ菖蒲を前に、笑顔のまま心の中で呟いた。わざと負けていることが分からないように手を抜いているのだ。


「そう言えば、帝とは如何お過ごしですか?」

「帝は……優しいお方です。その……私のことをとても愛してくれます」


 顔を赤く染めながら答える菖蒲は可愛らしい。どうやら帝との関係も良好なようだ。その様子を見て霞は満足そうに頷いた。


(それは当然だわ。帝の好みを調べ上げ、私が色々と教えたのだから)


 霞は菖蒲の世話役になった時から、綿密に帝の好みを探っていた。女房達の噂や、帝の召し物から口にされた食べ物、酒、好みの女子など。あらゆる情報を集めた。

 大々的に聞き回っていると怪しまれる。周りに悟られぬよう、言葉巧みに必要な情報を聞き出した。

 霞が地味な格好をしているのもそう言った情報収集をするのに都合がいいからだ。

 下手したでにでて、心地いい言葉を掛ければ相手は必ず霞の欲しい情報を教えてくれる。


 霞の頭の中には人には見えぬ遊戯盤がある。

 どうすれば目の前の人を自分の意のままに動かすことができるのか。知りたいことを教えてくれるのか。

 駒の動きに注意しながら話したり、行動したりするのだ。


「それは喜ばしいことです。菖蒲様のお子様が見られるのはそう遠くないでしょうね」

「霞ったら!気が早いんだから」


 照れながらも幸せそうな表情を浮かべる菖蒲を見て、霞は心の中でほくそ笑んだ。


(このまま姫様が男子を生めば、私の地位も自然と上がる。そして私は姫の後見役として生涯安泰の地位を手に入れるの。我ながら完璧な人生。やっぱりこの世は遊戯盤ね)


 穏やかな笑みを浮かべる霞がそんな野望を抱いているとは、誰も気が付かないだろう。


「霞は?どなたか気になる殿方とのがたはいらっしゃるの?私の世話ばかりさせてしまって……ちゃんと自分の時間は取れてる?」


 霞は思わずどきっとしてしまう。一番聞かれたくない問いだった。他の女房達が着物を口元に手を当てて困った表情を浮かべている。


(いつものやつを使うしかないか)


 霞は静かに着物の袖をまくった。突然の行動に菖蒲は目を丸くする。

 突き出された左腕には酷い火傷の跡があったのだ。白い皮膚がただれ、皺になっていた。


「姫様にはお話していませんでしたね……。実は私、このように傷物きずものですので嫁に行けぬのです」


 そう言ってわざと着物の裾を目元に当て、すすり泣いて見せた。


(男なんて、幸福なんてどうでもいいのよ。私には安泰な地位と、があるんだから)


 霞は普通の女子とは違った考えを持っていた。

 有力な貴族の男子と結婚し、後継ぎとなる男子を生む。それが宮中に住む女子の目指す人生だったが彼女の目指すべき人生は違った。

 霞には誰にも明かすことのできない目的があったのだ。


「そんな……!」


 絶句する菖蒲を見て霞は安堵のため息をついた。これで『なぜ婚姻しないのか』という面倒な質問をかわすことができる。この傷を見せて他の女房達を黙らせてきた。大体の人はこの傷を見て同情してくれる。

 時々痛む傷跡を恨んでいたこともあったが今ではこの火傷に感謝すらしていた。


「両親を火事で亡くし私には何の後ろ盾もございません。そんな女を引き取ってくれる愚かな殿方などおりませぬ。私の生きがいは菖蒲様。貴方の幸せを見守ること。それだけにございます!」

「霞……!」


 涙目になって、儚げに微笑む演技を見せれば完璧だ。

 菖蒲は正面から霞に抱き着く。甘いこうの香りが霞の鼻腔びこうを掠めた。この香も菖蒲がすすめた、帝が好みの香りである。


「ごめんなさい。貴方のご両親が亡くなっていたのは知っていたけどまさか怪我を負っているなんて知らなかったの!思い出したくないことを思い出させてごめんなさい」

「いいのです。私こそ、みにくいものをお見せしてしまい申し訳ありません」


 菖蒲の背を叩きながら、霞の心は冷静だった。


(よくもまあ、ここまで純真無垢に育ってくれたものね。お陰で動かしやすい駒ではあるけど)


「さあ、泣き止んでください。菖蒲様には笑顔がお似合いですよ」

「ありがとう。悲しいのは霞なのに私が泣いてしまって……。

霞の幸せのためなら私、何でもするわ。だから、何か助けて欲しいことがあったら声を掛けてね。必ずよ」

「……はい。ありがとうございます、菖蒲様」


 女子同士の美しい友情に周囲の女房達も涙する。霞は菖蒲の『何でもする』という言葉に満足していた。


(その言葉、いざという時使わせてもらうわよ)


 こんな時でも何をきっかけに人を動かそうか考えてしまう。霞は自分のことを恐ろしく思った。


「まあ、もうこんな時間。菖蒲様、失礼ながら文書殿ぶんしょどのに向かわせて頂きます」

「そういえばそんなこと言っていたわね。確か……古い物語の巻物が読みたかったんだったわね」


 菖蒲が霞から体を離す。

 文書殿というのは宮中のあらゆる文書や巻物が保管されている建物だった。後宮からずっと南に向かって渡り廊下を歩いて行かなければならない。

 霞は菖蒲に無理を言って入室を許可してもらったのだ。


「あそこはそんなに面白い場所ではないと思うけど?勉学の好きな霞だったら楽しめるかもしれないわね。文書殿を管理する文官に話は通しておいたから大丈夫よ」

「ありがとうございます!何か面白いものがあれば菖蒲様にもお伝えしますね!」

「私はそういうの分からないから……。霞が楽しそうならそれでいいわ。いってらっしゃい」


 菖蒲が無邪気に手を振る。

 霞は菖蒲に背を向けると険しい顔をして文書殿へ向かった。

 日が暮れ、宮中のお勤めも終わり掛けているこの時を狙った。あまり女房が立ち入るような場所ではないので目立たないようにするためだ。

 文書殿に控える文官に声を掛け、入室する。


(火事にって四年。ここに来るまで随分時間が掛かってしまったわね)


 深く深呼吸をすると、紙と墨の香りが心地いい。

 霞は表情を引き締めると人気ひとけのない部屋を見渡した。整然と並ぶ棚の上には所狭しと巻物が置かれている。

 霞はゆっくりと『宮中記録きゅうちゅうきろく』が保管されているであろう棚まで足を進ませた。宮中記録には過去、数百年に及ぶ宮中で起こった出来事やまつりごとの決定事項などがまとめられている。


「おや?こんなところに女子おなごがやって来るなんて。珍しいですね」


 予想もしなかった声が聞こえて霞の心臓が飛び跳ねる。凛とした低音は耳に心地よくて、それだけで身分の高い者のような気がした。


(私の他に人が?)


 すぐに冷静さを取り戻すと、声が聞こえた方角に視線を向けた。


「あら……隠れて待ち伏せるなんて無礼なお方。一体どこのどなたでしょうか」


 相手を見定めるために霞も大きく出る。すると声の主はゆっくりと棚の影から姿を現した。

 黒い烏帽子に黒い装束。一目で文官であることが分かった。

 ただの文官とは思えない。秀麗な横顔に霞の表情が固まる。


貴方あなたは……蔵人頭くろうどのとうかえで様」

「私のことをご存知とは……。光栄です。霞様」


 そう言って数多くの女官をとりこにしてきたであろう、柔らかな笑みを浮かべた。














 

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