牙狼種 アビィの場合

 母が死んだ。突然の奇襲、爆音。視界を遮る土煙。母の断末魔だんまつま。人間に向かって一目散に駆け出した俺を守ろうとした仲間が、血煙ちけむりに変わって散っていく。

 歯をき出しにし、怒りのあまり鼻息が荒くなる。全身一色の毛が逆立ち、尻尾しっぽまで張り巡らされた神経が絶望的な状況での立ち回りを教えてくれる。


「(こっちだアビィ!)」


 尻尾に伝わる魔力に従って、弾けるように走り出す。人間たちにとって夜である今、木々に囲まれたこの地は一層暗く奴らの索敵さくてき能力をにぶらせるはず。

 対して俺たちにとって、今の光景は昼と変わらない。むしろ強い明かりが木々の隙間から現れないぶん、昼より動きやすい。

 仲間の呼び掛けに従い、本来は闇であろう木と木の間をうように駆け抜けていく。


「(アビィ、もうすぐ合流できる! 待ってろ!)」


 四本の強靭きょうじんあしで走り抜けながら、涙を置いていく。仲間や身内の死なんて、常に隣り合わせだ。俺の大切な人が亡くなろうと、奴らは慈悲じひを与えてくれるわけでもない。


「ライドウン!」


 後方で奴らの一人が叫び、その声と共に頭上に嫌な気配が降りてくる。

 咄嗟とっさに進む方向を左に変えた瞬間、進もうとしていた先に天からのいかづちが落ちてきた。

 強い発光を予感した俺は目をそむけ、次に顔を戻したそこには先程まであった木の上半分以上が焼け焦げて、松明たいまつのように燃え盛っていた。


 人間は、なんて理不尽なんだ。

 

 思い出したように地面を蹴り、別方向から再び木々の間を通っていく。奴らの声は聞こえず、少し雑音混じりの仲間の声が聞こえてくる。


「(アビィ、大丈夫か!)」


 今度ははっきりと聞こえたその声は仲間が無事だというのと同時に、今進んでいる方角が合っている事を表していた。


「(ああ、大丈夫!)」


 息が整ってきた俺はさっきから通信している彼、ホウルズに返事をした。声は乗せずとも安堵あんどの気配が伝わる魔力を受けて、安心した俺も歯を剥いて笑みを作る。

 そして、長い登りになっている森の中で、ようやく俺と同じ姿をしている仲間たちと合流した。


「怪我は無いか?」

「ああ」

「……アビィ、お前以外と連絡が取れないんだ」

「……ああ」


 黒い毛並みを揺らしておずおずと前に出てきたホウルズは、俺の顔色をうかがうように眉をひそめて目を向ける。

 その耳はピンと立っており、今なお周りへの警戒心を抱いているんだろう。

 彼の後ろにたたずむ我らの同胞どうほうであるアビスドッグの群れがこちらを値踏みするように見つめており、その視線以外にもさっきから伝わる不快な魔力を受けて思わず不機嫌さを声に表してしまった。


「まあ、お前が無事で良かったよ。だが、今度からはもう勝手に行くなよ」


 いましめの一言を告げて、きびすを返して群れの中に戻っていくホウルズ。彼の言うことはもっともだ。俺は母が殺されたことに我を失ってしまい、一族全体を危機におとしれた。それだけはくつがえらない事実であり、陰湿いんしつな反応を受けるのは仕方ないこと。


 此処ここ、アルガニアの森では最近人間たちが奥深くまでやって来るようになった。森から出てはならないという言いつけを守っていた母が殺され、これを理不尽と言わずなんと言うのか。かたきてずにただ逃げまどうしかできないとは。


 基本的に我々アビスドッグの群れは、確実に勝てる戦いしか挑まない。少数のゴブリン、はぐれたニードルラビット、寝ているオーク。それらを見つけたあとに仲間に知らせて、追い詰めたのちに狩る。そして飯にありつけるのだ。


 だが、どうしても許せなかった。まず勝てない相手だろうが、母を殺した奴らだけは。

 それでもおのれがやったことは愚行ぐこうに等しい。助けてくれたホウルズも、あまり良い顔はしていなかった。

 独りでは生きていけない。アビスドッグの特性上の問題で、群れを作らなければただの狼と同等だ。


 人間にどうしても一矢報いっしむくいたい。それができれば苦労せず、きっと母も死ななかった。ホウルズらの後を付いて行きながら、情けない自分に涙した。


 それはあの夜から数日経った頃だった。

 失態を取り戻すために俺は森を駆け回り、非力な人間を探していた。そんな奴を狙うのは正直情けないが、やられっぱなしは気に食わない。勝てる相手だけを襲うんだ。


 いつもの森の中、木の模様まで見えるほど集中できている。人間から逃れて新しい場所まで落ち延びたぶん、周辺の探索もねていた。


 あれは……人間か?

 少し開けた森の中、そこを流れる幅の広く浅い穏やかな川の近くで動くものを見つけ、身を隠しながら近づいていく。やけに明るい、まだ太陽がある時間帯か。チカチカと目に入る日差しを直接見ないように伏し目がちに目標を見据みすえる。


 それは人間の女だった。彼らの特徴は男か女かくらいしか分からない為に、あとは体格で違いを判断している。あの女は小さいな、背格好からして子供かもしれない。頭から伸びる毛が肩に着くぐらいの長さで、華奢きゃしゃな体つきだ。


 何をしているのか、もう少し窺うか。

 女は水浴びをしているように見えた。いつも奴らが身につけている布は無く、俺たちと違ってひとつも毛が無い裸体をさらしている。おかしい、まだ明るいはずなのにどうしてこんなに無警戒なんだ。


 女から視線を外して辺りを見渡す。あの女はおとりかもしれない。待ち伏せされている可能性もある。

 どちらにせよ、今回は見るだけだ。狩るのはホウルズたちと一緒に……。


 突然、女がこちらに振り向いた。咄嗟に木のかげに身を隠すが、こちらに視線を感じる。人間の見るという行為には本人の自覚無くとも小さな魔力が乗っており、俺の尻尾はそれを感じ取っている。

 まだ見られている。完全に見つかったか。やはり自分だけでやるか……いや待て。


 視線が外された気配がして、魔力も感じなくなる。気づいていないとは思えない、泳がされている可能性もある。

 人間は恐ろしい、遠くからでも我々が太刀打たちうちできない技を放ってくる。あの女が仮に未熟な個体だとしても、何もしてこないからと言って油断はできない。


 自らの鼓動の速さを感じながら、もう一度女の方を木の後ろから窺う。何事も無かったかのように水浴びをしている。いや、川から出たぞ。何処に行くつもりだ?

 しばらく注視ちゅうししていると、川の近くに置いていたであろう布を手に取り、身体を上から順に拭いていく。奴には警戒心というものが無いのだろうか。無防備過ぎる。


 罠の予感を抱きつつ、不思議と奴から目が離せない。俺もまた未熟だからなのか、それとも目を奪われる何かがあるのだろうか。


「そこに居るオオカミさん、出てきていいよ」


 鈴が鳴るような声で、明らかに俺の方を意識した女が声を上げた。

 全身の毛が逆立ち、危険信号を鳴らす。やはりバレていた。逃げるしかない、いや逃げたところでもう遅いかもしれない。


「怯えないで、ほら」


 今更隠れることは無意味だと突っ立っていた俺の方を、女は振り返って真っ直ぐ見てきた。

 白黒の世界で見たその顔は、まだ幼そうな面影を持つあどけない表情を浮かべ、小さな笑みを浮かべている。

 そこに恐れは無く、まるで赤子を見ているような顔で女は佇んでいた。


「君、はぐれたの?」


 女が何を思い、何を言っているのかは分かっている。さっきから無防備に飛ばされる無邪気な魔力が思念となって俺の身体に伝わり、例え異種族であっても同胞のように相手の言葉が理解出来てしまうからだ。

 だが、こちらからは何も伝えられない。できるのは精一杯牙を剥いて、威嚇いかくをするように相手をにらみつけることだけ。


 やはりそんなものは恐るるに足らないのか、髪を拭きながら布を揺らして、ついにこちらに近づき出す。


「ガウ!」


 距離からしたらまだ遠いが、それ以上近づくなと警告のつもりで奴に向かってえる。

 玉砕ぎょくさい覚悟で奴の喉元に食らいついてもいいかもしれない。だが未知に対する恐れからか、逃げることも向かうこともできずに、うなり声を上げて女が立ち止まることに期待するしかなかった。


「怖い? うーん、どうしよう」


 対して全く怯えが見られない女は、こちらを意識しながらも視線を外して立ち止まり、困ったように首をかしげる。

 女は、何とか俺の中にある恐れを取り除こうとしているみたいだ。思念となって飛んでくるそれには、悪意は感じられない。だが、人間の女なんだ。あの夜、母を殺したのも女だった。恐ろしい力で見えないところから不意打ちを食らい、すべなくそのまま……。


「オオカミさん」


 女は目線の高さを合わせるようにしゃがみ込み、こちらの顔をまじまじと覗き込む。その距離はまだ離れてはいたが、こちらからすれば一瞬で詰められる距離間であり、今なら油断する女の首元を狙えそうだった。

 幸いにもしゃがんでくれているから、より成功率も上がっているはず。


 俺は脚に力を込めて、地面の土を強く押す。まだ行かない、もっと近づいてこい。

 葛藤かっとうしながらも自然と剥いてしまう牙が、今すぐ行けと後押ししているように思えてくる。

 この女を殺す! 今ならできるぞ!


「ガウ!」


 地面を強く蹴りあげて一目散に駆け出す。女は突然のことに全く反応できていないように見える。驚く顔すら滑稽こっけいだな!だが俺を甘く見たのが運の尽きだ!

 迫る女の首元を狙うため口を大きく開け、同時に溜まっていたよだれこぼれる。


 だが、直前で俺は噛み付くのをやめた。目と鼻の先で、自分の動きを止めた。本能が俺を止めたのだ。この香りが、母の香りが女からするからだ。

 その時、女の手が頭に触れ、さらにもう片方の手が顔の下を撫でるように滑っていく。驚いて離れようとするが、その触り方は思いのほか優しく柔らかい。


「どうしたの、急に飛びついてきて。やっぱり怖かったの?」


 勘違いしているのか、女は笑顔でそう言いながら優しい手つきで身体を触っていく。

 やはりこの女からは母の匂いがする。まさか、人間に生まれ変わったのか?

 アルガニアでは、死んだ魂は輪廻転生りんねてんしょうののちに新しく生まれ変わると聞く。あれは、同種として再び生を受けるわけではなかったのか。


 いや、それはないだろう。俺たちと違って、人間は大きさの違いが大人と子供で大きく分かれている。さらに子供は子供でも、自立できないほど小さい者も居るし、見た目では何年生きているのか判断できないのだ。

 つまり、何年生きているかわからないこいつが母の生まれ変わりである可能性はゼロに等しい。


 毛並みを撫でていた女は満足したのか、手を離して俺と目を合わせようとする。恐らく少女くらいの年齢だろうが、母の匂いがするから苦手だ。目を逸らしても、彼女の顔が付いてくる。


「ガウ!」


 ええいなんなんだよこいつは、俺たちが怖くないのか。

 人間は俺たちを恐れているから、殺し合いをしているんじゃないのか。何故この女は危害を加えてこない?

 混乱し、考えが纏まらない。離れないといけないはずなのに、足が動かない。まさかこれも人間の仕業しわざなのか。


「んー、よくわかんないけど、少しは落ち着いたのね。オオカミさん、確かオオカミさんって言葉がわかるんだよね? わかるなら返事して欲しいなあ」


 立ち上がった少女は後ろ手に組んで前屈まえかがみになりながら、わざとらしく俺の顔を見る。

 人間はどうやっているのか分からないが、様々な情報をこんな子供でさえ得ている。集団で行動しているわけでもないし、せいぜい三人か四人が徒党ととうを組んでいるくらいで、中には知性の欠片かけらも無さそうな個体だって居る。


 だがそいつらは的確に俺たちのことを把握はあくし、対処もかなり早い。結局逃げることしかできなくなり、後ろから討たれる仲間たちを今まで何度も見てきた。


「あら、やっぱりわかるのね!」


 歯を剥き出しにして唸っていた俺ははっとして、彼女の思惑通りに反応してしまったことに気づく。人間がにくらしすぎて、考える前に身体が反応してしまっている。


「ねえオオカミさん、一匹だけなの? 他のお仲間さんはどこ?」


 どこと言われようが、こいつに教える術がそもそもない。明らかに仲間のことを聞き出そうとする素振りに、もう一度もたげてくる警戒心。

 少女は途端に慌てたように口を開けて目が泳ぎ、弁解の言葉を考えているむねの魔力を隠しもせずに放出している。


 段々とこの女は、危害を加えるような存在ではないんじゃないかと思えてきた。何故か母の匂いを纏わせ、母からの毛繕けづくろいを思わせる優しい手つき。少女に自覚は無くとも、本当に母の生まれ変わりなんじゃないかと錯覚さっかくする。


「ごめんね、深い意味はないの。ただ、はぐれちゃったのかなって思っただけ」


 言葉と心が一致している彼女はそう言って、何故か頭を撫でてきた。その行為に悪い気はせず抵抗なく撫でられる。

 しばらくして少女の手は離れて、背中を向けて歩き出す。俺たちと違って毛が無いからか、背中を丸めて震える姿は寒そうだ。


「ちょっと待っててねオオカミさん」


 そう言った彼女は最初に拾った布があった場所辺りまで行き、かがみ込んで何かを拾い上げるのが身体の横からちらりと見えた。それは白い布の端で、次に少女の頭上に手を伸ばして持ち上げられたそれは、彼女の頭を食べてさらに体をも呑み込んでいく。

 しばらく呆気に取られていたが、次の瞬間再び少女の頭が布を貫通して飛び出し、左右から手が生えて彼女は真っ直ぐ立ち上がる。


 ストンと落ちた布が足首近くまで包み込み、くるりと向いた反動で華麗に布がひらめいた。

 その姿に目を奪われていた俺は一瞬視線を落とし、次に顔を上げた時には、白く長い布を身に纏った少女がこちらに向けて駆け出していた。


 顔は満面の笑みで、敵意は全く感じない。布の暖かさに触れたからか、幸せな感情が魔力を通してこちらに伝わってくる。

 その布は、俺たちで言う毛皮と同じ役割なのだろうか。だとしたら、もしかしたら意思の疎通そつうができるかもしれない。


 今度は俺の横でしゃがみ込み、ゆっくりと背中を撫でだした少女に対して仲間にやるように魔力を飛ばす。


「(お前は何者だ)」


 そう念じて少女の顔を見つめるが、俺の毛並みの柔らかさに夢中になっている彼女はこちらに気づきもしない。

 なんだ、通じないのか。耳が曲がり尻尾が下がったのを感じながら、がっかりした気持ちでうつむく。


 いや、おかしいぞ。何故がっかりする必要がある。いくら母の匂いがするとはいえ、こいつは人間だ。母を殺した人間と同じ種族なんだ。


 地面を蹴って少女から離れた俺は、牙を剥いて彼女を見上げる。敵意が無いからなんなんだ。こいつらは仇なんだ。


「どうしたの? 痛かった?」


 恐れを抱かない少女の表情はどこか悲しそうで、あの夜のホウルズの顔を思い出した。

 あわれみ、失望、同情、それらがこもっていた彼の表情に似てはいたが、彼女の場合はもっと純粋な何か。

 そう、心配だ。心配している顔だ。俺が木にぶつかった時に慌てた母が見せた顔、あれに似ている。


 やはり母の生まれ変わりなのではないか?

 

「ほら、怖くないよ」


 しゃがみ込んだまま両手を広げて、刺激しないようにと顔をほころばせている。その意図も同時に流れ込んできて、俺はゆっくりと近づいていく。


 何故、人間なのにこいつは、こうも暖かいんだ。


 結局、人間の子供のことを殺せないまま、その日はお互いに無傷で別れた。彼女が言っていた家族という名のどころへと、手を振りながら帰っていった。

 此処はそもそも森のどの辺にあたる部分なのだろうか。彼女のような非力な人間がなんの問題もなくこんな所まで来れるとは思えない。


 帰り道でそんな事ばかり考えていた俺は、ホウルズの呼び掛けが届いているのにようやく気づく。


「(おい、何処どこに行ってたんだ! 早く戻ってこい! 狩場かりばを見つけたぞ!)」


 狩場、ようやくまともな飯にありつけるのか。

 ホウルズに返事をしながら、歯を剥くように口角を上げた。


 そのあと彼と合流し、夜になるまで狩場について仲間たちと作戦を練っていた。どうやら人間たちが呑気のんきに森の中に居を構えていて、さらにそこには人間の子供も多いらしいのだ。

 勝つ戦いしかしない俺たちにとって、弱い人間が複数居る環境は最高の条件だ。あとは、大人たちの存在。彼らがもし強力な何かを持っている場合は、諦める必要がある。


「アビィ、仇を取りたいか?」


 老獪ろうかいなホウルズは声を潜め、俺に確認を取ってくる。どうやら、先遣せんけん役として俺に向かわせようとしているみたいだ。心の内までは発していない彼の妙に優しい表情は、昼間の少女と比べて邪悪なものに映った。


「どうした?」

「いや、なんでもない」


 怪訝けげんな表情をするホウルズが疑いの目を持って俺を覗き込む。こいつのこの顔が、たまに苦手だ。

 結局先遣役を引き受けた俺は決行を明日の夜として、昼間のうちに近くまで探ってくる段取りとなった。


 失敗したら、今度こそ死ぬかもしれないな。一族全体が生き長らえる為の捨てごまのような気分だったが、それも悪くない。俺たちは元々そんなもんだし、俺をかばって死んでいった仲間たちを思えば、次は俺の番だと言われても恐れることなどない。


 本来夜に活動する俺は昼間の疲れがあるにもかかわらず、たぎる気持ちのせいで中々寝付けなかった。


 翌日、木々の隙間から覗く陽光を見るに、昼間の時間帯。俺はホウルズが言っていた場所まで身を潜めながら近づいていた。

 本来、闇に紛れて行くのが合理的であり、この毛並みの色を上手く闇に溶かし込めるぶん、安全ではあった。

 しかし、人間たちは夜に活動する者が少なく、全容をつかむためには奴らの活動時間帯に偵察ていさつするしかない。


 昨日もそのつもりで俺は探索していたのだが、まさかあんな人間と出会うとは思いもしなかった。

 あどけない笑顔を見せていた少女を思い出して、心の中で舌打ちをする。

 人間に情など不要だ。因果応報いんがおうほうなんだ。この森は人間たちのものじゃない、俺たちの故郷を荒らさせるわけにはいかない。


 音も無く木の間を掛けていく。斜面になっている地面、這うように伸びた根っこ、上から垂れた枝、折れて突き出たとがった木片もくへん。一つ一つをかわしながら走れるようになるまで、何度もぶつかったし何度も怪我をした。今の俺があるのは母のおかげ、だけどもう彼女は居ないんだ。


 人間に対する復讐の炎をともしながら、言われた地点まで近づいてきた。ここまで人間の気配は無く、奴らは探索するために出歩くことはしないんだと予想する。

 しばらく歩いて、遠くの方に不自然に折られた枝や切り株を見つける。そこを境に開けた土地となり、複数の三角形の巨大な布の住居が立ち並び、その周りを人間たちが行き交っている。


 一人は長い棒の両端に水の入った桶が付いている棒をかつぎ、歩く度に水しぶきが上がっている。川から水でも汲んできたのだろうか。

 一人は木を加工したのか長方形で平たい木目調のものを置き、その上に湯気立つ食物を丸く平べったい器の上に並べて、近くの人間に振舞ふるまっている。


 どうやら此処で生活しているのに間違いはなく、ホウルズに報告するために奴らの人数を数えていく。

 ざっと十六人は居る。大人は八人、想像以上に多い。だが、俺たちを襲ってきた奴らみたいな化け物じみた能力を持ち合わせているような気配は無く、皆が薄い布を身にまとっていて如何いかにも弱そうだ。


 俺たちの数は人間たちの倍は居る。夜に寝込みを襲えば確実に勝てる。

 ある程度分析して頭の中で想定したあと、一定の距離をたもち様々な方向から観察して、地理の事や人数の再確認を終えて気づかれないように立ち去る。


 その時、俺の帰る方向にかすかな香りがした。そちらは風上であり、人間よりは鼻利きに優れていると自負している俺は、覚えのある香りの方向へといざなわれるように近づいていく。


 人間たちがやったのか、人間一人が通りやすいように植物が排除された森の通路を、昨日出会った少女とその母親であろう人間が後ろから付いて行くように歩いていた。

 俺は動揺どうようした。此処に彼女が居るということは、先程偵察したあの集落に住んでいる可能性が高いということだ。


 いや、何を動揺する必要がある。人間は等しく敵であり排除すべき存在だ。少し交流したからと言って、そのみぞが完全に埋まるわけが無い。

 そう、埋まるわけが無いんだ。きっとホウルズならそう言うだろう。


 魔が差していたのか分からないが、俺は彼女たちに立ちふさがるように木々の間から姿を現した。

 突然魔物が目の前に出たことで、母親らしき人間は血相を変えて我が子を後ろに下げ、立ちはだかるようにこちらを睨みつける。

 しかし、少女は母親のかげからこちらを覗き、しばらくして顔を輝かせた。


「昨日のオオカミさん!」


 突如とつじょ駆け出した娘に手を伸ばすも置いてかれ、絶望を顔に浮かべる母親と対比的に、満面の笑みの少女がじっと立つ俺にぶつかるように抱きついてきた。


「また会えるなんて嬉しい〜」

「な、な、なにを」


 わなわなと震える母親を俺は見据えて、ふんと鼻を鳴らす。そうだ、俺はアベスドッグ。俺たちは人間の敵であり、それが普通の反応なんだ。


「お母さん、この子ね、はぐれちゃったみたいで。凄く大人しくて可愛いの」


 母親の方へ顔だけ向ける少女の髪の毛が顔を撫で、こそばゆくなって首を振る。

 それに気づいた彼女は、はっとして離れて鼻の上あたりを優しく掻いた。

 触られることに徐々に慣れつつある俺は身をゆだねながら、少女から香る母の匂いを堪能たんのうしていた。


 しばらく硬直こうちょくしていた母親は、未だ震えながらもこちらに近づいてくる。娘が居なかったらとうに逃げ出しているぐらいに臆病おくびょうなくせに、果敢かかんに近づく姿は自分の母親を思い出させた。


「ほら、お母さんも撫でてみてよ」

「メルフィ、やめなさい。今すぐ離れて」


 声を震わす母親はあと少しで娘に触れる位置で止まる。俺のことをじっと見据えているあたり、全く信用していないんだろう。

 ……思えば、この母親の反応は昨日の俺と同じだ。わかろうとせずに恐れ、隙あらば殺そうとする。その行動理念は俺が魔物として生まれた瞬間からすれ違うものだったんだろう。


 母親から視線を外して、けもの道の方に向かって歩き出す。少女、メルフィの悲しそうな声が後ろから聞こえた。

 ここから立ち去れば、きっと何もかも解決するんだろう。俺は魔物、人間とは決して交わらない種族。

 そう思いながら少女から完全に離れた途端、後ろで母親が走る気配がして、とんでもない殺気が魔力に乗って背後から飛んできた。


「助けて! 魔物が!」


 咄嗟に振り向くも、娘を抱きかかえた母親は既に割れんばかりの声で叫んでおり、近くに居た人間たちに気づかれたと思った俺は急いで森の中へと駆け出す。


「待って!」


 遅れて少女の声が届くが、無視した。やはりこうなったか。だが、何だこの気持ちは。憎くて仕方なかったはずなのに、何故少し悲しさを覚えているんだ。あいつらは母を殺した種族のはずなのに、どうして胸が苦しくなる。


 とにかく、ホウルズの元に急いだ。幸い奴らには追いつかれずに、追われている気配も無い。任務にんむ成功とは言いがたいかもしれないが、人数も確認できた。奴らは全部で十八。そのうち大人が九。子供も……九だ。


「よくやった、アビィ。これで仇も取れるな」


 歯を剥いて笑うホウルズの顔を見て、俺も同じように笑った。だが、内心は違っていた。魔力さえ飛ばさなければ心を読まれることは無いが、果たして上手く笑えていただろうか。


 決行は夜。それはあっという間に訪れて、気づけば俺は全員で向かう列の中に居た。


 ホウルズは皆に配置にくよう指示し、人間たちの居住区を囲むように闇に紛れて移動していく。

 皆の顔を見ていると興奮を隠し切れないのか、涎を垂らしている者や舌を出して呼吸をする者。目をギラつかせている者など、異常な精神状態になっていた。

 いや、俺もそうだったんだ。皆が仇を抱えている中、冷静でいられる者なんて居ない。


「アビィ、お前やけに落ち着いているな。少し前までは一番やる気だっただろう?」


 後ろからホウルズに声を掛けられ、耳がピクリと動く。


「こんな時こそ冷静になるべきだと気づいたんだ。ホウルズ、お前みたいにな」


 振り返って彼の顔を見ると、少し嬉しそうに目を細める姿があった。


「成長、したな。お前こそ、次のおさになれる器かもしれん」

「……よせよ、お前にはかなわない」


 のどを鳴らして笑うホウルズは、一歩前に踏み出る。彼の体毛は揺らめくように逆立っており、静かな興奮を表していた。


「そろそろだな、準備はいいか?」


 そう問われ、少女の姿が思い浮かび逡巡しゅんじゅんする。

 人間は……敵。全ての人間は……敵。いや、全てでは、ない?


「なあ、ホウルズ。実は」


 目を丸くする彼に伝えようとしたその時、仲間の遠吠とおぼえが響いた。


「あの馬鹿野郎共! 合図が待てなかったか!」


 すぐさま顔を戻したホウルズは叫び、遠吠えを返したあとこちらに牙を剥いたけものの顔を見せる。


「行くぞアビィ! とむら合戦かっせんだ!」


 駆け出した彼の背中を見て、迷うことすら許されなくなった俺は走り出す。

 始まってしまった。いや、いずれにせよこうなる運命だったんだ。人間だって、不意打ちを仕掛けてきた。攻撃されるなんて思ってもいなかった無防備な横腹に、俺たちは先にみ付かれたんだ。


 迷いながらもホウルズに続き、開けた土地になだれ込んでいく。奥からも仲間が迫る様子が見えて、人間たちに逃げ場が無い状況になったと確信する。

 遅れて悲鳴と共に三角形の天幕てんまくから人間が現れ、その手には心許こころもとないただの棒のような得物えものが握られていた。


 やはりこいつらは非力な人間たちだったか! 狩りの成功を予感したが、突然奥の方でまばゆい光が弾けた。

 目の端でとらえただけなのに頭を殴られたような衝撃が走り、脚がもつれて無様ぶざまに転んだ。それは恐らく他の仲間もそうで、甲高い声を上げて痛みを訴える者も居た。


「こいつらは光に弱い! 皆、閃光弾せんこうだんを早く!」


 勇ましい女の声がして、次々とまぶたの裏で白くなる視界。奴ら、俺たちの弱点を知っていた。それに用意が良すぎる。まさか、俺のせいか。

 メルフィの母親が報告したことは容易に想像できたし、ホウルズらにそれを警告しなかったのもまずかった。


 だが、こんな時こそ魔力での通信で連携を取る時だ。


「(ホウルズ、無事か!)」

「(アビィか、状況は良くない。さっきので五分に持ち込まれた。もしかしたらやられた仲間も居るかもしれん)」


 目をつむったまま魔力を飛ばして通信していたが、冷静になった他の者からも次々と状況が流れ込んでくる。

 目を閉じて耐え忍ぶうちに閃光弾というものが途絶とだえて、目を開いた俺は一箇所に集まっている人間たちの姿を見た。

 彼らは短い刃物類しか持ち合わせて居ないようで、本当に森を開拓かいたくするためだけに来たのかと疑うくらいの軽装けいそう具合だ。


 いや、恐らく前に俺たちを襲った先遣部隊こそが本隊だったんだろう。奴らによって安全を確保したあと、数で森を占領していく。それがこいつらの手口だ。

 汚いやり口に再び俺の怒りは天をくほど燃え上がる。やはり人間は滅ぶべきだ。


 その時、人間の輪の中心に子供たちが集まっているのが見え、その中にメルフィが居た。

 やはり居たのか。だが、もう遅いだろう。既に人間に飛びかかっている仲間も居る。時間の問題だ。

 彼女は昼間に見せた朗らかな表情とは真逆の、怯え切った顔で辺りを見渡している。

 その姿に、何故か胸がズキリと痛む。まるで仲間が殺されたのを目撃したような、そんな感覚が走った。


「(アビィ! ぼうっとするな! 一斉に掛かるぞ!)」


 ホウルズの思念により我に返った俺は、横に見える仲間たちと歩調を合わせて人間に向かって走り出す。

 少女のことは見ないようにし、その前に立ちはだかる大人を見据える。だが、その横にはメルフィの母親が立っていた。


『早く行くのよ』


 母の声が聞こえた気がして、俺は脚に力を入れる。


『仇を取って』


 唸り声を上げて口を開き、涎を後方に置いていきながらさらに加速する。


『さあ、殺るのよ!』

「オオカミさん!」


 飛び掛かろうとする寸前で、少女の声を聞いてしまった。突然立ち止まろうとした脚は震えて身体を支えきれず、体から地面に落ちて視界を回す。

 何を、しているんだ俺は。痛みはあったが、幸い折れてはないだろう。だが、人間とは目と鼻の先まで近づいてしまっており、仲間の攻撃に気を取られてはいたがこの体勢はまずかった。


「オオカミさんでしょ!? ねえ! オオカミさん!」


 他の子供たちを押しのけるように出てくるメルフィが、悲痛な声を上げながら近づいてくる。

 それを見た大人が彼女の名を叫んだ。仲間たちの攻勢は止まず、一人輪を抜け出したメルフィは倒れている俺に近づく。


「大丈夫? ねえ、オオカミさん!」


 何故、この子は危険をおかしてまで俺の事を気に掛けているんだ。ゆっくりと立ち上がるも、脚がふらついている。それを支えるように、少女の手が伸びる。


「メルフィ! 駄目だ! メルフィ!」


 恐らく父親だろう、俺の前で仲間と交戦している人間がしきりに名前を叫んだ。


「(何をしている! その人間を殺れ!)」


 思念が飛んできて、少女目掛けて走る気配が右の方からした。

 彼女は俺にしがみつき、逃げようともしない。立ち向かう姿勢も見せない。まるで俺に全てを委ねているような姿に、どうすればいいのか分からなくなって素早く辺りを見渡す。


『どうしたの? 早く殺しなさい! 人間は全て敵よ!』


 母の亡霊ぼうれいが頭の中で叫び続けている。だが、俺を抱き締める少女は一向に動かない。俺はどうすればいい。


「(アビィ!)」


 ホウルズの声が聞こえ、顔を上げた。右から獰猛どうもうな牙が少女に迫る。迷いはもう、なかった。

 脚に力を込めて俺はメルフィを庇うように盾になり、同胞からの牙を身体に受けた。食い込むそれは久々の肉の味を堪能しようと、恐るべき力で閉じようとする。


「オオカミさん!?」

「(アビィ!?)」


 少女と同胞の声が同時に聞こえ、痛みと出血で朦朧もうろうとしたまま困惑するホウルズに応える。


「(すまないホウルズ、この子だけは……殺せない)」


 受け取ったのは失望の気配で、その瞬間に俺は群れから切り離されたと実感する。

 その前に死ぬかもな。逆流した血が口から溢れ出し、すきま風のような音を出す喉。致命傷を受けたことは明白だった。

 怒り狂う形相の母の面影が段々薄れていき、目を開くと涙を流す少女の姿があった。


「死なないで」


 ああ、どうして君は、魔物である俺なんかの為に涙を流して、そんな言葉を掛けるんだ。

 彼女に抱きしめられた部分が暖かくなっていき、俺の身体から離れた同胞の断末魔が聞こえる。同時に傷口から血が流れているのが体から伝わってきて、抱きしめられた箇所以外が冷たくなっていくのを感じた。


 もし、君と出会ったのがホウルズだったら、君は涙を流したのか? 誰でも良かったのか?


「ううん、オオカミさんだったから」


 驚いた、まさか伝わったのか?


「聞こえてる、オオカミさんの声」

「(アビィ! 助けてくれ! 奴が来た! 奴が!)」


 割り込むように入ってきたホウルズの声が途絶え、遠くなってきている俺の耳に爆音が響く。

 ホウルズ、失敗したんだな。だけどな、俺は止めようとしたんだ。だけど、俺が中途半端だったから、仲間も自分も守れなかった。


「この子がそう?」

「うん、助けて……」


 断片的だんぺんてきに誰かの会話が聞こえた。母の匂いが心地良い。母の毛皮に包まれて、眠っていた子供の頃を思い出す。

 母さん……。


◇◆◇◆◇◆◇


 まだ母の匂いがする。そうか、俺は死んだんだな。やっぱり母はまだ生まれ変わってなかったんだ。こんなに近くに母の気配がするんだもの。


「オオカミさん、目が覚めたよ! お母さん!」


 頭を乗せていたちょうどいい枕が突然無くなり、落下した顔は柔らかい布の上に埋もれるように落ちた。

 ……此処は? 衝撃で目を開けた俺の目には、見たことの無い光景が広がっている。

 どこまでも森が広がっていた土地は見当たらず、一面壁に囲まれたとんでもなく広い一室。壁に掛けられた淡く光るものが一定間隔で並び、それらが部屋の光源を担っていた。


 顔をもたげて体を起こしてみると、寝ている場所が大きな布と肌触りのいい生地で作られた寝床ねどこだと知る。その生地には少女の匂いが残ってはいたが、いつも漂っていた母の匂いとはまた違う香りに困惑した。


 突然、ガチャリと耳にさわる音が聞こえ、模様の違った縦に伸びる長方形の板の片側を軸にして勢いよく手前に開き、中から少女とその母親が姿を現した。


「オオカミさん!」


 勢いよく寝床に飛び上がり、俺にしがみつく彼女からはやはり母の匂いがする。

 この子も死んだのだろうか、だとしたら、また巡り会えて嬉しいな。


「死んでないもん! オオカミさんも生きてるんだよ!」


 怒った表情で離れた彼女はそう言って、再び強く抱き締めてくる。「二日間も眠ってたんだよ!」と叫ぶ彼女の後ろでは、驚くほど穏やかな顔をした母親がこちらを見下ろしていた。


「娘を守っていただき、ありがとうございました。貴方のような魔物も居るなんて思いもしなかったから、娘の話を信用せずに悪だと決めつけていました。ごめんなさい」


 そう言って頭を下げた彼女からも、不思議な事に母の匂いがした。あの時は全くしなかったはずなのに、何故今は違うのか。


「……ねえ、この子、許してくれるかな?」

「聞こえてるから大丈夫だよ! ね、オオカミさん!」


 天真爛漫てんしんらんまんに笑う彼女は、優しい手つきで頭やら背中を撫でていく。

 その時、木を軽く叩くような音が二回聞こえ、再び長方形の板が開く。

 続けて入ってきたその姿は、忘れもしない仇。俺の母の命を奪ったにっくき人間が立っていたのだ。


「……やっぱり覚えてるわよね」

「オオカミさんどうしたの? この人が助けてくれたんだよ」


 助けてくれた、だと? 嘘だ! こいつは俺から大切な母を奪ったんだ!

 少女の前だろうと構わず、歯を剥き出しにして最大限に威嚇する。こいつだけは別だ。絶対にゆるすことは無い。


「私ね、この子からお母さんを奪ってしまったの」

「えっ……」


 絶句したのはメルフィの母親の方で、少女はしばらく考えていたがやがて理解したのか今にも泣きそうな顔でこちらに振り返る。

 こいつ、そもそもどうして俺がそのアビスドッグだと分かってやがるんだ。得体の知れない人間に、寝床の布が破けるほど爪を食い込ませる。


「オオカミさん、知らないの?」


 メルフィに言われ、一瞬毒気どくけを抜かれる。

 何を知らないって?


「オオカミさんだけね、他のアベスドッグと違って、毛の色が灰色なんだよ」


 優しく背中を撫でながら、少女は言った。


「貴方のお母さんも、灰色の毛並みをしていたわ」


 初めて聞く事実に動揺するが、だからどうしたんだ。

 俺を助けてくれるなら、何故母は助けてくれなかった。何故殺した! 俺から仲間を奪ったくせに、俺だけ生かすなんて人間はなんて理不尽なんだ!


「オオカミさん、凄く怒ってるよ」


 代弁するようにメルフィが言って、その手はなだめるように俺の背中を撫でる。くそ、どうしても彼女に触れられると怒りが収まりそうになってしまう。


「……ごめんなさい。私たちが貴方たちからしたら自分勝手なのは自覚してるわ。貴方の母親のことは、本当に申し訳なかった。でも、本来なら貴方たちは全員あそこで死んでたの。それを、貴方がたまたまメルフィ嬢と知り合っていたから、彼女のうったえを聞いて助けただけなの」


 他人事ひとごとのように語る女の声を聞く度に虫酸むしずが走ったが、同時に諦めのような気持ちも湧き上がる。

 所詮しょせん、魔物と人間の関係なんてそんなものなんだ。俺自身がわかってるつもりでいただけ。この世界に期待するだけ、無駄な話だったんだ。


「それは違うよオオカミさん」


 話をさえぎるように、メルフィが口を開く。そうだ、ずっと違和感があったんだ。何故この子は俺の心の中を読んだかのように話すんだ。魔力を飛ばさない限り、心の内は知られないはずなのに。


「これからは貴方のこと、私がまもる。全ての魔物が分かり合える存在ではないこと、幼い私でもわかってる。でも、オオカミさんのような存在も居ることをみんなに知って欲しいから。だから、私は将来偉い人になって、みんなに教えるの!」


 にっこりと微笑んだメルフィは、優しく包み込むように俺の身体に腕を回す。

 華奢な体つきに似合わず、決意の強さを表すかのような力強い抱擁に、俺は身を委ねるように少女の肩に顎を置く。


「オオカミさん、お願いがあるの」


 奥に見える母親の泣き顔や、憎いはずだった仇のあわれみの表情を眺めながら、改まった少女の声に耳を傾ける。


「オオカミさんの名前、教えてくれる?」


◇◆◇◆◇◆◇


 数年後、俺にはつがいができた。メルフィが保護した同じアベスドッグのめすであり、自然に一緒になった。

 やがて身篭みごもった彼女は、不思議なことに俺の好きな母の香りを漂わせていた。それにより匂いの正体にようやく気づけた俺は、母性とは偉大いだいだなと一人頷うなずいた。


 天真爛漫で幼かった少女は大人になり、魔法というものを扱う存在になった。俺の心を読んだのもそれによるものだと教えられて、悪戯いたずらな表情を浮かべる彼女は笑っていた。

 今は偉い人になる為に勉強中の身らしく、時折撫でさせろとせまられて妻と共々ともどもされるがままである。


 俺は、ただ運が良かっただけだ。仲間の顔、ホウルズの顔、母の顔。時間と共に風化する激情は皆の表情を穏やかなものに変えていく。

 結局俺は、皆の仇を討てなかった。その代わり、人間である彼らから大切なことを教わったんだ。


 此処はアルガニア、彼らの故郷の森と人間たちが住む東の王国がある巨大な大陸。ここにひとつの命が誕生し、灰色の毛並みをたずさえた彼女は生まれ変わって再会を果たす。

 願わくば、輪廻転生のもとかつての仲間たちが彼のもとつどいますように。


──牙狼種 アビィの場合 完──

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