第22話 どんな『あなた』も好き。

 「ごめんね、湊くん……」


 文乃さんが目元を擦りながら、小さく口を開く。


 そんな彼女に、「気にしないでください」って声をかけると、俺はコップに水を汲んできて差し出す。


「泣いた後って、水分が不足するらしいので、よかったら飲んでください」


「……うん、ありがと」


 そう、微笑んで俺からコップを受け取った。


 あれから、文乃さんはしばらく泣いていた。


 俺にしがみついて、ずっと「ごめんなさい、お母さん」って言いながら。


 俺にはその意味は理解できなかったけど、文乃さんが悲しんでいることは分かった。だから、ただひたすら、泣き止むまでその背中をさすっていた。

 

 まだ少しだけ鼻声の彼女に、俺は言う。


「とりあえず、朝ごはん食べて行きませんか? お腹すいたでしょう」


 二日酔いの味噌汁は沁みますよ。そう付け加えて文乃さんに微笑む。

  

 すると彼女は、一瞬目を丸くすると、くすりと鼻を鳴らし、もう一度目元を擦る。


 そして、再びこちらに顔を向けると。


「……うん」


 少しだけ、安心したような表情で頷いた。


 


 

 ご飯を食べたあと、2人でソファーに肩を並べて、文乃さんの話を聞いた。


 最初は特に何を話すわけでもなく、ただ2人でテレビを眺めていただけなのだが、不意に文乃さんが、「理由、聞かないんだね」と静寂を切った。


 文乃さんがそんなにも傷つくようなことを、聞こうだなんて思っていなかった。


 だけど、「湊くんには、聞いてほしい」と、俺の手を握った彼女の横顔は、どこか覚悟を決めたようで。


 そして、それを踏みにじるのは嫌だと思った。

 

 だから、文乃さんの隣で、文乃さんの過去を聞いた。


 彼女の悲惨な過去も、彼女がかっこいい自分を演出する理由も。


「握ってて欲しい」と、彼女に差し出された手を握りながら。


 そして、一通り話し終えると、文乃さんはそっと息を吐く。そのまま短く言葉を続けた。


「ってことがあったんだ……あはは、ごめんね。こんな暗い話しちゃって」


 そう、ぎこちない笑みをこちらに向けると、するりと握る手を解き、彼女が立ち上がる。


 「ん〜!」と背伸びをすると、ぶかぶかのスウェットパンツが落ちそうになって、思わずどきりとした。


「うん。なんか話したらスッキリしちゃった。過去は過去! 今は今! ポジティブに生きていかないとね!」


 さ〜て、ゴールデンウィーク〜♪ と、陽気な声でソファーを離れる文乃さん。しかし、その刹那、揺れた髪の毛から横顔が見えて、


 俺は思わず、彼女の手を掴む。


 肩をピクリと震わし、こちらに振り向かない背中に俺は言った。


「……無理しなくて、いいんですよ」


「……無理なんか、してないよ。心配性だなぁ〜、湊くんは」


「声、震えてるじゃないですか」


「……」


 そのままお互いに硬直し、再び静かな時間が訪れる。


 テレビの芸能人の笑い声ですらも。静寂のその一部。


「……あ、思い出した。今日さ、学校に行かないといけないんだぁ〜。だから、離してよ」


「何言ってんですか。ゴールデンウィーク中は閉校してるでしょ」


「でも……そろそろ、帰らなくちゃ……だから……」


 彼女の、その言葉と同時に俺は立ち上がる。


 まぁ、我ながら、バカで身の程知らずなことをやってるなって思った。


 こんなことで、文乃さんの心の傷が消えるわけでも、彼女を救える訳でもないのに。


 でも。


「文乃さん、先に謝っておきます」


 俺の言葉に、「えっ」と、短く声を上げた文乃さん。


 そんな彼女の手を引くと、


「そんな顔してるうちは、絶対に帰さないです」


 華奢な腰と、頭に手を回した。


 驚きで文乃さんが大きく息を吸ったのを胸で感じる。


 分かってる。こんなことで文乃さんを救えないことも、文乃さんの傷を癒してあげることも、その過去を無かった事にできないのも。


 なら、これは自己満足になるのか? いや、考えなくてもわかる。


 盛大な自己満足だ。


 身勝手で、愚かで、彼女の気持ちを分かった気でいる俺の。


 でも、それでも。


 これだけは文乃さんに伝えたかった。


「俺は、どんな文乃さんも、好きですよ」


「——っ!」


「学校ではめちゃくちゃ綺麗で大人っぽくて、かっこいいお姉さんみたいなのに、家に帰ってくると、ただのポンコツ可愛いお姉さんで」


 文乃さんが、俺のTシャツの背中をぎゅっと掴むと、俺は彼女の頭を撫でて、続ける。


「泥酔して人んちピッキングするし、いきなりビンタしてくるし。自分の部屋の鍵壊して、しかも、えっちな下着大量に買ってくるし」


「……それは、間違えただけ、だから」


「あはは。でも俺は、そんな文乃さんが好きです。かっこいい文乃さんも、可愛い文乃さんも。だから……」


 そこまで言うと、耳元で小さく鼻を啜る音が聞こえた。


 俺は、鼻を鳴らして、


「だから……文乃さんもいつか、そんな自分を好きになってくれたら、嬉しいです」


 文乃さんに伝えた。


 その後は、次第に鼻を啜る音や嗚咽が漏れ始めて、彼女の背中をさすった。


 時々、声を押し殺すように「……ありがと」と呟く彼女に、小さく頷く。


「俺の方こそ、話してくれて、ありがとうございます」


 そうして、またしばらく二人で抱き合った。


 Tシャツを掴む彼女の頭を撫でながら、ただひたすら、『この人がいつか、自分を好きになれますように』と、願った。





「あぁ、ごめんね。私、今日は泣いてばかりだね」


 再びソファーに腰を下ろし、目元を手で拭った文乃さん。


 どこか恥ずかしそうに笑った彼女に、俺は鼻を鳴らした。


「まぁ、大人が泣いちゃダメって法律はないですからね」


「あはは。なにそれ……でも……」


 文乃さんは、自分の胸に手を当てると、小さく鼻から息を抜く。その表情はどこか、安心したような顔をしていた。


「私は、私を好きになって良いんだね」


「はい。むしろ好きすぎるぐらいで良いと思います。たぶん……知らんけど」


「ふふっ。なんで大事な場面で急に自信無したの? だけど、そうだね」


 そう言うと文乃さんは、俺の右手に手を重ねて、唇の端を持ち上げる。


 そして。



「こんな私を、好きって言ってくれた人のために、自分を好きになるのも、良いかもね」

 


 文乃さんは、柔らかそうな頬を持ち上げて、笑った。


 刹那、俺の心臓も、跳ね上がった。


 あぁ、そっか。


 俺は、この人のこと……。


「ん? 湊くん? どーしたの?」


「——っ! な、なんでもないですっ」


「え〜。今絶対、私の顔に見惚れてたでしょ〜。もう、湊くんのえっちぃ〜」

 

「ち、違う! 断じて違います! あー、そうだった、今日は学校に行かなくちゃいけない用事があるんだった。だから、早く帰ってください!」


「あっははは! 今日は閉校なんでしょ?」


「……っ! それは……」


 たぶん、彼女相手に墓穴を掘るのは初めてだった。


「まぁ、でも、今日は帰ろうかな」


 そう言って、ソファーから立ち上がった文乃さん。脱衣所で昨日洗濯したものに着替えると、着ていたスウェットを手に持って戻ってくる。


「あ、それ、俺が洗濯しとくんで、置いといて大丈夫ですよ」


「ううん。私がしっかり洗って返すよ」


「え、別に洗濯するだけなんで」


 すると文乃さんは、首を横に振って、スウェットへと目を向ける。そして、どこか愛おしそうな表情を浮かべては、


「洗濯して、明日持ってくるから……絶対に」


 そう言った。


 まぁ、そう言うことなら。と俺も息を吐き、彼女を玄関まで送る。


 まぁ文乃さんの住まいは、厚さ数十センチの壁を隔てた、お隣なのだが。


「よいしょっと……それじゃ、また明日。湊くん」


「はい。また明日、待ってます。文乃さん」


 なんかよく分からないけど、お互いに鼻を鳴らして、文乃さんはドアを開ける。

 

 吹き込んできた風と、ドアの外でさらりと揺れる黒髪。


 少しずつ、外の景色が狭くなり、ドアが閉まった。


 それを合図に、俺は踵を返し、リビングへと歩き出す。


「また明日……かぁ」


 そんな心地のいい響いに、くすりと鼻を鳴らす。


 その刹那。


「湊くんっ!」


 そんな彼女の声と同時に、ドアが開いた音が聞こえた。


 後ろを振り返ると、文乃さんがドアの隙間から顔を出す。


 そして、



「私も、湊くんのそう言うところ、好き」



 子供っぽく、でも、大人びた表情でそれだけを言うと、すぐにドアが閉まる。


 一瞬呼吸を忘れて、心臓がバカみたいに跳ねた。


 ブワッと、ぶり返すような顔の熱、思わずニヤついてしまいそうな口元を手で覆うと、


「……卑怯すぎる」

 

 と、小さく呟いたのであった。




 


 


 


 

 


 




 

 




 

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