第21話 そして、『キミ』に出会った。

 ……。


 少しだけ前の、少しだけ……いや、だいぶ嫌な夢を見た。


 この夢を見る時には、私は幽霊のように、空中に浮いていて、そして、いつも古びたアパートの玄関前から始まる。


「……ただいま!」


 赤いランドセルを背負い、玄関のドアの前で目元を擦ると、黒髪のショートの女の子がドアを開ける。


 今日も散々クラスメイトに『鈍臭い』と言われ、傷ついたのだろう。


 せめてお母さんに心配をかけないようにと、無理やり唇の端を持ち上げた、少女の目元にはまだ少しだけ、涙の跡が残っていた。


 1Kのアパートは、玄関からリビングに続く廊下にキッチンがあり、そこに黒髪の、少し頬がやつれた女性が立っている。


 パチリとした目や、形の整った鼻や唇。すらっと伸びた背筋は、やはり平均的な女性よりもだいぶ身長が高いだろう。


 その女性は、少女に向かってニコリと微笑む。


「おかえりなさい。文乃」


 そう、この女性は私の自慢のお母さんで、そしてこの少女が、昔の私。『篠崎文乃』だ。


 


 

 当時の私はお母さんと二人暮らしをしていた。大きくなるにつれて、なんとなく理解したのだが。実の父親は、私が産まれる時には、既にいなかったらしい。


 大人っぽくいうなら蒸発だ。全てをお母さんにだけ押し付けて、父は逃げた。


 それでもお母さんは、私に心配をかけないよう、ずっと笑顔でいてくれた。


 いつも朝方に帰ってきて、「今日は何食べたい?」って笑顔で聞いてくれたり、夕方に綺麗な洋服を着て、お仕事に行く時も、「行ってくるね」と私を抱きしめてくれる。


 だから、私もお母さんに心配をかけないように、笑顔を見せた。


 どれだけクラスの同級生に『鈍臭い』って言われて馬鹿にされても、泣くのは玄関まで。


 家に入る時には、絶対に笑顔で。



 

 ある日のことだった。


 その日、お仕事が休みだったお母さんと、お買い物に出かけた。


 一緒にショッピングモールに行って、洋服とか、勉強道具を買ってもらって。


 一緒に手を繋いで歩いた。


 暖かい手の温もりと、お母さんの心地のいい声。

 

 久しぶりのお母さんとのお出かけで、体の内側から出るソワソワを抑えきれなかったのを、今でも覚えてる。


 ショッピングの帰り道、ボロアパートから、数百メートル離れた交差点。


 いつも、ここで『文乃』はお母さんの手から離れて、はしゃぎ始める。


 ——あぁ……ダメ! お願い止まって!!


 どれだけ私が止めようとしても、『文乃』に私の声は届かなくて、触れようとした体も、幽霊のように透過していく。


 そして、いつも白色の車がやってきて……。


 大きなクラクションと共に、お母さんが私に向かって、飛び込む光景を最後に、世界が真っ暗になる。




 真っ暗な世界に、私だけが浮いていて。次に景色が明るくなると、そこは小学校の教室。私は天井から教室を見下ろしていた。


 机に突っ伏している私を横目に、クラスの女子がヒソヒソと話している。


「文乃ちゃんのお母さん、車に轢かれちゃったんだって」

「えー、かわいそう……でも、なんで?」

「それがね、文乃ちゃんを庇って轢かれたんだって」

「え……何それ……それじゃ、半分は文乃ちゃんのせいじゃん」

「まぁ、でもさ……文乃ちゃんってさ……」

「「鈍臭いもんね」」


 きっと、『文乃』だって、その声は聞こえていただろう。だけどその背中はピクリともしない。


 それもそのはず。その時私は机に突っ伏したまま、ずっと自分自身を呪っていたのだから。


 あの時、はしゃがなければ。


 あの時、道路に飛び出してなければ。


 あの時、せめて、私が轢かれればよかったのに。


 もう、戻らない『あの時』を、何度も、何度も頭に思い浮かべながら。


 そして、何よりも。お母さんを死なせてしまった『鈍臭い』私自身を呪った。




 その日を境に、私は『鈍臭い自分』を徹底的に殺した。


 いつも躓く道路の窪みを通らなくなった。


 絶対に忘れ物をして引き返す通学路も、引き返すことが無くなった。


 ちょっと、ぽっちゃり気味だったお腹周りも、きゅっと引き締めた。


 いつも赤点だったテストも、いっぱい勉強をしてクラスでも上位を取るようになった。


 いいシャンプーを使って、キシキシした髪の毛をサラサラにして。


 笑う時も、歯を見せないようにして。


 歩き方も、言葉遣いも。


 徹底的に。


 あれだけ、お母さんが好きと言ってくれた自分を。徹底的に殺した。


 そして、時が過ぎて。大人になった。


 スーツを着て、新しい街に引っ越して。


 先生になるための教育実習が始まり、私はみんなから見られる立場になった。


 小学生から数年かけて作った『篠崎文乃』は、やはりウケが良かった。


 いつも余裕のある笑みを浮かべ、歩く時のサラサラと揺れる長い髪の毛も一つでさえも、全て私の計算内。


 幸いにも、お母さん譲りの顔立ちも、高い身長も相まって、私はみんなの注目の的になった。


 鏡にふと映った私に、あの日の『文乃』はもう、いなかった。


 だけど、その反動は意外と強かったらしい。


 仕事を終え、家に帰ると私はまず最初に、吐くようになった。いろんなものを誤魔化すように、お酒を飲むようになった。視界が歪むまで飲まないと、眠れなくなるから。


 それでも、次の日の朝にはキリッとした自分に戻っているのだから、この数年はすごい。


 そんな日常を繰り返しているうちに、教育実習が終わり。正式に教員として採用。


 そんな私が配属されたのは、とある高校だった。


 今いる場所からはだいぶ離れていたので、また引越しをする事にした。


 また、みんなに嘘をついて、みんなの憧れの自分を演じなくちゃいけない日常がやってくる。


 そんなプレッシャーに押し潰されそうになって、偶然入った立ち飲み屋で泥酔して。


 明日から新学期なのに、私何やってんだろ。


 そんな事を思いながら、新しい街を一人で歩いて。


 ……そして。




「……さん……ふ……さんっ」


「文乃さんっ!」

 

 私を呼ぶ声に、思わずハッとなって目を覚ます。


 視界の先には、見慣れた顔が私を覗き込んでおり。その表情は少しだけ心配そうな顔をしていた。


 ゆっくり体を起こすと私は、彼と目の高さを合わせて口を開く。


「ん、ごめん……私また迷惑かけちゃったね」


「いや、迷惑だなんて思ってないです。てか、大丈夫ですか、文乃さん?」


 湊くんの言葉に私は小首を傾げる。


 すると、彼の手が伸びてきて、私の頬を軽く人差し指でなぞった。


「え……わ、私……なんで」


 彼の人差し指は、濡れていた。理由は簡単、私の涙を拭ったから。


 それに気づいた瞬間、私の中で何かを押さえつけていた壁にヒビが入って、そこから少しずつ何かが染み出すような感覚が胸に広がる。


 自分に対する嫌悪感とか、あの日の後悔とか。


「あ、あぁ……なんで……なんで……」


 とめどなく溢れる涙を、子供みたいに両手で拭う。だけど、胸の中に広がるものが大きくなればなるほど、目尻から溢れて。


 もう自分じゃどうしようもなくなった。


 ……だけど。


「大丈夫……文乃さん」


 優しい声と同時に、視界が暗くなる。


 私の頭と背中に回る、ゴツゴツした腕と、ふわりと香る柔軟剤の匂い。


 そして、電車の中で聞いた。落ち着いた心臓の鼓動。


「怖い夢でも、見ちゃいましたか?」


 湊くんが優しく、私の頭を撫でると小さく続ける。


「でも、今は俺がいるから。だから」


 ……。


「泣きたい分だけ、安心して泣いちゃいましょう。きっとその方が楽になりますよ」


 そんな湊くんの言葉に、私の中にある壁が大きく歪み、やがて。


「……あぁ、ごめんなさい……お母さん、ごめんなさいっ……」


 十数年、ずっと抱えてきたものが、全て流れ出した。


 それはまるで、十数年前にかけた呪いが解けるみたいで。


 少しだけ、何かから解放されたような。


 そんな気がした。



 


 



 



 




 

 


 


 

 

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