第18話 汗とシャンプーとポニーテール

 あの日の文乃さんの一件後、徐々にいつも通りの文乃さんに戻ってきた。


 まぁ、初日は盛大に寝坊してきて、しかも、なんか顔真っ赤にしながら「わ、わわわ、わっぴぃー!」とだけ言って、走って行ったのはびっくりしたけど……。


 それから数日を経て、やっと顔を合わせられるようになった頃には、世間はゴールデンウィークに入っていた。


 普段よくすれ違うサラリーマンの代わりに、犬の散歩をする小学生を見かけたり、朝の時間駅を占拠するスーツ姿は、十人十色の私服へと変わっていた。


 そして、それはこいつも……。


「ごめん。『きなこ』が離してくれなくて……」


 華奢な声と共に、ムスクのような嗅ぎ慣れた甘い香りに顔を向ける。


 白いスニーカーと、白く華奢な足を装飾するデニムのホットパンツ。


 汗ばんだ首筋をパタパタと仰ぐ手に合わせて揺れる、オーバーサイズの白Tシャツ。


 駅の発券場近くの柱、いつもの集合場所。詰まるところ、そこに現れたのは、


「お待たせ、湊」


 暗い茶髪が印象的な幼馴染み、『市川莉奈』だった。予定していた時間よりも20分ほど遅れての到着だ。


 今日は髪の毛を結っており、ポニーテールが背中で弾む。


「いや、俺も今来たところだから気にすんな」


「そっか、それなら良かった」


 と、安堵のため息をついた莉奈は、Tシャツの裾を引っ張り、何かを入念にチェックしていた。


 そして、こちらにくるりと背中を向けると、彼女は言う。


「ごめん湊、ちょっと背中見てもらっていい? 今日なんか『きなこ』が凄くって……」


 こちらに振り向き少し前屈みになると、華奢な背中の筋がシャツに浮き上がった。


 ところどころ汗が染みており、なぜか分からないけど、ドキドキした。


「ん、湊どう? 背中とかに毛、付いてない?」


「……あ、あぁ、わるい。見た感じそれっぽいものは付いてないぞ」


「そう? よかった」


 彼女がポニーテールを揺らしながら、再びこちらに振り返ると、シャンプーのいい香りがふわりと舞った。


 ちなみに、『きなこ』と言うのは、莉奈と一緒に生活している愛犬のチワワのことで、懐いた人にはとことん戯れてくる。


 だが、チワワという犬種や、『きなこ』という小さくて可愛らしい名前とは裏腹に、とにかくでかい。


 チワワの可愛い顔をしながら、ぱっと見の身長が50cmほどあったり、そもそも抱えた時の重さが、小型犬種のそれじゃなかったり。


 莉奈曰く、きなこの体重は現時点で15kg程あるのだとか。


 きっと申請すればギネスに載る可能性もあるだろう。


 そんなものに揉みくしゃにされたのだ、そりゃ……。


「はぁ……なんかもう疲れちゃった」

 

 そんなため息の一つだって吐きたくなるだろう。


 彼女に苦笑を浮かべては、時刻を確認して改札を抜ける。


 電車に乗り込み、肩を並べて座ると、隣で莉奈がうとうとしていた。


 俺はため息を吐いて言う。


「眠かったら肩、貸してやるから」


「……ん、ありがと」


 小さく消えてしまいそうな声が聞こえると、左肩にほんのりと重さを感じる。


 大きくなってしまった幼馴染みの、シャンプーと汗の匂いにドキドキしながら、今日一日が始まった。


 彼女のポニーテールが、俺の背中を撫でる。

 

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