第17話 明日までの宿題。

 文乃さんとのショッピングの余韻に浸って迎えた月曜日。


 文乃さんにちょっとだけ変化が見えた。


 まぁ変化と言っても、髪を短くしたとか、新しい属性がついたとかじゃない。


 服はこの前買いに行ったから、変わっているのは当然なのだが……。


「あ、おはようございます。文ちゃん先生」


 廊下で女子たちと談笑するその背中に挨拶をすると、彼女の背中がピクリと震える。


 そして、ゆっくりこちらに体を向けて、


「……そ、その……お、おはよ……湊くん」


 と、視線を伏せて、どこか恥ずかしそうに挨拶を返した。


 前までの文乃さんなら、かっこいい自分を、人前で解除することなんてなかったのに……。


「そろそろ時間だから……またね?」


「あ、はい」


 俺にそう言ってから、女子たちにも小さく手を振ると、顔を伏せて早歩きで髪を揺らす。


「え、今の文ちゃん先生、全然雰囲気違ったんだけど」

「分かる! めっちゃ可愛かった!」


 なんて、盛り上がる女子を横目に、教室へと歩き出す。


 その間俺はずっと考えていた。


 目を合わせてくれないとか、返事がぎこちないとか。


 もしかしてこれって……。


「俺、嫌われた……のか?」


 



 

 3時間目の授業中。黒板の前でサラサラと揺れる黒髪を眺めながら、俺はずっと考えていた。


 いや、一人脳内会議と言った方が近いかもしれない。


 とにかくもう、思考が止まらなかった。


 土曜日の夜はあれだよな……文乃さん、めっちゃ笑顔でまたねって言ってくれたよな?


 で、日曜日は珍しく俺の部屋を訪ねてこなくて……で、学校に来たら急にヨソヨソしくなった……。


 という事は、考えうる可能性は二つ。


 これまでもハナから嫌われていたのか、それとも土曜日の俺に、嫌われる原因があったのか。


 もしそうだとしたら、思い当たる縁がありすぎる。


 そうだ、きっとそうに違いない……なんかYouTubeでも言ってたもんなぁ……女の子は髪の毛を触られるのが嫌いって。


「……なと……湊」


 すると突然、横から脇腹を小声で突かれ、ハッと意識が戻ってくる。


 隣へ顔を向けると、莉奈が黒板の方を顎で示した。


「ん、さっきから呼ばれてる」


 え? と黒板へと視線を戻す。すると文乃さんは、俺から視線を外しながら頬を膨らませていた。


 黒板には白チョークで書かれた計算式が、イコールで止まっていた。


 そこでやっと理解する。その答えを出す順番が、俺のところに来た事を。

 

 しかし、全く話を聞いていなかった俺が、そんなものを急に解けるわけがなくて。


「すみません、ちょっと分からないです」と誤魔化した。


 すると文乃さんはボソリと口を開く。


「ちゃんと集中……してよ……」


 そのまま、隣の席の莉奈に順番が飛び、難なく問題を解いてみせる。


 ゆっくりと着席すると、俺はため息を吐いた。


 これは本格的にヤバいかもしれない。


 お隣さんとしても、学校の先生としても顔を合わせるのに、嫌われているのだとしたら死活問題だ。気まずいことこの上ないだろう。


 昼休み、土曜日のこと謝ろう。なんて考えていたが、結局、文乃さんが音楽準備室にくることはなく、時間は過ぎた。


 そして、放課後。委員会のために旧校舎へと向かっている時だった。


「あっ……」


 階段を降りている途中、少し後ろから小さな悲鳴が聞こえて、咄嗟に振り返る。


 その瞬間、上から降ってくる教材やプリントの奥に、文乃さんの顔が見えた。


 いつもなら、文乃さんと会えるのは嬉しいのに、今この瞬間は望ましくない再会の仕方だと思った。


 なぜなら……。


「——っ! 文乃さん!」


 俺は咄嗟に腕を広げ彼女を受け止められる体勢を作る。


 そう、彼女は俺に飛び込んできたのではなく、現在進行形で階段から落下しているのだ。


 まだ買ったばかりの、ブラウンの薄いニットと、白いワイドパンツがふわりと揺れる。


 そして、彼女の頭と、背中に腕を回すと、そのまま背中から落ちた。


 数段飛ばしで階段を落ちた後、すぐに床の感触が背中に伝わる。


 これほどまでに踊り場と言う場所に感謝することは、この先にも後にもないだろう。


 背中の鈍い痛みを無視して、すぐ胸元に目を向ける。


 綺麗な黒髪の頭に声をかけた。


「大丈夫ですか……文乃さん?」


 文乃さんはそのまま、小さく頷く。よかった、文乃さんに怪我はないみたいだ。


 すると、文乃さんはそのまま、小さく呟く。


「湊くん。ここ学校だよ」


 そんな言葉に一瞬、その言葉の意味を考えた。そして、すぐにその意味を理解する。


「あ、すみません。咄嗟だったんで……改めて文ちゃん先生、怪我ないですか?」


「……うん、大丈夫。ありがと」


 そう呟くと、文乃さんはゆっくりと上体を起こす。だが、やはり顔は合わせてくれないまま。


 ゆっくりと立ち上がった文乃さんに合わせて立ち上がると、彼女が落としたものを拾って手渡した。


「あ、ありがと……湊くん」


 それじゃ、またね。と俺を追い越していく文乃さん。


 だけど、その時でさえ目を前髪で伏せる彼女に、俺は思わず口を開いた。


「今日、全然顔合わせてくれないじゃないですか、文乃さん」


 俺がそういうと、彼女の足がぴたりと止まる。


「湊くん、ここ学校……ちゃんと先生って」

 

「いやです」


 彼女の言葉を遮って言葉を被せる。我ながら、もろ感情論だし、子供っぽいなって思った。


 でも、それ以上に、文乃さんが顔を合わせてくれないのが、やっぱり悲しかった。


 俺は言葉を続けた。


「この前の土曜日は全然普通だったのに、今日学校に来たら急に距離取られて……そんなの、理不尽じゃないですか」


「そ、それとこれとは別の問題でしょ」


「違います、これは先生と生徒じゃなくて、俺と文乃さんの問題です。せめて、理由を教えてくれるか、面と向かって言ってくれないと、俺も絶対に先生って呼びません」


 意地だ。ここまで来ると俺も、ものの見事な意地だと思う。


 でも、意地でもなんでもいい。


 このままずっと、もどかしいぐらいなら、いっその事、その理由を聞きたい。


 そう思った。


 そしてしばらく無言が続き、夕方5時の鐘が鳴る。


 するとその時、さらりと背中の髪の毛が揺れる。

 

 やがて、ゆっくりと体をこちらへ向けた文乃さん。


 だが俺は、文乃さんのその表情に、思わず目を大きくする。


 心底嫌な顔をしていた……わけではない。なんて表現したらいいのか分からないけど、前髪で視線を隠し、頬を真っ赤に染めた彼女は、すごく恥ずかしそうな表情をしていた。


 顔を隠すように、少し顎を引くと、髪の毛の間から耳が覗く。


 小さく耳たぶが薄い可愛らしい耳は、熟した桃のように真っ赤だった。


 文乃さんはゆっくりと口を開く。


「ごめん……湊くん……うまく言えないけど、恥ずかしくて顔見れないの……明日までには、しっかりするから……」


 だから……そう言って、俺の左手の人差し指を優しく握る。彼女の心地のいい体温と、肌の柔らかさを感じて、思わず唾を飲み込む。


 そして文乃さんは追い打ちをかけるように、


「だから……今日はこれぐらいで、許して……湊くん……」


 しおらしく、文乃さんは言った。


 一方俺は心臓のドキドキと、頬の熱を誤魔化すように、彼女から視線を外す。

 

「……はい。明日楽しみにしてます……文ちゃん先生」


 そう言って、踵を返した。


 もう本当に、心臓が爆ぜてしまうんじゃないか。そう心配するぐらい心臓がバカになっていた。

 

 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る