第32話

扉が開き、唖然としている真奈美の手を引いて健吾は下りた。直ぐにきた店員に彼が「予約している高村です」と告げていたのを、感心しながら聞いていた。


 店はブラウン系で統一され、書斎をイメージしたような内装だった。革張りの椅子や木製テーブル、ソファにはクッションが置かれていて、客数よりも雰囲気にこだわりを持っているような店だ。

 二人は店の一番奥にある大きめの一人掛け用のソファが向き合っている席に案内された。


「ランチメニューでお願いします」

「かしこまりました」


 店内を見回している真奈美に、「ここ夜はバーになるんだけど、夕方まではカフェなんだ」目の前でにっこりしながら説明してくれている健吾を見ながら、この人は本当に健吾なのだろうか? と考えてしまう。


 確かに変わった。それは真奈美自身も認めてはいるが、何かが違うような気がした。

 セックスをしたからではない。以前に持っていた彼の良さが、徐々に削り取られ無くなってしまっているような感じがしてならない。何か似合わないものでその後を埋め立てているよう不安心に、真奈美は駆り立てられる。


「どうかした? ここ合わなかったかな?」

「そんな事ないよ。すごくいいお店だし、予約してくれてたんだと思って」

「友達と前に来ていい雰囲気で良かったから、絶対に真奈美を連れて来ようって」

「友達?」

「バイトのね」


 お待たせしまたと店員がスープを運んできたので、会話が途切れてしまう。


「こちら本日の人参スープになっております」と、爽やかなオレンジ色をした

スープからは、雲のような湯気がたっている。

 一口飲むと、冷えていた体の内側が、じんわりと温かくなってきた。二口、三口と飲むと、だいぶ体全体が温まってきた。


「美味しいね。僕が前に来た時は、ジャガイモだったんだけど、人参のほうが美味しいよ」

「ねえ健吾」

「何?」

「バイトってどこでしてるの?」

「家の近所にある居酒屋だよ。夜は時給もいいんだ」


 真奈美の中で、不信感が生まれた。大学の講義を休む時に健吾は以前「バイトが急にはいったんだ」と言っていた。あれは昼過ぎだったはずだ。


「居酒屋って、夜なの?」

「仕込みを手伝う時は、夕方早めに出勤することはあるけど、普段は十八時からとかかな」


 講義を普通に出ていても間に合うはずだ。


「バイトって一つだけ?」

「そうだよ」


 わからないが、健吾は嘘をついていると思った。だからか、店を出る時には料理の味を全く覚えていなかった。


「真奈美、家に来るよね?」

「え?」


 疑念を持ったまま、マンションに立ち寄りたくなかった。でも健吾は真奈美の様子など気にはしていない。真奈美の肩を抱きながら、歩き始めた。

 振りほどいて帰ることもできたのに、真奈美はそうしなかった。それは嫌われたくないという気持ちが、根深く真奈美の中にあるからだった。


 結局、何も言えずに、健吾の部屋に着いてしまった。部屋に入って直ぐだった。後ろから抱きしめられたかと思うと、真奈美の首元に顔を埋める健吾。彼の毛先が顔に当たって、くすぐったいのと、首元にかかる熱い息で、胸が締め付けられるように苦しくなる。


「……健吾」


 健吾の手が、一方は上半身、一方は下半身へと何かを探るように動いている。健吾の冷えた指先が直接肌に触れはじめると、もう抗うという考えは浮かんでも来なかった。


 それからは、健吾と会ってデートするたびに、真奈美は部屋で抱かれた。疑念が払拭されたわけではない。でもそれを問い詰める勇気を、真奈美は持ち合わせてはいなかった。それに子供のように甘えてくる彼が、愛おしくてしかたがない。

 しかし年が明け、大学が始まると、健吾はいつもにもまして大学へは来なくなっていた。



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