第19話


 大学での笙子の話は、颯太の事ばかりだった。

 毎日電話をしているのか、颯太のちょっとした反応などを話題にしては「どう思う? いけるよね」と同意を求めながらも、その顔と口調は自信に溢れていた。


 真奈美は勢いのある笙子に押されるように頷くしかない。


「颯太さん、仕事で忙しいみたいなんだけど今度、やっと二人で会えることになったんだ。超楽しみ」

「そうなんだ。よかったね」


 返事をしながらもう一人の自分は、私はほとんど毎朝会っていると言う。それにいつの間にか笙子は、成海さんから颯太さんと言うようになっている。

 綺麗な水の中に、黒い液体が落とされては靄かかりながら薄くなり消えていくような感じだった。


 ちょうど五限の講義の終わった時に携帯が鳴った。真奈美は画面に表示される名前を見て胸が跳ね上がった。


「どうかした? 真奈美」


 隣に座っていた笙子が、荷物をまとめながら声を掛けてくる。


「家から電話。ちょっと掛けてくるから、先に行ってて」

「わかった」


真奈美は急いで教室から離れた。次の教室は同じ棟にある二階だったので、四階フロアの廊下の突き当たりまで行き、颯太に折り返した。


「もしもし」

「あ? 真奈美ちゃん。ごめん。今、大丈夫?」

「はい」

「携帯の件だけど、今日は早く終わるから、大学が終わった後、最寄駅にある携帯ショップで手続きをしようかと思っているんだけど、どうかな?」

「はい。大丈夫です」

「よかった。じゃあ六時半までには行けると思うから、店の前で待ち合わせはどうかな?」

「わかりました」

「よかった。じゃあまた後で」

「はい」


 電話を切ったあと、ミントを口に含んだ時のような清涼感が、体の中から突き抜けていくようだった。


 教室に入ると、雄二と笙子が並んで座り、その後ろに健吾が一人座っている。真奈美は迷うことなく健吾の隣に座った。


「ま、真奈美。何かいい事があった?」

「別にないよ?」


 健吾はその返事に少し不満そうではあったが、笙子と雄二がまたじゃれ始めたのでそれどころではなくなった。


 夕方、日中に比べ過ごしやすいものの、太陽の熱は余韻を残し、肌にじわりと汗が滲み出る。

 駅前には北口に一社、南口に二社と主要携帯三社の店が揃っている。D社の店の中は銀行のように、順番の電光掲示板が五と点いていた。


 時計はすでに六時半を過ぎている。携帯を見ても、颯太からの連絡は入っていない。

 

 その時、乾いたシャッター音が聞こえた気がした。

 暗くなりつつある空を見上げると、最後のあがきをするように太陽が白い雲に隠れて鮮やかなオレンジ色になっている。真奈美も思わず携帯のシャッターを切った。


「何を撮ってるの?」

「きゃっ!」


 思わず携帯を落としそうになった。


「ごめん。びっくりさせて」

「いえ。仕事お疲れ様でした」

「ありがとう。じゃ、中に入ろうか」

「はい」


 颯太は直ぐに受付番号を取り、二人で椅子に掛けた。窓口が多いためか、直ぐに順番は回ってきた。カウンターに座り、機種変更と告げる。


「真奈美ちゃん、機種はどうする?」


 出されたパンフレットを見ても、どれも同じようにしか見えない。


「一緒の機種にする? それなら俺も教えてあげられるし」


 真奈美にはありがたい申し出だったの快諾した。色はピンクにした。颯太はブルーだ。手続きは三十分ほどで終わった。


「今から家に来ないか? 設定もあるし」

「え? いや、でも……」

「遠慮はしなくていいよ。色々とその方がやりやすいし」


 真奈美は彼の部屋を見てみたい、という冒険心のような気持ちが湧き出た。しかし時間は夕食時。家に上がり込んでいいものか迷ってしまう。


「そんなに時間はかからないよ。だから気にすることは無いから」


 颯太は真奈美の背中を押すような言葉をくれるので、ついついそれに甘えてしまう。

「――じゃあ」


 颯太はいつものように微笑むと、真奈美の手を取って歩き始めた。


 家は、真奈美の家から一つ町を挟んだ場所にあった。真奈美の自宅周辺もそうだが、敷地の広い家が多い。しかしその中でも成海家は、比べものにならないほど広かった。


 歩きながら長い壁があると思っていたが、それが家だとは思わなかったほどだ。風格のある観音扉の横には格子の引き戸があり、颯太はそこから中へと入っていく。


「真奈美ちゃん」

「あ、はい」


 中に入ると見た目とは違い、床や壁が真新しく思えた。


「お帰りなさいませ。颯太お坊ちゃん」

「ただいま。部屋にいるけど、来なくていいから」

「ですが、お客様の……」


 肩までの髪を後ろで束ねた、六十台くらいの女性と目があった。


「あ、あの、大瀬良真奈美です。両親がお世話になっております」


 下げた顔を上げると、女性は不思議そうな顔をしていた。


「真奈美ちゃん。この人はお手伝いさんの滝美さんなんだ」

「え? あ、そ、そうなんですか。で、でも。よろしくお願いします」

「滅相もございません」


 お互いに頭を下げ合った。長い廊下を突き当たった所に階段があり、二階の颯太の部屋に入った。中は畳ではなく、ダークブラウンの床に壁は白く、シックな作りで驚いた。


「家は、数年前に改築してるから、見かけと中は違うんだ」

「そうなんですね。でもいいですね。こういうの」

「ありがとう。適当に掛けて」


 部屋にはベッド、本棚、音楽プレイヤーに机、真奈美が座っているソファ。飾り棚は和とも洋とも言える見栄えで、部屋全体が落ち着いた雰囲気だった。


「真奈美ちゃん、新しい携帯いい?」

「あ、はい」


 部屋の隅に設置されているエル型の机には、ノートパソコンとデスクトップの二台が置かれている。

 颯太はノートの電源を立ち上げている。真奈美は言われた通り颯太に携帯を預け、手持無沙汰に座っていた。


「ごめん。勝手に部屋を見ててもいいよ。と言っても、そんなに面白いものはないけど」

「はい」


 勝手に見てもいいと言われても、躊躇してしまう。でもその考えはいとも簡単に姿を消してしまった。

 本棚に飾られた写真。それが気になってしまい立ち上った。手にとってみると、颯太と真奈美が好きな海外アーティストとのツーショットだった。


「颯太さん、これ」

「何?」


 颯太は立ち上って、真奈美の隣に立った。

 背の高い颯太が隣にいると、その陰で自分が覆われ、颯太という男に取り込まれてしまいそうだと思った。しかし恐怖はない。ただ頬が夏の太陽に晒されているかのように熱くなっていた。











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