黒狼


 朱果と話していた夜を夢に見た気がする。

 鳴葉は頭の痛みで頬が引きつった。短く呼吸を繰り返し、閉じた瞼をこじ開ける。

 鳴葉は黒狼に頭を預けて、その大きな体に包まれていた。


(どうして、こんなことに)


 それに対する答えを、聞いた覚えがあるような、ないような気がする。

 自分のことなのに記憶があいまいで、夢なのか現実なのかもあやふやだった。全身の痛みと熱のせいかもしれないが、正直なところ、それすらまともに考えられないでいる。


「起きたのか」


 鳴葉は自分を覗き込む青紫色に、カタツムリのようなのろさで応えた。声は出ない。尻尾も全く動かなかった。鳴葉の視界が潤む。


「どうした? 泣きそうな顔をしている。体が痛むか? それとも空が見えなくて不安か?」


 黒狼は鳴葉の返事を待たずに続けた。


「流れ着いた場所がこの洞窟だったんだ。ワラを敷いた急ごしらえの家でも、雨風がしのげるだけいい。余計な体力を奪われずに済む。なによりお前をあまり動かしたくなかった。食べる獣は近くにいないが……、今のお前にはちょうどいいだろう」


 鳴葉は黒狼にまんべんなく顔を舐められて力が抜けた。敷いてあるワラからは何も嗅ぎ取れないというのに、彼女のにおいが鳴葉を満たす。いつかの日に嗅いだ香りだった。


(どうして僕の傍にいるの)


 邪険に追い払ったのはそっちなのに。

 こみ上げてきた疑問は、瞼を閉じれば泡となって消えた。



 次に目を覚ますと鳴葉はひとりだった。体を起こそうとするも、鋭い痛みに呻くだけで終わる。鼻先をワラに潜らせる。痛みはあっても、やはりにおいはわからなかった。


「……、う……」


 意地で舌を動かす。血の味がした。咳が落ち着いてから、鳴葉は目と耳を使って周囲の様子をうかがう。

 水の音がする。近い場所に水場があるようだ。そして、少なくとも床が乾くだけの時をここで過ごしているらしい。

 洞窟内が柔らかな光で照らされているのは、コウモリの明かりだ。彼らは羽を休めるとき、天井にぶら下がって体毛を発光させ、ほおずきのようになる。

 かすかに空気が揺れたのをヒゲが感じ取った。明かりのいくつかがもぞもぞ動いたけれど、消えたり飛び立ったりするものはいなかった。

 鳴葉はワラに頬を擦りつける。


(縄張りにある橋。そこから僕は……ああ、そうだ。狼と争って川に落ちたんだ)


 それは鳴葉が、ふたりの弟妹と巡回をした帰りのことだった。

 侵入者は後方から現れた。彼らの数は五。先頭を走る雄狼が先導者だと鳴葉は思った。黒狼に比べれば恐れる相手ではない。けれど、数で負けているぶん、平地での争いはこちらが不利だ。鳴葉は彼らを橋へ誘導するべく走り出した。弟妹は前方に、自らは後方で狼を威嚇する。

 鳴葉が橋を選んだ理由は幅の狭さにあった。ふたり横に並ぶのが精いっぱいなので、相手が多勢であろうが争える数は決まっている。さらに、転落しても大した怪我にはならないと知っていたので、立ち回りは自分に利があると考えた。だが、数日続いた大雨で川は増水していたのを失念していた。鳴葉は雄狼とのもつれ合いの末、眼下の濁流へ真っ逆さまに落ちて気を失ったのだった。


(ふたりは無事に父さんと合流できたかな)


 彼ら全員、鳴葉たちを殺すつもりだった。その凄まじい気迫に自分は圧されたのだ。


(僕は負けたんだ)


 鳴葉は乾いた喉を震わせる。


「無理に鳴くな。悪い夢でも見たか?」


 黒狼は戻って来るなり鳴葉の顔を覗き込んだ。彼女に目元を舐められても、鳴葉は体が動かずされるがままだ。

 鳴葉は視線だけでやめるように訴えたが、黒狼は鳴葉の思いなど意に介さない様子で話した。


「口を開けろ」

「……」


 鳴葉がいくら睨んでも黒狼は止めるつもりがないようで、口を開いた状態で待っている。


「口を開けてくれないと、鼻の傷に触れる」


 そう言われても鳴葉は動かなかった。黒狼は彼の傍に腰を下ろすと、ささやくように告げた。


「今お前がすべきことは食べて、寝て、傷を癒す。それだけだ。簡単だろう? 他を気にするのは後だ。体の調子を戻したいのなら、少しでいいから口を上向きにして、……そう、いいこだ」


 鳴葉は痛みをこらえて顔を動かす。黒狼の口の中に口吻を差し込めば、すぐさま食事を与えられた。

 鳴葉が食べ終えると、再び黒狼のぬくもりに包まれる。


「休め。起きるまで傍にいる」


 鳴葉は瞬きを繰り返した。

 心の中で警戒しろと叫んでも、体が勝手に力を抜いてしまうのだ。そうなればもう、鳴葉にはどうしようもできなかった。やがて瞼は下がり、鳴葉の意識は沼底に沈むように、ゆっくりと遠ざかっていった。


 黒狼は鳴葉の熱が下がっても離れる気がないらしく、鳴葉も彼女によって起き抜けに――むずかる鳴葉を押さえつけてでも――行われる体調確認が日課になっている。

 下に敷いているのがワラではなく、似た種の枯れ草だと知って、鳴葉は嗅覚が戻っているのに気づいた。

 徐々に起きていられる時間が増え、水場と寝床の往復もひとりでできるようになった。コウモリは夜になってもいくらかは残り、歩くだけに必要な明かりは常にある。鳴葉が寒気を感じなかったのは発熱や、黒狼が寄り添ってくれていたことのほかに、どうやら壁面に張り付いた太い根のおかげだとわかった。日差しを受けた葉が、得られた熱を根から放出して洞窟内部を温めているのだ。


「ようやく寝返りを打てるようになったな。痛みは?」


 ふたつの青紫が鳴葉を覗き込む。鳴葉がぼうっとしている間に、体調確認が始まっていたようだ。黒狼は返事をしない鳴葉の体を鼻で突く。頭の天辺から尾の先まで辿っても鳴葉が呆けているのをどう思ったのか、彼女は顔を鳴葉に近づけた。


「体に痛みはあるか?」


 至近距離でそう聞かれ、鳴葉は自分の体を見下ろしてから答えた。


「ないよ」


 黒狼は尾を揺らすと、鳴葉の口吻を噛んだ。鼻の傷がふさがりきっていないので、かなり加減されている。


「でも、少し動くだけですごく疲れる」


 鳴葉が困ったように言うと、黒狼は片耳をぴくりと動かした。


「病み上がりだからだろう。だが、全く動かないのもな。歩く距離を少しずつ増やして様子をみよう。今日は外へ出てみるか」

「うん」


 黒狼は献身的だった。鳴葉が腹を空かせれば食事を与え、排泄をしたくなれば、鳴葉を軽々くわえて外へ連れ出した。痛みで呻いたときには、鳴葉が眠るまで顔を舐め続けてくれた。

 鳴葉は誠心誠意尽くしてくれている彼女に対して、不義理ができなくなっていた。

 鳴葉は黒狼に促されて洞窟を出る。外は夜を迎えようとしていた。

 ふたりが歩き出すと、ジーと鳴いていたムシが一様に口をつぐんだ。それも一時で、狼が通り過ぎた後には賑やかさが戻る。


 鳴葉は久々に吸った空気に違和感を覚え、耳を動かし周囲を探る。近くにいるのはムシやトリばかりで、獲物になりそうな獣の気配はないようだ。


「獣がいないね」

「洞窟に入らないよう、周囲一帯威嚇しておいた。いちいち追い払うのは面倒だからな。ただ、この辺りの獣を読み違えたようだ。逃げられ過ぎてな、狩りのたびに遠出をする羽目になった」


 黒狼はうんざりしたように言う。しかし、鳴葉には獣の気持ちが痛いほどよくわかった。


「そりゃあ君に威嚇されたらね」


 鳴葉は地面に向けて呟く。すると、黒狼が鳴葉の頭を小突いた。

 鳴葉が顔を上げると、彼女の立派な耳はしおれており、まるで時季を過ぎたアサガオのようだ。

 黒狼の口先が鳴葉をついばむ。


「私が怖いか?」


 鳴葉は尻尾を横に振った。


「今はそうでもないよ」


 黒狼の耳がぴんと伸びた。鳴葉は数歩進んで黒狼の前に立つ。


「君に聞きたいことがあるんだ。ね、聞いてもいい?」

「構わないが、お前は病み上がりだからな。少しずつ聞くといい」

「まとめて話しても平気だよ。そうたくさんあるわけじゃないし」


 鳴葉が頭の中で質問を選んでいると、彼女は瞳に不機嫌をにじませて詰め寄る。


「私はたくさん話したいが?」


 目と目がくっつきそうなほどに距離を縮められ、鳴葉の毛が逆立った。


「近いよ。もう少し離れて」

「今更それを言うか?」


 黒狼は呆れたように言うけれど、怪我で臥せっていたときと今では状況が違う。

 鳴葉は黒狼と見つめ合ったまま、じりじり後退する。狼ひとりぶん離れて、ようやく毛並みが落ち着いた。

 そうして、どちらからともなく歩き出す。


「崖の上で会ったとき、僕を川に落としたのはなぜ?」

「クマに会わせたくなかったから」


 黒狼は鳴葉をちらりと横目に映し、再び前を向く。彼女の歩みは鳴葉に合わせて、とてもゆっくりだ。


「あのとき、私はクマと強さを競っていた。始めと終わりをあの場所に決めた私たちは、一度離れて野山を駆け回り、決着をつけるために戻って来たところだった」

「もしかして、相手は大樹の根本をねぐらにしてるクマ?」

「ああ」


 黒狼は視線を下げ、鳴葉に鼻先を向けた。鳴葉は彼女から理由を問われているような気がしたので、簡単に説明する。


「大樹は僕の拠点だったんだ。そこにクマのにおいが残っていたから、話の流れでそうかなって。……そっか。そういう理由があったんだね。教えてくれてありがとう」


 鳴葉は破顔した。黒狼が鳴葉を川に投げ捨てたのは、見くびっていたからではなかった。彼女には彼女の訳があったのである。鳴葉は自分の中にあったわだかまりが、綺麗に解けていくのを感じた。

 表情を明るくする鳴葉に対し、黒狼は眉ひげを下げて陰を作る。


「礼を言われるようなことじゃない。むしろ、私はお前に謝りたいと思っていた。驚かせたうえ、苦しい思いもさせた。すまなかった」


 鳴葉は黒狼の鼻を舐める。彼は確かに憤慨していた。黒狼に自分の矜持を傷つけられたからだ。それが思い違いだと知れた今、彼女をしおれたアサガオにしておくべきではない。

 鳴葉は新たな誤解が生じないうちに胸の内を伝えようとしたが、黒狼がまたもや距離を縮めたので、反射的に飛び退いてしまった。彼女の目が潤む。


「謝って済むとは思っていない。ただ、責任を取りたい」

「ああ、待って、今のは違う。ちょっとびっくりしただけ。家族以外の狼とこんなふうに近づくの、僕初めてなんだよ。だから急に近づかれると驚く」


 鳴葉はそう言うと、自分から近づいて黒狼の横腹に頬を擦りつけた。


「責任をとる必要はないよ。クマと会っていたら、僕は無傷じゃ済まなかった。脚のひとつかふたつはダメにしていたかも。それに、君は僕を助けてくれた。こっちのお礼を言うのが遅くなったけど、助けてくれてありがとう」


 鳴葉はすかさず黒狼の尻尾を見た。彼女のススキが僅かに上向き始めているのを確認し、気を良くして続けた。


「責任、って言うならさ。二度も助けてもらった僕が取るべきじゃない? 君に一生かけてもいいくらいだ」

「一生?」

「そう、一生。はは、さすがに長すぎた?」

「いや、そんなことはない。それで頼む」


 鳴葉と黒狼は視線を交わす。音を立てて揺れる尻尾。互いの感情は一目瞭然だった。


「じゃあ次。クマと競った理由は?」

「邪魔だったから。追い出すには競い合いが最善手だろう」


 淡々と答える黒狼に、鳴葉は震えた。


「それで追い出せるんだから、君はすごいね。僕とは大違いだ」


 鳴葉がそう言うと、彼の右耳は生温かいものに包まれた。黒狼が鳴葉の耳を吸ったり噛んだりしている。耳を塞ぐのは構って欲しいときの合図で、幼い子どもによく見られる行動だ。鳴葉も末の弟によくされる。周囲の音を探る部位をかじられれば、意識は噛んだ者に向かざるを得ない。


(大人もしないわけじゃないけど、この噛み方は気を引くのとは少し違うような気もする。もしかして慰めてくれてる? 仲間じゃない僕を助けてくれたひとだからな。そんな気がしてきた。これが単独狼なのか……)


 鳴葉はもう一方の耳も同じようにされながら、ひとりで生きる狼のすごさに感じ入っていた。


 単独狼は非常に優秀で、複数の狼ですることをひとりで行うだけの能力がある。各地を渡り歩く彼らは、いわば未来の主導者だ。番を探して子を生した後は、居を構えて群れを率いる者が多い。それまでは縄張りを持たずに過ごし、争いを避けながら異性を探す。


(このひとも番を探しているのかな)


 鳴葉は喉から出かけた言葉を飲み込んだ。

 黒狼は鳴葉の耳から離れると、彼に歩くよう促した。鳴葉は再び黒狼と鼻を並べる。


「私もお前も違わないさ。縄張りを奪われそうになったとき、ひとり追い出しただろう」

「どうして知ってるの?」

「遠吠えが聞こえた。そのあと川に浮かんだ傷だらけのお前たちを目にすれば、想像がつく」


 川伝いに歩いていた黒狼は、水面に浮かぶ鳴葉と雄狼を見つけた。彼女は追いかけながら呼びかけたけれど、鳴葉は気を失っていて応じない。黒狼は川に飛び込んで鳴葉をつかまえたものの、川岸に戻ることは叶わず、ふたりは共に滝から落ちて洞窟に流れ着いたのだという。


「水の中だというのに、少々手こずった。滝つぼに深さがあったのだけは、不幸中の幸いだったな。あとは洞窟で話した通りだ」


 黒狼と鳴葉の接点は少ない。一度目はウサギの庭、二度目は崖の上。彼女は優れた狼なので、おそらくもう一方の雄狼も助けるつもりだったに違いない。川に飛び込んだとき、手近にいたのが鳴葉だった。川岸に戻れたのなら、もうひとりも助けていただろう。自分を助けるために飛び込んだのではないのだ。鳴葉は自分の牙を舐めて、自らにそう言い聞かせる。

 そこまで考えて、鳴葉は思い出したように言った。


「君、山のほうだけじゃなくて、こっち側の緩衝地帯にも拠点を作っていたの?」


 狼同士の縄張りの間にも、当然緩衝地帯はある。人狼のものに比べれば狭いけれど、黒狼が行動するには十分な広さだ。川伝いを歩くにしろ、まさか実落の縄張りにいたわけではないだろう。

 黒狼はかすかに笑うと、空を見遣った。


「内緒。それよりあちらを見て。今は見えないが、右側が陽炎と止柊の縄張り。中央に緩衝地帯を挟んで……、ひときわ高い木が見えるか? あれより左が白良の縄張りだ」


 黒狼の鼻先が示した方向を見る。彼女が言った通り、空に浮かぶ瞬きの光だけでは山なりを判別するのがせいぜいだった。

 鳴葉はおずおずと口を開いた。


「あのさ、人狼を呼び捨てにするのはよくないんじゃない?」

「なぜ?」

「敬うべき相手だから」


 鳴葉が迷いなく答えると、黒狼は沈黙した。それから慎重に、事を探るような声で言った。


「お前にとって、人狼は無条件に敬う対象になると?」

「無条件って言い方は引っかかるなあ。腹を見せてもいい相手かどうか、ちゃんと考えながら見てるよ。……ちょっと待って。土地を統べる人たちを敬うのは当たり前なんじゃないの? 君はすごい狼だから、人狼を特別視しないのも不思議じゃないのか? 君は人狼をどう思ってるの?」


 鳴葉は黒狼を仰ぎ見ながら尾を揺らした。しかし、いくら待っても黒狼が答えなかったので、鳴葉は質問の代わりに頼み事をする。


「わかった。敬えとは言わない。でも、僕の前でバカにしないで欲しい。したら怒る」

「怒る? 私を?」

「他に誰がいるの。君が僕を助けてくれたことには感謝してるよ。でも、それとこれとは別。大事な人を悪く言われたら、僕は悲しくなるし、嫌な気持ちになって怒っちゃう。それは君を侮る狼が現れたときも同じだ。君のすごさを知っちゃったからね」


 瞬きを繰り返す黒狼に、鳴葉は軽い体当たりをした。


「話は戻るけど、特に陽炎様を悪く言うのはだめ。止柊様に聞かれたら、僕と一緒に死ぬことになるよ」


 死ぬ、というのは大袈裟だが、陽炎をバカにすれば止柊が黙っておらず、彼から死ぬほど痛いげんこつを味わわされるだろう。黒狼がげんこつを食らうとき、鳴葉もまた、黒狼を止められなかったために同じ罰を受けるのだ。


(止柊様のげんこつは陽炎様より絶対に痛いはずだから、言い過ぎじゃない。それに、このひとちょっと偉そうなとこあるから、これくらい脅しておいたほうがいいよね)


 黒狼は大まじめに頷いた。


「それもいいかもしれない」

「よくはないだろ!」


 鳴葉は彼女の前脚を踏んだ。


「本当の本当にやめてよね」

「そう思うのなら、私を見張っていればいい。ずっと傍にいれば安心だろう?」

「うーん。君は優秀だから、実はそんなに心配してない。君はひとりでも大丈夫。どこに行っても上手くやれるよ」


 黒狼の片眉がぴくりと上がった。


「それは思い違いだ。私は全然ダメなやつだ。果実もひとりでもげない」

「ひとりで狩りをするだけじゃなく、僕にも食べさせてくれたひとがなんだって?」


 黒狼は素早く鳴葉の頭を口に含むと、器用に前歯を動かした。頭頂部に痛みはないけれど、とにかく頭部全体が揺れるため、鳴葉の尾の付け根が引きつる。


「うわ! ああ! ごりごり鳴ってる! なにこれ、すごく嫌だ!」

「私のことも心配して」

「僕の心配なんてあってないようなものだと、わかった! わかったから! 心配する! 僕は君が心配だ!」


 振動が止んだ途端、鳴葉は頭を黒狼の口から引っこ抜いた。体の幹が揺さぶられるかのような衝撃だった。鳴葉は参ってしまい、ふらふらになりながらも彼女から離れる。

 鳴葉に数歩で追いついた黒狼は、彼の耳を口に含んでぼそぼそと言った。


「る……?」


 馴染みのない音だった。黒狼は鳴葉の耳を離すと、もう一度囁いた。

 葉の先から伝い落ちる滴のような響き――琉汀るてぃ


「るてい、るてぃ……琉汀?」

「私の名だ」


 鳴葉が琉汀を呼ぶと、彼女は嬉しそうに笑った。


「琉汀。僕は鳴葉っていうんだ」

「知っている」

「なんで? 僕教えてないよね?」


 じゃれあいをするふたりの耳が、同じ方向へ向く。獣の足音をとらえたのだ。

 風に乗って届くにおいはイノシシのもの。大きさは中型。群れで行動しているようだ。 


「鳴葉はここで待っていろ。終わったら呼ぶ」

「わかった。気をつけて」


 鳴葉は琉汀を見送ると、その場で体を横たえた。彼女は実落並みに観察眼が長けているので、下手なごまかしがきかないのだ。


「これだけの距離で疲れるなんて。でも、獲物を食べていいって言われるくらいには、回復したってことだもんね。はあ。ずっと食べさせてもらっていたから血肉が恋しい」


 鳴葉の喉が上下に動いた。

 周囲を観察していると、草木の合間で白く淡い光が見えた。おそらく玉鳴草たまなりそうだろう。日中に吸った光を夜に発して、ムシをおびき寄せて食べる食虫植物である。花を七つ連ならせて咲き、ひとつ食べ終わるとひとつ花が膨らむ。複数咲くと、風で揺れるたびに『りんりん』と音を鳴らせることから、その名がついた。また、木に立てかけてある草を見つけた。根には土がついたままだ。鳴葉の寝床にしているものと同じ匂いがする。既にいくらか乾燥しているので、琉汀が洞窟に持ち帰るのかもしれない。

 鳴葉は背を丸めて力を抜く。


(みんな、どうしてるかな)


 過剰な不安は心身をむしばむ。しかし、具合が悪いときほど、憂いは濃くなり渦を巻くのだから始末に負えない。吐き出す息がネズミ色にもなるわけである。

 鳴葉は琉汀に呼ばれるまで、家族がいるはずの山をぼんやり眺めていた。



 夜半から雨が続く。

 鳴葉は体を横たえたまま、左足でワラをかく。昨日のうちに琉汀が足してくれたおかげで、床から伝う冷気はずいぶん軽減された。

 琉汀は狩りに出ており、洞窟に残っているのは鳴葉とコウモリたちだけだ。風が強くなってきたのか、入口にいた塊は次から次へと一か所に集まってくる。おかげで鳴葉のいる場はすっかり明るくなった。


「琉汀の目的はなんだろう」


 鳴葉は寝返りを打ち、薄目で天井を見上げる。

 鳴葉を使って家族を脅し、縄張りを奪う可能性も考えた。それなら、川に流された鳴葉を琉汀が追いかけたのも納得がいく。仮にそうだとしたら、今度は鳴葉の回復を待つ理由がわからない。

 縄張りを明け渡す手引きを望んだ場合、地頭の良さを生かしてそれらしい言葉を並べてしまえば、鳴葉の信用を勝ち取れそうなものだ。事実、琉汀の接し方は驚くほど丁寧だった。しかし、信用させる気がないのか、琉汀はたびたび明言を避ける。意図的に会話をぼかして切り上げるともいう。鳴葉が深追いしようとすれば、答えを霧の中に隠すのだ。おかげで鳴葉は、暇さえあれば琉汀について考えてしまうようになった。なぜ大切に扱われるのかわからなくて、言いようのない不安に駆られるのだった。


 そんな初めてを味わわされている鳴葉を朱果が見たら、彼は転げて笑うだろう。


「ひとりで楽しそうだな、鳴葉」


 毛を湿らせて戻って来た琉汀は、まず明かりの塊を見遣り、それから鳴葉に近づいた。


「全然。弟に今の僕を見られたら笑われそうだなって。それよりごめんね、任せきりで」

「無理をするなと言ったのは私だ。気にしなくていい」


 体力が戻りきらない鳴葉は、気温差で体調を崩しやすくなっている。洞窟で留守番をしていたのも、外へ出る許可が下りなかったからだ。琉汀の目には、今の鳴葉は「ウサギのほうがマシ」な姿に映るらしい。


 食事のあとは、互いの毛づくろいをするのが日課になった。

 鳴葉が雨に濡れた琉汀の毛を念入りに舐めていると、くぐもった声が響いた。心地良さそうな顔をする琉汀に、鳴葉は大きく尾を揺らす。

 鳴葉は洞窟に来てから、琉汀に何もかも任せきりだった。鳴葉が少しずつ体を動かせるようになってもそれは変わらずで、鳴葉がどう言おうと彼女は「休んでおけ」の一点張りだった。しかし、なまじ体が動くようになると、今度は退屈で仕方がない。自由に動かせるのは口だけだった。退屈に殺されると危ぶんだ鳴葉は、毛づくろいさせて欲しいと琉汀に願い出た。聞く耳持たずの琉汀も、これには不承不承頷いて、今やすっかり寛いでいる。

 鳴葉は琉汀の背に歯を立てた。


「琉汀は緩衝地帯に来るまでどこにいたの?」

「山」

「そういうんじゃなくってさ、もっとあるでしょ。方角とか、どんな人狼が治めていたとか」

「鳴葉の拗ねている顔を初めて見た。ひげが上向くんだな」

「……からかってる?」


 疑いをにじませる鳴葉の頬を、琉汀が舐め回す。鳴葉が頭を振ると、今度は長い両脚の間に彼を閉じ込めた。


「からかってない。鳴葉の新しい一面を知れて嬉しいだけ。気を悪くしたのなら謝る。このとおりだ、許してくれ」

「どのとおりだよ。ひとに乗っかるのが琉汀の謝り方なの? 僕はただ、君と話してると初めてがたくさんだから、からかわれているのかどうかを見極めようとしただけで、気を悪くしたわけじゃないよ。つまり謝らなくていい」

「わかった。もう疑うな。私は鳴葉に対して真面目なんだから。詳しく説明する」


 鳴葉の耳はたちまち伸びた。その裏側を琉汀が舌でなぞる。


嘉代かよという雌の人狼が治めていた山にいて、彼女が天寿を全うしたのを機に下りて来た」


 人狼は長命だ。狼の倍、それ以上とも言われている。だが、彼らの命もいずれは尽きる。

 獣の多くは嘉代の死と共に各地へ散ったようだ。そう話す琉汀も、新しい縄張りを探している最中だったに違いない。


「洞窟の中を通る川の大元はあの山だ。白良と陽炎の縄張りを流れ、緩衝地帯で本流と傍流に分岐し、洞窟に至る。傍流は小川となって海に通じているんだ」

「うみ?」

「そう。海は人魚が治める縄張りだな。陸の人狼、海の人魚ともいわれる。姿もそっくりだ。狼の部分が魚に変わっただけ。陸の獣が人魚に出会うのは稀で、それこそ海神の……獣になじみ深い言葉で例えるなら、運命でもない限り会うことはない」

「へえ、すごく珍しいんだね。運命と出会えたら嬉しいだろうな。陽炎様が言ってたんだけど、出会った瞬間にこのひとだ! って思うらしいよ。鼻じゃなくて本能で嗅ぎ分けるんだって」


 鳴葉は琉汀の前脚を、爪でかりかりかきながら言う。


「いいよね、運命。人魚も番はひとりだけ? それとも、他の獣みたいにとっかえひっかえする?」

「しない。人魚も狼と同じ。生涯で愛するのはひとりだけだ」

「そっか、良かった。僕は狼だから、ああいうのは本当に理解できないんだよね。それにしても琉汀は海に詳しいね。海が好きなの?」

「……海育ちだからな」


 海に近い縄張りに住んでいたのだろう。故郷を思い出したのか、彼女の顔に影が落ちた。

 琉汀は平然と話すけれど、今まで暮らしていた縄張りを出たばかりだ。慣れ親しんだ土地を離れて、寂しくないわけがない。

 鳴葉は琉汀の脚を甘く噛んだ。


「そういえば昔、君みたいな目の色の魚を拾ったんだ」


 鳴葉は仰向けになり、琉汀の瞳を見つめた。

 青目の中央で紫が咲いている。切れ長の目尻からは蜜が零れてきそうだ。鳴葉は今まですっかり忘れていたが、見れば見るほど記憶の底にある色とよく似ていると思った。


「細かいことは忘れちゃったけど、紫陽花色の綺麗な目だった。しかも、やけに甘いにおいがしたんだ。あんな魚は初めてだったから、僕のものにしようとあれこれした思い出がある」

「そして、それは鳴葉のものになっただろう」


 琉汀は誇らしげに言った。まるで自分のことのように話す彼女に鳴葉は笑いつつ、片耳を伏せてこう答えた。


「それがね、なってないんだ」

「は? なっていない? どういうことだ」


 琉汀は身を起こし、鼻先を鳴葉に近づけた。鳴葉を見下ろす彼女の瞳は鋭く、冷ややかだ。今まで鳴葉に見せていた柔らかさがなくなっている。

 鳴葉は琉汀の顎を押さえて、これ以上近づかないようにしてから言った。


「簡単な話だよ。魚が逃げたんだ」

「逃げたんじゃない。離れなければならない理由があったんだ。いいか。魚は今もお前のものだし、魚自身もお前のものだと思っている」


 鳴葉は目を丸くして琉汀の主張を聞いていた。

 まるで自らの誤解を解こうとしているような口ぶりである。目の色が似ているからという理由だけで、こうまで力強く説得するだろうか。もしかしたら琉汀も、過去に逃した魚がいるのかもしれない。一度捕まえた獲物に逃げられるという、琉汀の矜持を深く傷つけた現実から目を逸らしたいのだろう。

 鳴葉は身を起こし、琉汀の胸に額を擦りつけた。


「琉汀はそう思うんだね。僕の考えは違うかな。傍にいなくても僕のだって言えるのは家族だけなんだ。どこにいるか、生きてるかどうかもわからない魚じゃあね。僕のものだっていう実感がわかないよ」


 きっぱりとした口調で鳴葉が言うと、琉汀は崩れ落ちた。彼女は鳴葉を下に敷いて、片耳を鼻でつついている。


「魚が再び鳴葉のものとなるには、どうすべきだ?」

「どうするって。僕は別に……」

「答えて」


 あまりの気迫に鳴葉の尻尾が縮こまった。

 魚を捕まえて見せびらかす時期などとうに過ぎている。かといって「もういらない」と正直に伝えるのはためらいがあった。答えを間違えたら、とんでもない事態になる。彼の本能がそう警告したからだ。

 鳴葉は狩りのときのように、極めて慎重に答えた。


「向こうから近寄ってきたら、捕まえて僕のにするよ」

「それで逃した魚だとわかるのか?」

「わかるよ。僕、においの覚えだけはとびきりいいから」 

「……本当に?」


 琉汀から疑わしげな視線を向けられても、鳴葉はひるまなかった。彼は、嗅覚に関してだけは相当な自信があったからだ。

 いまひとつ納得がいかない顔のまま、琉汀は鳴葉の耳にしゃぶりついた。彼女は鳴葉の耳がいたく気に入ったらしい。事あるごとに含んで、鳴葉の毛を湿らせている。


(琉汀の目的が全然わからない。どれだけ時をかければわかるんだろう。聞いている限り、嘘はついてないと思う。話題をはぐらかすときも後ろ暗い感じはしない。高みの見物をするような顔は引っかかるけど。悪い狼には見えないないんだよなあ)


 琉汀が鳴葉のもう一方の耳を舐め始める。

 鳴葉は気を取り直して尋ねた。


「琉汀。さっき、人魚と人狼は似てるって話しただろ? どれくらい似てるものなの?」

「ああ。体の形はほぼ一緒だ。違うのは耳と尾か。人魚の耳は顔の真横にあり、尾はない。肌の一部にウロコがあるのも人魚の特徴だな」

「へえ。……あ、そういうこと?」


 ふと、鳴葉の中にあった一本の蔦がぴんと伸びた。

 人魚は珍しい存在だ。そう鳴葉に説明したのは琉汀である。彼女は海を統べる彼らと出会う条件を知っているうえ、まるで実物を見てきたかの口ぶりで話すことから、導き出せる繋がりが一つあった。

 鳴葉は琉汀の下から這い出ようとした。すると、琉汀はすぐさま鳴葉の首を噛んで引き止めた。

 琉汀は両耳を尖らせて鳴葉を問い詰める。


「今、何を納得した。鳴葉が納得できることなど一つもなかっただろう」

「あったよ。それならそれで、堂々と言えばいいのに」

「何をだ」

「……」


 鳴葉は口を引き結び、新しく敷いたばかりのワラに頬を擦りつけた。日差しをめいっぱい受けたワラの香りは、独特の甘さがある。

 そうしていると、反対側の頬に牙が触れた。


「なぜ黙る。私は嫌な話をしたか?」

「そうじゃない。君は悪くないよ。僕が勝手に病気の獣を食べたような気分になってるだけ」

「具合が悪いのか? 体を見せてみろ」


 鳴葉は体を探ろうとする琉汀を避けて、草の下に顔を潜らせた。

 蔦が伸びた途端、鳴葉は言いようのない不快さと息苦しさに襲われた。琉汀への探求心は尻尾のように縮こまり、それ以上聞きたくないとばかりに丸まってしまう。鳴葉は琉汀を困らせるつもりなど、これっぽちもなかった。現に彼は、琉汀の運命を共に喜ぶつもりでいたのである。


 琉汀が息を吐くと、頭上のコウモリたちは身震いし、羽をそわそわ動かし始めた。コウモリは慎重に獲物を狙う狼のような足取りで鳴葉たちから離れると、木の根が多く張り出している場所に集まり、羽をたたんで動かなくなった。ふたりの周囲が薄暗くなる。

 琉汀は声を潜めて言った。


「鳴葉が人魚に興味を持ってくれて嬉しい。だから、もしかすると私は話し過ぎたのかもしれない。でも……鳴葉、これだけは聞いてくれるか。鳴葉に命を救われた人魚がいる。会ったのは一度きりだが、人魚はその出会いに胸を熱くし、また会えるその日を願って長い時を過ごしている。今も、な」


 琉汀は立ち上がって鳴葉の隣に移動した。それでも彼女は落ち着かない様子で、座ったり立ったりを繰り返している。

 鳴葉がワラから顔を出すと、琉汀の尻尾が大袈裟に揺れた。


「鳴葉。そいつは一度も、一度たりとも鳴葉を忘れなかった。人魚にとってお前は、まさしく運命の相手だからな。再び鳴葉に会って、そうしたら……。私はこの話をどうしても鳴葉にしたくて、気が急いてしまった」


 鳴葉は耳を疑った。相手の存在に全く心当たりがなかったのである。彼はあらゆる記憶の穴を掘り返してみたけれど、葉っぱ一枚分も思い出せなかった。記憶力は嗅覚に比べて劣るとはいえ、人狼に似て非なる存在を忘れるだろうか。


(全く思い出せない。作り話にしては真実味があるし、困ったな。……待てよ? それが言葉通りなら、琉汀は僕を知ってる人魚と親しいってわけで、つまり……)


 鳴葉は考えた末に、人魚と自分の間にあったらしい件について、無言を貫くのをやめにした。


「そう言われても全然覚えてないよ」

「薄々そんな気はしていた。というより、お前たちは人魚について知らなすぎる。過去より今。人魚もそう思っている。これから互いを知っていけばいい」


 琉汀は機嫌よく言う。鳴葉は再び彼女が人魚について語り出す前に、違う話題を振った。


「僕はてっきり、君に人魚の運命がいるのかと」

「は? ……もしや、さっき納得したのはそれか? あり得ない」


 地を這うような声が鳴葉の肌をしびれさせ、骨を伝って尻の付け根まで届いた。

 入口方面からコウモリの羽音がした。洞窟じゅうに響き渡るが、鳴葉たちの近くに明かりは増えないままだ。

 鳴葉は琉汀の勢いに負けじと言い返す。


「運命でもない限り、人魚に出会わないって琉汀が言ったんだ。その人魚と会っているんだから、琉汀にはもう運命がいるものだと思うだろ」

「それはそうだな。私も間違いを口にしたつもりはない」


 琉汀は鳴葉へにじり寄る。


「私の運命は狼だ。人魚じゃない。だが、鳴葉の運命は人魚で間違いない」

「なんでそう断言できるの? 僕は狼がいい」

「相手を知らないからそう思うだけだ。知れば傍にいたいと望むようになる」


 琉汀は鳴葉をべろべろ舐めまわし、おおよその毛を湿らせた後、倒れるように寝転んだ。鳴葉はむくりと起き上がって琉汀の顔を覗き込む。


「見て。君のせいで僕は濡れネズミだ」

「はっ。このくらいで?」


 琉汀が体を起こしかけたため、鳴葉は咄嗟に彼女を足で押さえた。


「もう十分だよ」


 鳴葉は呆れ交じりに言う。


 降り続ける雨はやむ気配がない。コウモリが鳴葉たちの傍まで戻ってくるたび、羽音に交じって水滴が飛ぶ。

 鳴葉の口吻にも冷たいものが当たった。頭上に移動してきたコウモリから落ちてきたのだろう。集団から離れ、明かりがぽつんとぶら下がっている。そこへ新たなコウモリがやって来た。それは羽を畳んで丸くなると、鳴葉の真上にいるほおずきに近づいていく。二つ並んだ丸みから水がぽたぽた落ちて、鳴葉の鼻と背を濡らした。

 鳴葉はしばらく彼らを眺めていたが、ややあって琉汀の隣で体を横たえる。すると、琉汀は目を瞑ったまま彼を引き寄せ、頭上にいるコウモリたちのように体を密着させた。

 鳴葉は意を決して尋ねた。


「琉汀も縄張りを奪う? 僕を襲った狼たちみたいに」


 琉汀は思案するような声を漏らす。それから短い沈黙を挟んだ後で、こう答えた。


「必要あれば奪うだろうな。今は食うのに困らないから必要ない。たとえそうなっても、鳴葉の縄張りを奪うつもりはないが。急にどうした?」


 鳴葉は四肢から力を抜く。

 琉汀の鼓動は一定の速さを保っており、とても嘘をついている音には聞こえなかった。

 鳴葉は自分に被さる琉汀の脚を持ち上げて、喜びをあらわにした。彼女は驚いて瞬きをしたけれど、嬉しがる鳴葉に目を細め、笑いながらひげをそよがせた。


「嬉しそうだな」

「安心したの! 琉汀は今まで山にいたんだ。緩衝地帯にいたのも、新しい縄張りを探していたからじゃないかって思ったんだよ」

「あの辺りにいるのは、縄張りを追われた獣ばかりだからな。そう考えるのが自然だ」

「そうでしょう? それにさ、単独狼は緩衝地帯を渡り歩くものなのに、君は長いこと山にいたみたいだから余計にね」

「ああ、まぁ大抵の狼はそうだろう。私も用がなければそうする。私が山にいたのは、嘉代に囲いの作り方を教わっていたからだ」


 鳴葉は寝ながら首を傾げた。耳にしたことのない言葉だった。


「かこいってなに?」

「箱のようなものだ」

「残念だけど、ますますわからない。かこいを作ってどうするの?」

「大切なものを入れる。そう考えると狼の狩りと似ているか」


 鳴葉は琉汀の狩りを思い出して、鼻に皺を作った。


「君のかこいに一度入れられたら、もう逃げられないだろうな」


 琉汀の目元が和らいだ。


「そうなるように作っているんだ。逃げられてたまるか」

「出来上がったら見に行っていい?」

「中に入れてやろう。特別だ」

「はは! 僕出してもらえなくなっちゃう」


 鳴葉は琉汀の脚を下ろす。

 頭上にぶら下がる明かりは、変わらずくっついたままだ。水滴はもう落ちてこない。鳴葉たちが話している途中、追加でいくらかのコウモリが戻ってきていたようだった。どうやら入口近くで羽を休めているらしく、洞窟の中は変わらず一部を除いてほの暗い。


「体の調子を見て洞窟を出る。白良の縄張りに寄ろう。雨が降ってもいいように、しのげそうな場所をいくつか見つけてある」

「君、図抜けすぎじゃない?」

「単独で生きていればひとりでに身につく。鳴葉も身につけたいと思うなら、私と過ごす間に覚えればいい」


 覚えれば鳴葉にもできるという口ぶりだ。

 面映ゆく、嬉しいけれど苦しい。上には上がいる。琉汀と過ごしたこの短い期間で、鳴葉は思い知ったのだ。


(僕は縄張りも満足に守れない、ちっぽけな狼なのに)


 鳴葉は琉汀の前脚に顎を乗せて、目を閉じた。



 数日かけて、ふたりは白良の縄張り近くにやって来た。時をかけての移動は鳴葉の体力に合わせた結果だ。

 少しでも早く体力を戻したがる鳴葉に対し、琉汀は「疲れた体で無理を通すなら洞窟に戻る」と言った。出発前の何気ないやりとりの合間のことだった。琉汀はそれでも構わないような口ぶりで、鳴葉に無理をさせないよう言い含めるふうでもなかった。だから余計に、ほんの少しでも無理をしたら、それこそ有言実行で戻るはめになるだろう。

 洞窟へ戻るのは避けたい鳴葉は、自身の疲労を隠さず伝えた。そのたびに休憩を挟む。出発の合図は琉汀の判断に委ねられた。もはや鳴葉の体調は彼女の方が詳しい。

 現に琉汀は鳴葉の調子を聞かなくなった。もっと具体的に「どこが痛む? いや、だるいほうか」などと確かめてくるのである。単独狼になれる狼は機微にも聡い。


 鳴葉はひげを揺らす。行儀よく生えそろった雑草を胴体の重みでなぎ倒し、寝床をこしらえる。折れた葉から汁が垂れ、青臭いにおいが鼻にまとわりついた。

 頭上では巨木の枝が四方に伸びている。果実が生っているようには見えないので、寝ているときに降ってきた種で起こされることもないだろう。ときおり獣の声が響く。聞き覚えのない音だ。陽炎の縄張りにはいない種なのかもしれない。

 鳴葉が木を見上げると、琉汀もならうように視線を上げた。


「琉汀、上にいる獣がなにか知ってる?」

「さあな。危険な獣はいないはずだが。……鳴葉。こちらへ来い」


 鳴葉は慌てて琉汀に寄り添った。


「なにがいたの?」

「邪魔者」


 鼻先を上へ向け、琉汀が吠える。下りてこいと命じているのだ。鳴葉が不思議に思う間もなく、枝を大きく揺らして塊が降ってきた。ならしたばかりの寝床にくっきりと足跡が残る。

 二本足で着地した人狼は満面の笑みで両手を広げた。


「ようこそおれの縄張りへ! 正しくはこの樹を跨いだ向こうからで、ここは緩衝地帯だけど。とにかく、よく来たな!」 


 人狼の腰まで届く銀髪は先が丸まっていて、山の天辺に生える乱れ雪のようだ。一見すると、のんべんだらりとしているように思わせるが、まっすぐ伸びた背を見れば、すぐ考えを改めることになるだろう。緩く上がった口角からは、はつらつさがにじみ出ている。彼の右肩には橙色の衣がかかっており、それがずり落ちないのは紐を脇下に通しているからだろう。黒色の長い上衣は一続きの作りで、体の中央を流れる滝のようだ。更にもう一枚、色も形もほおずきに似た下衣を穿いている。


 人狼の顎の位置も抜群である。上げ過ぎは傲慢、下げ過ぎは臆病。狼は視線から瞬時に力量差を読み取る。

 鳴葉は頭を下げて人狼を迎え入れたものの、ひどく居心地が悪かった。隣から機嫌の悪さが伝わってくる。邪魔者と言うだけあって、琉汀は人狼を歓迎する意思がないようだ。

 気まずい雰囲気をものともせず、人狼はひとりでぺらぺら喋る。


「琉汀はこの間ぶり。おれんとこ寄るって聞いたときは、止柊に顔向けできないことでもやらかしたのかと思ったのに。連れがいるなら先に言えよ! お前が誰か連れてるって知ったら、おれがどう思うか考えた? どんな子か気になるに決まってる。大人しく待っていられるわけがない。おかげでここまで来ちゃったよ! ていうかさ、その毛色。もしかして行方不明中の鳴葉か?」


 話の穂先が自分に向き、鳴葉は尾を振って答えた。


「そうか! 無事に戻って来られて良かったな!」


 人狼は一歩踏み出した足をすぐ戻した。彼は琉汀に目を細めてみせてから、鳴葉へと向き直る。


「止柊たちが騒いでたぜ。縄張り争いの最中に、鳴葉がいなくなったってさ。あいつらが聞いたら喜ぶぞ。ところで、そろそろ顔を上げてくれ。挨拶しよう。挨拶は目を見てするものだろ? おれは白良。よろしくな、鳴葉!」


 促されて顔を上げると、愛敬のある笑みが待っていた。


「実落の子、鳴葉です。止柊様の縄張りを継ぐって聞いてから、ずっと気になっていました。なかなか会えないでいたから、こうして会えて嬉しいです」

「そ、そう? そこまでおれを気にしてたんだ? 実は陽炎の縄張りの子に会うの、初めてなんだよ。こっちも引き継いだばっかりで、隣の縄張りまで散策できなかったんだ。どんな風に思われているのかと心配したけど、こんないい目で見つめてもらえるなら、もっと早く鳴葉に会いに行けばよかった」


 白良はしきりに頷く。彼は顔をはっとさせると、指を一本立てて言った。


「そうだ、これからおれの居に来ない?」

「殺すぞ」


 鳴葉はぎょっとして琉汀を見た。彼女は涼しげにしている。もしや聞き間違いかと思い、鳴葉は両耳を琉汀に向ける。物騒な言葉は天気の話をするときと、まったく同じ調子だった。

 白良は腕をさすりながらけらけら笑う。


「うわ、おっかない! なんだよ、誘っただけじゃん!」

「誘う場所を考えろ。私の許しを得ずに連れ出せると? いや、いい。やめろ。改めて聞こうとするな。愚問だ。許さん」


 鳴葉の尾が急にむずむずしだした。鳴葉は琉汀の横腹を足を踏み、彼女の鼻を自分の方へ向けてから尋ねた。


「琉汀と白良様は知り合いだったの?」

「いや全然。初対面だよ」


 白良がそう答えると、琉汀は苦虫をかき集めて飲み込んだような顔をした。


「私と鳴葉の会話に割り込むな。鳴葉、私とこいつが知り合いに見えたとしても、全くそんなことはない。本当にない。ただ、初対面でも関係なくなれなれしい。風すらそう噂するほどの人狼なだけだ」

「その噂の出どころ、聞かなくてもわかっちゃった! なんだ、琉汀も二人からおれの話を聞いていたのか。どうりで初対面の気がしないと思ったよ」

「私からすればお前なんぞ正真正銘、初対面の距離感だが?」


 琉汀のぞんざいな扱いを受けても、白良は楽しそうに話している。


(なんでだろう。僕、ここにいたくない)


 鳴葉は後ろ脚を静かに引く。

 一歩、二歩と後退したところで、四つの目が鳴葉に向いた。鳴葉は一旦動きを止めたものの、彼らの視線が逸れたのを見計らい、またも後ろへ下がっていく。

 鳴葉の足が四歩目に入った瞬間、彼は琉汀に首を噛まれた。


「どうした、しょげた顔をして。白良のうっとうしさに嫌気が差したか」

「失礼なやつだなお前は! それを言うなら相手はおれじゃない。琉汀、お前だ。べったりし過ぎて嫌がられてるんだって」

「いよいよ死にたいらしいな?」


 鳴葉を間に挟んで行われるやりとりは、けして友好的とは言い難い。聞いているだけでも鳴葉の背筋が冷えるけれど、それでも彼にはふたりの気安さが透けて見えてしまい、尻尾のむずむずはより一層増した。


「言い当てられたからって怒るなよ。なあ鳴葉、おれが居まで運んでやろうか? そうすれば止柊も陽炎も安心するしさ」


 白良がそう言うと、琉汀の顔から表情が消えた。彼女の尻尾は太くなり、毛が逆立ち始める。

 琉汀は鳴葉から口を離して後ろへ下がるように鼻で示したが、鳴葉は彼女に逆らいふたりの間に入った。 


「違う! どっちも違うよ! 僕はふたりが、人狼と狼なのに対等だからいいなって、そう思っただけ!」

「対等、っつか……」


 白良は首を傾げ、理解し難い話をされたとでもいうように、口を曲げている。彼は続けて琉汀を見下ろす。琉汀は胸を反らして白良を睨みつけた。

 鳴葉がふたりの沈黙に耐え切れなくなった頃、白良が両手を合わせた。


「つまり! 鳴葉はおれと対等になりたい。そういうことだな? だったら方法は一つだ。鳴葉も人狼になろう!」


 白良は膝立ちになると、鳴葉に自らの左胸を指差した。


「おれの核は一つしか残ってないからあげられないけど、止柊と陽炎、二人のどっちかは核が残っていたはずだ。とか言いつつ、残ってなかったらがっかりさせちゃうか。まずは確認。それで残っていたら人狼の試練に挑んでみるのもアリ! どうだ? いい案だと思わないか?」


 鳴葉は白良に近づき、彼の胸元を嗅いだ。草木と彼の縄張りにいるだろう狼、そして彼自身の強いにおいがする。止柊の縄張りを継ぐ実力者のようだ。


「人狼の試練ってなんですか?」

「あれ? 知らない? おかしいな。陽炎はともかく、止柊なら教えていそうなもんだけど」


 鳴葉はわずかに悩んで答えた。


「聞いたら教えてくれると思いますが、僕には関係ないと思ったので聞きませんでした」

「関係ないかぁ。ちなみに、そう思った理由は?」

「今の縄張りから出たくなかったからです」


 鳴葉の答えを聞くと、白良は大きく頷いた。


「そうかそうか。そんな鳴葉に朗報だ。人狼になったからって、今いる縄張りから必ず出なきゃいけないわけじゃないぞ」

「え? でも人狼には人狼の縄張りがあるから……」


 白良の指が鳴葉の鼻に近づく。止柊がするの仕草とよく似ていたので、鳴葉は反射的に口を閉じた。


「こらこら。話をずらすな。いいか? できるかできないかと言えば、できる。先にいた人狼、つまり陽炎が許せばな」


 鳴葉は尾を丸めて両耳をぴくぴくさせた。すると、琉汀がさっと近づいて鳴葉の耳を含んだ。白良の眉根が寄る。


「そんなことして。あとで止柊に言いつけてやるからな」


 白良は琉汀を睨みながらそう言い放った。だが、琉汀は白良の忠告を当然のように無視し、鳴葉のもう一方の耳をもしゃぶった。白良は自分の頭をがりがりかき、ため息を吐いてから言った。


「ったくもう。琉汀は離れろ。鳴葉は座って。人狼になるとかならないとか、何も知らないで判断するのはもったいない。だからこのおれが、鳴葉にあれやこれやと教えてあげる」


 鳴葉は言われた通りに腰をつける。その拍子に草のにおいが香り、白い毛の一部が緑に染まっているのに気づいた。彼はあとで拭っても構わないだろうと思い、背を正して白良と向き合う。そのあいだ、琉汀は鳴葉の行動を見守っていた。琉汀は鳴葉に汚れを取る意思がないと知ると、体を屈めて草の汁を舐めとり始めた。

 半眼になった白良は琉汀を指さした。


「おい、そこ! やめなさい。鳴葉も家族じゃないやつに、簡単に体を許しちゃだめだろ。それとももう、お前らは家族なの?」


 鳴葉は目を丸め、素早く琉汀の顔を押し戻す。琉汀は鼻に皺の川を作って白良を睨みつけた。

 白良は両手で顔を覆う。


「風の噂で事情を聞いてるだけのおれじゃ、この状況をうまくそしゃくできない……」

「噛まなくていいから説明しろ」

「琉汀。僕ら説明してもらう側なのに、それはだめだよ」

「そうだそうだ! おれを敵と見なすのはいいけど、もうちょっとこう、穏便にやろうね」


 鳴葉はすっとんきょうな声を出した。


「白良様が敵? なんで?」


 疑問の前半は白良に、後半は琉汀へ投げかけた。


「ほら、さっき鳴葉を抱えて居に連れて行くって言っただろ? だからおれは琉汀にとって、鳴葉を奪う悪いやつになる。そういう意味の敵ね」


 白良は顔にかかった横髪を息で払う。そして、どこからともなく緑と橙の編み紐を取り出すと、横髪を後ろでひとまとめにした。


「まぁ、鳴葉を守れるくらいの強さはあるみたいだから、とりあえず様子見しとくよ。けど、止柊が鳴葉を連れ戻せって言うなら、おれはその通りに動くからな。恨むなよ」

「フン。そうなれば奪い返すまでだ」

「おっ、言うねえ! 鳴葉はお前のものじゃないのにな!」


 白良はにやにやと笑みを浮かべ、軽快に指を鳴らした。琉汀は目尻をつり上げ、相変わらず氷のような眼差しで白良を見ている。

 鳴葉は目を伏せ、口から出そうになったものを無理やり飲み込む。


(対等に見えるんじゃなくて、ふたりは対等なんだ。僕と朱果みたいなやりとりしてるもん。僕はまだまだだ。でも、これまでの弱さや至らなさが、これから先も続くわけじゃない。僕も……僕だって……)


 粘ついた羨望は、鳴葉にとって必要な感情だった。不愉快であると同時に、己を奮い立たせる原動力になった。そうでなければ、彼の心は上を目指すこともなく、柳のように項垂れていただろう。

 鳴葉は鼻を高く上げた。


「白良様。人狼のこと、教えてください」


 鳴葉が教えを乞う。すると、ふたりの間で漂っていた空気が和らいだ。

 琉汀は体を丸めて横たわり、白良はどっかり座ってあぐらをかく。

 白良は真夏のような笑みを鳴葉に向けて言った。


「任せとけ!」


 白良の尾が揺れている。鳴葉が頬を緩ませると、真横から尻を叩かれた。琉汀の鋭い視線が顔に刺さる。真面目に聞けと言っているようだ。まだ話は始まってすらいないのだが。


「まず、人狼になるってだけなら簡単なんだ。人狼が持つ核を分けてもらうだけで済むから。あ、核がなにかは聞くなよ? これは誰に聞いてもうまく説明できないものだと思う。頭じゃなくて、体で理解するんだ。それよりも、人狼になったらなにがどう変わるかが大事だ」


 白良が指を一本ずつ立てていく。


「いち、寿命が延びる。に、強くなる。さん、人狼と狼のどっちの姿にもなれる。よん、自分を基点に土が豊かになる。その中でも、自分の恩恵だけがある範囲を縄張りとして持てる。こんなもんかな。詳しい説明、全部しとくぞ?」

「お願いします」

「じゃあ最初からな。寿命は最低でも狼の倍は生きる。老いるのが遅くなって、さらに病気や怪我にも強くなる。怪我の治りも早いけど、死なないわけじゃない。大怪我したら死ぬから、そこんとこ気をつけて。強さについては、単純に身体能力が上がる。群れなくても生きていける強さ、って言い換えてもいい。陽炎もクソ強いだろ」

「力も速さも狼とは段違いです」


 陽炎は葉が舞うかのごとく、軽やかな動きから渾身の一撃をくりだして木を倒してみせる。


「はは、おれもそう思う。次に姿の変化。狼はいいとして、人狼のほうを説明しよう」


 白良は立ち上がり、ほおずき色の下衣を指でつまんだ。


「おれらが着ている、これ。総じて衣って呼んでる。脱げるし、汚れるし、破けもする。でも、姿を狼に変えて、人狼に戻ると元通りだ。汚れ一つない衣になってる。衣はそういうものだと思っていい。衣は土の豊かさに比例して、とある部分だけが変わっていく。思うに、恩恵を分け与えた功労の印だな」

「衣の形は人狼それぞれ違うから、変わるのは衣以外の部分……?」


 鳴葉の呟きに、白良は片目を閉じた。


「鳴葉は観察力があるなあ。衣の形や素材じゃないのは正解。さて。ではおれと陽炎、はっきり違うところはどこでしょう?」


 白良は両手両足を広げてみせた。

 衣はしわだらけで世辞にも綺麗とは言い難い。耳はあるがままの姿をしていて、飾りはついていない。むき出しの肌、手足の先に至っても同様だった。

 鳴葉は白良に近づこうとしたが、尻が引っぱられて動けない。見れば尻尾を琉汀に踏まれている。彼女は欠伸をしながら言った。


「土地の質を比べればいい。陽炎は高く、白良は低い。陽炎と止柊にあり、白良にないものと考えればいい」

「やい。言い方もっと考えろ。おれが傷つくだろうが」


 琉汀を睨んでいる白良を、鳴葉はじっくり見つめた。


「もしかして装身具ですか?」

「お、あたり!」


 白良は両手をぶらぶらと振った。彼の手足にはひとつも装身具がついていない。


「前は腕輪があったんだぜ。けど、止柊の縄張りを継ぐときに消えちゃったんだ。今の縄張りは止柊の成果であって、おれの成果じゃないからな」


 そうしてあっけらかんと、「そのうちまたもらえるだろ」と言って口角を上げた。

 白良は再びどっかりと腰を下ろす。


「じゃ、最後な。土の豊かさは外に向かって広がっていく。最初はひとつの群れを養うくらいかな。止柊の広さになるには、よほど卓越してない限り何年かはかかる。縄張りが広がれば、いずれは他の縄張りとぶつかる。だから予め、緩衝地帯は広めにとっとく。他のやつらと近い縄張りが嫌だと思うのは、人狼も狼と変わらない。鳴葉は止柊たちの縄張りにいるから想像し辛いかな。言っとくけど、ふたりの緩衝地帯の狭さはそうないぞ。だから、おれが継いだというか。おれしかいなかったというか……。本来は陽炎の縄張りと山との間にある緩衝地帯、あれが目安になる。おれはあれでも狭いと思うけど」


 実落の縄張りから山まで移動した場合、狼の足で数日かかるだろう。対して、陽炎と白良の合間にある緩衝地帯は、休みなく走れば一日で辿り着ける距離だ。彼らがどれだけ縄張りを広げたのかがわかる。


「緩衝地帯が受ける恩恵は、基点から遠ざかるほど薄くなる。ま、当然といえば当然だな」


 鳴葉は頷いた。

 彼は洞窟からここに至るまでの道中、琉汀に促されていくつか果実を食べていた。正直なところ、鳴葉の口にはどれも合わなかった。果汁は水っぽく、甘みが薄いのだ。しかし、白良の縄張りに近づくにつれ、果実の甘さは増していった。

 鳴葉は驚きの声を上げた。


「陽炎様たち、人狼の中でもすごいんですね」


 鳴葉にとって、彼らが尊敬する人狼であることは間違いない。けれど、狼の鳴葉と人狼とでは、おそらく視ている「高さ」が違う。

 鳴葉が顔を輝かせて言うと、白良は自分が褒められたかのような表情で、誇らしげに胸をそらした。


「けんかは強い、地頭がいい、縄張りの実りも文句なし。それでもおごらない二人だから、縄張り下にいる狼たちは気づきにくい。けど、他所から見れば丸わかりだ。縄張り争いがしょっちゅう起きるのもわかるよ。いつだったか、止柊がそれを嘆いていたなあ」

「そうなんですか? ふたりとも、全然そんなふうには見えませんでした」

「それは鳴葉が狼だからだろ」


 鳴葉の頬がこわばる。白良は膝を撫でた手で草を引き抜く。それを掲げて揺らしたあと、ぽいっと後方へ投げた。


「人狼の悩みを狼に打ち明けようとは思わないからな。人狼が獣の争いに介入できないのと同じように、人狼の行いに獣は介入させられない。言ったところでどうにもできないし、不安にさせるだけだ。だから知らなくて当然なんだよ。気にすんな」


 鳴葉は足元の緑を見下ろす。すると、視界に太い前脚が入り込んだ。黒毛の脚が彼のつま先をそうっと叩く。鳴葉が顔を上げると、琉汀のもの言いたげな目とかちあった。どうやら慰めてくれているらしい。鳴葉は垂れた耳をぴくぴく動かした。

 白良は両手を揃えて地につける。そうして鳴葉に顔を寄せると、琉汀の牙が露わになった。


「なに? 落ち込んじゃった? 鳴葉は優しいんだな。だったらさ、人狼になったときにふたりの話を聞いてやってよ」

「はい」

「しかしなぁ、ふむふむ。人狼の困りごととか愚痴が気になるなら、おれの話でもしようか?」

「やめろ、愚痴なんざいい。言ってなんになる。それこそ狼に聞かせる話じゃないだろうが」


 琉汀は眉間に皺を刻んでそう吐き捨てた。心底くだらないと思っているのが、彼女の表情からありありと伝わってくる。

 鳴葉と白良は互いに目配せし、揃って口の端を上げた。


「たしかにな! じゃあやめとこう。あとはなんだ? 鳴葉が気にしてる、縄張りの重複についてか」


 白良は長い脚をツタのように絡ませて伸ばす。彼の足の裏には肉球がない。かなり柔らかそうに見えるだけで、実際は岩場や砂利道でも平然と動き回れるだけの硬質な肌である。


「最初に言っておくと、人狼だからって必ず縄張りを持たなきゃいけないわけじゃあない」

「獣の生きる場所はどうするんです?」


 やや前のめりになって口を挟んだ鳴葉だったが、白良の指に鼻を弾かれてしまい、尻もちをついた。


「なんでおれたちが獣の生きる場所を心配してやらなきゃならないんだ? 望んで心配するならともかく。生きてるだけで恩恵をまき散らすんだ。それで十分だろ」


 鳴葉の耳がしおれていく。

 ならば、人狼の力を持ちながら、狼と変わらぬ日々を過ごすのか。それではただの狼と変わらなくなってしまうのではないか。

 白良は破顔し、同時に素早く引き抜いた草を琉汀に投げつけた。琉汀は出していた舌を引っ込めると、いたいけな表情を作って鳴葉の首に鼻を擦りつけた。


「そんなんで人狼でいる意味があるのか? って思うかもしれない。抱えた力を無駄にする? いいだろ別に。そりゃあ持てる力を余すことなく使えたら最高だ。でも、好きでやるんじゃなきゃ意味がない。さっき土の豊かさの話をしただろ。これは心の豊かさでもある。上辺だけとりつくろって動いても、真に自分が満たされなかったら? 土はどうなると思う?」


 鳴葉はすぐに答えた。


「豊かにはならない?」

「そういうこと! だから鳴葉が陽炎の縄張りから出たくないなら、それでいいんだ。縄張りをなんとなく持つより、陽炎の縄張りで好きに生きてるほうが土も喜ぶだろ。単独で放浪する人狼もいるくらいだ。ふらふらしてるだけで草生えるってんだから、草食の獣は喜んでると思うぜ」


 白良の尾が縦に揺れる。彼はどう伝えるべきか悩んでいるようで、ぶつぶつ呟いたのちに続けた。


「実際、人狼になってみたら思ってたのと違ったとか、そういうのもある。というか、あったんだ。別の生き物になるんだから、ないわけがない。それで潰れた人もいる。なりたい自分になれなかったってな」


 憧れの人狼を追うのではなく、その人に自分を重ねてしまったのだという。重ねれば嫌でも明暗が出る。そういうときは、決まって憧れが明るくなり、己は暗がりで背を丸めることになる。輝かしい姿に並ぶことを夢見たのに、その姿に追いつけず、悄然と過ごす日々はいかほどの重みだろう。

 白良は鳴葉に手を伸ばす。途端、唸り声が聞こえた。白良はむっと唇を尖らせる。


「だからさ、もし鳴葉がこうなりたい! って姿があったなら、そうなれなかったときにどうするかを考えておいて欲しい。一旦引いて計画を練り直すだとか、助言をもらいに行くとか、あるだろ。いろいろ。万策尽きたって状況になると、焦って視野が狭まるから、余裕あるうちにな」

「はい」


 鳴葉はいたいけな顔をして自分を見ている琉汀を二、三度尻尾で叩いてから、白良に質問する。


「試練はどういうことをするんでしょう?」

「お! 顔つきが変わったな。そこはかとなくやる気を感じる」


 鳴葉は伸ばされた両手に、今度こそ撫でられるかと思ったが、やはりその手は鳴葉に一切触れず、宙をなぞった。


「その心意気に応えて試練の内容を教えてやりたいところだけど、なにをやるかは人狼次第なんだよ。だから核をわけてもらいたい人狼に直接聞いてくれ」

「わかりました。最後に一つ聞いてもいいですか?」

「おう、いいぜ」

「白良様みたいに、よそから来た人狼が縄張りを引き継ぐことは、よくあるんでしょうか」

「よくあるような、ないような……。おれはあんまり聞かないだけかも。そこんとこ詳しそうなそこの君、どうだ? おい、無視するなよ。知ってるかどうかだけでも答えてくれよ」


 白良は足先を左右にぶらぶらさせながら言う。鳴葉に手を伸ばすと琉汀が唸るからだ。

 白良を半眼で見下ろしている琉汀は、小さく息を吐いて首を振った。


「引継ぎ事態は珍しくない。だが、存続するかは別だ。狼は己が認めた相手でなければ従わない。もし止柊よりも更に劣る人狼が来ていたのなら、引き継いだ縄張りはもぬけの殻になるだろう」

「つまり、白良様は止柊様と同等」

「もしくは、それ以上だと縄張りの狼は判断した」


 更に聞くと、引継ぎを行うのは大半が老年の人狼だという。琉汀が言った通り、存続するかは狼次第だが、他の人狼に委ねることで、出立の猶予が与えられる。たとえ全ての狼が出て行ったとしても、いつかは継いだ人狼に従う狼が現れる。人狼側からすれば、なんの問題もないらしい。ただ、やはり白良のような例は珍しいようだった。

 白良は照れくさそうに草を抜き、琉汀に向かって投げる。彼女はそれを尻尾でなぎ払った。


「お前、そんなに褒めるなよ!」

「私は質問に答えただけだ」

「事実は事実でも、事実だからこそっていうか……おい、どさくさに紛れて何してんだ」


 琉汀は鳴葉を背後から包み込むだけでなく、白毛の天辺をついばんでいる。白良は指先を向けて即座に注意した。


「お前ね、くっつきすぎ。初対面のおれでもどうかと思うぞ。そんなんで大丈夫なのか? ここらで縄張りを持つってわけでもないんだろ」


 白良は絡めた足を解いて投げ出す。

 鳴葉はおそるおそる後ろを振り返った。相変わらず艶やかな毛色をした琉汀は、顎を上げて遠くを見ている。青い空、連なる山々、木の上で寛ぐ獣。そして琉汀の腕にいる鳴葉すら、彼女の目には映っていないように思えた。


「そうだな」


 鳴葉は琉汀の返事を聞いて、じっとしていられなくなった。立ち上がって琉汀の背後へ回ると、彼女の背に両足をつけてのしかかる。すると、琉汀は従順に、しずしずとうつ伏せに倒れ、鳴葉の一挙一動を目で追った。白良は投げ出した足を縮めて驚いた顔をしている。

 このときの鳴葉は強気だった。今の鳴葉はただの狼で、琉汀の眼中にすら入っていないだろう。だが、琉汀はまだ誰のものでもないうえ、鳴葉の言いなりになるくらいには、彼に心を許している。ここで鳴葉が人狼になれば、風向きが変わると考えたのだ。


(人魚の運命なんていらない。僕はこのひとがいい。琉汀の運命が狼なら……、まだ誰とも番になっていないなら、僕が琉汀を欲しがったっていいはずだ)


 鳴葉は足を下ろし、琉汀の側面に立った。そうして自らの牙を彼女の項に押しつける。


「僕、まだ君といたいよ。あまり早くどこかへ行っちゃわないで」

「行かない。鳴葉といる」


 力強く答えた琉汀の瞳は、らんらんと輝いている。

 鳴葉はほっと息を吐いた。


「白良様。僕、人狼になります」


 鳴葉から宣言を受けた白良は異様な速さで瞬きをしたのち、尻尾を大きく揺らした。


「お、おお……?」

「人狼になると決めたその心は?」

「内緒。こういうのは不言実行したほうが格好いいだろ」

「有言実行も格好いい」


 鳴葉は琉汀の言葉を受けると、少し考えてから答えた。


「黙って見守ってくれたほうが、僕は嬉しい」

「……そうか」


 いつもなら川波に落ちた葉のように、押したり引いたりして質問を重ねてくる。それが、返ってきたのは一言だけだった。素っ気ない返事に反し、琉汀の表情や声音はあたたかい。琉汀が鳴葉の気持ちを慮り、意思を尊重してくれたのがわかった。

 尊敬する相手からの信頼は、異様な高揚を鳴葉にもたらした。

 鳴葉は琉汀から離れ、白良の胸に飛び込む。彼は気前よく両手両足を広げて歓迎してくれた。


「白良様は止柊様と似てますね」

「んあ? どうした突然」

「頼りがいがあるのと、目が優しいところ。似てると思います」


 鳴葉がそう言うと、白良は「おれあんな垂れ目じゃないけど?」と笑いながら彼を撫で回した。


 鳴葉が琉汀に理由を明かさなかったのは、知られては困ることもあったからだ。

 鳴葉は琉汀を選び、人魚からは逃げると決めた。しかし、琉汀は鳴葉と人魚を引き合わそうとしている。

 鳴葉にとって運命とは、自らくわえて引き寄せるものだ。それが定められた運命だったとしても、意にそぐわないものなら全力で抗う。

 それに、彼は人魚に対して思うことがあった。自分を運命として想うのならば、どうして会いに来ないのか。出会ったときのように、川を泳いで会いにくればいい。鳴葉が海へ赴くまで待つ姿勢なら、人魚にとってはそれまでだったというわけだ。狼は大切に想う相手には自ら接近するし、行動で気持ちを伝え続ける。自ら動かないにも関わらず、鳴葉を求める。一度会っただけの相手に望むことではない。少なくとも鳴葉は、そんな気概のない獣など願い下げだった。


 琉汀との出会いをきっかけに、暮らしをはじめ、鳴葉の考え方は一変した。縄張り争いに巻き込まれ、大けがを負い、日々目の当たりにする琉汀と自分の力量差。雲の上にいるような自信は、気づけば地に這いつくばっていた。動かない体にもどかしく思う以上に、他と比べて劣る自分に落ち込んだ。

 今までできていたと思っていたのは、なんだったのだろう。

 周囲の助けがあってこそ持てた自信だと、認めるのはとても辛かった。自分がちっぽけだと一度認めてしまったら、今までの自分がどうにかなってしまうと、そう思ったからだ。


 けれど、鳴葉の傍には単独狼がいた。彼がモモンガのように丸まりそうになったとき、琉汀は言葉と態度で背を伸ばしてくれた。ひとりでも生きていける力の持ち主が、鳴葉を高みへ押し続けてくれている。自分を信じる力は弱いけれど、尊敬する琉汀が信じる自分なら、鳴葉も信じられた。

 地に落とすのも奮い立たせるのも、ひとりの狼に左右される。それを悪くないと思う自分がいた。

 今の立ち位置を認めたことにより、鳴葉は雨上がりの山頂から眼下を見下ろしているような、清々しい気分になれた。うじうじと迷うより、できることから少しずつ、たまに崖を超える程度の挑戦を交えながらこつこつやっていくほうが性に合う。

 だからこそ、鳴葉は人魚にも同じものを求めてしまうのだ。知らない相手だけれど、同じだけ欲しがれば人魚も苦しがるに違いない。


 鳴葉はどうにかして陽炎に相談したかった。しかし、不用意に明かせば琉汀の耳にも入ってしまうかもしれない。


(琉汀は、僕の運命は人魚だって譲らない。あれだけ強気で言うんだ。琉汀の気持ちを僕に向けない限り、味方につけるのは難しい。だから僕は……)


 鳴葉が白良の手に頭をこすりつけていると、後ろから乱暴に引きはがされた。鳴葉は子狼のように、大股を広げて運ばれる。

 琉汀は白良から離れた場所に鳴葉を下ろす。彼はもはや定位置になりつつある、琉汀の前脚の間に収まった。小さな獣に接するような丁寧さは、白良の腕から引き離したときと随分違う。

 白良は片手を枕にして横たわる。


「おーい、その徹底ぶりはなんなんだー?」


 白良が失笑する。鳴葉はカタツムリを真似て、脚の間から顔を出した。


「琉汀は縄張り意識が強いみたいで……」

「そういう問題じゃなくね?」


 琉汀は入念な毛づくろいをし始めた。鳴葉の体についたにおいを全て落としてやるという強い意志を感じるほどに、端から端まで、まんべんなく舐めている。


「さっきは何を見せられてるんだおれはって状況でさ。んで、今度は鳴葉も鳴葉で受け入れてのコレだ。おれの注意は野暮だったのか? 陽炎より先につっつくのは悪いと思って見て見ぬふりをしてたけど、もしかしてお前ら……」

「はは」


 鳴葉の口からは乾いた笑いしか出てこなかった。琉汀はふたりのやりとりを完全に無視して、一心不乱に舌を滑らせている。

 白良が手を振りながら鳴葉に問いかける。


「なーなー、ふたりの毛づくろいはいつからー?」

「琉汀に助けてもらってからですー。僕が怪我で動けないときー、琉汀が世話をしてくれていてー、恩返しにー、始めたんですー」

「ふーん、そうなんだー」

 白良につられて鳴葉の声も間延びする。

「おれはー、そこの狼がー、見返りなく尽くしてるのがー、心底おっかないんだけどー、鳴葉はー、どう思うー?」

「どうって……」


 鳴葉が横目で琉汀を見ると、紫陽花色のつぶらな瞳がいくばか甘さをにじませた。


「僕は琉汀が傍にいると安心できるし……、見返りなく? 見返りあるよね? 毛づくろいしてって言うもんね……、あーっ、あのー、怖くないですよー」


 鳴葉があたふたしながら返事をすると、琉汀はくすりと笑った。


「おいおいおい、ふたりからスモモの匂いがするぞ! えー、いいなー。おれも鳴葉に慕われたいなー。琉汀なんて放っておいてー、やっぱりおれの居に来ないー? 優しーく、毛づくろいするよー」

「やはり殺すか」

「こわ!」


 琉汀に睨まれた白良は、げらげら笑い転げた。


 それからいくつか会話をしたのち、白良はつむじ風のような素早さで居に戻って行った。

 鳴葉は感嘆した。


「あんなに身軽に動ける人狼もいるんだね」

「元々跳躍力が高かったんだろう」

「狼の頃からってこと? 人狼になったから素早くなったわけじゃないんだ?」

「そうだ。元々の素質が底上げされているに過ぎない。だからといって、全ての能力が底上げされているわけでもないようだ。器用なところはより器用に、不器用なところは更に不器用になるらしい」

「それでも狼よりは秀でてるでしょ?」

「能力に関して言えば、その前提は間違いだ」


 琉汀が言うには、人狼は獣の枠を外れた存在。天と地を比べるようなもの。だから、狼は人狼の比較対象にはならないという。


「じゃあ苦手だったところが、人狼になったら全然できなくなることもあるの?」

「おそらくな」


 鳴葉は生まれたての子ヒツジのように震えた。自分の一番下手なことが、いずれ目も当てられない有様になってしまうのが悲しかった。

 琉汀は哀れな子ヒツジと寸分の隙間なく密着した。


「だから、より己の実力を正確に掴まなければならない。気合で上手くいくならいい。が、そうであれば賢さは不要だろう?」


 鳴葉は後ろ足で琉汀を軽く蹴った。耳穴に呼気が触れてくすぐったいのだ。


「がむしゃらに狩りしたって成功しないもんね。たとえ成功したとしても、運に助けられたのが大きいと思う」

「そうだな。では能力の低さに気づいたら、鳴葉はどうする?」


 鳴葉は舌を垂らす。彼は琉汀と出会った日から、その気づきを毎日味わい続けている。


「自分なりに考えたうえで、頼れるひとに頼るか、相談する」


 琉汀は破顔した。


「それがわかり、行動に移せるのであれば、少なくとも愚鈍ではないさ。愚鈍なものは己の行動を省みないし、省みたとて己を正しく評価できない。さ、次は脚を開いて」

「ええ? もういいよ。ずっと琉汀の下にいたから、体の全部に君のにおいがついてるよ」

「よくない」


 琉汀が眦を鋭くして言うので、鳴葉はしぶしぶ脚を開いた。


「しかし、獣の体は面白いな」

「なにが?」

「外見で雌雄が判断できないだろう」


 鳴葉の眉ひげが跳ねた。

 獣の性別はにおいで判断する。もし見た目で判断するとしたら、普段隠している局部をさらけ出さなければならず、通常、それが許されるのは交尾の間だけだ。


「君はびっくりすることを言うね」


 そんな雑談を交えながら、鳴葉は耳の先から尾の先まで、琉汀によるにおい付けが行われたのだった。

 琉汀は鳴葉の口吻を甘噛みすると、ようやく彼を解放した。鳴葉は横たわる琉汀に背を預けながら、暮れゆく空を眺める。


「さっきの話は教訓?」

「どちらかといえば自戒だ。明日は我が身と思って胸に留めておけば、同じものになりにくい。……私は、そういうものにはなりたくない」


 琉汀は秘め事を話すようにささやいた。


 橙色が木々の向こうへ消える。太陽が姿を隠したあとは、月を好むものの出番だ。

 方々から声が聞こえ始める。夏はまだ先だというのに、賑やかなカエルの声が途切れず続く。白良の縄張りから狼の遠吠えが届いた。これから狩りを行うらしい。頭上を縄張りにしている獣は寝入りの準備をしているのか、ぼそぼそと話しをしているものの、多くは枝の上でカメのようにじっとしている。


 洞窟から移動するあいだ、鳴葉の目には見覚えのある獣が少ないように思えた。現に頭上の獣が何か、鳴葉は未だわからずにいる。見慣れた獣はシカとイノシシ、コウモリだけだった。姿形が似ていても、角が生えていたり、色や鳴き声が違ったりしていたので、いつもと異なる獲物を食べるのはやや躊躇した。


 鳴葉は寝返りを打つ。琉汀の腕に触れると、彼女は瞼を下ろしたまま尾をぱたりと動かした。起きているけれど、会話するつもりはないらしい。

 鳴葉は自分の口先を舐めて仰向けに転がった。すると、琉汀は風のような速さで鳴葉に覆いかぶさる。


「私をあおってないで早く寝なさい」

「あおってないよ。寝転んだだけ。琉汀、僕の運命はやっぱり狼だと思うんだけど」

「間違いなく人魚だ」


 細いひげが上を向いた。

 鳴葉は琉汀を甘噛みしながら言う。


「そういえば、今日はまだ君の毛づくろいしてない。これからしてあげるね」

「しなくていい」

「しなくていいだって? それは僕にされたくないってこと? それなら明日も明後日もしない。ずっとしないよ。僕は君の嫌がることはしないんだから」


 鳴葉がいやにきっぱり話すので、琉汀はかなり長いこと唸ってから体を退かした。


「鳴葉。お前、実はすごく疲れているだろう?」

「疲れてないよ! だからほら、寝転がって。早く。終わったら寝るから。それならいいでしょ。毛づくろいしたら僕も君も気持ちよく眠れるよ。それに琉汀は、心の底では僕に舐めて欲しいと思ってるはずだ。違う?」


 鳴葉がそう問うと、琉汀はお手上げとばかりに腹を上にして転がった。



 深夜。彼は自らの運命――鳴葉を見下ろしながら、舌なめずりをした。

 鳴葉は知らないだろうが、彼は今までも密かに鳴葉を眺めていた。一度だけでなく、何度も。鳴葉が川に入れば、魚の姿で共に泳いだ。彼が家族とじゃれ合うときは、水面からそうっと頭を出して見守っていた。

 だが、どれも陸に上がる前の話だ。


「……」


 彼は健やかに眠る運命の頬を撫でた。

 その手は確かに、雄の人狼のものだった。

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