06 朝日

 推しの半裸が朝日を浴びて、とてつもない神々しさを全身から放っているのを目の当たりにして、私は思わず言葉を失ってしまった。


 え。何なの神々しいとか、尊いとしか形容のしようのない、この風景。出来ればもう目の奥に、焼き付けておいてしまいたい。


 芹沢くんはあまりに暑すぎるエアコンの壊れた部屋を出て、部屋に入った途端すぐに脱いでいたというのに、既に湿ってしまった黒いTシャツを身に付けたくはなかったようで現在半裸だ。そして、私と順番にお風呂に入ってから髪を拭く用の白いタオルを、首に掛けている。


 私の推しの尊みが強過ぎて、正視出来ない。けど、事あるごとにチラチラ視界に入ってしまう割れた腹筋が、本当にすごい。


 芹沢くん本人にきっとジムに行ってるよねと確認しなくても、身体を鍛えるためのジムには確実には定期的に通っていると思う。良い身体過ぎて、何かと意識するしかない。


 もし、私の心にシャッターを押せる機能があるならば、毎秒百枚のスピードで連写して撮り続けたい。待って。でも、もしそれなら動画の方が良いかもしれない。


 運悪く元気が出ない時とか私が明るくなりたい時なんかに、いつでも取り出せるようにしておきたい。


 あ。そもそもそんな高機能な性能、私の心には最初から搭載されてなかった。写真か動画か悩む時間、なんだか、無駄だった。


 慌てて用意したお泊りグッズが入ったトートバックの底に入っているはずの、私のスマホで芹沢くんを撮影したい……ううん。ダメダメ。


 私が所属する『芹沢ガール』、彼のファンたちの不文律を思い出す。


 芹沢くんは、実は写真嫌いでとても有名なのだ。私たちはそれを知っているので、決して彼にカメラのレンズを向けることはない。


 そんなことをすればただ彼の傍に居ることも、許されなくなってしまうから。


 芹沢くんはミスターコンの優勝者にもなったというのに、主催者が是非にとお願いしても必要枚数以上の撮影を、絶対に拒否したという剛の者だ。


 私がもし、そんなコンテストの参加することになったとしたら何枚も撮って貰って、その中で一番良いものを選ぶ。出来るだけ良く見せたいので、奇跡の写真を撮れるまで何時間も粘ってしまうかもしれない。


 けど、芹沢くんはそんな行き当たりばったり、一期一会の写真だったとしても、他の参加者より群を抜いて格好良かったことだけは付け加えておきたい。


 万が一にもデータが消えてしまわないように、ミスターコンの運営サークルのホームページから保存した画像のコピーは、永久保存版だ。


 ミスターコンに出る前から、もう既にミスター優鷹と影で呼ばれていたりしたので、もし芹沢くんが出て居なかった場合、芹沢くんが真ミスターで優勝者が偽ミスターとか呼ばれたりして、よく分からないイケメン同士の要らぬ争いを引き起こしそう。


 なので、私の推しの芹沢くんが名実ともにミスターで良かった。これって全部、私の妄想でしかないけど。


 私は彼のファンの一人、芹沢ガール。自称をする時もあるし、周囲だって私のことをそのように認識している。


 あれだけ、いつも芹沢くん芹沢くん言っていたら、それはもう無理もない話で。もし、テレビでしか観れないはずの推しが、大学で同級生だったならとご想像頂きたい。同じ大学に居るというだけで、浮かれるしかない毎日だったのだ。


「水無瀬さん……? ね。どうする? 朝ごはん」


 朝日に照らされた推しの半裸姿に惚けてキュン死寸前だったところ、隣を歩いていた芹沢くんは何回か私に話し掛けてくれていたのか。返事の帰ってこない私に、とても不思議そうだ。


 え。もう、何度でも言いたい。朝日に照らされる半裸の推し、最高……私なんかに話掛けてるの絶対おかしい。勿体ない気がする。


 ていうか、私たち付き合う……んだよね? これから、付き合う……んだよね?


 やばい。理解不能過ぎて、過呼吸起こしそう。


「水無瀬さん……どうしたの? 昨夜ろくに寝てないもんね。流石に眠い? 俺んち、すぐそこだから」


 そうして、彼が指差したのは、駅前の高級マンションだった。


「えっ! 待って。芹沢くん、ここに住んでるの……?」


 駅近だし、新築だし、お洒落。それは、この辺りでは有名な、デザイナーズマンションだった。一番安い部屋だとしても絶対に、私たち大学生のバイト代程度では賄えぬほどに家賃は高い。


 芹沢くんは、自身のことをあまり多くは語らない。


 偏差値が高過ぎる都内有名高校出身であることは知っているけど、それ以外は不思議なくらいに謎に包まれた男。


 私は彼のことをそこまで知らないけど、こんなにも好きなのはおかしいのかもしれない。誰かにおかしいと言われても別に構わないくらいには、芹沢くんのこと好きなんだけど。


「うん。そうだよ。後から食べるものは、俺が適当に買って来るから。先に寝てて良いよ……エアコンの壊れた部屋で、今まで良く眠れたね。女の子には少し危ないかもしれないけど、俺なら漫喫を選ぶ」


「この辺りって、オフィス街近いからビジネスホテルも高いし……芹沢くんがさっき言った通り、個室じゃない漫喫で寝るのも怖いなって思っちゃって。この夏に使えるお小遣いと秤に掛けて、暑さを耐え忍ぶことを選んだの」


 今年の夏を楽しむために、私はある程度のお小遣いを貯めていた。


 可愛い水着も欲しいし、良い感じのサンダルだって。鮮やかな色のサマーワンピース。既にどれを買うかまで、目星だって付けていた。


 一夜何千円かのビジネスホテルに泊まってしまえば、手に入るはずだったものがひとつひとつ泡と消えてなくなってしまうのだ。それならば、私は猛暑でのクーラーのない部屋での一夜を選ぶ。ちょっと意味合いは違うけどお洒落は、我慢。


「はは。だから、耐え難きを耐えていた訳だ。水無瀬さんって、本当に面白いよね。俺も息抜きしにコンビニに、行って良かった。あの時に俺が行かなかったら、そういう部分だって知らないままだったし」


 芹沢くんの意見には、こうして奇跡的な棚ボタで推しと付き合うことの出来た私も、激しく同意する。


 けど、前半部分には、ひとつ訂正しておきたい箇所もある。


「私って、面白くないよ。そうやって知らない内にハードル上げられると、なんだこいつ面白くなかったって思われるの嫌だから。これから、私と付き合うにあたっては、出来るだけ、ハードルは下げておいて欲しい」


 私の切実な要望を聞いた芹沢くんは、ポカンとした呆けた顔になった。間の抜けた表情になったとしても整っている印象が変わらないという、常人には信じがたいチート。


「……ハードル下げるって、どのくらい?」


「うーん。出来れば、地面スレスレになるくらいの高さまで低く。足元あたりくらい?」


 芹沢くんの住むマンションのお洒落なロビーを抜けて、歩きつつ私は足元のミュールを指差した。


「それって、なんでも面白いってことになるね? 俺には、水無瀬さんが箸が転がしても面白くなれってこと?」


 芹沢くんはエレベーターの上へとあがるボタンを押しながら、笑いを堪えるような表情になった。


「うん。そうしたら、面白いっていう点を期待されて付き合っても、絶対にガッカリされないでしょ? 芹沢くんは、私がこうだったら良いなって思ってた通りだったの。本当はすごく優しいし、良く喋ってくれるし。妄想通りの期待通りだった」


「……俺のことが優しく見える女の子って、多分。これからは、水無瀬さんだけかも」


 鍵を開けて部屋へと入っていった彼に、意味ありげな言葉の真意を尋ねることは、私は何故か出来なかった。


 そうして、私たち二人は芹沢くんの部屋で、めくるめく甘い三日間を過ごすんだと思ってた。思ってた。うん。そうなの。


 私は、そうなると思ってたんだけど。


 けど、実際のところ、せっかく二人で一緒に夜も過ごすのに、すごく健全っていうか。とても、そんな雰囲気にはならなかった。


 何故なのかというと。そもそも大学は夏休みだというのに、芹沢くんが実家には帰らなかったのは、夏休み中に尊敬している教授のゼミの皆で参加するインターカレッジの討論会があったから、そのために自分の部屋に残っていただけってことだったらしい。


 ということは、エアコンの効いた芹沢くんの部屋で、私は一人で課題なんかをこなしながら、だらだらとしながらまったりと過ごす。彼は山積みの課題から、研究や討論会の準備などなど、パソコンの前でとても忙しそう。


 法学部に通う彼が勉強に使う分厚い法律関係の本が積み上げられてはいるものの、センス良く片付いている部屋。白い大きな壁にはプロジェクターで大きな映像が映し出され、とてもお洒落な雰囲気。


 どこをどうすればこんな風になるのかわからない私には、ここにある物をすべて無償で与えて貰っても、こんなにも良い感じの部屋には出来ない。


 芹沢くんって、本当に何もかも恵まれすぎだと思う。


 ゼミの課題で忙しい芹沢くんは、本当に忙しくて出たり入ったり。やっと部屋に帰って来たと思ったら、必要な資料を取りに来ただけだったりもした。


 ところで、世界で一番尊いと思える男性と付き合い、一時的にとは言え同居をしている私としては、そんな彼にはだらけている姿を絶対に見せたくはなかった。


 もしかしたら、芹沢くんが帰って来るかもしれないと思うと、化粧も落とせずに寝てしまうしかない。


 まだ帰って来ない芹沢くんの部屋のふかふかのお布団からは、彼の匂いがしてまるで彼自身にだっこされているかのようで、それはそれはとても幸せだった。


「……水無瀬さん。なんで、化粧落としてないの? 昨日、寝落ちでもしたの?」


 研究室に泊まり込みから朝帰ってきた芹沢くんは眠っていた化粧を落としてない私を見て、不思議そうに言った。


 触り心地の良いベッドシーツに化粧が付いてはいけないと、私はバスタオルまで布団の上に敷いていた。これは生半可な言い訳では、彼の問いからは逃れられない。


「だっ……だって、芹沢くん。帰って来る時に、連絡ないし……いつ、帰って来るかわからないから」


 起き立ての寝ぼけた頭では、ここは芹沢くんの家で私はただ彼の好意で間借りしているということは計算出来ない。家主の彼が突然帰って来るのは、自分の部屋だから当たり前なのに。


「……え? どういうこと?」


 芹沢くんは私の主張が、よく理解出来なかったみたいで、眉を寄せてより不思議そうな表情になった。


「だっ……だって! 寝る時に化粧してないって、すっぴんだよ。芹沢君に、すっぴん見られるの……やだ」


 私は化粧をしてない顔を好きな人に見られてしまうのは、絶対嫌だ。思わず涙ぐんで彼を見上げたら、芹沢くんは一瞬だけ驚いた顔をしてから、パッと笑ってくれた。


「やば……かわい。あの時も、すっぴん見られたくないって何回も言ってたもんな。俺が気が利かなくて、ごめん。ここ帰って来る前には、絶対に連絡するから。寝る前は、化粧落としなよ。お肌に悪いから。ね?」


 そして、甘やかすようにして、背中をポンポンされて抱きしめられた。なんて役得。自分勝手なワガママを、ただ言っただけなのに。


 え。これ、推しとイチャつくのが、日常になるの? ときめき過ぎて、毎日キュン死んじゃう。


 そんなこんなで、私は連絡無精な男性から、こまめな帰宅連絡を勝ち取ることが出来たのだ。


 私に帰りは遅くなるから先に寝てて良いよという多忙な芹沢くんは、ゼミのインターカレッジの討論会の準備が立て込みたまに会えただけだった。


 そんな多忙な彼に付き合いだしたばかりの私とえっちなことしませんかなどという、とても恥ずかしい事を言い出せるような、余裕の隙間など一ミリもなく……。


 芹沢くんの多忙過ぎる日常は、私の部屋のエアコンが直る日まで続き……あっという間に自分の部屋へと、帰る日になってしまった。

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