yomaigoko

@asaasaasa_5han

第1話

 澄んで深い青色とガラスのような茶色が頭の中を交錯する。あれは君についての記憶。知っている。懐かしく胸に刻まれた思い出。もういいなんて言えずに昔かわいがっていたぬいぐるみと同様にこれから何度も何度も思い出して取っておくのだろう。君の残像と瞳はどうあがいても忘れられはしないのだから。


 胸のあたりがおかしい。縮こまったようにぎゅっと胸を掴まえられて石のようになった気がした。そして一呼吸するときに痛みはひどくなる。朝だ。朝が来たのだ。

 ことの始まりは出勤前のある日。私は世間にもうんざりし、自分にもうんざりするようなやけに眩しい朝だった。一通のメッセージが届く。それは、確か会ったことがあるようなないようなそんな男からの連絡だ。ひとこと。

「この間、図書館で君みたいな人がいた」

 なんだそれ。私は呆気にとられて笑った。そうですか、と淡々と既読をつけずに通知で内容を把握し、私は会社へ行くためにぼろぼろのパンプスを履いた。


 私は会社に着くと、作業用のカーディガンを羽織り、コーヒーを一杯入れて飲んだ。かじかんだ手が温まる。私はいつも早く出社して遅く帰る。というのも、守るものがないからだ。みんな、友達がいるか、恋人がいるか、はたまた子どもがいるか。まあ、なんにせよ人と密な関係があり、それを保持するために働いているのだ。生活というものは人なくしては行えない。社会もそうだ。ドアを開ければ、もうそこは社会。そう、私はいわゆる社会不適合というやつである。

 そういえば、彼には血迷って送ったんだった。私から。

「最近どう」

 そっけなさそうに見える文字列でもそうでない。メッセージアプリの友達かもしれない欄。彼はその中にたまたま残っていた。はっきり言って友達ではない。何度か言葉は交わしたことがあるがあっちは日向、私は日陰者でクラスのグループで全員「友達かもしれない」欄に入っているのだ。ただそれだけ。

 コーヒーのほろ苦い味と熱で舌が馬鹿になっている。。

 そうだった。あのとき私はメッセージを送信したことがとても恥ずかしくなって、通知と削除をした。私は卑怯だからもしかして返信が来るかもと思ってブロックはしなかった。それで彼は律儀に返信をしてきたのだ。

 まあ、どうでもいい。私は日々のために金銭を稼ぎ、私のためだけに生きるのだ。君は関係ない。私は重くなった体をデスクチェアに委ねて息を吐いた。


 ところが、思わぬことがあった。

 私は彼を例の図書館から離れた書店で発見してしまった。そこは地元では端のほうにある大きな本屋さんで書籍だけでなく専門書や文房具など雑貨も豊富に取り揃えてあるのだ。そして、なにより大型系列店のコーヒーショップまであるときた。

 ここは私の唯一の憩いの場だったのに。すごく気まずい。だって、あれから私には返信がなく既読すらついていないのだ。どう考えたってスルーされたということだろう。人間関係の弱さをそこに見る。こんなときどう対処にていいかなんてわからない。

 彼が動くときにそれが彼だとわかってしまった。あの横顔。綺麗なストレートでないくせ毛。服にこだわりがあるのかないのかわからない服。気が付かなければよかった。髪はいまだに少し長めらしい、いたって中肉中背な彼は昔の記憶よりも手が年相応にしっとりしていた。その手がある画集を数冊、きれいに連なっている売り物の本の上に適当に積んでじっと眺めている。別の意味で目を離せなくなった。彼はそんな人間だったかな。私は目を疑った。やばい、このままじゃ気が付かれる。主に店員さんに。

 だが、時間も未来も待ってはくれない。

「あの……お客様」

彼は人懐っこそうな表情を浮かべてはいと訊ねた。

私はとっさに彼の前に躍り出て、

「違うんです、この人は私の本を探してくれていてそれで」

と言ってしまった。関係があるふりをしなければよかったと後悔するも遅し、彼も店員もいぶかしげに私を見やった。

「あーなんだっけ。ウォーターハウス? なかったよ」

彼は突然さわやかに笑い、私に話しかける。正直、無理があると思う。

「申し訳ありません、お客様。ウォーターハウスの画集でしたらお取り寄せができますが」

「今回は見たかっただけなんで大丈夫です。ありがとうございました」

彼は簡単に会釈をし、丁寧に本を持ちながら棚に戻す。さっき画集の山の乱雑さはなんだったのかと疑いたくなる。私はひどく疑問が顔に出ていたのか、店員が立ち去るとすぐに彼が口を開いた。

「檸檬だよ。梶井基次郎の」

「なんだっけそれ

「画集を積んで、その上にレモン置いて爆発させる妄想をする男の話。俺、そのテスト九十九点だったんだよな」

この人、昔は僕って言ってた気がする。そんな軽い違和感と時の経過を覚えながら、レモンとやらがわからないことに焦りを感じた。

「だから悔しくてたまたま覚えてたんだ。君のこともあんまり話さなかったけど覚えてたよ」

ほら、二つ結びしてたじゃんと髪を二つにくくる手の動きをする。こういうところが憎めなくて人気なのだ。そして私は苦手だ。

「覚えていてくれてありがとう。それと変なことしてごめん。じゃ、元気でね」

 こういう人とは関わりたくない。私は、自分が人生の落伍者であることを思い出して、踵を返した。とたん、袖を少しだけ引っ張られた。

「助けてくれたんだからお礼ぐらいさせて」

 そういって、そういうことするつもりなんでしょ。私は冷えた心で彼を見つめた。この人もか。もう私だって若くない。それくらいのことわかる。主に男性は関心のある人物にしか声をかけない。

「ううん、明日仕事あるから」

 私のそっけない態度に折れたのか、困ったように笑って「頑張ってね。俺も頑張る」とだけ言って彼は立ち去って行った。

私がふっと息をついて今日はもう帰ろうとしたとき、見覚えのある姿が出口に立っていた。嬉しそうに軽い長めのコートの裾が舞う。

「コーヒーよかったら。このくらい受け取ってよ」

とひらひら手を振りながら彼は帰っていった。私は茫然と立ち尽くし、手のひらがじんわりあたたかくなりほぐれていくのを感じた。

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