お可哀想な水揚げでなくてよ

いすみ 静江

お可哀想な水揚げでなくてよ

 数多あまたある私達は、瓶の中に闇を閉ざした空間を抜けて、青い星に向かう。

 水をとうとうと湛える碧江ビージィァンくるわに集うためだ。

 こがねの船着き場で、親友よりも親しい神友しんゆうとお茶をしていた。

 旅立つ前の喉が詰まるような名残惜しさを分かっているから。


神美シェンメイさん、領巾ひれの朱が肌を焼いていてお似合いですよ」


 私は、長い布一枚を泳がせて、透き通った肌を通していた。

 白湯を覗くと、髪も瞳も情熱的な赤みが流れていると分かる。

 冬を知らない炎のような天女てんにょになるだろうと、オババから授けられたものだ。

 新しい星の門を潜るのに甘いころもが要るらしい。


「白い領巾ひれが綺麗だわ。雪蘭シュェランさん。音もなく降り積もる雪の静けさからなのでしょうね。髪も清純な山のように白く長いし、それに反して瞳は川のように青い」


 身を乗り出して話していたら、私の結い上げた髪から歩揺ほようが零れそうになったので、直した。

 湯に口を付けると、井戸の水より少し熱いだけで飲み難い。


「雪蘭さん。天の川を渡ると直ぐにしろがねの船着き場があるらしいですね」

「はあ、そこからは泳がないといけないらしいのよね。神美さんは文武両道だからいいけれども、あたしは、領巾が難しくて」


 彼女が頬に手を添える前に、私がそっと包んだ。


「溺れたら、助けるわ」


 店の外が賑やかになった。


「とうとう、運命の旅が始まりますね。行きましょう」


 雪蘭と光り輝く船に固唾を呑んだ。

 皆に引き続き、私達も乗り込んで行く。

 彼女はひとたび振り向いたが、私は故郷に未練がなかった。

 部屋を確認して、雪蘭と中で腰掛ける。

 硝子を吐息と手で拭うと、小さな窓から新しい世界を眺めた。


「遠くの星が流れて行きますね。時折ある無情の世界は、私の心を凍らせてしまいます」


 大小ある船が雁のような隊列をなした。

 金に輝く星雲から、銀が瞬く星の群れへと一斉に飛び立つ。


「この旅券は、切ない大人へ向けたものなのでしょう」


 私はまだもっと大きな世界を知りたいと窓へ首を伸ばした。


「神美さん。かの星では天女と呼ばれるのよね」


 束の間でも囁きながらの航行は、心にある暗黒星雲を遠ざけた。


「碧江に着く頃には、七夕に彩られていて、美しいと聞きましたよ。そこには、伝説の物語があるらしいです。オババによれば、旦那様を求めるのに吉日だそうです」

「神美さん。星の膜を突き抜けるとき、ヒトの姿となれるかしら。あたしは、自信がないわ」


 中には命を落とす者もいるとオババから聞かされていた。


「オババから教わった念を忘れなければ大丈夫ですよ。寧ろ、柳の下で将来を約束することが、もっと大切なことでしょう」

「そうね、神美さん。旦那様に気に入っていただけるように、お手入れに忙しないわね」

「故郷に帰ったら、雪蘭さんのご家族もお喜びですね」


 ――ピピピ。


「永眠詠唱の時刻となりました。領巾を忘れずに各階級ごとにお集まりください」


 階級の響きにはっとする。

 

「実はね、雪蘭さん。私は二階級なので、貝は二人乗り用の切符なのです」

「奇遇だわ。あたしも同じなの」


 階下への白い階段を降りると、氷のような山を囲むように二枚貝が描かれていた。


「神美さん。あたしと眠るわよね」

「同じ年の娘達ばかりだけれども、私には雪蘭さんしかいないですよ」


 私が左の貝を目印にして、仰向けに寝る。

 すると、隣に雪蘭が横たえた。

 青い山の周囲には、五十対程の天女候補が領巾を流す。


「碧江へ旦那様と柳の下へ」

「碧江へ旦那様と柳の下へ」


 娘達と同じく唱えると、山の上から冷風が降り、一瞬にして身体を凍らされてしまった。


「これが、航路での永眠なのですか?」


 隣にいる雪蘭の無事を確かめたいが、指先も触れられず、まばたきひとつできない。

 そのまま意識が遠退いて、眩しいばかりの氷の中を私が去った。


 ◇


 ――ピピピ。


「銀の船着き場です。解凍されましたので、領巾で星の合間を泳ぎ、廓を目指してください」


 私達は、僅かに薫りの異なる海へ投げ出された。


「雪蘭さん。船酔いは大丈夫?」

「ええ、長い夢を見ていた気分よ」


 私の夢は意外だった。


「飼っていたコリスサの水入れを幾度取り替えても空になり、世話をしても何匹もの子達が倒れてしまいました」

「まあ、あのちいさな。お可哀想にね」


 内心、彼女との死に別れを恐れているのだろうか。


「ここで、お別れね」

「ええ、また会いましょう。雪蘭さんのことは、神友だから」


 故郷よりも神友に後ろ髪を引かれる。

 彼女を振り返ると、雪を被った髪を闇の中に梳かして行った。


「消えてしまう。いつも繋がっていると思っていたのに」


 雪蘭との想い出が駆け巡った。

 私は頬を拭う。


「碧江を目指すしか、胸の風穴は変わらないでしょう」


 気を取り直して、領巾にふんわりと身を任せると、光輝く澄んだ星が飛び込んできた。


「沢山いると思った仲間達も広い世界では煌めきのひとつにしか過ぎないのですね」


 雪蘭はどうしているだろうか。

 溺れたりしていないだろうか。

 彼女は領巾の絡め方が苦手なだけで、大丈夫だとは思う。


「た、助けて……。お願いしますわ」


 後方から耳に懐かしい声がした。

 心と心が水を弾くように通じ合っている。


「雪蘭さん! どこにいるのですか?」

「小さな星に引き摺られるわ」

「急いで領巾を腹側に通してください」


 私は進む先から眩しいばかりの光を浴びた。


「もう少しで碧江のある星が大きな力で寄せてくれます。光を目指して」

「いやあ! 領巾が絡まって足から持って行かれるわ」


 私だけが碧江に辿り着いても意味がない。


「救いに行きますから。――幸せにしますから!」


 強く念じたそのとき、正面の大きな光が欠けて、黒いもやが漂った。

 私は身の千切れる思いをした途端、闇を端折る。

 空間の線を捻じ曲げて繋げた。


「雪蘭さん!」


 小さな星に足を奪われている雪蘭の背に回り込み、絡まった領巾を腹側に上手く巻き通す。


「神美さん。怖かったわ」

「もう、大丈夫です」


 彼女の震える肩に手を置く。

 あたたかみはない筈なのに、しっとりと汗ばんできた。


「こ、怖かったの」


 俯きがちに呟く雪蘭を見ていられなくなる。

 肩から掌を浮かせると、彼女は両手で包んでくれた。

 納得させるしかない。


「そうですね。一緒に星へ降りましょう」


 天女候補に最上級の賛辞を呈しよう。


「一番素敵な旦那様に水揚げされると思いますよ」


 私が笑顔でいればいる程、雪蘭の口元が棒で叩いたように変化した。


「あたしに決闘を申し込んでいるの?」

「とんでもないです」


 首を横に振る。


「水揚げを乞いながら、漂い続けろとでも思っているの?」

「違います。雪蘭さんの真意が分かりません」

「あたしも喧嘩なんてしたくないわ」


 どうして混戦してしまったのか本当に謎だった。


「ほら、光が。大きな光に身を任せてください。碧江で、会いたいです」


 せめて、お別れは印象を悪くしたくなかった。

 神友は、雪蘭ひとりだから。


「眩し……」

「あたし、あたしね……」

「どうしましたか? 話の続きが聞こえません」


 まんまるな光が私達を引き裂いた。


 ◇


「ひんやりです」


 気が付けば水浸しになっており、着衣がひたひたに張り付いていた。

 オババの寝物語だった、輝ける翡翠の粒が狭い流れに身を任せている。


「玉は、食べてはいけないもの。見るだけにしなさいと仰っていました」


 新しい星の新しい暮らしについて、思った程考えていなかったと思い知る。


「ここは碧江のようです。周りには天女候補が誰一人いません。雪蘭さん? 雪のような神友はどこでしょうか」


 四方へ名を呼び掛けた。

 初めて知った木霊が返す。

 半身を失ったような侘しさが川の音に撫でられた。


「廓なる所へ行かなければなりません」


 よく分からないが、結婚相手を占ってくれる所らしい。

 オババによれば、柳の下で良縁が決まれば金の船着き場まで帰り、余生を夫婦で過ごすとか。


「私達、天女候補はどこで命をいただくのでしょうか。初めて疑問に思いました」


 川下の方から煙が揺らめいている。


「ヒトかも知れない。行きましょう」


 顎が前のめりになり、違和感を感じる。

 振り向けば、私の領巾を踏む者がいた。


「止めときな。廓に身を売るなんて、時代錯誤も甚だしい」


 ヒトだ。

 ひっつめた黒髪に吸い込まれそうな深い瞳で、腰巻きのなりをした、これもまた旦那様か。

 木の実や魚を括り、私を覗き込んでいた。


「どうしてですか。年頃になった私の使命なのです」

「本気で水揚げされなけりゃ、到底出られっこないぜ」


 その者は、私の二房のたわわな果実を掴み、朱い髪へも狼藉を働いた。


「これが、野郎ってもんだ。雄はそんなことしか考えていねえよ」


 私は目を逸らさずに耐える。


「雄とは、旦那様と異なるのですか」

「旦那様だと?」


 大きな声で嘲笑された。


「行きたければ連れてってやる」


 川沿いに暫く無言で歩いていたが、鼻歌が耳に入る。


「お前は上玉になる。どんなに金子を積まれても水揚げなど望めないだろう。俺がさせないがな。碧江で最上の花になるから、愛でて貰うがいい」


 川の煌めきが失せる程下った所に、廓があった。

 屋根が青い甍の波で、壁は下品に赤い格子の部分がある。


「帰ったぞ!」

「お帰りなさいませ。大旦那様」


 目に紅を引いた白塗りの化け物が追従した。


「碧江の香りを取らなければ、禁忌に触れてしまう。湯に入れるか」


 私が躊躇っていると、力づくで衣を解かれる。


「熱いっ」

「香油の湯浴みだ。贅沢だろうよ」


 重い衣を羽織らされ、体は火照りを持った。


朱鷺ときを刺した着物だ。これより格上はないと知っておけ。まあまあ似合うな」

「私の旦那様はどちらでしょうか」


 後悔が訪れるとも知らないで、呑気な考えだ。


「急くな。先ずは俺が仕込んでやるよ。奥の座敷がいいだろう」


 四角い寝屋に着物と同じ朱鷺が敷かれている。


「あの、雪蘭さんはもう着きましたか」

「知り合いか」


 大旦那がこちらをねめつけたので、私は喰らい付いた。


「ここにきたのですね」

「あれは駄目だ」

「どうかしましたか」

「雄には向かない」


 彼が急に首を齧り落そうとしてくる。


「廓では、こんなことをするのですか」

「ああ、旦那が欲しけりゃ従え。そうだ、名を訊いていなかったな」

「神美です」


 屈辱にもがきながら、ひとつ要らない無情が走った。


「俺は、浩然ハオレンだ。ここから出られると思うなよ」


 ◇


 一晩に幾人もの雄が重なってくる。


「無情です。素敵な出会いなど微塵もない。大旦那様は腹黒いですしね」


 私の旦那様は現れないまま、寒い日が訪れた。

 外では雪が降っているらしい。


「雪を知れば懐かしい彼女を想うものです」


 他の寝屋から漏れる声があるのに、一切、雪蘭の話がなかった。

 ただ、この雄の寝言は気になる。


「月の見えなくなった晩に、ほうっと白いのが廓の外に出るらしいぜ」

「お化けですか」

「おいおい、お前まで化けるなよ。柳の下は危ないってこった」


 もしかして、雪蘭かも知れない。

 お化け探しは、月が再び隠れたときに決行された。

 私は、身を潜める。


「よし、正面突破です」


 門の白塗りはどうやら眠っているらしい。

 衣擦れのないように逃げ出すと、浩然さえ追ってこなかった。


「旦那様は現れませんでした。私が廓にいる理由はもうないでしょう」


 冷たい風が耳に囁いた。


「この世の白いは嘘吐きの柳の雫に命落とされ……」


 歌声が碧江から流れてくる。

 いつも奥にいたから分からなかった。

 川上の方へ向かって、頬に風を受けつつ遡る。

 私が最初に落ちた辺りで足を止めた。


「雪蘭さん……。どうしてこんな惨い姿になったのですか」

「あたしはね、柳の下に行ったの。碧江の粒が陽にきらきらとしているのを見て待っていたわ。けれども、とっぷりと暮れても旦那様は現れなかったのよ」


 体中に切り傷や痣がある。

 私と違って遊ばれてしまったのだろうか。


「神美さんは、旦那様に会えたの?」


 首を横に振った。


「私は、神友を捨て置いて、郷に帰れないです。それに、水揚げの話はことごとく大旦那様が握り潰していました。そもそも、雄からは出会いの煌めきを感じませんでしたし」


 彼女を可哀想だと思い始めた自分に、はっとした。


「ほら、星がひとつ流れて行ったよ。神美さんならオババの話を覚えているよね。あたしは愚かだから、もう忘れたわ」

「数えては駄目ですよ。愛する旦那様の魂が流れて行くとのことです」


 星へは願いを込めるのがいいから。


「まだ、気が付かないの? いつも、あたしを分かっている?」

「雪蘭さん。どういうことですか」

「旦那様とは、帰りの舟で二枚貝に隣り合って乗るの。あたしは、一生の想いを込めてね」


 雪蘭の眉間に哀しみが宿った。


「だから、神美さんを選んだのに!」

「それは、友だからでしょう。とても親しい友達、神友として」


 雪蘭は体を起こして私の首に縋る。


「共に凍結されて、近くの船着き場までこれたわ」


 二階級の切符で仲良く隣になった。

 ときを刻むのは一瞬だったけれども、絆はとこしえだ。


「この気持ちは、旦那様への恋なんてものではないの。夫婦の和合でもないわ。神美さんの豊満な胸をあたしのものにしたいし、見聞きするもの全てあたしと同じにしたいのよ」


 雄どもは私の胸をも求めたが、それとも異なるのだろうか。


「雪蘭さんは、神友ではないのですか。夫婦とも異なり、独占したいお気持ちはあるのですね」


 右頬を叩かれた。


「惚けないで」

「落ち着いてください」


 彼女の頬を伝うものが、月もないのに輝いている。

 汚れた顔を初めて美しいと感じた。


「あたしは、あたしは、ずっと隣にいたいと思っているわ」

「雪蘭さん」


 雪の中、柳は揺れている。

 私の本当を明かさないでと揺れていた。


「水揚げは、あたしがしてあげる」

「同じ天女候補です。いずれ天女になるのですよ」


 彼女の肩越しに、身を投げるように横たえた天の川が見える。

 雪蘭が熱い吐息を寄せて口吸いを求めるのを拒めなかった。


「金子ならごまんとあるんだから」

「要らないです」


 私は旦那様を決められなかった。

 お高く留まっていた訳ではないのに。


「私を妻に欲しいのですか」

「決まっているわ」


 柳に隠れて、触れ合いを重ねていた。

 ありのままに。

 雪蘭と私の幸せを信じて。


 ◇


 そのまま、故郷へは帰らずに碧江へ残った。

 私を狩ろうとする廓の者へは、領巾で身を守る。

 ときに、澄んだ水から白湯を酌み交わした。


「雪蘭さん。二枚貝の舟で郷へ帰ろうとは思わないのですか」

「だったら旦那様と並べばいい。あたしは、神美さんともう離れられない」


 雪蘭の微笑は艶っぽさを増し、直ぐに顔を寄せる。

 同じ形の貝は、殻頂かくちょうでしっかりと繋がれているが、その危うさは千切れても不思議はなかった。

 だから、私も惰性ではいけない。


「私も……」


 私達は、オババの語り継ぐ二枚貝天女になった。



 ――お可哀想な水揚げでなくてよ。



           【了】

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