第2話 プロローグ2-カラカラ

「なん……だって?」


 聞き間違いだと思った。そうであってほしかった。頭の中がグルグルと掻き回される感覚を覚える。気づいた時には頭が真っ白になっていた。


「遺産の何割かは貴方に譲渡しますから、もう迷惑をかけないでください。お願いします」

「ちょっと待ってくれ。そんな……」


 急な話ではなかった。今までも何度か匂わせられた事があった。けど、だけど! このタイミングで言うことないじゃないか。人生の大半を失った俺に対して、あんまりな処罰だ。


 素直に何でも働きますから仕事を斡旋してくださいとだけ頼み込めば良かったのかもしれない。ああ、俺は現実と向き合うのが怖くて、いつしか楽観的に考えていたんだな。


「俺が悪かった……だから、そんな事言わないでほしい」


 謝罪の言葉を口にしながら、俺は自分の言葉に驚いていた。今まで家族のような関係は築いていなかったし、俺は憩衣に恨まれてすらいた。なのに、この期に及んで手放したくないと思っていたのだ。滑稽じゃないか。


 何故、今更こんな風に思ってしまうんだろう。何かあるとすれば……二次元の嫁を失った虚無感から、身近な人間を手放したくないという気持ちが生まれたのかな。


「ちゃんと働くよ、俺。これ以上、迷惑かけないように改めるからさ――」

「人はっ……そう簡単に変わりません」


 憩衣は叫ぼうとしたが息が途切れ、改めて淡々と言葉を紡いだ。グサリと俺の心を抉り、反論が思い浮かばなくなる。そりゃそうだ……散々迷惑かけておいて、俺の言葉は都合が良すぎる。

 感情的に怒鳴られた方が、幾分もマシだった。


「それでも――」


 それでも、心の何処かで優しい憩衣なら許してくれるような気がしていた。だからここで諦めたくない。無様でも、惨めでも、心の底から縁を切りたくないだなんて考えてしまったんだ。


「頼む! お願いします!」


 俺は義妹に対して、断腸の思いを示す土下座をした。

 ドン引いた憩衣は立ち上がり、後退りしだす。数秒経っても言葉は返ってこなかった。

 その間、俺の頭に酔いが回ったのか筋肉が緩みだし、ふらっと体勢が崩れた。しかし、そのまま這いずるようにして頼み込み続ける。

 もうこれしか手段がなかったから……。


「今からでも、俺はお前を妹として――」

「もう……やめてくださいっ!!」


 瞬間、頭に冷たさを感じた。

 顔を上げ、髪を伝い垂れてきた冷たい物が目に入ってくる。そこでようやく……水をぶっかけられていた事に気付いた。


 気弱で、大人しい姿しか見ていなかった憩衣がそんな事をしたなんて信じられず、思考が停止してしまう。

 声さえ、まともに出なかった。


「さようなら、累くん。私だって本当は、一度でもあなたを兄と呼んでみたかった……っ!!」


 最後、懐かしい呼ばれ方と共に、憩衣は会食費だけ置いて去ってしまった。

 残された俺の思考は止まったまま、刻々と時間が過ぎていく。

 やっと立ち上がれた時、水分が欲しかった俺はテーブルに置かれた一升瓶の酒を手に取る。久しぶりに飲む酒の喉越しは格別だった。


「ははっ……ははっ……」


 結局、俺は義兄妹の関係と二次元コンテンツを天秤にかけて、後者を取り続けていたんだ。

 ようやく……三十歳にもなって本当にようやく、その事実を自覚できた。馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。どう考えても、俺が異常者じゃないか。


 残念イケメンだなんて言われても、意趣返しのつもりだったのか俺は信念を曲げられなかった。そのままズルズルと引き摺っていく内に、本当に気が狂ってしまったのかもしれない。


「本当だったら、もっと良い兄弟関係が築けたのかもしれねぇのに……あーあ、勿体ねぇの」


 そう、二次元に夢を見ていた睦まじい兄妹関係……憧れていたはずなのに、何も行動に移せなかった。自業自得だ。全部俺が悪い……責任転嫁しようにも憩衣を責めるのはお門違いが過ぎて出来なかった。


「だっせぇ……の」


 ふざけた信念を貫いた先で、こんなにも寂しい気持ちを抱くなんて思ってもいなかった。

 未練になってしまったのだろう。


 振り返ってみれば、そう……あの青春時代には……多くの後悔があったじゃないか。

 けれど、あまりにも遅過ぎたみたいだ。俺が頑張っていれば、二次元に逃げなくても叶えられた事はあったかもしれないのに……もう絶対に叶わないのだから。


「ははっ、顔が良過ぎたからきっと神様にナーフされていたんだな、俺」


 完全に酔いが回って、もうまともな思考が出来なくなってきた。

 仰向けになると、天井の照明がギラギラと眩しい。

 手元のグラスに残る氷がカラカラと音を立てて溶けていく。

 空っぽになった一升瓶がカラカラと音を立てて転がってゆく。


「願わくば、あの青春時代にーー」


 カラカラと、何かが音を鳴らしている。

 走馬灯なのか記憶が光速で脳内を駆け巡り、本能的に死を感じた。そして、最後に誰か見たことのある顔が目の前に――。


「……誰?」


 そのまま再び世界が反転するように、目に映る光景が一変した。



 ***



 ピピッと鳴り出すアラームの音が煩い。視界にはいつもと違う天井がそこにはあった。いや違う……いつもと違うが知らない天井ではない。それに、アラーム音も聴いたことのある煩さだ。


「……えっ」


 目を覚まし部屋を見渡すと、信じられない光景があった。昔、俺が暮らしていた部屋と全く同じだ。

 すぐにスマホを探し手に取ると、更に驚くべき情報に眩暈がした。


「なんだよ……これ」


 スマホの画面には十年以上前の日付が映されていた。何年前だろうと考えるまでもなく丁度、俺が高校を入学した年だと覚えている。

 二次元コンテンツを愛していた俺には、すぐにこの現象を理解できた。


「……時間遡行」


 もう二度と戻れないと思っていた、懐かしき青春時代へ戻ってきたのだ。


「ははっ……はははっ……マジかよ、おい」


 乾ききった笑いが止まらない。

 もしかしたら俺、やり直せるのかもしれない。


「夢じゃないなら、いや夢であっても……頑張ろう。頑張るしか……ねぇだろ!」


 今度こそは、珠姫と憩衣の仲も悪くならずに、俺との兄妹関係も上手くいくかもしれない。


 窓から差し込む陽の光。きちんと掃除されている部屋の綺麗な空気。ここには、希望が満ち溢れていた。

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