perfect reversaI

七条ミル

imperfect reversal

 本末もとすえ真夜まやには双子の妹の記憶がある。

 一番初めの記憶はその妹と二人で喧嘩した記憶であり、そのときについたやや大きな傷のあとは未だ左の脛に残っている。

 けれど、誰もその妹のことを覚えていない。

 異変に気が付いたのは小学三年生のとある日。ある朝起きると妹の朝陽は跡形もなく消えていた。はじめは、みんなが心配をして、みんなであちこちを探し回った。警察も動いて、ニュースで報道されたりもして。

 けれどいつの間にか、そんなこと忘れてしまったかのように、普通の日々が戻ってきた。誰も瑕に気づかず、それが完璧だと思っている。真夜が双子が居たなどと口に出せば、冗談言わないで、と呆れられる。それが何年も続いた。

 中学校になっても、高校になっても、それは変わらない。いつでも真夜はたった一人の娘として扱われ、誰一人として朝陽のことを覚えていない。

 ――どうして。

 それが分かったら、真夜だって納得できている。ただの自分の妄想の産物だと言うのなら、じゃあこの怪我はいったい何なのだろう。二人でずっと一緒に居たあの日々は。

「では、本末さん。……本末さん?」

 はっと、真夜は顔を上げる。高校の、普通の教室。本当なら近くに朝陽が――双子だからそれはないのかもしれないが――いたはずで。

 ぼんやりとした頭で教師が指さす問題の答えを読み上げ、一つ息を吐く。

 ――信じられないな。

 何もかもが。


 家の近くに、小さな山がある。そこが、真夜が一番気に入っている場所で、唯一落ち着いていられる場所だった。日本にある以上は誰かの土地ではあるのだろうけれど、真夜はそれを知らないし、その誰かが真夜を注意するようなことも無い。もう何年も真夜はこの山の上でぼんやりとしていて、そうして答えはいつまでも出ないままでいる。

 もしかしたら、いつかは自分も朝陽のことを忘れてしまうのかもしれない。

 自分の一番大切な人。自分の半分。

 忘れたくはない。忘れたくなんかないけれど、いっそ忘れてしまえれば楽なのに。

「はは」

 乾いた笑いが漏れる。いつまでも忘れることなく、朝陽の、自分によく似た笑う顔が頭にこびりついて離れない。真夜にはできない、キラキラとした笑顔。誰にも、愛される笑顔。

「何が面白いんです」

 びくりと、真夜は身体を震わす。とうとうここの持ち主が来たのかと振り返れば、どうやらそういうわけではなさそうだった。

 立っているのは、真っ黒な、まるで喪服のようなスーツを着た若い男。学校へ行ったら女子生徒にモテるのだろうな、とどうでもいいことを考えて、やめる。

「何も面白くない」

 本当に、何も。

「ではなぜ笑ったんです?」

「バカバカしくなったから」

 全部が。

 男はゆっくりと真夜の近くまで歩いてきて、そして横に座った。

「どうも、黛と申します」

「はあ」

 曖昧な返事をして、黛から視線を外す。夕方だ。オレンジ色に染まった空が綺麗な夕方。

 暫く、黛は何も言わなかったが、やがて真夜が名乗る気が無いと分かったのか、ゆっくりと真夜の視線を塞ぐように前に立った。

「本末さん?」

「どうしてそれを?」

 訝し気に、真夜は尋ねる。こんな知り合いはいない。

「一つお尋ねしたいことが」

「何?」

「あなたは、朝陽、という女の子を知っていますか」


 喫茶店という場所に来るのは、これが初めてだった。染みついた煙草の煙が、今は誰も煙草を吸っていないというのに残っていて、特有のにおいが鼻を抜ける。客は少ないが、いないわけでもない。大体みんな、珈琲を飲んでいた。

「二人なんですが」

「どうぞ」

「どうも」

 黛が先に座って、真夜はその向かいに座った。

「珈琲ホットと、貴女は?」

「じゃあ、カフェオレ」

「カフェオレで。――それで」

 店員の方を向けていた顔を真夜の側へ向け、黛はじっと真夜の目を見た。

「あなたは朝陽という人のことをどこまで知っているのです?」

「どこまでって、何?」

 生まれとか、育ちとか、居なくなるまでのことなら大体なんでも知っている。ずっと一緒に居たから。好きなものも、殆どが一緒。入れ替わっても、もしかしたら気づかれないかもしれない。そういう意味では、殆ど全てを知っていると言ってもいい。けれど、身長体重とか、そういうことは知らない。覚えていない。ただ、顔はよく似ていた。

 真夜は、じっと黛の目を見返す。

「いえ、同じ朝陽でも、他人である可能性もありますから」

「……私の、双子の妹。顔は、今は知らないけど、殆ど一緒」

 そんな人間、存在しないらしいけれど。

「そうですか。それはよかった。私の知っている朝陽と、どうやら同じようです」

 黛は満足そうに頷いて、懐から煙草を取り出した。

「おっと、吸っても?」

「父が吸っているから」

「どうも」

 ジッポというのだろうか、金属製のやや重そうなライターの火が煙草に移って、どこか甘いようなにおいが漂いだす。

「どうして妹のことを知ってるの」

「どうして、というと?」

 ――だって。

「もう誰に聞いても、私に双子の妹なんて居なかったって言うのに、それなのにあなたが――」

「赤の他人であるはずの僕が君の妹さんのことを知っているのが不思議、と。気持ちはよくわかりますよ」

 僕にも不思議ですから、と黛は顔を逸らして煙吸って、吐いた。よく見ると、顔は整っている。やっぱり学校へ行ったらモテるだろう。

「不思議ですよねぇ」

「不思議って」

 ――まあ、そうだけど。

 みんながみんな、妹のことを忘れてしまう。それは真夜にとっては不思議という一言で片づけられるようなものではないけれど、でも世間一般で言うなら、一つの不思議でしかない。数ある都市伝説のようなものの中の一つ。世の中に溢れる、不思議の一つ。取るに足らない、気にするまでもないもの。

 でももしこの男が覚えているのなら。

「私の記憶は、間違ってないの?」

 真夜にぴったりまとわりついて離れないこの記憶が、本物ということになるんじゃないのか。

「ええ、間違いありません。あなたがたが八歳の忽然と消えた朝陽という少女は、実在します。そして今もどこかで、必ず生きているはずです」

「生きてる?」

 そりゃあ、死んでいないのなら、生きているのだろう。けれど、朝陽が消えたのはもう八年も前の出来事で、行方不明になった人間――それも小学三年生が見つからずに八年間も生きながらえるなんて。

「あり得ない」

 よし生きていたとしても、それならどうして帰ってこないのか。帰ってこれないのか。帰ってこれないような状況なら、なんで目の前に座っているこの黛という男は朝陽のことを知っているのか。

「……あり得ない繋がりで、一つあり得ない話を聞いて頂けませんか」

「何」

 黛は、まだフィルターまで少しある煙草の火を消して、ソファに身を沈めた。


「私は半分、人間ではないのです」


 確かに、黛はそう言った。

「宗教勧誘なら――」

「いえ、私は無宗教。別に誰の教えも尊んでいません」

 立ち上がろうと腰を上げた真夜をじっと見つめて、また黛は言う。

「妖怪ってご存知ですか」

「まあ、そりゃ多少は」

「そうですか。私はその妖怪の血を半分引いています。真実を見通す妖怪の血を」

「だから、他のみんなが忘れてもあなただけが朝陽のことを、と言いたいの? そういうのは物語の中だけの話で――」

「例えばそうですね、あなたの長い靴下は傷跡を隠すためのものですね」

 立ち上がった真夜の脛を、テーブル越しに黛は指さす。確かに、真夜は自分の脛にあるあの傷を隠すために、いつも長い靴下を履いている。夏でも、冬でも、流行が短い靴下でも。けれど、それくらいなら、もしかしたらただの推理力があるだけなのかもしれないし、よく推理小説でもそういう事柄を当てたりすることがある。それにそもそも。

「だったら?」

 ――何だと言うのだ。

 真夜の靴下が、傷を隠すためのものだからと言って。

「いえ、それ以上はなんとも。どうしてその怪我をしたのかについては、別に隠しているわけではないようですから判りません。ただ、これは、妹さん関連ですね」

 ――話を聞く価値はあるかも。

 真夜はもう一度、ソファに腰を下ろした。そこへ、珈琲とカフェオレが運ばれてくる。黛はにっこりと笑うと、琥珀色の液体をそのままぐいとあおった。

「それで」

 真夜もカフェオレを飲み、黛に続きを催促する。黛の真っ黒い瞳に、自分の顔が反射する。笑顔とは程遠い。顔は一緒なのに、朝陽とは違う。

「一緒に、朝陽さんを探しませんか」

「探すって」

 ――どうやって。

 もう八年も経っているのだ。いなくなったときの状況だって、真夜は隣でぐっすりと、何も知らずに寝ていたのだから、わからない。

「ですから、私の力を使うんです。隠されたものを、見出す力を」

「それなら、私は要らないでしょ」

「いえ、必要なんです。私には力はあっても、どこに隠し事が存在しているのかてんでさっぱりわかりませんから」

 だって、と黛は身を乗り出す。

「朝陽さんのことを覚えているのは、あなたただ一人なんですから」


 日が暮れると、いつもの山もどこか怪しげで、いやな雰囲気漂う場所へと様変わりする。よく物事には裏表が云々と言うけれど、真夜はそんな単純なものではないと思う。目の前の景色が不気味だからと言って、昼間の落ち着くあの空間とたった二つの面しかないなんてことはきっとないはずだ。

 昼間と同じ位置に真夜は腰かけて、暗闇の中でちりちりと光るものを見た。

「失踪したときに、何か変わったことはありませんでしたか」

 黛の煙草だ。

「変わったことは、特には。ただ、流石に隣で暴れたりしたら気づくだろうから、朝陽は抵抗とかしてないはず」

「なるほど。自分で抜け出したか、それとも抵抗する暇もなく、ということなのか」

 自分で抜け出すことは――

「ないと思う」

「その心は?」

「朝陽、いつもどこかへ行くときは、それがトイレとかでも私に言ってたから。私も、朝陽に言ってたけど」

 だから、幾ら寝ているときと言ったって自分でどこかへ行くとは考えにくい。その日は特別、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、普段通りだと仮定するなら、朝陽はいつも夜中にトイレに行くときでも真夜を起こしていた。

 ――そんなにずっと一緒だったのに。

 いなくなってしまったのだ。

「では、連れ去られた線が濃厚ですね。となると、奴らが……」

「奴ら?」

 はい、と黛は煙草をポケット灰皿で消した。

「これは我々のような特別な力を持つ者の間では常識なのですが、世の中には裏側というものがあります。彼女はきっと、そこに」

 ――表裏。

 そんな単純なものでは。

「まあ、簡単に言うと、ですが。あちら側のことを、我々は単にと呼んでいます。まあ色々と定義はあるのですが、我々を脅かす存在だと考えてください」

「物語みたいだね」

「ええ、私もそう思います。それらが、あなたの妹さんを連れ去った可能性が高い」

 黛は、確信を持っているらしい。

 ――じゃあ、なんで朝陽だけ。

 なんて考えても仕方のないことなのだろうけれど。

「それで、もし連れ去られたんだとしたら、どうやって助けるの」

 裏だか何だか知らないが、手掛かりがあったとして、そちら側に行けるのか。

「橋が、あります」

「橋?」

「そう、橋。ブリッジ。よく言うでしょう、三途の川、とか。別に向こうが死の世界ではないので三途の川ではありませんが、兎に角そのようなものがあって、その橋を渡って向こう側へ行き、そして戻ってくる必要があります。簡単なことではありませんが」

 それで。

「その橋はどこに?」

「それをこれから探すんですよ。あれは、隠されています。私の出番ですね」


 明くる日の放課後に、黛は学校まで車で迎えに来た。大方の予想通り、正門前に止められた車の前に立つ黛を遠巻きに女子生徒たちが眺め、やいのやいの言っている。容姿は整っているし、物腰も柔らか。モテるだろうに。

「どうしたんですか、変な顔をして」

 校門を出た真夜に、黛が意外そうな顔をする。

「目立つでしょ、これ」

 後ろを見る。さっと視線が退けられる。

「……確かにそうですね。明日からは別の場所で待ち合わせるとしましょう」

「おい」

「明日だって……! ってことはやっぱり……!!」

 弁解するタイミングなんてどこにもないというのに、なんと厄介な。

 ――まあ。

 別にいいのか。

 真夜は勝手に納得して、黙って車の助手席に乗り込む。

「それで、車なんかに乗ってどこ行くわけ?」

「そりゃ勿論、このあたりにある橋をしらみつぶしですよ」

 ――橋って。

「物理的なものなの?」

「そういうこともあります。木を隠すなら森の中とはよく言ったものですね」

「違くない?」

 真夜の言葉には答えず、黛は車を発進させた。車に乗るのは久しぶりだ。

「とりあえず、本末家に近い場所にある橋をあたりましょう」

 車は普段真夜が歩く道を通り抜け、やがて真夜の家のすぐ近くを通り過ぎた。

「一番近場の橋というと、この先にある」

「ええ、そうです」

 橋があって、川があって、渡った先には短いトンネルがある。丁度峡谷に差し掛かったところにある橋。確かに夜来ればここも不気味ではあるけれど、だからと言って裏側に繋がるような橋かと言われれば、そんなことはないような気がする。勝手なイメージではあるけれど、そういう橋は木と縄で作ったつり橋のような気がするのだ。この橋は、鉄筋コンクリートの割合最近の橋。

「あ、そうそう、ローラー作戦の間に何か妹さんについて思い出すことがあれば教えてくださいね」

「え? うん」

「一見関係ないことでもヒントになったりしますから、前後でなくても、あなたが幼少の頃のことでも、なんでも構いません。ちなみに、妹さんとこの橋に来たことは?」

「あるよ、そりゃ」

 橋は家から数百メートルしか離れていない。街から離れる方面の道だからそう多く通る場所ではないけれど、家の近くの橋だから、渡ることもある。確かこの橋では。

「二人で助手席に座れなくていじけてたっけ」

 結局、母親が助手席には座っていたのだ、確か。

「ふーむ、ほほえましいエピソードですね」

「何? その反応」

「いえ、なんでも」

 あちこちと眺めたあと、黛はひょいと身を翻して車の方へと歩き出す。

「もういいの?」

「ええ、どうやらここではない。ここには何も隠されていません」

 それから再び車に乗って次に向かったのは、一本隣の道にある橋。今度の橋は、先ほどの道よりも古い道だからか橋自体もボロっちい。それでもまだつり橋、みたいな橋ではなくて、よくある普通の鉄筋コンクリートの橋だ。

「ここへ来たことは?」

「うーん、あんま無いかも。覚えてないや」

 ――とは言うものの。

 ここは二人で同じ男の子を好きになったときに、男の子が朝陽の方を選んだからといじけて真夜が逃げてきた場所だ。今となってはいい思い出だけれど。

「……なるほど」

「何が?」

「いえ、覚えていないが嘘、ということは、私にはそれが……」

「…………忘れろ」

「しかし、あなたは橋と縁がありますね」

 それからも、その日は幾つか橋を巡った。結局目的の橋は見つからなかったけれど、考えてみると案外橋にまつわる思い出というのは多くて、ことあるごとに朝陽と一緒に橋の近くへ来ていたらしい。

 境界になっている橋はなくとも、幾らかヒントはあったような、なかったような。


 ところで、と真夜は運転席に座る黛を見上げる。

「なんで裏側があることがわかってるのに、橋の場所はわからないの? もう何日も探してるけど。だってさ、入口が見つかったから向こうがあるってわかったんじゃないの?」

「ええ、まあ。はじめは、邪気とでもいうのでしょうか、そういうものがあって、仮説として裏側がありました。それで、あるとき一人の男がその入口を見つけます。その男はたった一人向こう側へ行ったのですが、その後すぐに橋が消えてしまったんです。どうしようもなくなったところで、暫く経ってから一通だけ手紙が届きました。その手紙には、裏側の様子だとか、邪の考えていることなどを探る密偵として動く、とだけ書かれていました」

「へえ、スパイ」

 それが居るなら、朝陽の居る場所も分かってよさそうなものだけれど。

「彼からの連絡はその一通以来ありません。生きているのか死んでいるのか、それさえ定かではない」

「じゃあ、ダメじゃん」

「ダメということはありません。少なくとも彼は裏側の存在を証明しましたから」

 それだけでも十二分な収穫です、と黛は言って、少し黙る。それから、また口を開いた。

「でも、本音を言ってしまえば、彼は私のよき友人ですから、早く帰ってきてほしいのですけどね」

「寂しい?」

「ええ、勿論。だから、双子の妹が消えてしまったあなたの気持ちはよくわかる。――尤も、彼は忘れられていないので……」

 車が止まる。川からすぐ近くにある市営駐車場で、近くにはキャンプ場がある。レジャー施設というではないが、ちょっとした観光地のようになっている山間の一角だ。

「到着しました。ここへ来たことがあるんですよね?」

 うん、と頷く。この場所へ来たのは、確か小学校の一年生の頃。家族四人でここへ来て、魚を釣ったのだ。そのときに、二人で渡った橋がある。

「確か、こっち」

 キャンプ場のある方へは行かず、反対側の山側へ。狭い、半ば獣道のような道を進み、階段を登る。その先にあるのが、小さな池。

「そう、ここ。この池の先につり橋がある」

 この池でお願い事をすると叶う、なんて冗談を言って、二人でお願い事をしたのだ。

 ――あの時、なんてお願いしたんだっけ。

 自分の願いなんて、すっかり忘れてしまった。けれど、大したお願い事もしていないのだろう。覚えていないということは、叶っていないのかも。

 地面は、水源が近くにあるせいか、随分とぬかるんでいる。しっかりと踏み閉めて池の脇を抜けて、そこには記憶の通り、橋がある。木製の古いつり橋で、谷全体にかかっているわけではなくて、このすぐ近くを流れる沢の上を通っているだけ。大きな橋ではない。

「なるほど、それっぽい橋ですね」

「イメージ的に、近代的な感じは合わない気がしたからさ」

 早速、真夜は足を踏みだす。

「あ」

「なに?」

 踏み込む。

 ――バキ。

「え」

「危ないっ!」

 気づけば、真夜は黛に抱きかかえられていた。

「腐ってますよ、この木」

「ほんとだ。全然気づかなかった」

 気を付けてくださいね、と黛はそのまま真夜を下ろす。

「ごめん」

「……この橋ではないようです。戻りましょう」

「そうだね」


 既に両親が寝ている時間。真夜は一人起き出して、家の中をウロウロしていた。そこそこ大きな家で、ところどころに朝陽の痕跡が残っていると言えば、残っている。例えば真夜の寝ている部屋の扉にある傷は、朝陽が人形をぶつけて出来たものだ。両親の記憶では真夜がやったことになっていたけれど、違う。それは紛れもなく、朝陽が付けたものだ。真夜の記憶の中では。

「あの日は」

 おぼろげな記憶を頼りに、あの夜歩いた道順を辿る。ご飯を食べたあと、朝陽と二人でお風呂に入ったのだったか。

 家は築七十年ほどで、色々な場所にガタがきている。風呂場はどういうわけか母屋から少し離れているし、風呂場に辿り着いたら辿り着いたでタイルにはあちこちヒビが入っている。朝陽とヒビの数を数えようとしたこともあった。

 確か、まず朝陽が頭と身体を洗って、それを真夜は後ろで眺めていた。そのあと、朝陽が湯舟に入って、真夜が身体を洗って、二人で湯舟に入って。

 それ以上は、特に何もなかった。

 そのあと、居間へ戻って、髪を乾かさないまますぐに寝たはずだ。風呂場の扉を閉めて、居間へ。ここにはもう、どこにも朝陽の痕跡は残っていない。二人で写っていたはずの写真はいつの間にかなくなっていた。一人ずつ写っている写真は残っているけれど、真夜でさえどちらなのかわからない。それほど、似ていたから。

 その次が、トイレ。朝陽が先で、真夜があと。用を足して、そのまま就寝。布団は二つ並んでいて、入口から入って奥側に真夜、手前側に朝陽。

 そして、寝る前に何かを話したのだ。

 ――なんて言ってたんだっけ。

 朝陽は、あのとき。


 校門を出れば、今日も黛が待っている。すっかりこの光景にも慣れてしまった。それは、真夜自身もそうだが、学校の方も。

 車に乗り込むと、黛はすぐにエンジンをかけ、車を発進させる。

「しかし、この近くの橋はもう殆どない」

「やっぱり、物理的な橋じゃないのかも。それとも、橋だと思わないようなもの、とか」

 公園にある遊具にかかっているような橋、とか。

「うーん、行き詰ってきましたね……」

「とりあえず、朝陽とよく言った公園でも行ってみる?」

「そうですね、そうしましょう」

 元々駐車場のあるような大きな公園ではないから、近くのコインパーキングに車を止めて、二人で公園に入る。平日の夕方は、小学生の子供たちが沢山遊んでいた。遊具は昔と変わったし、ゲームをやっている子も多いけれど、この場所に来るというそれ自体はあまり変わらないらしい。人数も、真夜が来ていたころとそう変わらない。

「実は、そろそろうかうか言っても居られなくなってきたのです」

「なんで?」

「早く妹さんを見つけないと、取り返しがつかないことになりかねない」

「……マズいね」

「そこでその、あまり褒められたことではないのですが」

「何?」

 黛はそこで言葉を切って、やや躊躇うように左右を見た。それから真夜の耳元で、小さく囁く。

「あなたの家にお伺いしたいのです」


 両親は、夜起きてくることがほぼない。起きたとしても、水道やトイレは両親の部屋の近くにあって、真夜の部屋の方まで来ることはまずない。

 だから、真夜は両親の寝静まった真夜中を狙って、黛を窓から自室へ招き入れた。

「……ここがお二人が暮らしていた部屋ですか」

「ずっと私一人らしいよ」

 布団は今でも二枚並べている。両親が捨てようとしたのを、わがままを言ってそのままにしたのだ。片方は、真夜に合わせて普通のサイズの布団、もう片方は、あのとき朝陽が使っていた少し小さな子供用の布団。

「妹さんがいなくなった夜も、この部屋で?」

「うん」

「…………そうですか。では、これは」

「何か手掛かりでも? 誰かの嘘とか」

「ええ、まあ、そうですね。これは、沢山の。けれど、あなたの妹さんがこの部屋に居たことは、はっきりしました。そして、橋はここからそう遠くは離れていな――」

 ――ギシ。

 木がきしむ音。びっくりして、黛が黙る。足音だろうか。まさか、話声を聞いて、こっちへ来たのか。

 ひとまず黛を布団の中に押し込み、真夜も黛の形が分からないよう、誤魔化すように布団の傍に座る。

「真夜、早く寝なさい」

 母親の、低く唸るような声が扉の外から聞こえる。両親の部屋との距離はそこそこあるはずで、ちょっと話したくらいでは聞こえるはずがないのに。

 耳を澄ますと、母親が離れていく足音が聞こえる。それが聞こえなくなってから、布団を捲って中の黛に合図をする。

 ――やはり。

 黛は、美形だ。

「ねえ、黛さん」

「なんでしょう」

「私は――」




「たとえ邪が進出したとしても真夜は、僕が守ります」

 黛はそう言って、立ち上がる。

「…………その言葉」

「……?」

「そうだ、朝陽は、あの夜寝る前に、私に、『真夜は私が守るよ』って……」

「! この家の中にどこか橋みたいになっている箇所はありませんか」

「橋? ――あ、お風呂場までの間が」

「そこです!」

 二人で、走る。両親も、どうせ起きない。あれだけして、起きなかったのだから。

「あそこ!」

 扉を開け、離れへと続く橋のような部分へと足を踏み入れる。

「いきます」

 黛の宣言と同時に、キラキラと、橋の丁度中央部が輝き、そして。

 ――鏡?

 厳密に言えば鏡ではない。なぜなら、真夜たちは映っていないから。けれど、景色に映っているのは、母屋であって、風呂場ではない。

「あなたは」

「私も行く」

 駆け出した黛の言葉を遮って、一緒に真夜も駆け出す。橋を、渡る。

 景色が、代わる。まるで色が反転したような世界。ここに、朝陽が。

 けれど分からない。

 ――どうして朝陽は、私を守る、なんて。

 真夜と朝陽は、幼い頃からずっと一緒で、二人で生きてきて、関係性は対等のはずで。それなのに、守るだなんて。

 気が付けば橋は母屋と風呂場を繋ぐそれではなく、まるで絵画に描かれているものかのような雰囲気へと変化していた。ずっと長く続く橋の先には、大きな屋敷のようなものが一つ。

「あそこに、朝陽が?」

「ええ、そのようですね」

 明確にそこを目的地を定めると、どこまでも続くような長い橋に見えたそれは、途端に短くなって、すぐにその屋敷への道を開く。

「なんか、ご都合主義な世界だね」

「ある意味では、都合のために存在するような世界ですからね」

 屋敷に足を踏み入れる。誰かに邪魔されるようなこともない。そもそも、誰もいない。誰かが居た痕跡も、ない。

 黛は迷いなく進んでいく。そのたびに、道が形を変える。まるで朝陽のいる場所に、真夜たちを行かせたくないかのように変化し、そしてそれはまた、黛の力によって元通りに帰る。

「あそこです!」

 この世界そのものが隠匿されているのだとすれば、それは黛の独壇場に違いない。だって、黛に偽りは無意味なのだから。

「朝陽っ!」

 扉を開ける。

「……真夜」

 そこには、自分とうり二つの、朝陽が。成長しても、外見の違いは殆ど分からない。

「助けに来たんだ」

「んふふ、ありがとね、真夜。でもね」

 そこまで言うと、朝陽は真夜の横に立っていた黛をじっと見た。

「あなた方が望む力は私には使えないわ」

 そう言うと、朝陽は自分の両手を差し出した。そこには、金色に光る帯のようなものがぐるぐると巻き付いていた。朝陽の手が拘束されているというわけではないらしく、朝陽の手の動きに合わせてその帯は伸びたり縮んだり。けれど、決して朝陽の手首から離れることはない。

 それを聞いた黛は、苦虫を噛んだような顔をしていた。

「だが、ひとまずこの場所から」

「そうね。真夜、来てくれてありがとう」

「だって、私は、朝陽が、一番大切だから」

「私もよ、真夜」


 元の世界に帰ると、そこは母屋と風呂場を繋ぐ橋ではなく、いつか来たことのある大きな橋だった。

「なんか、古くなったね」

「だって、もう八年も経ってるし……」

「そっか、そうだね。私たちもこんなになっちゃったし」

 ――こんなって。

「一番花の時期なんじゃないの?」

「うーん、そうかも」

 朝陽が笑う。そうだ、この笑顔が、真夜は一番大切で。


「ご苦労、黛」


 その声が聞こえたのは唐突だった。初老の男が、ゆっくりと三人で立つこちらへ向かって歩いてくる。その姿は、どこか人とは思えない。丁度、黛が完全な人間ではないように。

「やっと、破邪の娘を確保したか」

「はい、何とか間に合いました」

「破邪?」

 聞きなれない言葉に、真夜は隣の朝陽を見る。朝陽は、自分の手首に絡みつく帯を気にしていた。歯がゆいような、そんな面持ち。

「さあ本末朝陽殿、あなたの力を、今ここで」

「無理ね、私の力はこの通り、封印されてる。残念でした」

「なんだと? それを解く方法はないのか!」

「無いわ、そんなもの」

 ――なんの話を。

「黛さ――」

「黛、その双子の姉はもう用がないだろう。さっさと家へ帰してこい」

「……はい」

 ――用が無い。

「そんな言い方」

「ないか? そんなことはない。姉の方に破邪の力はないのだ。ただの小娘なんて、一緒に居ても邪魔になるだけだろう。確かに朝陽殿を見つけるヒントになると思って接近させたが、それだけだ」

 ――見つけるヒントになると思って。

 ――じゃあ最初から。

「私は、ただのヒントってことか」

「真夜」

「私に近づいたのは、朝陽が必要だったからで、朝陽を探した時間も全部、仕方なしのことで、さっきのことだって!」

「真夜!」

「もういい」

 ――何も、考えたくない。

 表であんな顔をして、裏では。




 朝陽がこちら側へ帰ってきたらみんな全部を思い出すのかと思っていたのだけれど、どうやらそういうわけではないらしい。両親は、未だに真夜のことを一人っ子として扱う。妹など居なかったかのように。誰一人として、真夜の脛の傷が妹と喧嘩してできたものだということを知らない。残っている朝陽の痕跡が朝陽の痕跡だと分かるのは、真夜だけ。

 黛も、あれ以来会っていない。どこに居るのかも、知らない。

 もしかしたら、本当に最初から最後まで何もかも自分の妄想でしかなくて、最初から妹なんて存在しなかったんだとしたら。あの喧嘩も、あの仲直りも、あの遊びも、あの日常も、痛みも、快楽も、全部嘘で、本当は何も無くて、ただ真夜がおかしかっただけだとしたら。

 それなら、全部がいい具合になる。

 このまま真夜も、朝陽のことを。

「――忘れられたら、な」

 久々に会った、自分と同じ顔。あの笑顔が、真夜の瞼にこびりついて離れない。

 なんだか全部が嫌になって、真夜は学校を抜け出して、電車に乗った。なけなしの小遣いて、買えるだけ一番高い切符を買って、そうして、行けるだけ遠くに。片道切符で。

 辿り着いた駅で、真夜は降りて、そこからは歩く。あてもなく、ただ道に沿って。少しだけ残ったお金で、水だけ買って、歩き続ける。

 やがて歩けなくなって、木陰に座って休む。木の根に座って景色を眺めていると、心地よい風が吹いて、頬を撫でる。

「気持ちいいな」

 あれだけ朝陽のことはみんな血眼になって探していたのに、真夜のことは探してくれない。朝陽のことなんてすっかり忘れて、真夜をたった一人の娘と呼ぶのに、真夜への愛が朝陽へのそれに並んだことなんて一度もない。そう、一度も。

「でも、それでも朝陽が幸せなら、それでいいのかな」

 もし、真夜が死んで、そこに朝陽が入れるというのなら、それでも。

 どうせ、このままなら死ぬ。警察が動いているのかいないのか、そもそも探されているのかすらわからないけれど、もう買った水も突きかけている。

 もっと単純なら、よかったのに。

 そう、例えば。

 ――私の命と引き換えに、朝陽が幸せになれる、とか。

 そんな都合のいいこと、決してない。真夜はただ朝陽へつなげるためのヒント、脇役でしかなくて、そんな重要なポジションではないのだ、きっと。



「今すぐに真夜を探し出して。さもなければ、舌噛み千切って死ぬわ」

 朝陽は、妖怪を統べるという男を、鼻で笑ってそう言った。

「嘘は、言っていません」

 黛とかいう男がそう言う。確か、向こうで色々と世話を焼いてくれた土門の旧友とか言っただろうか。隠す力を持った土門に比べると、暴く力があるなんて、まるで真逆で、面白い。

「全く、世界の危機だというのに、言うことも聞かぬし、鍵の解き方も解らぬとは」

「世界なんて、どうでもいいもの」

 朝陽はそう言って、黙った。長は、もう朝陽が何も言わないと分かると、部屋から出ていく。

 二人きりになった部屋で、黛が、朝陽に寄ってくる。

「朝陽さん」

「ああ、あなたには隠しても無駄なんだっけ?」

 吐き捨てるように言うと、黛は小さく頷いた。バツが、悪そうに。

 そんな顔をするくらいなら、あの時すぐに真夜を追いかけてあげればよかったのに。全部本当で、裏も表も無く、紛れもない愛だったと伝えてあげればよかったのに。それだけで、真夜は救われていたはずなのに。

 でも、そうはしなかった。

「この枷と対になっている鍵は真夜で間違いないわ」

「やはり」

「そう。この枷を外すには、あの子が死ぬしかない。でも、わかってるんでしょう。私は真夜を犠牲になんかしない。だから、絶対に言わないわ。あなたも、言えないでしょう」

 黛は、何も言わない。

 ――はあ。

 反吐が出る。

「……嫌だなあ。いつだって私が中心で、あなたたちが中心で、真夜のことなんて誰も考えてくれない」

 黛は、何も言わない。

「真夜はいっつも、何も言わなかった。私がこんなこと言う資格があるのか知らないけど、あの子はいつでも私と対等である限り、私のことを一番に思おうとしてた。どんなにひどい状況でも。だから、あなたたち二人が来たとき、やっと真夜をちゃんと見てくれる人が現れたのかなって期待したのに、外れちゃったな。馬鹿みたい」

 今だって。

「真夜は行方不明になったっていうのに、あなたは探しに行こうともしない。私の親が探しているなんてウソをついて何もしていないのを知っているのに。本当、馬鹿みたい。私のことは必死んなって探してたくせに」

 結局は。

「自分たちの都合なんだね。言えばいいよ、真夜を殺せば世界が救えるって」



 ――朝陽さまではありませんか。

 声が聞こえた気がして目を開けると、そこには薄汚れた髭面の男が立っていた。お世辞にも、まともな人間とは思えない。でも。

「朝陽のことを知っているの」

「勿論です! ま、まさか朝陽さまは、私のことをお忘れになられたのですか!?」

「残念だけど、私は朝陽じゃない。真夜。その朝陽さまの姉で、朝陽さまと違って何の力もないただの一般人。そして、死にかけ」

「鍵ッ!」

 髭面の男が、こちらに指を向ける。

「人に指を指すなって小学校で教わらなかった? あと、鍵って何?」

「鍵は、その、あなたの命が、朝陽さまにつけられた枷の鍵、という意味でつまり」

「枷って、あの帯みたいなやつ?」

「さようでございます、ええ、あの、死にも等しい苦痛と共に、破邪の力を封印する、アレ…………。あれは、朝陽さまの破邪の力を意のままに制御するためのもの……」

「あのさ、破邪の力って何? 知っての通り私はただの一般人だから力とか言われてもよくわからないんだよね」

 男は、きょろきょろと辺りを見渡して、それから再び真夜の方を見た。

「破邪の力というのは、その名の通り、邪を滅する力です。邪が増えすぎれば世界が崩壊してしまう。それに対抗できる、唯一の方法……」

「それで、その枷の鍵に私がなってるっていうのは?」

「あなたの命を奪うことだけが、朝陽さまにつけられた枷を外す唯一の、手段なのです」

 ひどく言いづらそうに、言う。どうしてそんなにつらそうな顔をする必要があるのだろう。

「……そう。本当に私が死ねば全部が円満に行くんだ? 世界ってすごいね、よくできてる。犠牲んなる人は最初から決まってて、そのために私は朝陽の姉として生まれたかもね、はは」

「その……」

 あのさ、と真夜はひげと伸びた髪の中にある二つの目を見る。

「私が死ねば、朝陽も元気になって、世界も平和になるんだ。それは、とてもいいことだね。じゃあ、朝陽のために死ぬから、今すぐ殺してくれない? どうせほっといても死ぬけど、早い方がいいでしょ、世界のためにも」

「そんなこと!」

「そんなことあるでしょ。早く」

「でも」

「ふふ、愚かな選択だってことくらいわかってるよ。でも、私は妹のことが一番大事。自分の命よりも、ね。だから、私が死んで妹が自由になれるなら、それが一番いいと思うんだ」

 だから、今すぐに。

 ――私をこの世界から消して。

 朝陽が、そうであったように。

 ――でも、どうして朝陽のことを、私だけが。

 願わくは、朝陽でさえも、真夜のことを忘れるように。

「あなたは、朝陽さまと、枷という一つの呪いによって繋がれていた。あなた方が互いのことを忘れてしまえば、あの呪いは成立しなくなってしまう。朝陽さまが人々に覚えられていては、都合が悪い。けれども、あなたが忘れてしまってはいけない。だから…………。でもそれを逆手に取れば、あなたのことを世界中の誰もが――呪いを成立させたもの、呪いを受けた者、そして、その呪いに間接的にでも関わった者。その人間の、過去、現在、未来の全ての記憶からあなたが消えれば、あるいは」



 目が覚める。横には、ついに夫となった黛――いや、今は自分も黛になったのだから――佳大よしひろがすやすやと寝息を立てている。

 まさか自分が世界を救う鍵になっているだなんて、思ってもみなかった。けれど、黛に救われて、そうして無事に、世界を救うことができたのだ。

 起き上がると、隣に敷かれた小さな布団も、一緒にめくれ上がった。

 ずっと、あれはあそこにある。誰が何のためにあの布団を敷いているのかわからないけれど、それでもなぜかあれを片付けてはいけないような気がして。

「朝陽! おはよう!」

 部屋を出ると、いつから扉の前に居たのか、両親が出迎えてくれる。

「んふふ、朝ご飯もう出来てるわよ。早く旦那さんを起こしてあげて」

「そうね」

 佳大を起こす。まだ頭が寝ぼけているらしい佳大は、小さくマヤ、と呟いた。

「マヤって誰? 元カノ? それとも新婚早々不倫?」

「へ? いや、知り合いにマヤなんて名前の人はいない……でも、変な夢を見ていた気がして」

「変な夢、ねえ」

 ドアの方を見る。ドアには、朝陽が自分でそこに付けた傷がある。どうしてそうなったのかはよく思い出せないけれど、癇癪を起こした自分が、あそこへ人形を投げたのだ。その人形は、なんの人形だったのだろう。そもそも、自分のものだったのだろうか。でも、自分の部屋で投げているのだから、自分のもののはずで。

「どうしたんだい」

「ううん、何でもない。白昼夢、みたいな? 何か、変な記憶があるのよね」

「奇遇だね、僕にもある。何か、大切なことのはずなんだけど」


 それにしてもよかったわあ、なんて母親が声を上げながら朝食を口に入れる。

「『たとえ邪が再び進出したとしても朝陽は、僕が守ります』に、『佳大は私が守るよ』、かあ。素晴らしい言葉ね!」

 チクリと、胸が疼く。何かが、違う。

「もう高校生の頃からの付き合いだものね、二人は。夜の家に連れ込むなんて大胆なことをしたときはどうしようかと思ったけど――」

 両親の言葉は、止まらない。両親の口からは、本当のの言葉が紡がれ続けて、それは自分の記憶とも一致しているはずで。

「今日からの旅行も、楽しんできてね」

「ええ、勿論です」

 何かが、違う。


「懐かしいな、ここ、喧嘩したところ…………」

 朝陽は口から出た言葉に、驚く。一体誰と喧嘩をしたというのだ。あれは、誰だったのだろう。

「君は橋と縁があるね。ふふ、昔もこれを君に言ったような気がするな」

「うそー」

 二人で橋に来たことはあるけれど、そんなこと、あっただろうか。やっぱり、元カノと間違えていたり。

 でも、佳大の初めての女が、自分のはずで。

 何かが、違う。




 街は沢山の人でにぎわっている。

 老若男女、ありとあらゆる人が行き交い、互いが互いを意識することなんてない。

 だから、二人は決して気づけない。朝陽も、佳大も。向かいから歩いてくる、朝陽とうり二つの女性に。昔とは違って靴下で隠れていないその脛に、うっすらと傷跡があることに。すれ違ったときに、その女性が、涙を流したことに。

 その日常の瑕に誰も気づかず、それが完璧だと思っている。その女性のことを朝陽の双子かも、なんて朝陽が冗談を言えば、黛はこういうのだ。

「冗談はよしてよ。君は最初から一人っ子じゃないか。その、はずじゃないか」

 既にそれは、本当のことになってしまったから。

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