16 真実のニルダ


 ニルダの前で多くを語らなかったルチェッタだが、ドゥランには笑って打ち明けた。


「マルツェロって、ダルド侯の奥様の好みなのよね」

「は?」


 ドゥランは目を剥いた。好みって、おい。

 ダルド侯夫人、カテーナ。そういえば夫婦揃って奔放に遊んでいるとかなんとか聞いた覚えがある。


「長身痩躯、でも脂ぎった感じ。ふふ、強そう」


 いや何が。ドゥランはビクビクした。


「女体への愛をこじらせて学僧をクビになったとか有望ね。豊満な女が趣味ならカテーナ様はぴったりだし、なぶり者になってもらいましょう」

「なぶ……!?」

「そんなに酷いことはしないわ。嫌ならば、手懐けて彼からなぶり返すぐらいの気概を見せてほしいわね」

「……とてもニルダに聞かせられないんだが」


 微笑む妻にドゥランは青ざめた。もしかしてルチェッタも欲求不満――いやいやいや。

 ダルドに集う奥方様たちのサロン。そこでは何が話されているのか。男が盗み聞きしたら、たぶん心が折れる。永遠の謎にしておこう、とドゥランは誓った。



 そのような経緯でマルツェロはダルドに売られていった。たくましく生きてほしい。

 そしてベンヴォリオの方は、アデルモの聖ニアーノ教会美術工房で働くことになった。売れない芸術家だが身につけた技術は確かなものだったから。若い職人を指導できるほどだと司祭は喜んだ。

 ベンヴォリオがジョバーだということは、司祭には内緒だ。



 縁談も白紙に戻った。

 女子供からの暴言で男爵の誇りは大いに傷ついただろう。だが、じゃあ耳を揃えて負債を返せと要求されたらできない。今回の件ですっかり立場が弱くなったのは理解できたようだった。


 そしてこの婚約破棄により心が晴れた者もいる。フィルベルトだ。

 これでニルダは自由の身。だから今日は久しぶりにニルダを誘って街に出た。あの日の組紐は失くしてしまったけど、また新しい何かを贈れたらとフィルベルトは思う。


 でも、できるなら。

 自分の力で手に入れた物を贈りたい。


 アレッシオが男爵家の次男坊なら、フィルベルトだって伯爵家の次男坊だ。しかし若くして騎士となったアレッシオに比べ、自分は何もしていない。

 まだ十三歳だからと言い訳はできるが、この先の目標も定まらなかった。アデルモ伯を継ぐのは兄だろう。ならば自分には何ができるのか。

 親から与えられたものではなく、自らの力がほしい。ニルダに対して誇れる自分になりたい。そうフィルベルトは願った。まだまだ未熟な自分が情けなかった。

 だから会ってすぐ、ニルダに謝った。


「あの時、助けられなくて、ごめん」

「何言ってるの。私こそ巻き込んでごめんね」


 謝り合い、二人は揃って笑う。

 もう過ぎたことだった。そこはニルダとフィルベルトの間柄、あんな事件ちょっとした冒険として、思い出の一つに数えればいいじゃないか。


「本当のこと言うと、フィルが一緒じゃなかったら、すごく怖かったと思うの」


 ニルダはエヘヘ、と照れながら告白した。それだけでフィルベルトは天にも昇る心持ちになる。

 無事に帰ってからニルダは想像したのだ。縛られたまま、猿ぐつわのまま、助けが来る確証もなくあそこにいたなら。

 そう思うと無力感に苛まれる。自分はただの小娘だと、あらためて自覚した。


「だから強くなりたいなあ。騎士団の訓練ってどんなことしてるんだろう。私にもできると思う?」

「……え、そっち?」


 フィルベルトは愕然とした。さすがニルダだとも思ったけれど、身体的にも強くなられたらフィルベルトの立つ瀬がない。それに、騎士団のことはあまり考えたくなかった。


「ニルダ!」


 なのにその騎士団員、アレッシオの声がニルダの名を呼んだ。フィルベルトの心にどす黒いものが湧いたが、ニルダはケロリとそちらに手を振る。


「アレッシオ様!」


 駆け寄るアレッシオは騎士団のお仕着せのマントを羽織っていた。市中巡回任務中だろう。

 会うのは破談になって以来だった。アレッシオは申し訳なさそうにする。


「我が家の事情で婚約させたり危険な目にあわせたり、すまなかった」


 ニルダのような少女に向かってきちんと頭を下げる。アレッシオはとことん真っ当な青年なのだった。フィルベルトもそれは認めていて――だからこそイラッとする。敵わないから。


「おかげで横領犯を逃がさずに済んだよ」

「私が何もしなくても、アレッシオ様が捕まえたでしょ?」

「ニルダがあの部屋にいたから足留めできたんだ。おかげで美術品も押収できた。ありがとう――ところで」


 アレッシオはチラリとフィルベルトを気にしながら、やや緊張した顔になった。


「婚約は解消したけど、もう一度君の相手に立候補していいかい?」

「へ?」

「アレッシオ!?」


 理解が追いつかないニルダと悲鳴を上げるフィルベルト。その反応にかまわずアレッシオはニルダの手を取った。


「一人の男として、ニルダに交際を申し込みたい」


 えええええ。

 両手を握られてニルダは固まった。

 何言ってるのこの人、頭は大丈夫なのか。ていうか無駄に顔がいいんだから、距離が近いのやめてってば!

 混乱しながらニルダは正直に白状してしまった。


「いえ、だって、あの。私、ただの守銭奴なのよ?」


 ワタワタと顔を赤らめるニルダにアレッシオは破顔一笑した。力強い笑顔だ。


「ニルダのそういう所はもう知ってるよ。でも、それでいいんだ」


 アレッシオは優しい目でニルダを見つめた。

 ニルダは強い心を持ち、自分の力で生きようとしている。それは凄いことじゃなかろうか。

 出会った時は、健気で無垢な少女だと感じた。だがニルダはそれだけではない。たくましく、しなやかに生きるニルダが隣にいたら嬉しいとアレッシオは思う。


「そんなわけで考えてみてほしい――フィルベルト様も、


 意味深な視線をフィルベルトに向けて、アレッシオはさっさと仕事に戻っていった。

 フィルベルトの胸にモヤモヤが広がる。今のはつまり、宣戦布告なのだろう。


「何なのよぅ……」


 ニルダは珍しく途方に暮れた。恋なんて、歯牙にもかけたことがないのに。


「アレッシオが好きなら付き合うし、嫌だったら断ればいいんだよ」


 ムッとした声でフィルベルトは言った。

 自分だけが知っていると思ったニルダの姿。アレッシオもそれを理解し――そんなニルダがいいと言う。何とも腹が立つ。なのに、少し嬉しかった。


 ね、やっぱりニルダは素敵な女の子なんだよ。


 フィルベルトは諦めて笑った。


「ニルダの思うようにしたらいいのさ。本当の気持ちに正直にね」


 そう言われてニルダは考え込んだ。


「私の気持ち……?」


 アレッシオのことは嫌じゃない。でもフィルベルトだって好きだ。エドおじさまだって、お父様だって、とってもとっても大事な人たち。


「私、みんなのことが好き。誰か一人に決めなきゃいけないもの? そんなの無理」


 今は誰のものにもならない。そう言い切るニルダにフィルベルトは安心した。自分のものにもなってくれないのは寂しいけれど。


「まあ、ニルダだからね」


 フィルベルトに笑われて、ニルダは空を仰いだ。

 アデルモの乾いた空気に、透き通る青だけはみずみずしい。


 ニルダは深呼吸して、力強く歩き出した。

 恋なんて今はどうでもいい。私は私だ。次の儲け話を探さなきゃ。


 ニルダはとても鮮やかで。ニルダの心は強くって。だけど悩むことも、へこむことも、弱いこともある。たくましく金儲けに邁進するばかりじゃない。

 それでいい。


 ニルダは、ニルダとして生きていくのだ。


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