花が咲くまで初見月。

夢月七海


 あ、まずい。そう思った頃には、もう遅かった。

 マッチングアプリで知り合った男性と楽しく飲んで、居酒屋を出てから、こっちにいいお店があると誘われるまま、のこのこついてきてしまった。気が付くと、私はラブホテル街の真ん中にいた。


 先程まで、彼はとても紳士的だったから、私の方も警戒心が薄くなっていた。話の内容もアカデミックと同時にユーモラスで、飽きることがない。彼の呑みっぷりに影響されて、私もハイペースでグラスを空けていったのもある。

 それなのに、ここに来るまで気が付かなかったなんて。……後悔している場合じゃない。まずは自分の意志をはっきり示さないとと、私はその場で足を止めた。


「あの、すみません」

「ん? どうしたの?」


 先を進んでいた男性が、こちらを振り返る。赤い顔が、お酒だけのせいとは思えなくなっているのが嫌だ。

 そういえば、いつの間にか相手の敬語が取れている。私も、そうなっているのかもしれないけれど。そんなことをちらりと考えながら、にこやかだけど未だに不思議そうな彼の顔を正面から睨んだ。


「今日はここまでにしましょう」

「あれ? 嫌だった?」

「はい。嫌です」


 誤魔化さずに、毅然とした態度で言い切るのが一番。それなのに、男性は困ったように笑いながら、肩を竦めた。

 本気にされていない。まるで、聞き分けの無い子供を目の前にしている先生のような態度に、心の底からゾッとする。


「そんなこと言わずにさ。ね、行こうよ」

「いえ、結構です」

「折角こうして知り合えて、お互い好意を持っているんだからさ、もうこの際、ヤッちゃっても良いでしょ?」

「そのつもりは全くありません」


 下に見られないようにと、「すみません」のような謝罪の言葉は使わず、頭も下げなかった。本当は、こんな気持ち悪い相手から、さっさと逃げ出したかったのだが、今はヒールを履いていて、追いつかれるかもしれないので、正直に脈無しだと伝えるしかない。

 だけど、私のそんな態度が、この男性の癪に障ったらしい。今まで笑っていたのに、急激に眉と目尻を釣り上げて、突如大きな口を開けて叫んだ。


「だったら、会いに来んなよ! 俺のこと、好きなんだろ!」

「……っ!」

「好きってことは、ヤリたいってことだろ! 今更カマトトぶってんじゃねぇよ、クソ女がよお!」


 これまでと百八十度違う彼の言動に、驚きすぎて言い返しも出来なかった。会う前までのやり取りとか、一緒に飲んでいた時の様子とかも思い出し、こんな気持ちを裏に隠していたのかと気付くと、余計に怖くなる。

 その恐怖感のせいで、足が完全に竦んでしまった。声も出ない。そんな私の手を、彼が掴もうと伸ばしてくる。だけど、動きが止まったのは、彼の方だった。


「どうしましたか?」


 私の背中側から、そんな声と足音が聞こえる。振り返ると、作業着姿の男の人が、こちらに駆け寄ってくるところだった。

 作業着の胸ポケットの上には、「久留米運送」と書かれている。彼のその後ろには、一台の中型トラックが停まっているのが見えた。どうやら、この近くで仕事していたドライバーさんが、異変に気付いて来てくれたらしい。


 助かったと、安堵した私の体から、余計な力が抜けていくのを感じた。そんな私と、正面に立つ男性のことを、眉間に皺を寄せたドライバーさんは交互に見比べている。

 ただ、この状況のことを、どう話そうか、一瞬悩んでしまった。マッチングアプリで知り合った男性に、無理やりラブホテルに連れていかれようとしてる、とはちょっと言い辛い。その隙に、男性の方が「違うんです」と言い出した。


「さっきまで、一緒に飲んでいたんですが、ここに来たら、急に嫌だと言い出しまして」

「急に? 私のこと、殆ど騙すような形で連れて来たじゃないですか」

「いやいや、ずっとノリノリだったじゃないの。全く、女の心変わりは困りますよね」

「心変わりじゃありません! そんなつもりは、最初からなかったんです!」

「そうは言ってもね、お互い好き同士なんだから、普通じゃないの、するのが」

「まあまあ、まあまあまあまあ」


 わがままを宥めるように、彼がこちらを向いてそう言ってきたので、怒った私が言い返そうとしたが、ドライバーさんが両手を挙げながら私たちの間に割り込んできた。

 彼が分かりやすくむっとしたのを正面から見ても、ドライバーさんは穏やかな調子で続ける。


「このままじゃあ、平行線ですよ。今日はここで解散して、頭を冷やした方がいいと思います」

「急に出てきたあんたに、俺らの中の何が分かるんだよ」

「なーんにも分かりません。ただ、第三者からの意見は、とっても貴重ですよ」

「そういうのはいらないんだよ。俺と彼女の問題だから。なあ?」


 男性が、ドライバーさんの肩越しに私へ意見を求めようとするが、ドライバーさんがすっと動いてそれを遮断した。彼が舌打ちしながら、反対側から見ようとするけれど、それもドライバーさんが遮ってしまう。

 まるで、バスケのディフェンスのように、ドライバーさんは彼の動きを邪魔していた。彼の表情は見えないが、フラストレーションが溜まっていることは、握った右手が震えているので伝わってくる。


「どけ!」


 とうとう、男性はその右手で、ドライバーさんの頬を思いっきり殴った。バチン! という威勢のいい音に、私は驚いて「ひゃっ」という声が出てしまう。

 さすがに、男性自身予想外の行動だったのか、だんだんと青褪めていった。このまま逃げようと後ずさるのを、ドライバーさんは相手の右手を掴んで止めた。


「駄目ですよ。人を殴ったのに、逃げるなんて」

「……るせぇ! あんたが悪いんだよ!」


 彼の声は、先程よりも力が無くなっている。多分、これからのことを想像して、恐ろしくなっているのかもしれない。

 そんな彼から目線を外して、ドライバーさんがこちらを振り返った。ニヒルに笑って見せるけれど、殴られた頬が酷く腫れていて、正直恰好はつかない。


「お姉さん、すみませんが、警察を呼んでもらえませんか?」

「あ、はい」


 思わぬ展開に置いてけ堀を喰らっていた私は、これが今自分の目の前に起きていることだとやっと意識して、スマホから一一〇番通報をした。

 十分以内にパトカーが着いて、ドライバーさんを殴った男性は、それに乗せられていった。私とドライバーさんはしばらく事情聴収されたが、ドライバーさんは早く病院に行った方がいいと、先に去ってしまったので、私はあの人にちゃんとお礼が言えなかった。






   □






「昨日は、本当にありがとうございました」

「いや、いいですよ。お姉さんが無事で良かったです」


 一晩明けて、私は二回目の事情聴収のために赴いた警察署で、そのドライバーさんと再会した。

 改めてお礼を言ってから頭を下げると、ドライバーさんは恐縮しながらそう言ってくれた。その様子は、謙遜ではなさそうだ。


 だけど、私の感謝の気持ちは、お礼の一言では収まらない。後から色々考えて、このドライバーさんは、わざと殴られたんじゃないかと思ってきたからだった。

 もしも、あの場に警察を呼んでも、只の痴話喧嘩として、取り合ってはくれなかったのかもしれない。でも、ドライバーさんが間に入って、殴られたから、あの男性は傷害罪で逮捕されて、私は無事だった。


 もちろん、こんなのは希望的観測だ。いくら揉めているからと言って、初対面の相手にここまで献身的になれる人は、多分現実にいない。

 それでも、ドライバーさんが私を助けてくれたのは変わりない。あんなに怒っている人を説得させるのも、とても勇気があることだっただろう。


「あの、私、こういう者です」


 何か別の形のお礼をする前に自分の身元は明かしておこうと、名刺を差し出した。受け取ったドライバーさんは、名刺を見て、おやという表情をする。


「嘉数ウェディング、うちの近くですね」

「あ、そうなんですか?」

「ええ。ほら」


 ドライバーさんが、自分の名刺を渡してくれた。確かに、久留米運送のある住所を見ると、私の職場と同じ恩納村にある。

 他に気になったのは、このドライバーさんの名前が「久留米綾人」ということだった。会社名と名字が同じだけど、現場に出ているので、社長ではないのかもしれない。家族経営の会社なのかなと、考えてしまう。


「久留米さんは、いつその会社にいますか?」

「え、どうしたんですか?」

「改めて、お礼とお詫びの品を持っていきたくて」

「いや、そんな、悪いですよ」


 久留米さんはそう言って辞退するが、私は彼の頬をじっと見る。そこは、湿布が貼られていたけれど、まだちょっと腫れていた。

 私の目線に気が付いた久留米さんは、敵わないなといった様子で苦笑した。


「分かりました。じゃあ、とっておきの甘いものを持ってきてください」

「甘いものですか?」

「ええ。ウェディングプランナーさんだったら、そういうの詳しそうなので」


 甘党なんだと意外に思いながら、ちょっと恥ずかしそうにしている久留米さんがチャーミングで微笑ましい。

 それならば、あまり知られていないお店のカンノーリを持っていこうと決めて、私は久留米さんと再会する約束を交わした。






   □






 数日後の夕方。久留米運送で私を出迎えてくれたのは、助けてくれた久留米さんと六十代ほどの女性だった。

 私が自己紹介した後に、久留米さんが彼女を紹介してくれた。


「俺の母で、ここの副社長です」

「伊代と言います。副社長と言いましても、主に事務をしているんですけどねぇ」


 苦笑をしつつ、伊代さんはそう名乗った。敬語とタメ口の中間みたいな話し方だったけれど、あまり気にならなかった。

 私が、改めてお礼を言いながら、カンノーリの入った箱を袋ごと久留米さんに渡すと、伊代さんが、中でお茶を飲むことを勧めてきた。


「そんな、悪いですよ」

「いえいえ、折角いらっしゃったのですから、ご遠慮なく」

「……では、失礼します」


 申し訳なく思いつつ、なんとなく中に入ってしまったのは、この人たちは悪い人じゃないだろうと感じたからだった。

 運送会社の客間に通されて、伊代さんはお茶を入れに行き、自然と久留米さんと二人きりになってしまう。しかし、久留米さんは全く気負わずに、手渡されたお菓子を確かめたいと言い出した。私も、間を持たせるためにどうぞどうぞと応える。


「カンノーリ……初めて見るお菓子ですね」

「イタリア発祥お菓子なんです。あっちでは、主に祝日に食べるお菓子みたいなんですが」

「こっちで言う、レモンパイみたいなものなんですかね。どこのお店ですか?」

「最近オープンしたところなんですけど……」


 そんな風にカンノーリの話をしていると、伊代さんが湯気の立つカップの載ったお盆も運んできた。カップが三つあるのは分かるけれど、ポッドまで一緒にあって、びっくりしてしまう。結構長居することを想定しているかのようだ。

 このお菓子も開けちゃいましょうよと伊代さんが提案したので、久留米さんも恐縮しながら、包み紙を開ける。初めて見たカンノーリに、伊代さんも久留米さんも、「可愛い」「おいしそう」と感想を口にしていた。私とは最近知り合ったばかりなのに、距離感が近いなぁと思うけれど、居心地自体は悪くないのが不思議だった。


「……このダージリンもおいしいですね。高価なものじゃないですか?」

「そうなんですよ。うちの夫が、良いものを貰ってきてくれて」

「え。祝嶺さん、口付けただけで、紅茶の種類と良し悪しが分かるんですか? すごいな」

「あんたは、甘いもの以外に無関心なだけよ」


 カンノーリを食べながら、お茶をいただいていると、隣同士に座った伊代さんと久留米さんのそんなやり取りが目に入ってくる。なんだか羨ましいなとちょっと思ってしまった。

 私と母は、不仲ではないけれど、十年来の彼氏と別れてから、少しぎくしゃくしてしまっている。母として口を挟む問題ではないと思うけれど、このまま私が結婚して、孫の顔も見せてくれると期待していたからだった。


 そう言えば、私が新しい彼氏を作ろうと焦っていたのも、SNSで元彼の新しい彼女――断言できないけれど、親密そうな女性の存在を知ってしまい、見返してやると思ったのがきっかけだったが、それとは別に、母の落胆によるプレッシャーを感じていたかもしれない。

 式場スタッフだから、色んなカップルを見てきた。子連れ再婚も、親子ほどの年の差も、国際結婚も、電撃婚も、逆に十数年付き合ってからの結婚も。だから、自分たちのことはこちらのペースでと思っていたはずなのに、周囲はそう見てくれないんだろうなというの肌感覚で分かってしまう。


 一瞬、そこまで考えてしまった私を見て、伊代さんはにっこり笑いながら話し掛けてくれた。


「祝嶺さんは、何のお仕事をしているの?」

「この近くの嘉数ウェディングで、プランナーをしています」

「あら、それなら、初江の結婚式、そこにしてみたら?」

「ああ、そう言えば、まだ決めていなかったんだっけ」


 伊代さんの一言が、妙に引っかかった。初江って誰? と思って、「初江との」じゃなくて「初江の」と言っていたから、久留米さんのパートナーではなさそうだと、ほっとした自分に驚いた。


「実はね、私の娘が、最近婚約して、今は式場探しているの」

「沖縄で小規模の、とまでは相手と決めたらしいんだけど、その先は難航しているようでして。嘉数ウェディングはどんなところなんですか?」

「ええ。小規模な式には、向いていると思いますよ。他には……」


 意外な所から、仕事の話になったので、私は営業スマイルを浮かべながら、我が式場のセールスポイントを述べていった。ただ、久留米さんは恩人でもあるので、あまり言い辛い短所も、正直にこちらから伝えてみる。

 久留米さんも伊代さんも、ふむふむと頷いてから、二人で顔を見合わせた。


「俺は良いと思うよ。ウェディングケーキも選べるし食べられるってところが特に」

「あんたはそればっかりねぇ。まあ、初江にも伝えておきましょう」

「妹には、これを渡しておきます。近い内に二人がそちらの式場へ行くかもしれません」

「はい、お待ちしております」


 私が渡したパンフレットを手にして、久留米さんが明るい声で言ってくれた。なんとなく、彼がここのことを猛プッシュしてくれそうな予感がした。

 今日、お礼の品を渡してしまえば、もう久留米さんと会うことはないだろうと思っていた。それなのに、縁はまだ続きそうで、その事がなんだか不思議だった。


































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