第10話 エピローグ
幻想郷には季節が訪れる。年始の手土産に神社からお神酒をくすねた魔理沙は、それを箒の先にぶら下げ、箒にまたがり空を飛ぶ。魔理沙の吐息が靄になって、それが年始に賑わう家々の屋根に消えた。
「あけめしておめでとう」
「あら、今日は壁からではないのね ?」
バチュリーに嫌味を言われたと思った魔理沙は、お神酒を彼女に押しつけて、玄関を抜けて屋敷の奥へと入った。
「咲夜ー ! あけおめ !」
魔理沙を横目に咲夜は黙って掃除を続けた。彼女はこの屋敷のメイド長なのだ。年始といえど、こうやって働く人がいるから、休める人もいるのだと、しつこく絡んで来る魔理沙に咲夜はぼやいた。
「釣れないね‥ 咲夜‥」
「あなた、また勝手に本を持ち出したでしょう‥」
「──そう思ってさ、お土産にお神酒を持って来た !」
「土産って‥ もってないじゃない ?」
「バチュリーにあげちゃった‥」
「なにそれ‥」
魔理沙が悲しそうに唇を噛むので、それが童女のようにみえて、咲夜は居たたまれなくなって休憩をすることにした。といっても、眼前の望まぬ客人のために、紅茶を入れたりお菓子を入れたりすれば、傍からは休んでいるようには見えない。
寒風でかさついた唇を紅茶で濡らした魔理沙は、出されたビスケットを摘まんだ。
「巨大数庭園数について書かれた本だけどさ、他にも、まだあるよね‥」
「ないわよ」
「‥え !? なんで‥ !!」
「ここには、一冊たりとも同じ本はないのだから‥ 勝手に持ち出されては──」
「‥それは困る !!」
魔理沙の悲鳴に小言を遮られた咲夜は、困るのはこっちだという言葉を飲み込んで腰を上げてた。こんな話に付き合っていては、掃除を終えるだけで日が暮れると思ったからだ。掃除以外にもメイド長の仕事はたくさんあった。
それは、昨年末のことだった。何時ものように、神社の境内でアリス=マーガトロイドの作るブラウニーを食べながら、ろくに作った事もない菓子について、魔理沙があれこれと講釈を垂れていた時の事、洋酒の効きすぎたブラウニーに酔った霊夢が、神社の本殿の裏にあるという小さな御社の話をはじめた。
「なんでも願いを叶えてくれるの」
「なんでも ?」
魔理沙の言葉に霊夢は頷いた。
「まあ、その願いが、矛盾したものでなければね‥」
「例えば ?」
「なんでもいいわよ‥ 満漢全席とか‥」
「それって、パラドックスみたいなやつか ?」
博麗霊夢はかつて、その御社に願い、幻想郷の人々を不老にしたことがあった。事実、アリス=マーガトロイドも、霧雨魔理沙も、博麗霊夢も、この百年あまり、その姿を変えていない。しかし、エッシャーの滝が境内に欲しいという願いは叶うことがなかったのだ。
「まあ、無理な願いは無理ってことよ‥」
「ならさ‥ 紅魔館の本を根こそぎ頂くって願いはありだよな ?」
「そういう人迷惑な願いは‥」
「ありだよな ?」
「無理よ‥」
「なんで‥ ?」
「鍵がね‥ みつからないの‥」
「鍵 ?」
「自然数よ──」
その御社で願いを叶えるには、自然数を記した紙を火にくべ、その灰を奉納する必要があった。しかし、ある自然数で願いを叶えると、次に願いを叶えるには、それよりも大きな自然数を記さなければならなかった。かつて、やんごとなき事情から、藪に埋もれていたその御社を切り拓いた博麗霊夢だったが、可能な限り大きな自然数を紙に記し、火にくべ、その灰を奉納しても、賽銭箱を賽銭で満たしてほしいという願いですら叶わない。
「──そう、今、魔理沙が座ってるそこ‥ ある日ね、そこに旅人が腰を下ろしていてね、それが野垂れ死にそうだったのよ‥ だから、お神酒とお団子をあげて、いくらか賽銭を恵んであげたらね‥ そしたら、お礼がしたいって言うのよ‥ 私、困っちゃってさ、で、社のことを話したら、紙に数式を書いて私にくれたの‥」
「巨大関数か──」
魔理沙はそう悟った。
「──もしかして、それを覚えてないの ?」
「そういうこと‥ 以前、十六夜さんに教えてもらったアッカーマンとかいう数式で試したことがあったけど、それでも歯が立たなかったわね‥」
「あなた、馬鹿じゃないの‥」
大きなため息を吐いて、咲夜が魔理沙をなじった。魔理沙は、図書館の本を燃やし、それを神社の賽銭にしてしまったのだ。
「失敗した‥ きちんとした定義がいるんだ、巨大数庭園数よりも大きな最小の整数って書いてもダメだし‥ あのさ、巨大数庭園数ってさ、どのくらい大きいのかな‥」
「あれは、外の世界で定義された自然数で最大の自然数だから、まあ、頑張って考えて頂戴‥ でも、安心したわ‥ その一冊の犠牲だけで、あなたの邪悪な野望を阻止できたのだから‥」
「か、借りただけだし‥」
「その借りものを燃やしたのよね ?」
「すいません‥ ねえ‥ なんか方法ない ? そうだ、外の世界に行けば、外の世界に行く方法ってないのかな ?」
咲夜は呆れたように息を吐いた。
「──あるにはあるんだけど、何もないんだし、行っても意味ないでしょ‥」
「──え ?」
「まあ、頑張って考えて頂戴‥ 私は、掃除をします‥ !」
「ねえ! どういうこと !?」
「はあ ?」
「ちょ‥ 咲夜さん、咲夜さん、どういうこと‥ ?」
「きゃん !」
咲夜が悲鳴を上げた。魔理沙が、部屋を出て行こうとした咲夜のスカート裾を掴んだのだ。
「かわいい‥」
「うっさいわね !」
「何も‥ ないの ?」
「はあ ? あなた知らないの ? 博麗さんの親友でしょ ?」
「初耳‥」
「──今から102年と49日前から、この幻想郷には一切の情報の流入はないわ‥」
「──なんで !?」
「ユーラシア大陸で起きた戦争が、核戦争の引き金になって、この幻想郷を残して、地球の文明は全て滅びたのよ‥」
「うそお !?」
「本当よ‥」
「ええ‥ 戦争って、スペルカードだろ ? そんなことになるものなの ?」
「馬鹿ね‥ そうならないように‥ 私たちはスペルカードを使うんでしょ‥ あ、でも、博麗さんのおかげで今の私達があるなら、博麗さんの話の彼だって、今もどこかにいるんじゃない ?」
魔理沙は腕を抱えて首を傾げた。
「──その人なら、巨大数庭園数について知ってるってこと ?」
「他人のことなんて知らないわよ‥ でも、少なくとも多変数アッカーマン関数よりは強い関数を博麗さんに教えたことは確かね‥ つまり‥」
「つまり ?」
「それなりの専門家ってことでしょ ?」
その日から、魔理沙は幻想郷を訪ねて周った。来る日も来る日も箒で飛び回った。そうしているうちに季節は春となった。春の陽気を浴び、昼寝する魔理沙の腰に敷かれた芽が、夏の日差しを覆い隠すほどの老木となっても、魔理沙はそれを続けた。とある夏の日、魔理沙は、その木にとまるアブラゼミに、幾つかのグループに分けられそうな個体差があることに気付いた。思い返せば、遠い昔にも、そんなことがあったような気がした。そんなアブラゼミの鳴き声も、ついには聞こえなくなった夏が、何度も過ぎ去り、アブラゼミのことさえ忘れてしまっても、魔理沙は箒で飛び続けた。
腹がすくと、魔理沙は老木の枝に腰かけてランチを食べた。枝の下に入り込んだ雲が幻想郷に雨を降らせる。いつしか、幻想郷の人々は、その老木をご神木と呼ぶようになった。ある時、幻想郷に大騒動が起きた。弾幕を避けようと、誰かが、ご神木の裏に回り込んだことがあった。そのとき、二百由旬の一閃が、ご神木を切り倒してしまったのだ。そのとき起きた地震で、神社の鳥居も倒れてしまった。岩山に腰かけてランチを食べていた魔理沙は、あの切り株が何処だったのか思い出せないでいた。空を見上げると雨粒が顔に落ちた。魔理沙は、自分が腰かけている岩山が、あのご神木の切り株の化石だとは思いもしなかった。
そんなことさえ忘れるほどの時が過ぎても、魔理沙は旅人を探し続ける。その岩山も風化し、原野となっても、魔理沙は探し続ける。
そうして、6億年の歳月がながれた初夏のことである。何時ものように、神社の境内でアリス=マーガトロイドの作るブラウニーを食べながら、ろくに作った事もない菓子について、あーだこーだと講釈を垂れ流した魔理沙は、まるでコンビニエンス・ストアーにでも出かけるかのように、いつしか思い人かのようになってしまった彼を探しに出かけた。手掛かりはあるのだ。魔理沙は信じている。
雲に届くほど高く聳える、樹齢、数千万年の林の樹冠へと魔理沙は飛んだ。かつてなら、その一本ですらご神木と崇められたほどの巨木の林だ。眼下には、樹齢にしてまだ数千年の森の樹幹が水面のように広がる。その樹幹に、魔理沙は、ぽつりと穴を見つけた。畑のような地面に日が落ちていた。この幻想郷に知らない景色なんてないと思っていた魔理沙は、こんなことがあるだろうかと驚いた。飛びそうな帽子を手で押さえて急降下をかけた。
「──男だ !」
感嘆した。それは、この幻想郷では、いや、この世界では、数億年の昔に絶滅してしまったと皆に信じられている男という種に見えた。こちらを見て目を丸くしたその男の前に、魔理沙はふわりと降り立った。
「お前、男だろ ! 博麗霊夢を知っているよな !」
「──はい‥」
「博麗神社で、その、霊夢に数学を教えたのはお前か ?」
「──え ?」
「ずっと昔の話 !」
「──ああ、いや、教るだなんて、数式を書いて手渡しただけです‥」
「ああ ! 私は、6億2300万年と1035日、私は、あなたを探していたんです !」
あまりの感動に、魔理沙は涙していった。
「魔理沙さんが、俺を ?」
「私を知っているのか ?」
「まあ、この世界に住んでいればね‥」
魔理沙はこの6億年の経緯を男に話した。時を忘れて話した。いつしか日が傾いて、西日が頬を赤く染めても魔理沙は話した。夕食をご馳走になり、夜が更けても、あくる日も、魔理沙は話した。そうして幾日もが過ぎた、ツクツクホウシの鳴き声が聞こえ始めた頃、男は言った。
「巨大数庭園数か──」
西暦、二〇XY年、七の月、ユーラシア大陸にあった国家が起こした戦争は、核戦争へと発展し、幻想郷に迷い込んだ人々を残して、人類は滅亡した。男は、とある山村で被爆したが、幻想郷に迷い込んだことで一命を取り留めた。博麗霊夢の施しの効能かどうかは定かではないが、彼は、今もこうして生きている。男は雪宮とだけ魔理沙に名乗った。雪宮が巨大数をはじめたのは、四十手前だった。引きこもりだった雪宮にとって、巨大数は、唯一、現実逃避の手段だった。近く、インターネットが完全に切断されると知った雪宮は、可能な限り、巨大数の定義をノートに書き写し、それをお守りのように大切にした。彼が幻想郷に迷い込めたのは、忘れられたものが流れ着く幻想郷の摂理なのかもしれないと魔理沙は思った。
「──でも、6億年ほど前に、そのノートは燃やして畑に撒いてしまいました‥」
「そっか‥」
「ごめん‥ 6億年も、俺は魔理沙さんを走らせたのに‥」
「いやあ‥ あ、でもさ、雪宮には、大切なノートなんだろ ?」
「はい。でも、あれは悪魔の契約です‥ 俺は、老いることも、病気をすることも出来ず悪魔に生かされてきた‥」
コーヒーカップの音と、ツクツクホウシの鳴き声だけが、狭い部屋に響いた。
「長居したね‥」
魔理沙は冷めた珈琲を飲み乾すと、そう言って腰を上げた。その姿を見た男は、意を決したように、一冊のノートを引き出しから取り出した。そして、魔理沙を呼び止めるように言った。
「──ここに、6億年かけて完成させた巨大数があります‥ あの、巨大数庭園数を超えると信じているものです‥」
男は、決して数学が得意だったわけではない。むしろ、小学校の割り算で算数は放棄したくらいだ。男は、人類の知の歴史を辿るように、野生から数学を構築した。あの、フェルマーの最終定理の証明にもたどり着いた。
「おお、そうなのか !」
「魔理沙さん‥ 俺は、この巨大数で邪悪な願いを叶えるかもしれません‥」
「なんだよ‥ 急に‥」
「──6億年間、信じていたんです‥ 数学が至上の美だと‥」
「うん‥」
「──霊夢さんは、俺に優しくしてくれた、最初で最後の女の子です‥ たったそれだけのことに、全てが劣るだなんて‥ 俺は、霊夢さんの全身全霊を手に入れたい‥ ついぞ思いもしなかった‥ なんてこった‥ この思いに圧し潰されながら、俺は永遠に生きなければならないのでしょうか‥ 魔理沙さん‥」
「その‥ 恋の話だろ‥ まずはその、自分の言葉を使えばいいと思うぜ‥ 思いを叶えたいならさ‥」
男には、魔理沙の微笑みが蔑みに思えた。
「──もし、それが魔理沙さんなら、魔理沙さんは俺を受け入れてくれますか ?」
「──そんなの、霊夢に聞けばいいだろ ? 」
魔理沙はそう答えると一礼して背を向けた。6億年の男の知も、6億年の魔理沙の見分も、この奇跡的な男女の邂逅に対しては初心すぎたのである。
「──魔理沙さん、俺と血の決闘をしてください」
博麗霊夢が、この幻想郷に住む人々を永年に生きながらえさせるように願ってから、幻想郷にでは、血の決闘と呼ばれる、死を伴う決闘が稀に行われるようになった。それは、幻想郷において禁忌な行為であったが、人々は、それを聖なる行為と信じ、博麗霊夢ですら、血の決闘が行われると知っても見て見ぬふりをした。霧雨魔理沙も、一度だけ、そんな血の決闘をしたことがあった。
魔理沙は、自分の女の匂いが、この男を絶望させるのだと悟った。
決闘は一瞬だった。
「止め、いるか‥」
魔理沙は、上半身だけになった男の頭を見下ろして言った。男が何かを言った気がしたが魔理沙にはわからなかった。止めを刺す必要もなく、男は、血を吐いて絶命してしまった。それから三日三晩、魔理沙は紅魔館の一室に篭り泣き続けた。
魔理沙が神社に顔を見せなくなって数カ月、霊夢とアリス=マーガトロイドはこの数カ月が何億年よりも長く感じた。ツクツクホウシの鳴き声も途絶え、鈴虫の声が聞こえ始めた頃、何事もなかったかのように魔理沙が神社にやってきた。そして、アリス=マーガトロイドの作るブラウニーを食べながら、ろくに作った事もない菓子について、あれこれと講釈を垂れる。そんな魔理沙の唇にアリス=マーガトロイドはなにやら違和感がした。
「ねえ、魔理沙‥」
「──ん ?」
「もしかして‥ 色付きのリップ塗ってる ?」
「──アリス‥ ブラウニー、1個、貰って帰っていい ?」
「いいけど‥」
「じゃあ‥ 貰って帰るね‥」
ブラウニーをひとつ紙に包んで籠に入れると、魔理沙は箒に跨って、家のある方角へと飛んでいった。
「霊夢、あれ‥ 男ができたよ‥」
「ないない」
■出演
霧雨魔理沙
博麗霊夢
アリス=マーガトロイド
十六夜咲夜
バチュリー
■原作
上海アリス幻樂団
■この作品は上海アリス幻樂団の東方Projectの版権を利用する際のガイドライン2011年版( http://kourindou.exblog.jp/14218252/ )に基づいて執筆しました。
■著者
長谷川由紀路
廊下で立ち寝していた十六夜咲夜は足音に目を覚ました。閉ざされた自分の部屋のドアが四日ぶりに開くと、目元を赤く腫らした魔理沙が、胸にノートを抱いて出て来た。咲夜はそっぽを向いてみせた。魔理沙がノートを差し出したのだ。
「図書館に‥ 寄贈したい‥」
「受け取れないわ‥」
「でも‥」
「6億年も前の事、気にしてないし、自分で煮るなり焼くなりして、すっきりしないさい」
「うん‥ ごめんね‥」
魔理沙はそう言うとノートを胸に抱いて走った。
~終~
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