時効前夜

@syu___

第1話

「ウイスキー、ロックで」

店に入るや否や、ベージュ色のトレンチコートを脱ぎ、年季の入ったカウンターチェアに腰を掛けた。

店内には俺以外の客は誰もおらず、空気に溶けるように流れるジャズと、オレンジ色のライトを纏った数百種類のボトルが、このバーに漂う特別な夜の中を悠然と泳いでいた。

 バーテンは一言も言葉を発さず、コトッ、と木製のカウンターに音を立て、ロックグラスをコースターに置いた。確か、去年来た時はもう少し砕けた感じだった、と思ったが、一年に一回しか来ない店のバーテンの顔なんて覚えているはずもなく、それに輪をかけるように年々記憶力が衰えていくので、毎年店に来る度同じことを思っている気がした。

 そっとグラスを口元に近づけ、茶色く透き通った海に溺れる氷を唇に感じながらウイスキーを流し込む。

そして大きなため息とともに、口いっぱいに広がる風味を感じながら、ふと視線を腕時計に落とした。

 十一時三十分。あと三十分で、あの日の事件が時効になる。

 グラスを置き、現実逃避するかのように両手で顔を覆うと、真っ暗になった視界から、微かにあの頃の健太の声が聞こえてくるような気がした。


 十四年前の今日、十一月二十二日は健太の六度目の誕生日だった。

「あなた、今日はなるべく早く帰ってきてちょうだいね」

「おう」

 あの頃、様々な事件の捜査を掛け持ち、多忙を極めていた俺は、ほぼ毎日、日付変わるまで仕事に勤しみ、一人息子の健太と顔を合わせる時間はほとんどなく、この日も例外ではなかった。

 捜査書類をまとめ終わりふと時計を見ると、長針は九時を指しており、俺は急いで署を出て、閉店前のデパートに駆け込んだ。

 そうして家に着いたのは十時を過ぎた頃だった。

玄関を上がると、そこら中に張り詰めた険悪な空気が疲れた体にずん、と重くのしかかってきた。そのままリビングに繋がるドアを開けると同時に、脳内で瞬時に作成された言い訳がダムのように口から飛び出した。

「今日も忙しく……」

ソファに座って、すすり泣く真奈美の姿を見て、思わず口をつぐむ。

「健太は、もう寝たのか」

 言わなきゃいけないはずの言葉から逃げるように、言葉を重ねる。いつもの悪い癖だ。

 机の上には、誰も手をつけていないスーパー戦隊のキャラがデコレーションされたホールのショートケーキが孤独感を漂わせ、放置されていた。

 その隣に、デパートのロゴが印刷された紙袋を置き、もう片方の手で持っていたバラの花束を持って、真奈美の前に立った。

 健太のプレゼントは後で、枕もとにでも置いておこう。とにかく今は。

「真奈美」

 結婚してから、家のことは全部真奈美に任せっきりだった。

 だから、今日ぐらいは、素直に……。

「真奈美、いつも……」

 花束に刺さった『11.22 いつもありがとう』と金色で書かれているメッセージカードがライトの光を受け、輝く。

「健太が……」

 俺の声に真奈美の震えた不安定な声が重なる。

「健太がどこにもいないの……」

「え」

 その時、手元からするりと抜け足元に落ちた花束は、音を立てることなく静かに床に散らばった。


 カランコロンカラン。

 バーのドアベルの音とともに、一人の老人が腰を曲げ入って来た。

 六十代ぐらいだろうか、白髪でオールバックの髪形は、どこかモーツァルトを彷彿とさせる風貌だった。

 腕時計に目をやると、十一時四十分を過ぎている。普通の老人ならもう寝ている時間のはずなのにと思いながら、氷が溶け少し薄くなったウイスキーを口に運んでいると、十脚以上空きのあるのにも拘わらず、なぜか俺の二つ隣りの席に座った。

 すると、またバーテンは無表情のまま、何も注文していない老人の前にウイスキーのロックを置いた。二人の間に流れる空気から察するに、かなりの常連客なのかもしれない。

「いやぁ、やっぱりウイスキーは沁みますなぁ」

 一口飲むと、独り言なのか、俺に話しかけているのかわからない声量でそう呟いた。

「兄さんや、お仕事は何を」

 今度は俺の方を向いて話した。

「兄さんなんて、もう五十ですよ。仕事は刑事を」

今日ばかりは人と目を見て話す気になれず、失礼とわかっていながらも、ずっとグラスに言葉を落とした。

「これまた、大変なお仕事をなさってらっしゃる」

 老人は口元を緩ませながらウイスキーを飲む。

「まぁ、好きでやってますのでね」

「確かわしの記憶が正しければ、十数年前に、ここらで誘拐事件が起きた覚えが」

「えぇ。十四年前ですね……」

グラスの表面についた水滴がコースターに落ち、滲んでいく。

そして、なぜかその部分だけ、赤く染まって見えた。


「どこにもいないって、いつからいないんだ?」

 口から滑るようにでた言葉が、床に散らばったバラの上に落ちる。

「二時間ぐらい前よ……、私がお風呂を沸かしに席を立って、帰ってきたら……」

「友達の家にでも行ってるんじゃないのか?」

 無意識に言葉が尖り始める。

「全員確認したわよ……、でも誰の家も来てないって……。警察にもさっき連絡したわ……」

「心当たりは?」

「わからないわよ、そんなの……」

「わからないって、一番近くにいたお前がわからなきゃ、誰がわかるんだよ!」

反響した言葉がそのまま自分の耳に入ってきた時、耳がじんと熱くなった。

「だから……、だから出て行ったのよ!」

 付き合いたての頃、初任給でプレゼントしたサイズの合っていない真っ赤なスカートが、頬から流れ落ちる滴で少しずつ滲んでいった。

俺は急いで家を出て、数少ない健太との記憶を掘り起こしながら、心当たりがある場所をしらみつぶし回った。

「え、なんですか?」

「だから、こんな六歳ぐらいの子供が来ませんでしたか!?」

 様々なアーケードゲーム機から発せられる愉快な音が混ざり、店内に鳴りわたる中、スマホに入っていた健太の写真を、ゲームセンターの店員に見せた。

「いやぁー、来てませんねぇ。さすがにこんな時間に子供が一人で歩いてたら気づきますよ」

 落ち込む暇もなく、向かいにあるお好み焼き屋のドアを開けた。

「おう、いらっしゃい」

「あの、さっき、健太来ませんでしたか?」

「健太君?来てないねぇ」

「そうですか……」

 いつもパフェを食べに行く、カフェにも。

「どうしたんだい、そんな息切らして」

「健太、来ませんでした?」

「来てないねぇ。おい、健太君見たかぁ?」

 その声に、厨房にいた女将さんが顔を出す。

「いやぁ、見てないねぇ……。どうかしたのかい」

「実は、家出したみたいで……。また見かけたら連絡下さい」

 俺は息を落ち着かせながら、缶コーヒーを開け、コンビニの駐車場に座り込んだ。

「健太、どこにいるんだ……」

 俺が知っている健太は自己主張が強いタイプではなく、どちらかというとおとなしく、自ら進んで何か行動を起こすタイプではないと思っていた。だが、そうであるがゆえに、俺に対する不満が積もり積もって爆発し、家を出たのかもしれない。もしそうなら、どれだけ俺は健太が苦しませていたのだろう。

 そう考えれば考えるほど、自分の父親としての愚かさがコーヒーと一緒に体内に積もっていった。

 そして、それを一つずつ踏みつぶすように、固く冷たいコンクリートに強く地団太を踏んだ。

翌日、聞き込み捜査をしていた部下から、自宅から一駅離れた街灯の少ない寂れた商店街で昨日、子供が誰かに抱きかかえられているのを見たという目撃情報が入り、パトロール中の車を急旋回させた。

そこは日中だというのに、全ての店のシャッターは閉まったままで、数分に一人としかすれ違わないほど人通りも少なかった。目撃証言があった裏道の先も襤褸屋が建ち並んでいるだけで、閑散としていた。そこで日が暮れるまで襤褸屋の住人たちに事情聴取を行ったが、有益な情報は得られなかった。

仕方なく商店街をくぐり車へ戻ろうとすると、日中は閉まっていた店に明かり灯っているのが見え、『準備中』と書かれた看板が引っ掛かったドアノブに手を掛けた。

「後、一時間程待ってもらえるか」

カウンターに立ち、グラスを磨いていたマスターらしき人物が、視線を変えず口を開いた。その言葉にぶつかりながら、店の中に進み、警察手帳を見せた。

「昨日、この辺りで誘拐事件が起きたので、少しお話を聞きたいのですが」

 警察手帳を見ても全く動じないまま、グラスにふっと息を吹き、グラスハンガーにかけ、カウンターチェアに案内した。

「昨日の二十時から二十二時頃は何を?」

「ずっと、店にいましたよ、まぁ客はいなかったので、証言してもらえる人は誰もいませんが」

口元を緩ませ、黒髪のオールバックを整えるその一連の動作から醸し出される優婉さを見て、この人からは罪を犯す欠片さえ感じられなかった。

「そうですか、わかりました。また何かわかれば警察まで」

えぇ。と呟きながらカウンターに戻りまたグラスを磨き始めた。

「また今度、客として来ます」

「お待ちしております」

常に一定のリズムでグラスが磨かれていく。

「息子さん、元気で生きています。きっと」

「えぇ。私もそう願っています」

 だがそれから十四年間。何の手掛かりもなく、無情に時間だけが過ぎていった。


俺はグラスを大きく傾け、最後の一口を流し込んだ。

「実は、誘拐された子供は、僕の息子なんです」

体の内側が火照り始める。数分前に会った老人になぜこんなことを話しているのか。酔いが正常な判断を鈍らせている。

「はぁ、そうでしたか。それはまた失礼なこと口走ってしまいました。お詫びに一杯奢らせてください」

「いえ、大丈夫です。もう帰るので」

事件が起きた翌年から毎年、健太が誘拐された日にこのバーを訪れ、酒を飲むようになった。この悔やむ気持ちの熱を冷まさないために。

ただ、長きにわたる奮闘もむなしく、後五分で時効を迎えてしまう。結局、犯人の動機は何だったのだろうか、なぜ健太が狙われたのだろうか、そして遺体すら見つかっていない健太は、今どこで何をしているのだろうか。

もう戻るはずのない健太のことを考える度、自責の念が膨れ上がっていく。

「差し支えなければ、どんなお子さんだったか、聞かせて頂けませんか」

俺はゆっくりと首を横に振った。もう、健太の声すら思い出せない自分の情けなさに涙を催す。

「なにも覚えてないんです。何もしてやれなかった、あいつのために……」

もう自分に向かって何度言ったかもわからない言葉が初めて口から出て、後悔の上に積み重なった。

「できるなら、今すぐ会って、謝りたい……」

 頬を伝い落ちた涙でコースターが滲んだ。気づけば店内のBGMは止まり、涙で潤んだ俺の声だけが響き、バーの空気と重なっていた。

「その想い、息子さんに届いてますよ。きっと」

どこかで聞いたことがあるセリフだった。何の根拠も持たない言葉を大きな両手で掬い上げるような声。

「まさか……」

顔を上げ、ドアベルの音とともに店から出た老人を追おうと席を立ったとき、バーテンが発した言葉で、俺の全身にある全ての細胞が凍り付いた。

「父さん」

もう、家には帰りたくない。その一心で、一人暗闇の中を歩き続けた。

去年の今日、僕はあることを心に誓った。来年ももし、僕の誕生日に父さんが帰って来なかったら、家を出ると。

トレーナー一枚で歩く十一月の夜はとても寒く、必死に肩を摩りながら人目のつかない道を選び、歩いた。

母がお風呂場へ行く隙を見計らって外に出るという案はよかったけど、ジャンバーも、手袋も、マフラーも、全部忘れてしまった。

もう死んだっていいという覚悟で家を出たけれど、このままだと本当に死ぬかもしれない。もし死んだら、僕は天国が地獄どっちにいくんだろう。

 寒空の夜風が体に当たって肌にしみていく度、死がスキップをしながら僕に近づいてくるような感覚に足が震え、ぽっかりと空いた僕の心を真っ黒に満たした。

やがて肩を摩る力もなくなり、指先の感覚が完全になくなった両手をもう電池がなくなったロボットのようにだらん、と垂らした。

 そして歩き続ける気力が、口から漏れた白い息と一緒に夜空に消えたとき、冷たいコンクリートに沈み込んでいくように膝から崩れ落ち、その場に倒れた。


 誰かの声が聞こえた。

 そっと目を開けると、天井から光るオレンジ色の光の中で、黒いベストを着たおじさんが目に映る。僕の知っている天国は、雲の上で白色の光に包まれながら、羽の生えた天使たちがラッパを持って微笑んでいるような、そんな場所だ。でも、薄暗くて、天使もいない。だとしたらここは地獄で、このおじさんはきっと悪魔で、今から僕の舌を引きちぎって、それを『えんまだいおうさま』にでも届けるのだろう。もうどうにでもなれ。

「僕、大丈夫」

「ん……」

「どこか痛いところないかい?」

優しい。だけど、少しお酒臭い。でも多分、悪魔じゃない。

だんだんと意識がはっきりと戻り始めたとき、動かないはずの指先が僕を包んでいた毛布に触れた。

「今、救急車、呼んでるからね。何か温かいものでも……」

 救急車。

その言葉を聞いた瞬間、急いで体を起こし、そう言って椅子から立ち上がろうとしたおじさんの手を、両手で縋るように掴んだ。

「嫌だ……。帰りたくない」

 おじさんの手は、父さんの手よりも小さかった。だけど、とても温く感じた。

「どうして、お父さんもお母さんも心配してるよ、きっと」

「嫌だ、帰りたくないんだ。皆、僕を悲しませるんだ。だから……」

 僕の言葉は、単に感情に任せて何の理由もないことを叫んでいる、ただの子供の戯言にすぎないのに、そんな話を聞くおじさんの目は、これまで会って来た中のどんな大人たちよりも『僕』を見ていた。

 遠くから鳴る救急車のサイレンがだんだんと大きくなっていき、それと共鳴するように僕の鼓動も激しくなった。

 冬になると、客足が遠のく。それにシャッター街の一角にあるということも、輪をかけてそうさせた。

 今日も閉店一時間前に店を畳み、ごみを出すため、裏口へ向かった。数年前は、他の飲食店の生ごみの匂いを吸わないよう息を止めていたが、今はもうそんなことする必要もなくなった。

 歩く度、黒いゴミ袋の中で、殆どが自分で開けたハイネケンのビンがぶつかり合い高い音が鳴る。そうしていると鼻先に何か冷たいものが当たったのを感じ、ふと空を見上げると、初雪が煌々と輝く大型ショッピングセンターの看板の灯りに照らされながら、町に降り始めていた。

 そして、指定された場所に袋を置こうとしたとき、看板の灯りに照らされ、死んだように横たわる一人の子供を見て、袋が手をすり抜けた。

 急いで子供を抱きかかえ店に戻り、バックルームにあった毛布で氷のように冷え切った子供の体を包み、ストーブの前に置いた。そしてずっとし忘れていた分も含め、深く呼吸をし、破裂しそうなほどに膨張と収縮を繰り返す心臓を落ち着かせ、携帯電話を手に取った。

なぜあんなところに子供が……。

そう思いながら、救急隊員の支持の通りに子供の首に手を当てた。

「はい、脈はあるみたいです。はい、毛布とストーブで……」

 電話を切ると、体に張り詰めていた力が穴の開いた風船のように、すぅーと抜けていき、体を預けるようにしてカウンターにもたれかかった。

 オレンジ色の照明も相まって、蒼白だった子供の顔にうっすらと血色が戻り始めているように見えた。

そういえばもう何十年も彰(あきら)と連絡を取っていない。たしか今年でちょうど二十歳のはずだ。ちゃんと大学にも通っているのだろうか。

 昔を記憶の欠片を拾うように冷蔵庫の中からハイネケンを取り出し、一口だけ口に入れる。

できることなら、一杯だけでもいいから、あいつと酒を交わしたい。


妻と離婚したのは彰が六歳の頃だった。

学歴のなかった俺は、建設現場の作業員として肉体労働をしていた。一向に上がらない給料と、それに見合わない厳しい作業だったが、家にいる妻と子供のことを思うと自然と頑張れた。

 ある日、仲の良かった小学校の同級生から話があると連絡が入り、居酒屋へ行った。そこで、新しく店を始めるための開業資金を借りるための連帯保証人になって欲しいと言われ、好のあった友人の頼みを断ることもできず、サインをした。しかし数日後、その友人は到底返済できるはずもない莫大な借金だけを残しどこかへ消えてしまい、その返済義務を負った俺は、自己破産以外の選択肢を選ぶほかなかった。

 そして全ての資産と共に、妻と彰も失い、絶望の淵に立たった俺は人間不信に陥り、ただひたすら人を避け続けた。

 そんな灰色の人生を送っていたとき、母から、父が危篤状態だという連絡が入り、病院へ向かうと、何本ものチューブに繋がれた父がベッドに眠っていた。

「いつから……」

「もう、こうなって一か月ぐらいになるわ」

 重力に耐えきれず垂れ下がった頬の皮膚を持ち上げるように、手を当て、顔を近づけた。

「おい親父……言ったよな、人には優しくしろって……」

妻と彰の顔が脳裏に浮かび、体が涙を覚える。

「その教えを守ったせいで、俺の人生とんでもないことになったじゃねえか……」

掌の熱が、冷たい顔に吸い取られていく。

「おい、何とか言えよ、親父……」

その時、皮膚に電気が走ったように、少しだけ動いた。

「いつか全部、返ってくるわい……」

 白く曇った呼吸器の上に、一滴の滴が落ちた。

「またそんな勝手なこと言って……」

 ピー。

「え……」

その音に吸い寄せられるように、医者と看護師が病室に駆け込み、親父の名前を呼び続けたが、もう返事をすることはなかった。

後日、父親が経営していたバーのバックルームから見つかった遺言通り、俺は店を継ぐことになった。


「いや、待ってくれって言ったんですけどね。僕の言葉も聞かずに、さっき父親が家に連れて帰っちゃいました」

俺は呆れ顔の救急隊員に、申し訳なさそうな顔を作りながら最大限の詫び感を演出し、頭を下げドアを閉めた。

振り返ると、子供はバックルームから不安そうな顔覗かせ、こちらを見ていた。

「とりあえず、大丈夫だよ」

『嫌だ……。帰りたくない』嘆くように呟き、小さく冷え切った手で俺の手を掴むあの子の目を見たとき、体の奥の方から、父性に似た何かが込み上げてくるのがわかった。

「なんで帰りたくないの?」

俺は腰を落とし、俯いた子供の顔を見上げるようにして聞いた。

「何か、お父さんかお母さんから暴力を受けてるとか?」

静かに首を横に振る。

「じゃぁ、どうして?」

寄り添うように毛布がかかった小さな肩に手を置いたとき、子供は涙交じりに全てを話してくれた。その話の輪郭は全体的にぼやけていて、見方を変えれば、子供特有の自分勝手な話にしか聞こえない部分もあった。

 だが気づけば、その子供の姿を無意識に、別れたときの彰の姿と重ね合わせ、自分事のように話を聞いている俺がいた。

 彰は俺のことをどう思っているのだろうか。自分勝手に返済できないほどの借金を背負い、家族を捨てた身勝手な大人だと思っているのだろうか。

「邪魔なら、帰る……」

毛布を床に落とし、俺を横切った。

「帰るって、どこに」

こんな寒い夜に、また外に出してしまったら、次は本当に死んでしまうかもしれない。

子供は振り返りもせず目一杯踵を上げ、ドアノブに手を伸ばした。

「ちょっと待って。じゃぁ、気が済むまでここにいていいよ」

この時、自分の中にあった『優しさ』という、いつまでも実態がはっきりとしないものを履き違え、誘拐犯になった。

そして、ゆっくりと子供の傍に駆け寄り、両腕で小さい体を抱きしめたとき、あの時の親父の言葉が脳裏に蘇った。

『いつか全部、返ってくるわい……』

 きっと、この子は……。

聞き間違えたと思った。なぜなら、俺に向かってその言葉を口にできる人間は、もう何十年も前に消えたと思っていたから。

「俺だよ。健太だよ」

「本当なのか……」

目に見える部分は子供の頃の面影を残していなかったが、声だけは六歳の頃の丸い輪郭が若干残っていた。だが、まだどうしても信じ切れていない自分がいた。

「これまで、一体どこにいたんだ……」

「ここのマスターの家だよ。そこでずっと育ってきた」

 あの優しげな男性が……。

 一年に一度、客として通うようになった三年後の年にバーテンが変わったのは覚えていた。しかし代役のバーテンから、体調不良で入院しているだけだと聞き、特に不信感は持たなかった。

「信じられない、っていうより、信じたくないって顔してる」

 健太の視線は俺の頭の中を全部見抜くかのように、眉間を貫いていた。

「何十年も捜査して見つからなかったのに、こんなにあっさり見つかってたまるかって顔」

「そんなこと……」

 自然と語尾が濁る。それに近い感情を奥歯で噛み殺したのは確かだった。

「やっぱり何も変わってない。いつでも仕事が最優先で、家族のことは何も考えていない」

 健太の口からでる言葉はどれも、尖っていて、十五年分の怒りがたっぷりと染みついていた。

「さっきの話を聞いて、それがちゃんとわかったよ」

「どういうことだ……。俺は健太にずっと謝りたくて……」

「謝るのは俺じゃない!」

 店内を包み込んでいた穏やかな空気にひびが入る音がした。

「あんたみたいな人間のために、毎日悲しんでた母さんだ!」

 やがて、ぽろぽろと空気が剥がれ落ち、その空間を包んでいたものが全てなくなったとき、俺達を包んでいたのは健太から溢れる憎悪だけだった。

「毎朝誰よりも早く起きて弁当作ってることも、いつ帰ってくるかわからないのに、ずっと食卓に座って夜遅くまで待ち続けていたことも、今年こそはって、結婚記念日に手作りのケーキを作ってたことも……」

 声を微かに潤ませ、カウンターに両手をつく。

「陰でどれだけ頑張ってるかも知らないで、毎日母さんを悲しませる、あんたが憎くて仕方なかった。そんな状況を変えられない自分も……」

 頭の中で点と点が繋がっていく度に、心が苦しくなる。机に結婚指輪を置いたとき、顔を隠した前髪の隙間から見えた真奈美の虚ろな表情の意味も、今ならわかる気がした。

「だから、家を出るしかなかった……。もうあれ以上、母さんの悲しむ顔を見たくなかったから……」

 頬を伝った涙は、六歳の時にはなかった手の甲に浮き出た血管の上に落ちた。

「健太が出て行った後、母さんとは離婚した……」

 健太は表情を一切変えず、俺の目の前に置かれたグラスを見続けた。

「健太の言う通り、俺は何もわかってなかった」

 仕事をし、家族を養うことだけが、父親の役目だと思っていた。

「二人を失うまで、それに気づけなかった」

 だけど、それはまるで間違っていた。

「これまでのことを全部なかったことにしてくれとは言はない。健太の目には何一つ変わってない昔のままの俺が映っているかもしれない。だけど、この十五年間、父親でもない、ただ一人の男として生きてきて、自分一人じゃ何もできないことを知って、心の底から改心したつもりだ。だから」

 俺はカウンターに額がつく寸前まで頭を下げた。

「もう一度だけ、健太の父親として、真奈美の夫として、やり直すチャンスが欲しい」

 ゆっくりと頭を上げると、目の前にいたはずの健太が視界から姿を消していた。

 また、失った。

 そう十五年分の喪失感が凝縮された黒い塊が、体の中で爆発しそうになったとき、温かい何かが俺の左手を包んだ。

 十五年ぶりに触れたそれは、想像していた何倍も温かく、分厚かった。

 そして俺は、絶えず伝え、伝わり続ける慈しみを感じながら、来てほしくなかった今日を知らせるように、長針と短針が十二の上に重なった腕時計をただ見続けた。

 店を出て、アパートへ向かっていると、鼻先に一片の雪が落ち、溶けた。確か、初めて健太とあった時もこんな夜だった。

 父親と話したいと言って来たのは、一か月ほど前の秋が終わりかけていたときだった。その話を聞いたとき、真っ先に、俺のことを気に掛けてくれ、これまで我慢してくれていたのだろうと悟った。

 いつかこうなる時が来るのは薄々わかってはいたし、住み始めた当初は、いつ警察に自首しようかと、ずっと頭の片隅で考え続けていた。

 だが、健太と過ごす毎日は、全てを失う前の生活に戻ったように色めき、そんな生活を到底自ら手放すことなどできず、日を積み重ねるごとに、邪魔な罪悪感などの類のものに全て蓋をしていった。

 そうして健太と過ごした十五年間は、彰とは過ごせなかった、ぽっかりと空いた記憶の穴を埋めてくれた。

 だけど、もう健太はいない。

 そしてまた、無色の人生を歩み始めなきゃいけないことを悟ったとき、いつものアパートへ帰る足取りがいつもより重く感じた。

 もうあの店も今年で畳むつもりだった。というより、健太と一緒にいる時間を増やすためにアルバイトを雇っていたこともあり、続けるための資金が底をつき、それ以外の選択肢がなかった。

 歩く度、健太との楽しかった思い出を覆うように、今になってあの刑事さんへの罪悪感が沸々と込み上げてくる。

 今、十五年ぶりに再会した息子を見て、どんな気持ちだろうか。

 親として子供の成長を傍で見守り続けることのできない、精神的苦痛を誰よりも知っているはずだった。だが、知ってしまっているがゆえに、手放せなかった。同じ子を持つ親として、どれだけ苦しめさせているとわかっていても。

 そしてこれからは、俺が罪悪感とともにその苦痛を背負いながら、死ぬまで生きていかなければならない。

 襤褸屋が建ち並ぶ道を横目に十分ほど歩きアパートに着くと、数少ない街灯にうっすらと照らされながら、傘を持ち立っていた男と一瞬目が合った。

 少し不気味に思いながらも、気にせず銅色に錆び切った階段に足を掛けたとき、背後から聞こえた俺の名前を呼ぶ声が、階段を上る足を止めた。

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