千代に八千代に

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千代に八千代に

 昭和19年。

 ひっぱりにもんぺ姿の少女・千代は、防空頭巾をかぶって空を見あげていた。

 その隣で、祖父が緊張した面持ちでタバコをくゆらせている。

 彼の視線の先にあるのは、天頂近くまで高度をあげたB-29だ。

 この日、米軍機は9000mもの上空から焼夷弾をばらまいた。

 無差別攻撃だ。

 山肌が火を噴き、木々が燃えあがる。

「山向の町が攻撃されておる。こっちは大丈夫じゃ」

 祖父はそう言って、タバコを投げ捨てた。

 やがて空襲警報が解かれると、祖父母と母に手を引かれて家へと帰る。

 千代は泣きもせず、ただ黙々と歩いていた。

 祖父も無言のまま、彼女を守るように寄りそっている。

 千代は山の斜面から何か転がり出ているのを目撃した。

「お祖父ちゃん。あれ何?」

 彼女は祖父の手を引っぱった。

 岩のように見えた。

 だが何か違う。

 祖父は目を凝らしていたが、それが何であるか気がつく。

「国歌にあるじゃよ……」

 千代には意味が分からなかった。

「縁起が良い。日本は必ず戦争に勝つんじゃ」

 祖父は千代を抱き寄せながら言う。

 千代は、その言葉を信じた。

 だが翌年の昭和20年8月15日。日本はポツダム宣言受諾を申し入れ、無条件降伏した。

 ――

 千代の家は焼け落ちた。

 祖父母も両親も死んでしまった。

 千代だけが生き残った。

 戦後の混乱期だった。

 千代はひとりぼっちになった。

 中学生になった時に、両親と祖父母の墓参りの帰り、実家の近くにある神社に立ち寄った。

 そこには、千代が見つけた、《岩》が境内にあった。子供程の大きさであった。

 《岩》は御神体として神社で祀られることになったのだ。

 千代は、それを見て涙を流した。

 これを見つけた時は、家族が居た。今は独りぼっちになってしまった。

 寂しさが胸の中にこみ上げてくる。

 ふと千代の目尻に、人影があるのを気がついた。

 《岩》の傍ら、見慣れない服装をした女性がいた。それは不思議な感じの女性だった。

 顔立ちは日本人の女性なのに、髪の色は銀色なのだ。荘厳な印象を受ける。

 そして彼女の背後からは、淡い光が溢れていた。

 それは蛍のような光であった。幻想的な光景である。

 千代は息をするのを忘れてしまうほど驚いた。

 女性は静かに微笑んだ。

 慈愛に満ちた表情だ。

「神様だ……」

 千代は直感的にそう思った。

 銀髪の女性は、優しく微笑みかける。

「大きくなったわね。前に会った時は、このくらいの子供だったけど」

 女性は手を使って、当時の千代の背丈を再現した。

「あなたは、神様なんですね」

 千代は震える声で言った。

 女性の年齢は二十歳そこそこだろう。だが千代には、彼女が自分だけでなく母よりも祖母よりも遥かに年上の存在であることが分かった。

 女性は少し困ったような顔をする。

 その仕草が可愛らしく思えた。

 彼女は静かにうなずいて見せた。

「ええ。私はイワナガヒメ」

 彼女は名乗った。


 【石長比売イワナガヒメ

 『古事記』では石長比売。

 『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記する。他に苔牟須売神コケムスヒメとも称される。

 石長比売イワナガヒメは岩のように堅固で永久不変なことを象徴する女神。

 名前の「磐」の字は常磐の意味で、常に青々としていてめでたい常磐木などと使うように、そこには生命長久の観念が込められている。

 岩石の神というといかにも無骨なイメージが持たれるが、この神が寿命長久の神とされるようになった理由もそこにある。

 大山津見神オオヤマツミの娘で、木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤヒメの姉。

 木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤヒメとともに邇邇芸命ニニギの元に嫁ぐが、石長比売イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神オオヤマツミはそれを怒り、「石長比売イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売コノハナノサクヤヒメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。


 千代は跪いてイワナガヒメに乞うた。

「神様。どうか私を家族の元に連れて行って下さい。家族は皆死んでしまいました。もう誰もいないのです。お願いです、どうか……」

 千代は涙ながらに訴えた。

 だが、彼女は首を横に振った。

 彼女は千代を優しく抱きしめる。

 まるで母親に抱かれるかのように、暖かくて柔らかい感触がした。

 千代は驚いて目を見開いた。

 イワナガヒメが耳元で言う。

 優しい声だった。

「そんなことを望んでいる家族は居ないわ。あなたの命は、みんなに託された命なの。生きることは辛いことじゃない。生きていれば、きっと良いことがあるから」

 千代は顔をあげた。

 すると彼女の姿が消えていく。

 最後に千代に笑いかけた。

 その笑顔を見た瞬間、千代の心の中に暖かいものが満ちた。


 ◆


 千代は成人していた。

 再び、《岩》の元を訪れていた。

 あの頃と変わらない姿で、それは鎮座している。

 千代は目を細めてそれを眺めた。

 あの時、自分が出会ったのは本当に神様だったのか? 今でも疑問に思うことがあった。

 でも今なら分かる。

 あれは確かに神様であったと。

 すると、彼女の姿があった。

 銀髪の女性だ。

 彼女は優しく微笑んでいた。

 千代は頭を下げた。

「私は18歳で結婚しました。優しい旦那でしたが、私との間に子が生まれないことでしゅうとめと折り合いが悪くなり離婚しました。私は、またひとりぼっちになってしまいました。家族を失った悲しみは今も私の心の中で癒えてはいません。それでも生きていかなければ、ならないんでしょうか?」

 千代は泣きそうな声で尋ねた。

 イワナガヒメは静かに言った。

「あなたはまだ生きている。それは新しい家族に出会うためよ。だから前を向いて歩いていきなさい」

 そして彼女の姿は消えた。

 千代は顔をあげる。

 そこには、《岩》があるだけだった。


 ◆


 次に、《岩》を訪れた時、千代の腕には赤子が抱かれていた。

 夫になった人は、千代と赤子に優しく語りかけてくれた。

 彼女は夫の手を握り締めた。

 彼の手は大きく温かかった。

「幸せです」

 すると、夫は言った。

「これからもっと幸せになるんだよ」

 千代は微笑んでうなずいた。

 嬉しくて涙を流した。


 ◆


 千代は、《岩》を訪れる。

 顔に皺が少し増えたが、まだ若々しい容姿をしていた。

 千代は告げた。

 息子が結婚したと。相手は優しそうなお嬢さんだった。

 千代は嬉しかった。

 これで安心して逝くことができると。

 すると、彼女の意思が伝わる。

 ――あなたの幸せは、これで終わりじゃないわよ。

 そう言われた気がした。

 その通りだった。

 千代は微笑んだ。


 ◆


 それから何年か経った。

 その日、千代は1人の年端も行かぬ少女を連れて神社を訪れた。

 少女の名前は桜木さくらぎ美月みづきと言った。

「お婆ちゃん。あれ何?」

 浴衣を着飾った美月に指差されて、千代は微笑む。

「あれはね。お婆ちゃんが子供の頃、見つけたの」

 美月は不思議そうな顔をする。

 千代は優しく微笑みかける。

 美月は千代にとって、かけがえのない宝となった。

 彼女を抱き寄せる。

 千代は願った。

 どうかこの孫娘を見守っていて下さいと。


 ◆


 美月は高校生になっていた。

 一見して目移りしてしまうものがある。

 細い筆で描かれたような柔らかで繊細な面は、花弁が開ききっていない花のような落ち着きが。そしてどこか憂いを帯びた瞳には気品すら感じさせる。

 腰元まである漆黒の髪は、カラスの濡れ羽色のように艶やかでしっとりとしていた。思わず触れたくなるような、髪は緑の黒髪という表現をよぎらせる。

 例えるならば、雛人形のような気品を備えた少女であった。

 美月は、お気に入りの着物を着て、学生服の少年を連れていた。

 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。

 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。

 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ……でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 千代は歳をとっていた。

 だが、年齢を自然に受け入れた姿は、いい歳の取り方をしたとも言える。美月から少年のことを聞いていた、クラスメイトであると。

 でも、ただの学友でないことは千代には、すぐに分かった。

 なぜなら、その少年と一緒に居る美月の表情は今まで見たことがないほどに輝いていたから。

 千代は話しを聞いた時から、すでに察していたが改めて確信した。

 美月は、この少年に恋をしているのだと。

 千代は目を細める。

 あの少年はきっと良い子なのだろうと。千代は美月の目を信じることにした。

「凄い。これが、『君が代』にあるなんだ……」

 少年は初めて見る、に興味津々だった。

「凄いでしょ。お婆ちゃんが、子供の時に見つけたの」

 美月は少年の顔を見ながら嬉しそうに言う。まるで自分のことのように自慢げだった。

「見るのは初めて? これが、さざれ石よ」

 千代はクスリと笑って答える。


 【さざれ石】

 「さざれ石」は漢字で、「細石」と書く。

 小さな石という意味で、学名を石灰質角礫岩と呼ぶ。

 石灰石が長い年月をかけて雨水で溶解し、小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が粘着力の強い乳状液が小さな石の隙間を埋め凝結し、ひとつの大きな岩の塊になったものを「さざれ石」と呼んでいる。

 さざれ石は神霊の宿る石だと信じられ古来より日本人は、岩や山などに神様が宿ると信じており、日本各地には岩や石を依代よりしろ(神霊が降臨するときに宿るとされるもの)とする神社が多く存在する。

 さざれ石は縁起物とされている石で、ご利益のある石とされる。

 一般には、日本の国歌である『君が代』の歌詞に歌われることで、その名が知られている。

 歌詞中のさざれ石は文字通り、細かい石・小石の意であり、それらの小石が巌となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられている。


 少年は、さざれ石をまじまじと見た。

 一個の岩ではない。

 細かい石、小さい石が集まり、岩を形成している。どれだけの年月を経れば、このような形状になるのか想像もつかない。

 人間が生まれて死ぬまでの時間を少年は長いと感じていたが、この岩を見る限り一瞬のように思えた。

 不思議な感覚が身体を駆け巡る。

「小石が、さざれ石になるのに、どれくらいの時間が必要なんだろう?」

 少年は疑問を口にした。

 すると美月が答えた。

「京都市西京区大原野の、さざれ石を調べると石炭紀・ペルム紀・三畳紀に形成されたって書いてあったわよ」

 美月が、スラスラと答えてくれたことに少年は驚く。

「それって、確か恐竜が居た時代が三畳紀・ジュラ紀・白亜紀だから、その前の時代だよね」

 少年は、少し興奮気味に言った。

「そう。2~3億年前よ」

 美月は少年を眺めた。

 少年は圧倒される。

 途方もない年月だ。

 人類が誕生するよりも遥か昔。自分が知っている世界とは全く別の時間の流れを感じる。

 少年は言葉を失いつつも、君が代を口ずさむ。

「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで」

 少年は一度口を切って続ける。

「……凄い。こんなにも長く深い時間があるなんて知らなかった」

 昔の人は、さざれ石ができあがる時間を科学的に知らなかっただろうが、それでも凄い時間を想像していたのは確かだ。

「国歌について、調べているの?」

 千代が尋ねると少年は良い返事をし肯定した。

 理由を口にする。

 少年は、日本神話に興味を持っていた。

 この国の成り立ちや歴史を知ることは、自分のためになる。

 この国に生まれた人間として、日本の文化を知りたいと思った。

 少年は、この国に生まれながら、この国がどういう場所なのか知らない。だから、もっと知りたくなって勉強を始めた。

 そんな折に美月から、さざれ石のことを聞き、実物を見たくて、ここに来たのだ。

 すると、千代は『君が代』について教えてくれた。


 【君が代】

 10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』(905年)の「読人知らず」の賀歌がかが由来となっている。

 賀歌がかとは、長寿や繁栄を祈る歌のこと。

 また、世界の国歌の中で、作詞者が最も古い歌詞の国歌であると同時に、世界最短の国歌となっている。

 『君が代』は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、長寿を祈る歌、お祝いの歌、恋の歌として賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていた。

 江戸時代には三味線で曲をつけたものが酒場で流行ったこともあった。

 国歌としては、明治二年(1869年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている。

 明治十三年(1880年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲『君が代』が採用された。

 そのテーマは皇統の永続性とされる。

 また、君が代は、イワナガヒメを称える歌でもある。

 歌詞だけを見ると「石」→「巌」→「苔むした巌」と石に例えて長寿を重ねる様を表している。

 イワナガヒメは石(岩)の神であると同時に長寿の神様。さらに「苔牟須売神コケムスヒメ」という別名もある。

 イワナガヒメをないがしろにしたことで短命となったニニギ。その子孫の国歌が、「細石が巌になり苔むすまで」と長寿を讃え祈る歌詞となったのは必然とも言える。

 戦前までは国家平安の歌として親しまれるものの、戦中に軍国主義の象徴となったことからGHQ(連合国総司令部)より禁止される。

 その後、日本には正式な国歌がなかった為、慣習として『君が代』が国歌として使われる。

 正式に国歌として制定されたのは、平成11年(1999年)になってからとなっている。


「国歌に制定されたのって、そんなに新しかったんですね。でも、歴史としては、そんなに古い歴史があった。あの、賀歌がかとしては意味はどんな内容になるんですか?」

 少年は意味を、更に知りたくなって訊いた。

「それはね。あなたの命が、小さな石が長い年月をかけて大きな石となり、その石に苔がつくまで、永く永く続きますように。

 という意味よ」

 千代は優しく微笑み、丁寧に答えてくれた。

 それから美月と少年を交互に見つめて続ける。

「もう一つの解釈として、男女の永遠の絆を歌った恋の歌というのもあるのよ」

 美月は少年を意識したのか、喉にものがつかえたような表情をした。

 だが、少年に変わった様子は見られなかった。

 千代は少年の反応を見て、小さく笑う。

 少年は、恋愛感情を理解していないようだった。美月の恋心も、きっと伝わってはいないのだろう。少年の鈍感さには、美月も苦労しそうだと千代は思う。

 でも、少年を見ていると美月が幸せになれるのではないかとも思えた。

「古代日本語では『キ』は男性、『ミ』は女性を表したそうよ。つまり『君が代』の『君(キミ)』は心身ともに完全に成長した男女を指すと考えるの。

 そして、さざれ石の巌となりては、協力しあい団結しあうことを表している。

 まとめると、心身ともに成長した男女が、時代を越えて、永遠に千年も幾千年も、生まれ変わってもなお、協力し合い、団結をして、固い絆と信頼でむすびついていこう。

 こんな解釈もあるのよ」

 千代は、君が代の意味を少年に分かりやすく説明してくれた。

 美月と少年は、千代の話を聞いていると、大人になっていくことの大切さを意識する。

 少年は、この国の歴史や文化について知れば知るほど、悠久の時の流れを感じた。

 そして、自分が生まれるよりも遥かに昔の時代の人たちが、自分達と同じように、悩み、苦しんで生きていたことを知り、感動した。

 自分の知識欲が満たされていく。

 少年は、日本が好きだ。

 この国で生まれたことに誇りを持っている。

 日本が、どういう国なのか知っておきたかった。

 そして少年は、国歌の意味を知ることで自分が好きな国を、もっと好きになっていた。

 千年以上前の平安の時代から歌い続けられ、国歌の『君が代』が、長寿を祈る歌であり、男女の永遠の絆を歌った恋の歌でもあった。

 国歌を侮辱する存在を見たことがあったが、少年は、こんなにも長い間日本人に愛され、歌われてきたことは変えようのない事実だと胸に刻んだ。

「ありがとうございます」

 少年は背筋を正し、千代に頭を下げた。

 上辺ではない。誠心誠意のある態度であり、武術家そのものとしての精神を感じさせた。

 少年の礼儀正しい姿に、千代は好感を持つ。

 ここまで真摯な態度を取れることに驚きを覚えた。少年が、どのような環境で育ち、どんな人物から影響を受けたのか、気になった。

 それと同時に、孫娘の人を見る目の良さにも驚いた。

 少年の誠実さは、千代にも伝わっている。

 だからこそ、少年の笑顔を見ると嬉しく感じる。

 それから美月と少年は、神社の境内を去ろうとしたが、千代は動かなかった。

「どうしたの? お婆ちゃん」

 美月は千代に尋ねると、千代は答えた。

「私は、少しお参りをして帰るわ。二人は先に帰っていいのよ」

 美月は頷くと少年と二人で、鳥居まで歩いた。

 適度に離れた所で、千代は孫娘を呼んだ。

「美月」

 美月は振り返り、千代の姿を視界に入れる。

 すると千代は、美月に手招きをする。

 美月は首を傾げながら、千代の元に戻った。

 千代は美月の手を取り、耳打ちする。

「美月。どこまでいってるの? キスくらいはしているのよね」

 千代は、二人の関係がそこまで行っていないことを直感で知ってはいたが、あえてカマをかけた。その言葉に、美月は顔を真っ赤にした。

 美月は、言葉を発することができなかった。

 そんな美月の様子を見て、千代は笑った。

 そして、美月の肩に手を置く。

「ふふっ。そんなに焦らなくても良いのよ」

 美月は俯き、黙って聞いていた。

 孫娘には幸せになって欲しい。

 だから、美月の想いが叶うなら、どんなことでも応援したいと思っている。

「どうしたの桜木さん?」

 戻ってきた美月が、ぎこちなくなってしまっているため、少年は心配して尋ねた。

 美月は少年の顔を見た。

 少年は、いつもと変わらない表情をしている。

 しかし、その瞳には優しさが感じられた。

 美月は、そんな少年のことが愛おしいと思う。

 少年は、美月にとって特別な存在になっている。

 だが、もし少年が自分のことを拒絶してしまったらと不安だった。少年と結ばれたい気持ちはあるが、今の関係を壊してしまうことは避けたかった。

 美月は、この関係のまま、ずっと一緒にいられれば、それで良かった。

 でも、このままではいけないとも思っていた。

 千代は、美月の背中を押してくれたのだ。

 美月は顔を上げる。

 少年は不思議そうな表情をしていた。

「な、何でもないわ」

 美月は慌てて取り繕うように言う。

 少年は、美月の表情を見て、何かあったのかと感じた。

 だが、訊いても美月は答えてくれないだろうと思い、何も言わなかった。

 それから二人は、鳥居を抜け帰路についた。

 千代は微笑ましい二人の様子を見送りながら、思う。

(どうか美月の恋が実りますように)

 と。

 すると、千代はイワナガヒメが、さざれ石の側に立っているのを目にした。

「神様。私、欲張りになってしまいました。一人ぼっちが寂しくて、死んだ家族の元にいくことばかりを考えていましたのに……」

 千代は、申し訳なさそうに呟いた。

「私は岩の永遠性を表す者よ。千代、あなたの名前がそうであるようにね。あなたは何を願うの?」

 イワナガヒメは優しく微笑み、千代に語りかけた。

 千代は願いを口に出す。

「息子の結婚で満足できると思っていました。なのに孫の顔を見れれば人生に満足できると思っていました」

「それで?」

 イワナガヒメは訊く。

「孫娘の成人した姿が見れれば、今度こそ人生に満足できると思っていましたが、今は曾孫の顔が見たいです」

 千代は恥ずかしそうに言った。

 イワナガヒメは、そっと笑い、優しい声で答える。

「それは素敵なことね」

 千代は、イワナガヒメに見惚れていた。

 それから千代は、もう一度、深く頭を下げると、彼女の姿はもうなかった。

 千代は神社の奥にある御堂に向かった。

 賽銭箱の前に立ち、財布を取り出す。

 500円を入れ、柏手を打つ。

 縁起の良いお賽銭の金額がある。

 5円(ご縁がありますように)

 11円(いいご縁がありますように)

 15円(十分なご縁がありますように)

 20円(二重に縁がありますように)

 25円(二重にご縁がありますように)

 41円(始終いい縁がありますように)

 45円(始終ご縁がありますように)

 50円(十倍のご縁がありますように)

 115円(いいご縁がありますように)

 125円(十二分なご縁がありますように)

 415円(良いご縁がありますように)

 485円(四方八方からご縁がありますように)

 500円(百倍のご縁がありますように)

 1万円(円満に通じますように)

 となっている。

 イワナガヒメは岩のように堅固で永久不変なことを象徴する女神。

 岩石の神というといかにも無骨なイメージが持たれるが、この神が寿命長久の神とされる。

 また、ニニギに振られ、酷い失恋をしたにもかかわらず「人々の良縁を授けよう」と尽くされた女神でもある。

 そのため恋愛や縁結びのご利益が絶大とされる。

 素戔嗚命スサノオ櫛名田姫クシナダヒメの子である八島士奴美神ヤシマジヌミノカミと結婚。

 そして子孫に恵まれたことからも、結婚や安産のご神徳もある。

 千代は目を閉じ、祈りを捧げる。

 命が時と共に紡がれていくように、人と人の繋がりにも終わりはないと信じている。

 人は、いつか必ず死ぬ。

 だが、その人が生きた証は、誰かの心の中で生き続ける。

 そして、その人がいたからこそ生まれた想いがあり、その人に託されたものがあって、新たな生命が生まれてくる。

 その繰り返しなのだ。

 千代は願う。

 美月と少年のことを思い浮かべながら。

 二人が幸せになってくれることを祈っていた。

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