10、キャロットラペ

 数日後。

 ミリアムはシトリン亭の営業時間を終えてから、二階の部屋で刺繍の続きをしていた。


「あとすこしでなんとか」


 鈍色にびいろの雲がたれこめた空は、海までもにごった青灰色にそめている。

 ランチの時間だけの営業でもあり、雲行きが怪しいこともあり今日のお客は少なかった。


「ストランド男爵令嬢。食事にしないか?」


 二階に上がってきたレオンが、料理をはこんできた。


「今日のまかないは、ひき肉のパテと、マテ貝のバジルとオリーブオイルの炒めたもの、それとパンとキャロットラペだが。好き嫌いはないか?」


 こくこく、と針を動かしながらミリアムはうなずく。

 パテはちょっと味が濃いというか、おとな味だからさほど得意ではないけれど。嫌いというほど苦手でもない。


「なんで床にすわっているんだ?」

「だって、布が大きいんですもの。椅子に座ってだと、全体がわからないわ」


 二階に置いてある簡素なテーブルと椅子を横にのけて、ミリアムは刺繍の布を床に広げている。


「汚れてはいけないから、かたづけなさい」

「はぁい」

「最近のきみは、刺繍に夢中だな」


 テーブルの椅子を引いて、レオンがミリアムを座らせる。ミリアムの足は、まだすこし床にとどかない。


「レオンお兄さまにも夢中ですよ」

「は?」

「あら。聞こえませんでした? もういちど言いますね」

「いや。聞こえたから、言わなくていいから」


 ミリアムが肩ごしに見やると、レオンの耳がなぜか赤くなっていた。

 刺繍に夢中なわけではないけれど。はやく女性客にも満足してもらって、シトリン亭をもっと繁盛させたい。

 そうすればきっと……。


 ──ミリアム。きみはなんてすばらしい人なんだ。俺のために、がんばってくれたんだな。

 ──いいんですのよ、お兄さま。ミリアムはもう子どもではないのですから、もっと頼ってくださいな。

 ──ああ。きれいなだけではなく、心も美しいとは。さすがは俺の婚約者だ。


 うふふ、とミリアムは自分の両頬に手をあてた。

 そもそも彼女はまだ子どもなので、想像のなかのレオンの語彙力はとても乏しい。


「まぁ、なんでもいいから。早く食べなさい。天気が荒れそうだ、今日は早めに帰ろう」

「はぁい」


 ぬれたタオルで手をふいて、神さまにお祈りをささげてから、ミリアムはナイフとフォークを手にした。


 まずはあざやかなオレンジ色のキャロットラペ。ワインでつくったお酢とオリーブオイル、それに塩コショウというシンプルな味つけのサラダだ。すこし甘みを足すために、干しブドウが入っている。


 干しブドウはニンジンよりも先に、ビネガーに漬けこんで甘みをだすのがコツらしい。


「これは今朝、ミリアムがせっせと切ったニンジンなんですよ」

「最初はな」


 レオンも向かいの席の椅子をひいて、腰をおろす。


「ラペのニンジンは細ければ細いほどいい。だが、ストランド男爵令嬢がきってくれたニンジンは、まぁ……太かったな」

「まぁ、失礼ね。歯ごたえがあっていいと思ったんです」


 ミリアムは、ぷうっとほおをふくらませた。

 けれど、口に入れたキャロットラペのなかに、ごりっとした食感があった。


「さすがにちょっと飲みこみにくいですね」

「だろ? きみはまだまだ皮むきどまりかな?」


 レオンはフォークを使って、マテ貝を器用に殻からはずしている。

 ミリアムはというと、貝の身をはずしにくくて結局手を使ってしまった。


 これでは、なかなか思うようなお手伝いはさせてもらえないのもしかたがない。


「バジルを使っているから、大人味だろ」

「おいしいです」


 ほんのちょっとだけ、ウソだった。バジルは薬みたいな味がするから。

 レオンはウィスキーといいハーブといい、薬っぽいにおいの強いのが好きなのかもしれない。



 午後になり、重い風が吹きはじめた。

 湿った土のにおいが強くなる。

 とたんに、バラバラと屋根をたたく激しい音がする。


「もう雨が降りだしたのか」


 レオンの言葉に、ミリアムが二階の窓から見下ろすと、通りを行く人たちはあわてて駆けていく。

 ほんの一瞬だった。幕をおろしたように、視界が白に閉ざされたのは。


 耳をつんざく雨の音。土まじりの水が跳ねて、表にいたブルーノがあわてて店のなかに入るのが見えた。しっぽをだらりと下げて、黒い毛も濡れてしまっている。


「これは帰れないな」

「通り雨じゃないの?」

「ごらん。空の果てまで雲が続いている。しかも雲が黒い」


 ミリアムには、空の様子から、この先の天気を推測することはできない。けれどレオンは、ミリアムには見えないものが見えるのだ。


「今日は店に泊まろう」

「泊まれるの? ここ」

「一応な。泊りがけで開店準備をしていたことがあるから。毛布とか、一式はそろえてある」


 レオンが指さす先には、ソファーがある。


「このソファーは背もたれを外して、ベッドにすることができるんだ」

「からくりみたい」

「そんなたいそうなものじゃないが。しかし、泊りになるなら毛布を干しておけばよかった。といってもそもそも曇っていたし、干したところでなぁ……あっ」

「どうしたの?」

「毛布が一枚しかない」

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