8、なでてもらいたい
洗い物を終えて、菩提樹の下の草地においたザルに器や皿をいれて乾燥させる。
お客さま用の椅子は大きくて、ミリアムの足はちょうど地面に届かない。足下ではまるで猫のように、ブルーノがまるくなって眠っている。
炭の始末を終えたレオンが、となりの椅子に腰をおろした。
「ブルーノは、ストランド男爵令嬢のことがお気に入りだな」
「ずっとくっついてますよ」
「犬は素直だからな」
午後になり凪の時間で、風はとまっている。夕暮れにはまだ早い時刻だけれど、空の青さは透明さを増していた。
ちらっと隣のレオンを見あげると、ただ静かに海を眺めている。
(名前で呼んでくれないかな?)
ひざの上で組んだ両手の指を動かしながら、ミリアムは「呼んで」「ミリアムって呼んで」と念じ続けた。
「ストランド男爵令嬢」
「ちがうー」
とっさに出てしまった言葉に、ミリアムのほおが熱くなる。
「ちがうって、何が?」
「いいえ。なんにもちがいません。ちがいませんとも、でございます」
もはや言葉がおかしいことにも、気づいていない。
レオンは細かいことは気にならない性質なのか「そうか」と、さらっと流す。
ああ、そんなところも素敵。ねちねちした人って、苦手だもの。
「ストランド男爵令嬢は、俺よりも気遣いができるのだな」
「どういうことですか?」
「女性客のことだよ」
レオンが上体をかがめて、ブルーノの頭をなでる。耳をぴくりと動かしたけれど、ブルーノは起きることはなかった。
(あ、わたしもなでてもらいたい)
思わず身をのりだしたミリアムに、レオンは「ん?」と首をかしげる。
「どうかしたのか?」
「いえいえ、なんでもありませんよ」
言えない。
名前ですら呼んでもらえないのに、頭をなでてほしいだなんて。
こほん、と咳払いをしてミリアムは姿勢をただした。
そもそもレディは咳払いなどしないことに、気づいていない。
そんなミリアムのことを、レオンはおもしろそうに眺めている。
「マナーは大事です。でも、ときにはお行儀の悪いものも食べてみたい気持ちもわかります」
だって、マナーに縛られた日々は窮屈でしかたがないから。
どうにかならないのかしら。
外でのお食事は、ピクニックなら女性だってできる。
でも、持参するのはタルトやサンドイッチ、チーズに果物、それにワイン。いくら手で食べるといっても、サンドイッチはそれがあたりまえだから。
ぼうっと海を眺めていると、水天一碧。海も空も混然となった青いなかに、帆を張る舟がみえた。
風がないので白い帆の舟は、沖にとまったまま。
「レオンお兄さま。あれです」
ミリアムは立ちあがった。
◇◇◇
夕暮れ前に家に戻ったミリアムは、メイドに頼んで布を用意してもらった。
部屋にもってきてもらったのは、あわいむらさきのライラックの花の色の布の束。
「なにをなさるんですか? お嬢さま」
「刺繍をするのよ」
「まぁっ」
なぜかメイドは涙ぐんだ瞳で、ほおを赤らめた。
「奥さまがお喜びになります。刺繍もお勉強も大嫌いなお嬢さまが、みずから刺繍を……御幼少のみぎりからお仕えいたした甲斐があるというもの」
メイドは涙をハンカチでぬぐった。
「おおげさね」
「でも、ハンカチにしては布が大きすぎませんか? しかもリネンですから、かたいのでは?」
「日よけというか、目隠しというか。柔らかくない方がいいの」
「は?」
「さぁ。ざくざく縫うわよ」
刺繍はとても繊細なもの。けっしてざくざく縫うものではありません、と口にしたいのをメイドはかろうじてこらえた。
ミリアムは華奢で、その透けるような白い肌もはちみつ色の瞳も、ラベンダーの瞳も、すべてが彼女をはかなく見せている。
虚弱なのに、度胸があって力技で押していく
メイドのため息は、暮れかけた空に消えた。
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