7、貝のワイン蒸しと炭火焼
「やぁ、いいにおいがしますねぇ」
「貝のワイン蒸しです。こちらは炭火で焼いたもの。外で召しあがれますよ」
お客さまにレオンが説明しながら、鍋の蓋をとる。
ぶわっと大量の湯気ととともに、おいしそうなにおいが風に散る。
「ほぉ、気候もいいし。いただこうかな。そうだ、酒もいっしょに」
海岸通りを歩く男の人たちが、ひとりふたりとシトリン亭の前で足を止める。正確には道の向かいのコンロの前で。
(なるほど。においが風にのって流れて、それでお客さまが集まるのね)
これなら大声をあげて客引きをすることもない。
そもそもこのあたりは別荘地だから、声を張りあげる店もないけれど。そのぶん、目立つ手段は必要だ。
「こちらです。どうぞおかけください」
菩提樹の木陰に用意した席に、ミリアムが案内する。
体は弱いが度胸のあるミリアムは、初対面の相手にも物怖じせずに声をかけることができる。
「これはかわいいお嬢さんだ」
「お兄さんのお店のお手伝いかい?」
いいえ、婚約者です、とはミリアムはいえない。
アフタヌーンドレスやイブニングドレスのにあう大人になれば「ほほほ、未来の妻ですの」と自己紹介できるのに。
ふりふりしたレースが肩ひもについたエプロンドレスでは、どうにもサマにならない。
初夏に花を咲かせる菩提樹の、白くて小さな花が頭上で揺れている。木々の匂いとほのかに甘い花の香り。
道行く人々のざわめきと、寄せては返す波の音。対岸にうかぶ島の深緑が濃い。
海水もつめたいうえに、海水浴や日光浴の習慣もないので、浜辺を歩く人はいない。
砂浜にはブルーノの黒い姿だけ。
そのブルーノも波で遊ぶのにあきたのか、ミリアムの元へもどってきた。
シトリン亭のテラス席では女性客が、鴨肉のローストとポテトのマッシュを食べている。とろりと煮込まれたポタージュに、ハーブを散らしたサラダと小さくまるいパン。
レオンの料理の盛りつけは繊細で、それを運ぶミリアムは見ているだけで心がなごむ。
ときおり、外の男性客が「おーい、麦酒のおかわりを頼む」と、よく通る声で呼びかける。
「あの殿方たちは、なにを召しあがってらっしゃるの?」
ちぎったパンに、暑い季節特有の濃い黄色のバターをぬりながら、女性客がミリアムに問いかけた。
干し草を飼料にした冬の時期のバターは白くこってりとしている。春から夏は牧草を食べるので、バターの色は濃いけれど、味はあっさりだ。
「あれは貝なんです。ちいさな、えっとアサリはワインで蒸して。おおきい方のハマグリは炭火で焼いているんですよ」
「ムール貝を蒸したのでしたら、いただいたことがあるけれど。そんなメニューがあるのね」
「外だけの軽食なんです」
「おいしそうね」とつぶやきながら、ふたりの女性客は顔を見あわせた。
「でも、だめね。ナイフとフォークでいただくわけじゃないから。ほら、お行儀が悪いでしょ。とても殿方に見せられる姿じゃないわ。女性だけならいいけれど」
ミリアムが海岸通りのむこうに目をやると、確かに菩提樹のしたの席にすわっているのは男性ばかり。
かといって、テラス席に貝の料理を運んだとしても、やはり通りを行く人に見られてしまう。
(店内で、というのも味気ないだろうし)
炭火で焼いた貝のにおいと、波の音。爽快な潮風を感じながら、食べる料理なんだと思う。
(だからこそ、レオンお兄さまもレンガのコンロを造ったのかもしれないわ)
その日のまかないは、残ったハマグリとパン、サラダには蕪と鴨肉がちいさく切って散らしてある。
熾火で焼いたハマグリを、レオンが店内に運んでくれた。
ブルーノはあまった鴨の切れ端を食べている。
貝には興味がないようで、パンをレオンにねだっている。レオンは「お前はパンが好きで困るよ」と、肩をすくめながらもバターのはいっていないリーンなパンをブルーノにあげた。
「わぁ、いいにおい」
焼きたてのハマグリは、貝殻のなかにふっくらとした身とたっぷりの汁が入っている。湯気はとてもおいしそうなにおい。
向かいの席で、レオンは器用に手で貝をつまんで食べている。
いざ。
まだ熱をもっている貝殻をつかみ、ミリアムは口にもっていく。
ぽたり、汁がこぼれた。
「あ、ああ」
幸いにもお皿の上に落ちたので、テーブルや服は汚さずにすんだけれど。たしかにこれは食べにくいし、お行儀がわるい。
「フォークをつかったらどうかな」
レオンがフォークを渡してくれたけれど。どうしても貝殻を口もとに持っていかなければならない。
口中にひろがる潮の香りと、深くて濃い味。
「おいしいです」
「おいしいな。けど、なにか考えごとか?」
ミリアムはフォークを置いて、口もとをそっと布でぬぐう。
「テラス席の女性のお客さまが、この貝はおいしそうだけれど、人前では食べられないわとおっしゃっていたの。人目を気にせずに誰もがお食事できればいいのに」
「なるほど」
レオンはうなずいた。
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