10.深雪

 令和4年4月10日、広瀬英二郎宛に、手紙を出した。


 英二郎は、中学高校の同級生だ。中二の時、東京から転校してきたわたしは、普通にしゃべっている言葉が、「気取っている」「田舎者をバカにしている」などと、陰口を叩かれることもあった。

 英語が得意で、いつも一番だった。

 中学時代、英二郎とは親しく話すことはなかったが、同じS市の進学校に入ってから、もう一人、中学からの同級生である相田保を加えた3人で、打ち解けて話すようになった。

 冬には、雪深い実家を離れてS市内に下宿した3人は、四畳半の部屋でよく将来を語り合った。

 わたしには、語学力を活かして通訳とか翻訳家になりたいという夢があり、相田は地元で医師として働きたいという明確な目標があった。英二郎だけが、ただ、漠然と東京の大学に行きたい、と言っていた。

 卒業後、わたしは関西の外国語大学、相田は地元の国立医科大学、英二郎は東京の私大商学部へと三人三様の道を歩み、携帯もない時代、連絡を取り合うことも少なくなっていった。

 大学時代、一度上京したことがある。都内を英二郎に案内され、行きたかったディスコで踊り、飲んだ。新宿の高層ビル内にあるディスコだった。

 母がパーキンソン病になり、卒業後は帰郷して介護すると、その時話した。夢を諦める寂しさを、誰かに受け止めて欲しかった。

 その後美川町役場に就職し、母を3年後に看取った。上司の紹介で、銀行員の青年を婿養子にし、一児をもうけた。しかし、立て続けに父と夫を癌で亡くして、息子との二人暮らしになった。

 英二郎とは、年賀状だけの付き合いになっていたが、十年の間に三度も喪中はがきを出した。

 四度目の喪中はがきを出したのは、20年前だった。

 長男義隆が亡くなったのだ。

 英二郎から、同級生の嫌がらせにも気丈にふるまい、世界にはばたきたいと目を輝かせていた君に、どうしてこんなことが続くのか、と涙ながらの電話があった。

 役場を退職して家を処分し、大学時代の知人を頼って岡山に転居、英語塾の講師をするつもりだと話した。

 メルアド交換し、以来時々メールをかわすようになった、

 岡山での穏やかな暮らしを伝えるたび、返信は、何か出来ることがあったら言ってくれ、と結んであった。

 手紙を出したのは、初めてだった。

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