観覧車は回り、そして僕と彼女は夕日の中で互いの手を握る
ラーさん
観覧車に乗る
「ほら、手」
「ありがと」
先に観覧車に乗り込んだ僕が手を差し出すと、彼女はマスクの下で笑いながらその手を取った。夕暮れ近くの冬の冷気に少しひんやりとしたその手を握り、僕は彼女をゴンドラに引き入れる。二人分の体重が加わって少し揺れたゴンドラは、けれどそんな微細な変化など構うことなく、一周十五分の空の旅へとゆっくり昇っていく。
「今のいい感じ」
「そう?」
「そう。これぞ“顧客が本当に必要だったもの”って感じ」
「はは」
お互いにマスクを外して座席に向かい合わせに座りながら、彼女が僕のエスコートの感想を述べる。その褒め方に僕は思わず笑いをこぼした。
「顧客のニーズに応えるのがサービス業の務めですから」
そうおどけて返す僕の言葉は明らかな自虐で、だからそれに応える彼女の微笑みも少し頬の端が歪んでいて、リップグロスのラメに艶めく薄ピンクの唇から吐き出された次の言葉もどこか皮肉の響きを含んでいた。
「そうね、お互い」
「そう、お互い」
そんな苦味の混ざる会話を洗うようにゴンドラ内に明るい音楽が流れ出す。
『本日はご乗車いただきましてありがとうございます。この大観覧車は地上から高さ百五十メートル……』
そんなアナウンスの説明を聞き流しながら、僕と彼女はゴンドラの外の景色をぼんやり眺める。冬の澄んだ空の端でビル群の上に落ちていく夕日が、視界に見渡す建物をオレンジ色に染め上げている。見下ろす観覧車の下の広場はそんな夕日に染まる建物の影に黒く沈み、一足早い夜の時間を七色のイルミネーションの輝きとともに始めていた。
賑やかになっていく夜の景色。けれど冬の夜の冷たく緊張した空気は、それをどこか嘘くさく、白々しい透明さで僕の目に伝えてくる。その温度のない夜の空気は、コロナ対策で換気をしているゴンドラの、効きの悪い暖房に混じってじわじわと浸透してくる。
夜。
「今日はありがとね。付き合ってくれて」
「ん? ああ――」
アナウンスが終わり、ゴンドラの揺れる音しかしなくなった静けさの中で、同じ景色を見ていた彼女が不意にそう言ってきた。
「ちょうど時間が空いてたから」
「そうね、お互い――」
そうだった。今日のこの時間は大学の学食でたまたま顔を合わせた彼女と今日の予定についての話をしたら、偶然お互いの仕事の待ち合わせ場所と時間が近く、その間までの予定もちょうどお互いに空いていたので、じゃあデートでもしようかという話の運びになったからだった。そしてそこそこ遊んで時間を潰し、待ち合わせ場所の付近へ移動したところでこの観覧車が目に入り「最後にこれでも乗ろうか」という流れになったのである。
そう、これは偶然だった。はっきりとした意志のない、流れの中のただの偶然。たまたまの時間。
「今日のお客さんはどんな人?」
「あー」
だから、流れるままに次の時間がやってくる。息を吐くように自然と彼女の口からこぼれた話題は、ごくごく普通の僕たちの日常の話題でしかなかった。
「前に話した奥さんに隠れてウリ専通いしてる人。立派な社会人やってるから清潔感あって悪くないよ」
「あ、それそれ清潔感。大事だよねー」
「そっちは?」
「まあ、悪くない相手。乱暴じゃないから。変態だけど。あと説教しないのがポイント高い。変態だけど。だからアフターOK」
「変態紳士か」
「あはは、そうそれ。まあ、変態なのは構わないけど、紳士ではあって欲しいよねー」
「それな」
そう笑い合う僕たちの日常は、きっと世間的な常識とは離れていて、けれどそれが僕たちにとっては常識的でとても当たり前な日常だった。
ゴンドラが揺れている。
眼下に見える広場には、たくさんの人たち――恋人同士だろう男女や子供連れの家族などが七色のイルミネーションの輝きに集まっていて、そこにはありふれた観光プロモーションのイメージビデオにでも見るような幸せの光景が広がっている。
けれど、そこに僕たちは加わらない。
加われない。
この光景を無邪気に楽しめるだけの資格を、僕たちは買うことができなかったから。
「お金があったら――」
僕の視線を追ったのか、彼女の唇がそうこぼす。
「あそこに恋人といられたのかな――」
彼女のその夢みたいな仮定はまったくの無意味で、それは僕たちの現実の前には部屋で独りカップ麺をすすりながらスマホで眺めるSNSの、誰かの生活の有象無象な断片のように遠くにあるもので、だから僕は皮肉でもなんでもなく彼女に返す言葉をこれ以外に持たなかった。
「――あったら、ね」
僕にも彼女にも、ただただ決定的に自分の人生を買う金がなかった。
だから今夜もこれから、僕も彼女も自分のカラダを売りに行く。
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