ベランダと人形
しゆ
第1話
彼女を最初に見たのは暗くなった空の下だった。
よく見えなかったがその顔は笑っていた。こちらが恐ろしくなるくらいに洗練された、表情筋をふわりと緩める術に何故かとても惹かれたのを覚えている。
彼女はいつだって自分を取り繕って、見えない何かを犠牲にしながら生きていた。
暗くなった空の下、深い闇を抱えた彼女がどれだけ映えたかを、きっともう覚えていない。
五感を研ぎ澄ませて彼女の姿を捉えた時の衝撃さえ覚えていないのだ。
彼女が初めて作ったものでは無い本物の笑顔を見せた時、彼女が初めて泣いた時、彼女が初めて体に触れてきた時、全てにおいて今まで感じたことの無い感情を抱いた。
いうなれば、自分の思ったように動くことのない彼女の芯の強さに惚れ、自分にだけ見せてくれる彼女の弱みに興奮したのだと今になって思う。
彼女を好きだと自覚し、それを隠し続けようと決めて数ヶ月の間、それは静寂をもたらした。
邪魔のない静かな空間でお互いを認め合い、励まし合い、いずれそれは言葉の要らない繋がりとなる。
心を開きあった2人はいつだって一緒であるはずだった。
彼女を最後に見たのは赤黒く染まった土の上だった。
変わり果てた姿で、笑顔を振りまいていた彼女は険しい顔をしていた。
彼女の言葉の端々にそれを暗示させるなにかを感じ取って背筋が凍る。彼女は確かに言っていた。確かに誰かに助けを求めていた。
もしその誰かが自分であったなら。
その考えは体の奥底から湧き出てくる吐き気によって掻き消された。そんな訳が無い。そう自尊心が呟く。
彼女をしっかり見ていなかったはずがない、彼女を受け止められていなかったはずがない。
虚空の中、空気を読まない自尊心は永遠と言い訳を並べ立てていた。
今まで見たことの無い表情の彼女はやけに体に行動力を持たせた。
これまで感じたことの無い悲しみ、虚無感、そして好奇心。狂気を纏った体は遂に彼女への冒涜に値する行為を犯す。
先程まで五月蝿く騒いでいた自尊心は怯えたように消え去り、代わりに醜い好奇心が体を乗っ取る感覚。
体はその瞬間思い切り土を蹴り、彼女を抱き抱えたまま我が家へと向かっていた。
思えば彼女はいつだって優しくて、人を惹きつける、魅力的な人に映っていた。
しかしそれは彼女にとっては虚像であった。誰も知らないところで一人苦しみ、それならいっそ誰にも見つからないところで寂しく命を絶とうとしたのだろう。
他人に求められる偽った姿。この苦悶の表情はそんな第二の自分に抗った痕跡なのだ。
彼女はこの世界に蹂躙され弄ばれた。この理不尽な世界は彼女に安息さえ与えず、この不平等な世界は彼女をいたぶった。
そんな可哀想な彼女を見つけて、どうしてそのまま立ち去ることができるのか。連れ帰る以外の選択肢などない。彼女の命が消えた後くらいはせめてこの世界の誰にも干渉させない、と。
この時自分は体験したことがないほどの興奮を覚えた。
自分の中で彼女の姿は既にこの血塗れた状態に上書きされていたのだと。自分の中には罪悪感と背徳感がぐちゃぐちゃに混ざりあって大きな存在感を示しながら現れ、そして自分を包み込んだ。
今この瞬間に思う。あの時の自分はまさに狂気であり、初めて自分らしさを見せたのだ。
彼女が自分にだけ本物の姿を見せたように、自分も無意識ではあるが彼女にだけ本性をあらわにしたのだと。
ベランダと人形 しゆ @siyuru
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