マジックナイトさん

月コーヒー

第1話


 マジックナイトさんが開いてカウンターの上に置いた真っ白な紙面に、刻一刻と煙を上げて文字が刻まれていく。


   マスター、ハイボールをもう一杯


 次の瞬間、メモの切れ端が燃え上がった。


 黒くなり、バラバラになって、消えていく。


「すげー」


 僕は感嘆の声を上げた。


 マジックナイトさんが、ハイボールを長々とあおって空にする。


 伝令に使った魔法を実演してもらったら、意外にすごくてビビった。


 今、近衛魔術師のマジックナイトさんが、ローリミ王国とズッヒル王国との領土争いが激化し、互いが派手に最大魔力で巨大な火の玉を撃ち合った、という西部戦線での戦いについて、ひとくさり話したところだ。


 グラスを空にすると、マジックナイトさんは、遠くを見つめる。


「すごい、これで伝令を……」

「そうだ。筆記用具を忘れても安心なんだ、ははは」


 マジックナイトさんが、変なイントネーションの日本語で答えた。


「もう、あんまりからかっちゃ悪いわよ」


 カウンターから見ていたマスターが、微笑んだ。


「ただの手品よ」


 それに対して、マジックナイトさんがへっへっへっと笑う。


「なんだ、半分信じましたよ」


 僕も笑って、冗談交じりに言った。


「この人は一杯食わせるのを何よりの楽しみにしてる嫌な人なの」


 マスターの言葉に、マジックナイトさんが目を見開いた。


「そんなことない、マスターも皆が皆、信じねぇから嫌になっただけだ。お前は信じてくれるのか?」


 僕は迷いつつ、尋ねる。


「……西部戦線の話も、嘘だったんですか?」

「だからホントだって。信じろ。ああ、あれは大火球が仲間の命を何百と奪った時だ。空は炎が入り混じれ、夜なのに昼のように明るかった。俺の背後、ずっと遠くだったが、カンネの街の城壁、とんがり屋根が照らし出されていた。反対側にはローリミ王国の旗が照らし出されて、野原を覆いつくすローリミ王兵の群れが、くっきり、見えた」


 うーん、嘘っぽい……。


 マスターが、空になったグラスに、ハイボールをなみなみ注いだ。


「ねぇ、魔法で攻撃するのは良いんだけどさ。どうして真っ裸なの? 軍服はないの? あんたのいた世界ではさ」


 注ぎ終わると、マスターがカウンター越しに尋ねる。


「服に燃え移っちゃうだろ」


 彼は外人らしい。どこの国の人か聞いてもズッヒル王国としか答えてくれない。


 堀の深い顔つき、赤い髪を肩まで伸ばし、金色の目をしている。だから欧米の人だろう。


 髭をマトンチョップに剃り、眉は麻呂眉みたいに剃っていた。変なファッションだ。


「自分の体だったら、魔法で守れて、炎も電撃もなんでもへっちゃらになる。だから魔法戦は素っ裸で行うんだ。ただチンコに燃え移るのだけ気を付ける。ここはぶらぶらしてるから、魔障で包みにくい」

「はははははは」


 マスターが、ツボに入ったのか大笑いしだす。


 マジックナイトさんの横の席に座って、ずっと話を聞いていた僕は尋ねた。


「服は何で守れないんですか?」

「何でって、できるわけないだろ。傘で雨を防ぐのとは違うんだぞ」


 僕は首をひねる。そして焼酎を一口飲んだ。


 マジックナイト、とあだ名で呼ばれているカズオさんは、夕方から店が閉じるまでずっとこのバーで飲み続けているらしい。


 変人というか奇人で、自分は異世界でマジックナイトだったと言い張っていた。


 マスターから、異世界でどんなことしてたのか聞いてごらんと言われ、軽い気持ちで尋ねたら、事細かく、懐かしい顔をしながら、西部戦線でのことを1時間しゃべりっぱなしだ。


 でも、別に嫌じゃなかった。


 なかなか面白い。


「マジックナイトさんは、この日本に来てどれくらいなんですか?」


 僕ら2人しか客がいない小さなバー。暇だし、もっと尋ねてみようとおもって、尋ねた。


「この世界に来て、もう5年だ、ちくしょー」


 マジックナイトさんが、ふてくされるように答える。


「ほぼ毎日、ここで飲んだくれてるのよ。ここはなんか魔力の渦があって、ゲートが開くならここらへんなんですって」


 マスターがにこっと僕に微笑む。


「毎日って……。マジックナイトさんは、仕事は何をなさってるんです?」


 マジックナイトさんがグラスを口に運びながら、

 

「赤石をな、持ってたんだ。魔力補助の、もしもの時のために。それが役立った」

「赤石? なんですそれ?」


 僕が尋ねると、マスターが、


「それを売ったら1億になったって言うのよ」

「1億!?」


 僕は驚きの声を上げる。


 嘘だよな……。


「この世界では、希少な宝石らしい。魔法に使わず装飾品に使うそうだ」


 希少な宝石……赤石……ルビー? ……でも、そんな高値にならないよな……。


「バンガンから取るんだ、赤石はそいつからしか取れない、でもこの世界にバンガンはいない」


 言いつつマジックナイトさんは、ハイボールをあおる。


「……それって、モンスターとかいうやつですか?」

「ああ、そうだ。バンガン。この世界にも似たやつがいたぞ。狼ってモンスターだ、ただもっとデカいし、目が真っ赤でな」

「へぇ。あってみたいです。そんなに高価なものが手に入るなら」


 僕は笑って言った。


「可能性はあるぞ。いつもクチャクチャしてる少し変なモンスターで、一瞬で移動できてな、時空が越えれるんだ。ローリミ人は使役に成功しているから、俺らズッヒル人と、その協力者だけを狙って襲い掛かって来るんだ。異世界にまで飛んで俺を襲い掛かってくるというのもあり得る、もう、この世界に来れるとしたら、こいつしかいない……」


 マジックナイトさんは、ため息をついた。


「俺の捜索隊もできてるはずなんだ。俺は、替えがきかないから、きっと誰かがこの世界に来るはずだったんだ……バンガンなんかじゃなくて……でも、無理だったんだろう……」

「あなたは何で来れたんですか?」

「さぁな、こっちが聞きてぇよ」

「良かったじゃない、そんな戦争ばっかの異世界より日本のほうが良いわよ」


 マスターがマジックナイトさんにウインクする。


「そうかなぁ……そうかもなぁ……でもなぁ……」


 そのときだ。


 マジックナイトさん越しに見える、長細いバーの奥、1枚だけあるほこりまみれのガラス窓の下の方に、真っ赤な2つの目が見えた。


 僕は、おもわず目をこする。


 見間違い?


 何だ今の?


 僕はあらためて、窓を凝視する。


 間違いなく、暗い通りから、真っ赤な2つの目が店内をのぞき込んでいた。


 間違いなく、なにかがいる……。


 正体は何かと、目を凝らす。


 真っ黒な、毛むくじゃらの、狼……だ……。


 そんな馬鹿な、狼がどうしてここに……。


 って、そんなわけないじゃないか。


 何かの見間違いだ……だとしたらなんだ……。


 正体と考えられるものを推理する。


 車のテールライト……カラス避け……違うな……。


 ……まさか……さっき話してた……バンガン?


 瞬間、僕は総毛立ってしまう。


「どうしたの、黙り込んじゃって」


 マスターが呼びかけてきた。


「……いや、何でも……」


 ちょっと酔ってるな……。


 何を考えてるんだ……。


 マジックナイトさんが、鋭い視線を向けてきた。


「さて、ここで切り上げるか」


 僕に言ってきたわけではないが、じっと僕を見つめたままだった。


 僕は黙ってうなずく。


「あら、何よ急に」

「マスター、俺らは急用だ。いままでありがとう、あんたのバーは俺の世界含め世界一だ」


 マジックナイトさんが、呆気に取られるマスターにウインクをして立ち上がった。


「さぁ行くぞ、坊主。わかってるな」


 言われて僕は、少し残っていたコップをあおって空にし、立ち上がる。


 マジックナイトさんの言葉には、反論してはならない威圧があった。僕は黙って店から出ていく後ろをついていく。

 

 マジックナイトさんがドアを開けると、一陣の風が吹き込んできた。


 枯葉が何枚か、店内に入り込む。


 秋風に逆らって、前かがみになり、繁華街を歩いた。


 窓から見えたのが、うろついてないかと心配だった。


 が、そんなことなかった。


 どこにもいない、が……正直に言えば、今、振り返れば、肩越しにあの赤い目の狼みたいなのが、忍び足で歩いている、のが見える気がしてならない。


 ……絶対、見ないようにしよう。 


 何の言葉も交わさず、僕はただ、マジックナイトさんの後をついていく。


 バーから200メートルぐらい歩き、風が強い街角を曲がった。


 曲がってすぐのところの5階建てのアパートの前で、いきなりマジックナイトさんが立ち止まった。


 ビルとビルの間にある細長いアパートの、一番上の部屋の窓を、マジックナイトさんは見上げている。


 窓はすべて真っ暗で、アパートの横のさび付いた金属の階段にだけ照明が灯っていた。


 3階の窓が全開になっていて、カーテンがたなびいている。


「なぁ、初めて出会って、こんなことになるなんて、お前もついてないな」


 マジックナイトさんが、静かな声で言った。


「えっ……ホントに、あの……あれは……ホントに」

「ああ、お前には手伝ってもらわねばならない。俺の部屋に行こう」

「……手伝う?」


 マジックナイトさんが歩き出す。


 僕は後ろをついていった。


 階段に向かっていると、3階のたなびいていたカーテンがむくっと起き上がる。


 赤い、テールランプのような、赤い目がこっちを見つめていた。


 僕は、声を漏らしもしなければ、何かを口走りもしなかった。


 ただ、ぶるっと身震いしただけ。


 3階の窓から覗く奴に睨まれながら、僕らは、階段を上り始める。


 5階まで上がった時、部屋内に入るドアの前でマジックナイトさんが振り返った。


「バーで、しゃべったことを全部信じてくれとは言わん。だだ、バンガンのことは信じられるだろ」


 僕はごくりとつばを飲み込んだ。


「信じられますよ」

「本当に巻き込んでしまって申し訳ない。こうなった以上、ふたりとも助かるようにする。良いな、君が助かる道ひとつだ。奴を無視し、気づいていないふりをし続けろ。あいつは、君の事を俺の仲間だと判断せず、俺しか狙わなくなるだろう。居間でじっとしていろ。一応ささやかな魔障があって襲うにはめんどくさくなってる」

「あなたは?」

「俺が助かる道は、自分の世界に変える事だ。バンガンが来たという事はゲートが開かれている。すぐに寝室にこもるから、絶対に入って来るなよ。そして繰り返すが、絶対バンガンに自分が見えていると思われるな。俺がゲートに入ったら、バンガンも追いかけて――」


 階下で音がした。


 錆ついた軋みのギーッギーッという音が何度も鳴る。


 階段を何者かが上がって来ていた。


 僕は、今度も何も反応しなかった。


「その調子だ、無視し続けろ」


 マジックナイトさんが、鍵をさし、ドアを開け中に入って行く。


 短い廊下があって、その先が台所だった。


「灯りを全て点けろ。ドアも全部開けっぱなしにしろ。窓はカーテンもだ」


 マジックナイトさんは玄関のドアを、開けたままにして中に入っていく。


 玄関ドアの上に、時計がかかっていた。


 午後9時か……。


 廊下の両側にドアがあって、その右側をマジックナイトさんが開けた。


 中は寝室だった。


「じゃ、自分の家とおもって、自分がしそうなことをしててくれ。何か聞こえたり、見たりしても、気づかないふりをしろ。なによりも、したくなっても窓やドアの方を見たり行ったりするな。音がした方を見るな。とにかく自然にして、そうだな、あと3時間くらい、ここで足止めして、寝室に入れないようにしてくれ。忘れるな、ふたりと見助かるにはこれしかない。引きつけて時間を稼いでくれよ」


 マジックナイトさんがポケットをまさぐり、紙きれを渡してきた。


 受け取ると、白紙の、メモの切れ端だった。


 マジックナイトさんが服を脱ぎだす。


 スパパッと上も下も、下着も全部脱ぎ捨て全裸になると、


「じゃあな、がんばってくれよ」


 マジックナイトさんが寝室に入り、中からドアを閉めた。ガチャンと、力強く鍵がかかる。


 ……足止めってなんだよ……。


 僕はズボンのポケットに紙をねじ込み、不可解な気持ちになりながら左のドアを開ける。


 と、そこはユニットバスだった。


 灯りをつけ、ドアを開けっぱなしにして、廊下の突き当り、台座頃の横のドアが居間に続いていた。


 灯りをつけ、台所の上の方にある、小さな窓を開け、リビングに入っていく。


 ドアを開けたまま、中に入り灯りをつけ、家具のひとつもない居間の、2つ横並びになっている窓を開けた。


 これで良いんだよな。


 ……これで良いんだよな。じゃないよ。


 こんなのバカげてる。


 何をやってるんだ僕は。


 たしかに……奇妙で、変なものを、恐ろしいものを見た、のは事実だ。


 けど、それが、なんだっけ、バンガンとかいうモンスターだなんて……。


 そうだ、一杯食わせるのが楽しみだって言ってたじゃないか。今頃、マジックナイトさんはクスクス笑ってるんだ。


 いつになったら僕が騙されてるのに気づくのかと、笑いながら……。


 いきなり、開けっ放しにした窓がガタガタと震えだす。


 震えはだんだんと激しさを増していった。


 なんだ? なんだなんだ。


 音は激しさを増し、もう割れんばかりになった。


 割れるっ、とおもった時、かき消すかのようにピタッと震えが止まる。


 その途端、圧迫するような静寂が充満した。


 開けっ放しにしたドアから、風が吹き込んでくる。


 僕は、窓から目を逸らした。


 何かが、窓辺に見えたからだ。


 床のフローリングをぼんやり見つめる。


 心臓は早鐘を打ち、肌は凍り付いた。


 嫌というほど思い知らされていた。


 僕は、心の底からバンガンの存在を信じている。


 マジックナイトさんは、ホントに異世界から来てたんだ。


 窓ガラスの方向から、きしむ音が聞こえてくる。


 ……自然にしてなくちゃ……。


 僕は、ドアから出て台所の冷蔵庫を開けた。


 中は缶ビールがぎっしり詰まっている。


 一本、貰おう。


 玄関の方から突風が吹き込んできた。


 ただの風じゃない。


 実体を持っているかのような、僕を圧迫する風だった。


 玄関に何かが居る気配がする。


 気のせいではない確信があった。


 ……何かを見るつもりで、見てはない……。


 僕は自分に言い聞かせた。


 とはいえ、周辺視野で見る分には……視線を滑らせる程度なら……。


 一度、ちょっとでも確認しなければ、不安で仕方ない。


 結局、何もないのかもしれないのだから。


 玄関のところにあった時計を、振り向いて、見るだけ。


 その時、何が見えても視線を止めたり、反応をしてはいけない。


 自分を言い聞かせて、缶ビール片手にリビングに戻りつつ、首をひねる。


 そいつは2度、目に入った。


 振り向いた時と、戻す時だ。


 ちゃんと視線はブレもしなかったし、止まりもしなかった。


 だけど、全身の血液が、思考が、激しく脈打ち出す。


 そいつは、たしかに狼に似ていた。


 玄関から中に入ってきていた。


 光の下、黒光りしている毛並み。4つ足で、人ほどの大きさがある、着ぐるみみたいな作り物っぽい、頭が異常に大きい姿だった。


 その顔は、狼、豚、人間の混ざったようなものだった。


 モンスターの顔には、絶望に沈んだ知性の輝きがある。


 ただそれ以上に、途方もない悪意を醸し出して、とても話が通じる感じはない。


 黒い口からは、白い牙が見える。


 窓から見えた、赤く光る2つの目が、僕を見ていた。


 僕は、自然に、踵を返し、よたよたしながら、リビングに戻る。


 家具も何もない、夜逃げ後の部屋みたいながらんとしたリビングに座り、ビールを飲み始めた。


 こんなところで、いつもやってるように自然にって、何すれば良いんだよ……。


 スマホを取り出し、いじる。


 開けっ放しだから、部屋内にいる感じがしない。


 あいつが、開いたドアからこちらをのぞき込んでいる気がする。


 スマホで動画を見るふりをしながら、僕は神経を研ぎ澄まし周りの状況を探った。


 窓がガタガタと音を立てる。


 外からはバイクの音も人の話し声も何も聞こえない。


 世界に一人しかいない気持ちになってきた。


 寝室からは何も聞こえてこない。


 中で何をやってるんだ?


 台所の方で、ぎゅっぎゅっ、という音がした。


 何か弾力のあるものに踏まれて、木が軋みを上げている。


 その定期的な軋み音は、足音だと、すぐわかった。


 足音が、リビングのドアのところで止まる。


 なんだ!?


 ポケットが、なんか、温かくなってきた。


 驚きながらも、自然にポケットを確かめると、マジックナイトさんからもらった紙切れが、小さな煙を上げている。


 紙を開くと、煙を上げて刻一刻と、黒ずんでいく手書きの文字が現れだしていた。


   事態が変わった。後衛を務めてくれ。そっちの様子も確認している。そこからバンガンの方に寄って行ってくれ。気を引くんだ。ドアを閉め、バンガンを部屋の中に入れろ。注意点は同じだ。自然に、気がついて内容に寄って、自然に、開いてるドアを閉めろ。


 何度も、この文字列を読み直す。


 何度も何度も、立ち上がり、実行する想像をした。


 チラッとだけ、ほんのちょっとだけ、目をドアの方に向ける。


 あいつは、やはりドアのところにいた。


 近いので、毛の一本一本のゴワゴワした痛そうな材質なのも分かる。


 体をこっちに向けたまま、寝室の方を首を180度回転させ、見ていた。


――あっ。


 しまった。あいつが、こっちに振り向いた。


 やばいっ。


 こちらに向けた目は、熱した炭のようだった。


 どうする?


 僕は素早く、ドアの横の壁に視線を移そうとして、やめた。


 そんなことしたら、存在に気づいていると知られてしまう。


 僕は顔を上げポケーッと奴、の方を、見続けた。


 あくまで見ているのは奴の背後の寝室だ。


 奴の目は、何か惹かれる、吸い込まれるような鈍い光を放っている。


 つい、注目してしまった。


 ……こうなったら、やるしかない。


 ちょうどいい、このまま、ドアが気になったていで、閉めに行こう。


 僕はゆっくり立ち上がった。


 僕の立ち上がったのを見て、奴が、4本の足を広げ臨戦態勢を取る。


 僕は、ゆっくり床に視線を落とした。


 ……本当にあんなのに、近寄るのか?


 視線を落としたまま、ドアへと向かう。


 ドアの敷居が視界の上に入った。


 奴がここにいたはずだが、姿が見えない。


 廊下側に出る。


 奴がいない?


 部屋の中に入れろって言うけど、どうやってやるんだ?


 開いているドアノブへと手を伸ばす。そして、恐る恐る顔を上げ、廊下を確認した。


 ……いない? どこにいった?

 

 ……とりあえず閉めよう。


 ここで立ち止まってるのも変だ。


 ドアを後ろ手で締めつつ、部屋に戻る。


 と、奴が中にいた。


 驚きのあまり、体中に電気が走ったみたいに硬直する。


 反応しそうになる。


 何とか堪えた。とおもうが、出たかもしれない……。


 特に顔は、ピクピク、目尻が震えだしたし……。


 なによりも、奴が、僕の顔を凝視している。


 僕と、奴は、見つめ合っていた。


 奴の方を見ながら、後ろ手でドアをゆっくり閉める。


 僕はさっき座ってた場所に戻ろうとした。


 足を踏み出す。


 くそっ……。


 次の脚が出ない。


 くそっ。くそっ。


 ああ、駄目だ!


 耐えられない……。


 こんな、一緒に部屋にいるなんて……。


 逃げたい。


 奴はじっとこっちを見ている。


 奴から、何か奇妙な音が鳴り始めた。


 ……ゴリゴリ……クチャクチャ……。


 といった、硬いものと柔らかいものが咀嚼されるような……。


 ……ゴリゴリ……クチャクチャ……。


 その時、もはや抵抗できなくなった。


 僕は急いでドアに振り向きノブに手をかける。


 途端、部屋の明かりが消えた。


 視界が真っ暗になる。


 瞬間、暗闇の中で、僕とドアの間の隙間を何かが通り過ぎていった。


 その皮膚をかすめたチクチクするものは、熱を持って熱くてたまらないものだった。


 恐怖のあまり、急いでドアを開く。


 廊下の明かりが激しく点滅していた。


 寝室のドアが、軋む音を立てながらゆっくり開く。


 廊下に出ようとした僕は一歩も動けなくなった。


 背後から、激しい圧迫感がする。


 何かを咀嚼するような奇妙な音が、すぐ耳の後ろでしてくる。


 点滅していた廊下の明かりが消えた。


 玄関からリビングへと通る風が、僕に吹きかかる。


 時計の針の音が、とてもうるさく感じた。


 ……このまま走り去ろう……。


 玄関へと走り、階段を駆け下り、人通りのある道まで走ろう。


 と考えた時、奴は僕の後ろから前に出た。


 汗が流れて、目に入ってくる。


 何かを咀嚼するような奇妙な音が、消えた。


 廊下とリビングの明かりが一斉に点く。


 奴の姿はなかった。


 開いた寝室のドアから、寝室内が見える。


 マジックナイトさんの姿は見えなかった。


 振り向いて、リビング内を見る。


 どこにも奴はいなかった。


 一応、寝室に入り確認してみた。次にトイレも確認した。


 誰もいない。


 ひとり、廊下にたたずむ。


 いないのは分かっていた。


 僕は、失敗してしまったんだ。


 マジックナイトさんは……。


 いつの間にか、僕はとんでもない量の汗をかいていた。


 汗が顔からしたたり落ち、服の中が汗で冷たく感じる。


「熱っ」


 ズボンのポケットが熱くなって慌てて中を探った。


 マジックナイトさんからもらった紙が発熱している。


 紙を摘まみながら広げると、紙面に文字が刻まれていっていた。


   なんとかうまくいったよ。最後はきわどかったぜ、まぁしょうがないけどな。こんなこと今日あっただけの奴に頼んですまなかった。でも俺もいきなりだった。ちゃんと自分の世界に戻れたよ。君に囮を務めてもらったおかげだ。寝室へと、倒したバンガンの首を流した。奴の目はそっちの世界じゃ高値で取引されるはずだ。貰ってくれ。もしかしたら、ゲートを開けるようになったらお礼しに行くよ。日本は、良いところだったし、また行きたいよ。最後に、ありがとう。君に神の祝福を。


        マジックナイト カヅオーン・スフォルツァより



 と、次の瞬間、紙が燃え上がった。


 慌てて紙を投げ捨てる。


 紙を炎に包まれ、黒くなり、バラバラになって跡形もなく消えた。


 と同時に、どんっ、という重いものが落ちる音が寝室から響いてくる。


   ◇


 その日の夜に、バーに行った。


「マジックナイトさんが、今日は来ないのよ。昨日一緒に帰ったわよね」


 とマスターに聞かれた。


 僕は、マジックナイトさんの部屋で何があったかを話した。


 そのあとバンガンの生首を処理するのに苦労したこと、赤い目はレッドダイヤモンドで、とんでもない価格で売れたこと、マジックナイトさんは本物だったこと、もう会えないこと、を。


 マスターはニヤつくだけだった。


 まぁ、そりゃそうか。信じないよな……。


 それでもいいかと思って、熱くなるのはやめておいた。


「マスター、これから、いつかマジックナイトさんに会えるかもだから、毎日通うよ」

「あら、マジでナイトさんは来なくなるの?」


 それから僕は、バーにの常連になった。


 僕のあだ名は、囮だ。

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マジックナイトさん 月コーヒー @akasawaon

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