もし光秀が秀吉に勝っていたら

DECADE

零 本能寺の変

 信長の折檻はとても耐えられるものではなかった。それが、たとえ仏であろうと。

 明智光秀は、これまで幾度も信長に折檻された。

「金柑頭!」

 毎日のように怒鳴られた。

 信長の宴の席において、光秀は信長から七盃入りの大きい盃を呑むように強要された。

「信長様にそのような恐れ多いことをされるなど、思いもよらず」

 光秀が遠慮したところ、信長は突如脇差を抜いた。

「我が白刃を呑むか、この盃を呑むか」

 信長は光秀を脅した。

 他にも、甲州征伐のときはひどかった。反織田であった信濃の小領主が続々と織田軍のもとに降るのを見た光秀が、信長を持ち上げた。

「いやあ、上様の天下も秒読みでございますなあ。我々も骨を折った甲斐がござった」

 こう言ったところ、信長は光秀に激怒した。

「お前ごときがいつ、どこで、何をしたというのだ」

 これだけではない。欄干に頭を打ち付けられる、誰も見ていない所で頭を足蹴され、床に押さえつけられるなど、星の数とも言えよう折檻、暴力を受けた。

 天正十(一五八二)年、近畿方面軍を任じられた光秀は、信長のこれらの態度に腸が煮えくり返り、ついに腹をくくった。光秀は、本陣で、家臣が多くいる中、この言葉を大声を張り上げて告げた。

「あの者は神や仏を敬わないにも程がある。儂の動きにて、皆、大義に目覚められよ。敵は本能寺にあり!」

 その場にいた家臣全員がその意味を悟った。

 本能寺には今、天下人、織田信長しか居ない。信長は光秀の主君である。その信長を敵とする。つまり、天下人への謀反である。

 光秀の娘婿の秀満は、何も反対せず、むしろ肯定した。

「義父上は信長を討ち取るのだ。これが成功したら後の世までの語り草だ」

 こう呟き、本陣を出ていき、軍の支度を整えた。

 光秀の軍は二万五千、その内訳は、光秀本軍が五千、秀満が四千、明智光忠が四千、光秀の重臣である斎藤利三が四千、妻木広忠が三千、溝尾茂朝が三千、藤田行政が二千である。

 本能寺に着いた光秀の軍は、信長が明らかに気付くような鬨の声を上げた。

 だが、それは、今の今まで寝ていた信長にとっては、何かの物音にしか聞こえなかった。

 外から物音が聞こえてきたと感じた信長は、一人でこう思った。

「何じゃ、喧嘩か」

 だが、二度目の鬨の声は、明らかに、信長の耳にも鬨の声に聞こえた。

「何事か」

 こう、小姓達に尋ねた。

 信長がそう疑問を抱くのも当然であった。山城の周りに敵がいない筈だからである。

「誰の謀反かは知れぬが、敵とあらば迎撃せよ」

 信長は、山城の周りに敵がいないことを知っていた時点で、謀反だと確信した。いや、それ以外の可能性が無いからである。

 信長は、唯一の寵臣である森成利、その弟の長隆、長氏を呼び寄せた。

「お蘭、坊丸、力丸、誰の謀反であるかは知れたか」

 その質問に対して、森長隆と森長氏は黙り込んでしまった。兵の数に動揺して、誰の軍か、どころではなかったからである。

 だが、森成利は違った。

「私の目に狂いがなければ、見えたのは風に揺れる桔梗の旗。明智光秀の謀反だと思われまする」

 森成利の言ったことを聞き、信長は絶句した。光秀は自分の信頼していた家臣であり、羽柴秀吉の中国征伐に従軍して功を立てた折にはまた新しい領土をくれてやろうと思っていた矢先に、この知らせを聞いたからである。

 信長は本当にそうなのかもう一度成利に問うた。

「お蘭、見たのは本当に桔梗の旗印なのだな?」

「はい」

「だが、旗ならどうにでもなる。他の者が光秀を騙って攻めてきているのやも知れぬ」

 信長は、あくまでこの謀反は光秀のものではないと思った。いや、そう思いたかった。光秀は、己が家臣団の中で数少ない、心の底から信頼している家臣である。信長が心の底から頼りにする将など、秀吉、家康、光秀くらいであった。

 光秀への折檻も、光秀に成長して欲しかったがために、体にわからせた。織田信長という親が、明智光秀という子供に説教をしているようなものだった。

「いえ、私の考える限りそれはあり得ません」

 だが、寵臣である成利は、信長の考えを切り捨てた。

「何故であるか」

「恐らくこのご謀反、腹に据えかねた何かがあったとしか思えませぬ」

「腹に据えかねた・・・・・・」

「恐らく、信長様の折檻が原因かと」

「それか・・・・・・是非に及ばず!」

 信長は、本能寺から逃げる気はなかった。逃げても捕まるからである。

 何しろ、光秀に任せた二万五千の兵がこの本能寺を囲んでいるのだ。その包囲網を突破できるはずがなかった。

 弓を持った信長は、次々に光秀の軍の兵を射抜いた。

 信長の行動を見た小姓も、それに続いて次々に迎撃した。主君だけを戦わせるわけにはいかないという思いである。

 こうして、当初は、信長は善戦していた。

 だが、そんなとき、信長に悲劇が訪れた。弓の弦が切れたのである。弦が切れた以上、その弓は使い物にならない。信長は、弓よりも効率よく敵兵を討ち取れる槍に持ち替えた。

 だが、悲劇はまた訪れた。今度は己の胸に光秀の軍の兵が放った矢が刺さったのだ。

 そのような状況の中でも、信長は、必死に小姓たちを鼓舞した。

「魔王を簡単に討ち取れるなどと思うでないぞ」

 そのようなことを言っていた信長も、ついには力尽き、光秀ごときに首を取らせるなら、と別室に行き、そこで自害、最期まで一緒となった寵臣、森成利に命じてその部屋ごと爆破させた。森成利は、信長が籠もった部屋の前で安田国継の攻撃を防ぎきり、信長の最後を見届けた瞬間、安田国継に首を切られた。

 安田国継は、このとき成利に頬を噛まれた。それは段々と浮腫んでいき、国継はそれにうなされ、気が狂い、急死した。

 本能寺での爆破には光秀の軍の兵士も少なからず巻き込まれ、信長が死んだ頃には、被害は九千人に昇った。

 諸大名を凌駕し、駿河の太守、越前の太守、近江の大名、甲斐の大名、丹波の豪族を撃破し、尾張一国から天下に覇を唱えた、まさに魔王に相応しい最期であった。

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