第1話 文字は踊る
イルは山間の小さな街に住んでいる。その街の名をコトモ市という。晴れた日には街全体が照らされ、丘の上から眺めると、チョコレイトの詰め合わせのように見える。紅茶や煉瓦の色の小さな屋根が窮屈そうに並んでいるからだ。そして、少し錆びた白壁に小さな窓が配置されている。10年前の戦争でこの街も戦場となり、山は焼かれ、建物は大方崩れ落ちた。戦後の魔法使いの活躍により、急速に街の整備が進められ、今の景色が生まれた。路地が街全体を駆け巡り、靴が石畳を叩く音が聞こえてくる。イルがこの街に引っ越してきて、もうすぐ4年になる。彼女は、中等部の入学と共に、ルノワール寮に住み続けていた。
昼下がりの透明な光が小さな窓から差し込み、寮の自習室を明るく照らす。資料を取り落としたイルは、深いため息をついた。紙は舞い、軽快な音を立てて床に広がった。
「大丈夫、イル?」
サンが席を立って拾い上げると、それは試験についての紙だった。
中等部4年の期末、生徒たちは進級試験を受ける。進級試験に合格しなければ、高等部に進学は出来ない。実技と筆記の2種類があり、どちらもパスすることが条件だ。
「ありがとう。」
イルはサンから資料を受け取った。そして、手早く資料を机に置き、外へ出ようとした。
「待って。」
サンが、イルの手首を掴んだ。イルは驚いて、思わずサンを見つめた。
「実技試験のことで思い詰めてない?」
そう言ってサンはイルを見つめ返した。イルは胸の内を言い当てられ、気まずくなり、視線を外した。サンも面を下げ、イルの机にある資料をパラパラとめくる。紙に印字された活字の羅列は、試験の範囲や詳細を伝える。
「六つある専攻のうち、五つ落ちてきた。」
椅子を引き、腰掛けたイルは諦めたように呟いた。
「えっ、今まで受けた分、全部落ちて来たの?」
サンは思わず声を上げた。サンの予想を越えて、事態は深刻だったからだ。
「うん。サンだって、私が魔法を一切かけられないの知ってるでしょ。」
「でも、イルは筆記がずば抜けてる。だから、それが加算されて、先生方も合格にしてくれると思ってた。」
サンは少し表情を翳らせ、用紙に目を落としながら、小さな声でモゴモゴ言った。サンの手に握られた用紙の皺が増える。
「実技試験と筆記試験のそれぞれの合格点をクリアしなければならない規則だからね。特別にそれを変えるわけにはいかないみたい。」
イルは宙をぼんやり見つめながら、滔々と言った。
「残りはルミエール先生の光魔法学。」
これに落ちたら、イルは魔法学校の高等部には進学できない。魔法使いになるという夢は絶たれる。イルは自嘲的な笑みを浮かべて、サンの手元にある試験範囲用紙を読み上げた。
「ルミエール先生の実技試験は、人工太陽と加熱した卵料理の作成。使用して良い道具は一つのみ。卵やその他の食材、フライパンはこちらで用意する。採点基準は人工太陽と卵料理の完成度。」
何をすれば良いかは分かるのにな、とイルは唇を噛んだ。サンはイルの横顔を見、眉を下げたまま慰める。
「ルミエール先生は優しいから、イルを合格にしてくれるかも。」
サンは言ってから、少し無責任な発言だったか、と反省した。確かに光魔法学のルミエール先生は優しい。実技授業ではイルに魔法器具を渡し、授業に参加出来るように工夫をしてくれる。筆記のテストや課題には少し癖のある字で褒め言葉が添えられていた。けれど、試験となれば。イルは今まで受けてきた試験を思い出す。きっと、落とされるんだろうな。イルは心の中でため息をついた。一方サンは視線を落とし、じっと考えて込んでいたが、急に突拍子もないことを言い出した。
「イル、幻想魔法を使おう。」
イルは唖然とした。
「幻想魔法は禁止魔法。見つかったら、退学では済まないよ。」
イルは眉をぐっと寄せ、反論した。
「それに、私の幻想魔法は視覚情報を操れるだけ。太陽と卵料理の幻想を先生に見せても、味覚情報がそのままになる。先生は生卵を口にした時点で気づいてしまうよ。」
イルは少し伸びをしながら、呟いた。サンは黙って、用紙を握る力を緩める。時折、印字された黒い文字が白い紙から離れ、空中にふらふらと浮かんでいた。窓から差し込む光を反射して、文字はきらきらと繊細に光っていた。刹那、サンの頭中には名案が浮かんだ。
「人工太陽は私が代わりに作る。だからイルは幻想魔法で、私を透明化して。」
「透明化?」
イルは眉をひそめ、聞き返した。
「うん。イルは先生の視覚情報を操れる。まず、試験の会場となる部屋を事前に描いておく。イルと私は一緒に部屋に入り、試験を受ける。その時、先生の目には私のいない試験室に見えるように幻想魔法をかける。試験が始まったら、私は人工太陽を生み出す。」
イルはなるほどという表情で、サンを思わず見てしまった。この作戦は上手くいく可能性がある。不覚にも、不正に心揺らいだ。イルは苦笑を浮かべた。
「私の力で合格したってとても言えないけれど、いい案だね。」
イルの言葉に、サンの表情が少し明るくなる。しかし、イルはキッパリとした口調で言った。
「でも、実際にやるつもりはないよ。」
私が急に魔法を使えるようになったら、先生も疑うと思うしさ、とイルは付け加える。数秒、沈黙が流れた。窓の外から覗く、晴れ渡る透き通るブルーの空が嫌に綺麗だと、イルは眺めた。サンはじっと俯いたまま、黒い文字たちが遊び始めるのを見るともなく見ていた。
––––––– このままイルが試験を受ければ。きっと、不合格にされる。
サンは表情を動かさず、思い遣る。
–––––– 本当にそれでいいのだろうか。
サンは顔を上げて、イルを見た。彼女の方もそれに気づき、顔を向けた。落ち着いたサンの声が、静かな午後の空気に響く。
「イルは魔法使いに憧れて、人一倍努力してきた。イルには魔法使いになる資格があるよ。どんな手を使っても、私はイルに魔法使いになれる可能性を残したい。」
イルの表情は固くなる。
–––––– 入学して以来、魔法はずっと使えなかった。それでも、きっと使えるようになると信じて、勉強し続けてきた。どこかで無理だと分かっていながら。
サンは優しい。けれど、その言葉はイルが蓋をしていた箱をこじ開ける。
–––––– 今までの努力は一体なんだったのだろう。
イルは溢れそうになった気持ちに、もう一度蓋をした。
「不正を一緒にしてくれるのね。」
イルは少し顔を歪めて言った。サンは静かに頷く。そして、口を開いた。
「魔法使いになる夢を諦めてほしくない。作戦は絶対に成功させる。」
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