6、リーツェの日記
マドレブランカはカレン・トーラントのずっと西側にある田舎町で、壁を白く塗った家がやたらと多いので、町全体がほの明るく光って見えた。流行り病に襲われたときに現れた賢女が石灰で壁を塗ったところ、たちどころに患者が癒えていったという伝説が残る土地で、伝説がそのまま習慣として根づいたらしい。
「まあまあ、イルゼさん。ちょっと聞いてちょうだい」
珍しく人に出会うと、向こうから飛び出す最初の一言は大抵こうだった。
「この間のお薬、ほんとによかったわ。見て、杖なしでも歩けるの」
「まあ本当ね。だけど、あんまりはしゃいじゃだめよ。風邪でもなんでも、治りかけが一番大切なの」
「分かってますよ、いつもありがとう」
クロエに真っ赤な薔薇のジャムの瓶をふたつも三つも持たせて、あるおばあさんはぺろりと舌を出した。
「やあね、この人ったら、聞き分けのない子ども相手みたいに言うんだから。こんなおばあちゃんに、ねえ」
ミュセッティの家は住宅街から少しだけ離れて、坂の一番上に建っていた。マドレブランカは南から北へ行くほど緩く傾斜のついた町で、ミュセッティ家を過ぎてまだ北を目指すと、夏でも白い峰に連なる山の登山口がある。
イルゼの家は他の家と変わらない普通の造りだったが、南側には建物の敷地の三倍以上の庭があり、その庭を見ればなぜこの立地が選ばれたのか一目瞭然だった。庭に生えている植物は遮るもののない日光をありのままに浴び、イルゼの方針なのか、野生種と同じく好き放題伸びていた。
「ただいま」
イルゼが元気よく言うと、錆びかけの低い門扉がひとりでに開き、主人を迎えた。風見鶏の形をした小さな飾りがくるくる回る。大喜びしている犬の尻尾のようだ。
「……ただいま」
一度も来たことのない家に言うには気恥ずかしい挨拶だったが、クロエはイルゼの真似をして門に話しかけた。入れてもいい人間が来たのかどうか、こちらを窺うような半端な開き方をしていた門は、その一言でぱたんと大きく道を開けてくれた。風見鶏はくるりと一回転した。ようこそ、と言ってくれているようだった。
家には地下と二階があり、一階に入るとすぐに見覚えのある暖炉が目に入った。ラーゴ先生の部屋に呼ばれていた暖炉だ。薬作りの工房は台所を兼ねているらしく、フライパンと鍋がいくつも積み上がった間に、フライ返しやお玉が突っ込んである。玉ねぎやにんじんやじゃがいもが別々に麻の袋に分けて置かれていて、ひと繋がりのままの丸々としたソーセージがぶら下がっていた。窓際の花瓶にはたっぷりとした泡のようなカスミソウが活けてあり、居間にある籐の揺り椅子には編みかけの靴下がかけてあった。
「ごめんね、埃っぽくて」
イルゼはいそいそと動き回りだした。ふたつ目の籐の椅子をどこからともなく呼び出し、ふたりで暮らせる家に変えていく。暖炉に火が入れられ、一杯目のお茶が入る頃には、食器も家具も編み物の籠まで、何もかもがふたり分に整えられていた。
「クロエ、編み物は好き? これ、夏用の糸なのよ」
イルゼは籐の椅子で凝った柄の靴下を取り上げて、三本も四本も刺さった編み針を確かめた。クロエはまるで売り物のように仕上げられつつある靴下に見とれたが、情けなく肩をすくめた。
「やったことないわ……」
「もし興味があるなら、教えてあげるわ。人のために何か作るのはいいものよ。不思議よね、自分のために作るより、誰かに編んであげる方が上手にできるの」
イルゼはそう言いながらも、今日は続きを編むつもりはないらしい。椅子に深く腰かけ、さっそく籠の毛糸をいじりはじめたクロエを傍らから見つめているきりだ。ひとまず、今はこのマドレブランカの家にクロエがいるという光景を、目に焼きつけておきたいとでもいうように。
「その針は、編み地の目を交差させて模様を作るときに使うのよ。そっちの針は先が曲がっているわね? それ一本だけで使うのよ。その針で編むと、表と裏が同じように編めるの」
「ディーナにミトンを編みたいわ。義父さまと、ライアットやスオロたちには、靴下がいいわ。セヴィアンには……何がいいかしら……」
「ゆっくりお考えなさい。これからは、いくらでも時間があるのだから。あなたの声だって、そうやっておしゃべりしているうちに元通りになるわ。お料理だってお裁縫だって、やりたいと思ったら何だってやってごらんなさい」
「おばあちゃん」
クロエは道具袋の編み針を確かめるのをやめて、イルゼに向き直った。イルゼからは、うまく言い出せないだろうと思ったことだった。
「魔法も教えてくれる? 」
「魔法? 」
イルゼはクロエが思っていた以上に驚いて、鸚鵡返しに聞いたあとで心配そうに少し眉を寄せた。
クロエは青い毛糸玉を取り出し、両手で包んで色が変わるところを想像してみた。ひよこみたいな、黄色い糸にならないかしら。ひとしきり念じて開いてみると、手の中には緑色の糸玉が乗っていた。イルゼは眉を開いた。
「まあ、素敵な色ね! 」
「黄色にしようと思ったのよ」
クロエは失敗したことが少なからず悲しかった。
「やっぱり今からじゃ遅いのかしら? わたし才能ない? 」
「ないわけないじゃないの! 」
イルゼは孫娘の質問がよほどおかしかったとみえて、椅子が引っくり返りそうなほどのけぞって笑った。
「ものの色を変える魔法ってね、結構難しいのよ。あの魔法院だと、一年生の終わり頃に習うんじゃなかったかしら。大きなものから始めて、ゴマを七粒、別々の模様をつけて七色に変えられたら合格。毎年必ず失敗する子がいてね、教室から何から、もうめちゃくちゃ。思い通りの色にならなかったくらい、失敗のうちに入らないわ」
イルゼは請け合った。
「魔法ではなんでもそうだけど、決めたら思い切らなくてはね。自分の願いに自信を持つのよ。願いごとも、占いもそう――はっきり心に描けなければ、決して叶わないのよ。できないかもなんて、考えなくていいの。もう一度やってごらんなさい」
この助言はなかなか有用だった。糸は緑色の範囲から抜け出すことはなかったが、かなり黄色っぽくなった。上出来よ、とイルゼは黄緑色の糸をつつきながら言った。
「魔法を使うことに慣れていないから、これ以上細かい調整がまだできないのね。練習すればすぐできるようになるわ」
「教えてくれる? 」
「もちろん、そうなってくれたらとは思っていたけれど……」
イルゼはうっとりとクロエを見つめた。やっぱり母さまのことが引け目だったんだわ、とクロエは思った。
「わたし、知りたいことがあるの。今さら学校には行けないし、ミュセッティのおうちのこと、まだ何も分からないけど……お願い」
「家のことなんか考えなくてもいいのよ」
イルゼは意地になっているような声で言った。
「それじゃ、魔女になる勉強も少しずつしていきましょう。大丈夫、昔々は学校なんてなかったんだから。そうだわ、色の魔法におもしろい話があるから、今日はそれを話してあげましょう。昔話や伝説をよく知っておくのも大切な修行よ」
――昔々、この国に魔法使いの四人兄弟が住んでいました。昔々、本当の大昔のことで、一番上の兄が大地を、その弟が海を、その弟がたくさんの星を作りました。一番下の妹だけは、兄さんたちのような力がありません。そこで、人々の心の慰めになるようにと大地に花を咲かせ、みんなに美しい歌を教えました。兄さんたちは妹を愛していましたが、妹は弱くて、ひとりでは何もできないとも思っていました。
やがて町ができると、兄弟はそれぞれに仕事を始めました。一番上の兄が畑を耕し、その弟が海で魚を獲り、その弟が月と星で時間と暦と方角を報せます。一番下の妹だけは、強い力もないし、難しい計算もできません。そこで、人々が働く合間に安らぐことができるようにと、建物を花で飾り、鳥たちと一緒に歌いました。
ある日兄弟は、自分たちの作った世界で困っていることはないかと人々に尋ねました。みな暮らしに満足しているようでしたが、そういえば、この世界は寝ても覚めてもいつも同じような空をしていて張り合いがないと答えた人がいました。兄弟は顔を見合わせました。空の色は星がよく見えるように黒一色で(ですからこの頃の空には、一日中星が見えていました)、きちんと決めたことがなかったのです。
兄弟は太陽の出ている間を昼、月の出ている間を夜と名づけて、どんな色にするのがいいか話し合いました。兄弟たちは青がいい、白がいい、いやいや黒のままがいい、とてんでばらばらに空に色をつけはじめました。青だ! 白だろう! 黒だと言ってるじゃないか! 兄弟たちは喧嘩を始め、その間に次々と天気が変わります。晴れ、曇り、雨、晴れ、曇り、雨。そのうちにはだんだんと、日照り、雨、嵐、干ばつ、吹雪、大嵐と乱れ、空はどんどん荒れはじめました。兄弟たちの心が乱暴なことを考えていたからです。日照りと冷害がめちゃくちゃにやってくるために畑はみなだめになり、人々は激しい嵐に怯えて暮らすようになりました。
そのことに気づいていたのは、妹だけでした。妹は詩や絵を人々の友として教え、不自由な暮らしの中でも心の豊かさを失わないように願って回りました。それまで妹は何もできないものと思っていた人々は、彼女の作ってきたものがどんなに価値のあるものだったかに初めて気がつきました。――
「美しいものって、必ずしも役に立つとは限らないのよね。お腹いっぱいにはならないし、実用的なものであるとは言えないわ。だけどどうしてか、人間は詩や、絵や、音楽を求めずにはいられないの……」
イルゼはりんごを煮てジャムを作りながらクロエに言った。
「生きていられればいい、っていう生きものじゃないのね、わたしたちは。妹はちゃんとそれを分かっていたのだと思うわ。お砂糖をもう少し足しましょうか」
「世界はどうなるのかしら……」
クロエは味を見るために渡されたジャムつきのパン切れを上の空で口に入れた。りんごはよく煮えて、少し酸っぱかった。ちゃんと味わってちょうだいよ、と笑いながらも、イルゼは続きを話しはじめた。
――何年も何年も喧嘩をしたあとで、疲れ果てた兄弟たちはある日、一軒の家から人々の笑い声が聞こえるのに気がつきました。もう長いこと、地べたの焼けるじりじりという音と、雪の吹きつけるびゅうびゅうという音と、嵐の暴れるごうごうという音しか聞いていません。人が笑うということすら、聞いてようやく思い出したくらいでした。
そこは妹の家でした。妹は嵐に負けない魔法を家にかけて、町の人々みんなを招いて毎日を暮らしていました。ひとりひとりが持ち寄った食べものは多くはなかったけれど、ひとりで家に閉じこもっているよりずっとおいしく食事ができると誰もが思っていました。人々は楽しい音楽を奏で、愉快な物語を話し合いながらお互いに励まし合って生きていたのです。兄たちは人々のことを忘れて勝手な喧嘩をしたことを恥じ、妹に空の色を決めてほしいと頼みました。妹はよく考えてから言いました。
昼の空は日の光がよく映える青に。夜の空は星が映えるように、黒いままにしましょう。日照りが続くと草が枯れてしまうから、白い空のときは雨や雪を降らせることにしましょう。
兄たちは妹に言いました。おれたちはそれに賛成だ。しかし、おまえの好きな色を入れないままではとても納得できないよ。そうだ、おれたちは四人揃っての兄弟なんだ。
つつましい妹は、庭の花から少しずつ色を取って夜と朝、昼と夜の間に二度、少しの時間だけ空に魔法をかけることにしました。世界に朝焼けと夕焼けができたのです。――
「妹は世界で初めての賢女になりました」
イルゼは物語を終えた。
「聞いたことはない? 賢女エルディーネ。魔法使いの子どもなら聞いて育つはずの童話よ」
「最後のところだけ、覚えているわ。母さまが話してくれたの……花から色を取って夕焼けを作りました、っていうの」
クロエはふと窓の外を眺めた。秋の日はとうに沈んでいて、夕焼けのわずかな赤味も残っていなかった。イルゼが窓を開けると、肌寒いような風と一緒に切れ切れの虫の声が部屋へ入ってきた。
「秋は空が暗いわねえ」
イルゼは町の灯り越しに低い空の一角を指差した。
「もう少しすると、あのあたりに明るい星が上がるわ。それがこの時期、たったひとつの一等星なの。空はこんなに広いのにね」
「おばあちゃんは星座は分かる? 」
「少しだけね。季節の移り目と方角が分かるくらいには。あとは占いに使うくらいよ」
クロエは二階に小さな南向きの部屋をもらった。ランプや、椅子や、カーテンや、雑貨にはそれぞれこまごまとした工夫がしてある。レースがかけてあったり、リボンで飾ってあったり――まるでクロエが来ることを分かっていて、部屋が準備してくれたみたいだ。
クロエは柔らかく沈む寝台に腰かけ、まだきちんと広げずに置いてある荷物の中から革の手帳を取り出した。
リーツェの手帳だ。何となく、イルゼと一緒に目を通すのはためらわれて、この瞬間まで頭の片隅に追いやっていたのだった。クロエはリーツェの手を離れてから誰にも解かれていないリボンの端を引っ張った。あっけなく紙面が開いた。二十年近く前の日づけから始まる日記だった。
――十二月十八日、今日、マドレブランカの家を出てきた。母さんと喧嘩した。もう帰れないかもしれない。でも、こうなることはどこかで分かっていたのかもしれないわ。カセラ先生と、前に劇場で知り合ったマイラに、手紙を出してある。今日は汽車で一泊ね。
汽車の揺れのためか、若い女性らしい愛らしい丸文字はがたがた震えていた。文章の下には肩をすくめたような、おどけた動物の絵が描いてある。クロエと同じく絵はそれほど得意でもなかったようで、耳と尾の形から辛うじて猫だと分かった。
クロエがページをめくると、十八日の日記の続きがあった。振動に逆らうような、硬く強張った字だった。
――母さんは、わたしがどうして魔女になったのか、何にも分かってないみたいだった。どうして、ラーゴ先生のいる魔法院じゃなく、都会へ出て勉強したのか。本気でわたしが家を継ぎたがっていると思っていたのかしら。まあ、そうよね。母さんは、他に生き方を知らないんだもの。
魔法使いは町中に住みたがらないって、本当だったのね。劇場つきの魔法医の先生が見つかったのは本当に幸運だった。カセラ先生は母さんにきちんと話をした方がいいと何度も薦めてくれたけど、やっぱり途中で打ち明けなくて正解だったわ。わたしは歌手になる。歌手になるのよ。不純なんかじゃないわ。
魔女として勉強していた理由はどこにも書かれていなかったが、この書きようだと祖母と母はかなり早くからすれ違っていたらしい、とクロエは思った。母が魔法を習う姿は、祖母には家の跡目としてさぞ頼もしく見えたことだろう。真相を知ったとき、思わず不純と詰ってしまうくらいに。母は、ありのままに語ったところで祖母が自分の夢を認めてくれるはずがないと思っていたのかもしれない。
だが、どうだろう――もし、母が自分の本当の目的を、最初から祖母に打ち明けていたら……。
しかし、祖母の名が見えたのは十八日限りだった。
――十二月十九日、シエナローザのホテル。朝、カセラ先生が来てくれた。こんなに早く出てくるなんて思ってなかったって。わたしがきちんと免許を取ったから、助手になってほしいって。劇場で働きながら、歌の練習をすればいいって。マイラから返事が来たら、先生のところへお邪魔しよう。先生は部屋を使っていいとも言ってくれたけど、期間の長短はどうでも、そのうちはどこかに自分で部屋を借りないとね。
――十二月二十日、マイラから返事が来た。近くの町の劇場で、魔法医を頑張ってやっているんですって。あなたが来てくれたら百人力よ、だなんて。……マイラも歌手を目指していたのだけど、諦めてしまったらしい。もう歳だからって、冗談じゃないわよ! そんなの関係ないわ。第一、マイラはまだ十分若いし。本当に、彼女はそれでいいのかしら?
次の日記からは、日が飛ぶようになっていった。なぜか、ところどころページをちぎり取ったらしき跡もあった――書き損じたのだろうか?
――三月十七日、カセラ先生に頼まれて、隣町のまた隣町に診察に。小さな劇場だったわ。この辺の町の劇場は専任の魔法医がいないから、カセラ先生が兼任していた。これまでひとりで回るのは本当に大変だったみたい。劇場つきって、免許を取りたがる人が少ないのね。どうしてかしら。
患者はメルクリオさん。舞台でつまずいて、足をひねっちゃったんですって。何がちょっと痛いだけなんだ、よ! 折れてたわよ、馬鹿ね。お友達にまで心配かけて、しょうのない人。
メルクリオさんと、お友達のエドウィンさんと、約束してきた。お互い今はまだ端役ばかりだけど、いつか同じ劇場で歌を歌おうって。
――四月十日、初めて人間の、しかも主役をもらった。水の精Aでも、森の鳥Bでもない、なんとデルトーレの賢女さまの役。嘘みたいだわ!
――十月十五日、〈デルトーレ〉の初公演。メルクリオとエドウィンと、マイラも見に来てくれた。見せ場のアリア、褒めてもらった。泣きそうな、細かく震えるような声が、追いつめられても人を恨まない賢女にぴったりだったって。本当は、すごく緊張していただけなんだけど。
クロエは心の中で母に喝采を送った。と同時に、結局一公演歌い切らないままにしてきてしまったカレン・トーラントの町のことが浮かんだ。
何よりもクロエの心を占めたのは、申し訳なさではなく郷愁のような懐かしさだった。セヴィアンの家に部屋を借りている間だけ。あの個性的な町を歩いたのは、他の町よりずっと短い間だったが……。ミリアは無事に、賢女になりきれただろうか。
クロエは静かに、イルゼに淹れてもらったお茶を啜った。もう時間は真夜中に近くて、中のお茶はとうに冷たくなっていた。
あとひと月分だけ母の日記を読もうとして、クロエは目を戻したが――。
五月十六日の日記を見て、クロエは思わず日記を閉じた。ランプの光でおぼろげに、窓に映った自分と目が合う。急いで火を吹き消し、真っ暗になった部屋の中で、クロエは布団に顔を埋めた。とても恥ずかしかった。
――五月十六日、メルクリオとキスした。
約束どおり、イルゼは次の日から少しずつ魔法を教えてくれた。クロエは毛糸玉を浮かせたり、箒がひとりでに掃除をするように操ったりしながら、魔法を使っているクロエ自身の背をまざまざと観察しているような気持ちになっていた。心のどこかに、まだ魔法を不思議なものに思うクロエがいて、そんな不思議なものを自分の手で扱っているのを信じられない気持ちで見ているのだ。自分ではないかのようだ――だが、クロエの中に流れる魔女の血は、彼女の努力に応じて確実に力を与えてくれた。
覚悟を決めなくては、とイルゼに渡される本を片端から読んだ。幸いにも、試した魔法はどれもクロエの望み通りに働くか、そうでなくても望みに近い結果をもたらした。
問題は薬づくりだった。クロエはあらゆる魔法薬の調合を知りたかった。だが、彼女が情熱を傾ければ傾けるほど、鍋は焦げつき、薬は濁り、指は火傷した。
「再来週、秋のお祭りがあるのよ」
外から帰ってきたイルゼが、肩掛けを外しながらクロエに声をかけた。クロエは煮ている薬から目が離せず、
「そう……」
と上の空で返事をしたが、もう遅い。微妙な火加減で煮詰めていた薬は、イルゼの方をちょっと振り向いた隙に甘苦く焦げついてしまった。
「あらあら、ごめんなさいね」
イルゼはばつの悪そうなほほえみとともに暖炉へ寄ってきて、クロエの鍋を覗き込んだ。クロエは同じ薬を、もう二度失敗していた。
「また焦がしちゃったわ……」
「いいえ、わたしが声をかけなければ、きっと上手にできていたと思うわ」
しかたなく鍋を火から下ろすクロエに、イルゼは優しく言った。
「焦らなくたっていいのよ、薬作りは簡単にできることじゃないわ。わたしだってたまに失敗するもの。もっと魔法に慣れたあとからはじめたってちっとも遅くないわ」
「本当……」
「本当よ。さあさあ、たまには休んで。お祭りのことを考えましょうよ。あなたに出演をお願いしたいそうよ」
クロエは顔に垂れてきた髪を耳に引っかけて、着ているものを見下ろした。薬を煮るときのために、とイルゼがくれた古着は、前からついていた染みに増してクロエのつけた汚れが目立ってきている。エプロンなどあってもなくても同じというありさまだ。クロエはもう三日もこの服を着て、ひたすら薬を作っては失敗しているのだった。
クロエが何も言わないので、イルゼは心配そうにその肩を抱いた。
「どうしたの。お祭り、行くでしょう? 」
「ええ……」
クロエはエプロンを外したが、もじもじと手の中でいじりながら未練がましく調合の本を覗いた。イルゼはしかたなしに、クロエの前から本を取り上げた。
「おばあちゃん」
「クロエ。魔法を習って、知りたいことがあるって言っていたわね。――何を知りたいのか、教えてくれない? 」
イルゼのお茶はいつも味が違う。色の濃い、渋みのあるお茶を温めて、イルゼはクロエを促した。
「まあ、椅子におかけなさい。そんなに急がなくてはならないことなの? 」
「わたし……」
クロエは椅子に深く腰かけ、溜め息をついた。思っていたよりずっと気が張っていたらしい。息と一緒に、肩から力が抜けていくようだった。鍋を見ている間はまったく気がついていなかったが、クロエはとても疲れていたのだ。
「セヴィアンの目のことが知りたいの」
「セヴィアン? 」
イルゼには意外な名前だったのだろう。背もたれに沈んで急な疲れに身を任せているクロエに、不思議そうに尋ねた。
「あの子、目が悪いの? 」
「セヴィアンは色が分からないんですって」
別れる間際にクロエに笑顔を見せて、セヴィアンはいつまでも手を振ってくれた。前の晩に訪ねてきてくれたことが夢とも思えるほど、ごく自然な友人同士の別れだった。
元気でね、という言葉つきの。
クロエは息を吸いこんだ。
「色が分からなくても、いいって彼は言ったの。セヴィアンは、自分のことを嘆いたりしないんだわ――。でも、わたし……」
「そうだったの……」
イルゼは頷き、何か、とても愛しいものを見つめるまなざしをクロエに向けた。しばらく黙って考えたあとで、イルゼは話しはじめた。
「実はね、セヴィアンのおばあさまが、もともとそういう目の人だったのよ。シャルロッタっていって……とてもかわいい人だったわ。ほら、セヴィアンも凛々しいっていうより、何となく優しい顔をしてると思わない? シャルロッタによく似てるのよ、あの子。まあ、とにかくその治療のためにわたしが友達を紹介したことがあってね。それがセヴィアンのおじいちゃんてわけ」
「素敵だわ」
懐かしい話の合い間に、イルゼは少女のようにくすくす笑った。クロエは祖母の話に釣り込まれ、籐の椅子の上で身を乗り出した。
「シャルロッタとは幼なじみでね。ほら、広場に面した、緑の屋根の大きなお屋敷があるでしょう。あの家はペイジさんといって、シャルロッタはそこのお嬢さまだったのよ。ルイージ・ウォーメル君は、魔法院の同期生。お互い魔法使いの家系の出だったから、何かと張り合ったりしたものだけど」
イルゼはここで話を切り、いたずらっぽい目でちらりと孫娘を窺った。
「再来週お祭りに行って、ちゃんと歌ってこられたら、続きを話してあげるわ」
「もちろん、歌うわ」
威勢よく答えはしたが、練習が足りないことは否定できなかった。しゃべることもしていなかった喉に急に負担をかけるのはよくないという理由があるにせよ、クロエの喉はもうとうに、完治と呼んで差しつかえなくなっているはずなのだ。鍋をかき回す間に、鼻歌すら忘れていたことにクロエは驚いた。
「復帰第一回公演ってところね」
イルゼはクロエの動揺に見て見ぬふりをしてくれた。
「心を込めて歌うのよ。アルジェントやエドウィンや……セヴィアンは、それが何よりも嬉しいはずだから」
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