5、雨の夜のさようなら

 イルゼ・ミュセッティが、翌々日の朝早くやって来た。生徒たちに混じって、アリアたちが大広間で朝食の席についたときだった。


 大広間の扉が向こう側から弾けるような勢いで派手に開き、まるっきりくつろいでいた人々の目を一身に集めながら、女性がひとり颯爽と現れた。彼女が雪のように白い髪の老婦人なのは誰の目にも明らかだったが、その足取りはあまりに軽やかで、生徒も教職員も手を止めて呆然と見惚れた。後ろから追いついてきたラーゴ先生とフィリオットーネばかりが、息を切らせている。


 イルゼは頬を少女のように紅潮させ、大広間中を端から順に見渡した。


 「アルジェント。……どこなの? 」

 「あちらに」


 ラーゴ先生はイルゼを先導しながら、アリアたちの方へやって来た。


 「お隣ごめんなさいね」


 イルゼはほほえんで、ミロの横へ腰を下ろした。整備士でもあるミロは魔法院から大時計の点検を依頼され、張り切って徹夜したあとのことだったので、油臭い自分に恐縮して真っ赤になった。


 「お騒がせしたわ! どうぞスープの冷めないうちに」


 イルゼが手を叩いて笑いかけると、息を吹き返したみたいに食事時の喧騒が戻ってきた。それでも小声の囁きはいくつも集まり、人波を縫うたびに大きくなってこちらに聞こえてきた。


 ――もしかしてイルゼ・ミュセッティ? 

 ――廊下の絵とおんなじ……

 ――大賢女!


 「先生、卵はいかがですか? 」


 ラーゴ先生はいそいそとイルゼの世話を焼きはじめた。イルゼはにっこり頷いた。


 「ええ、ありがとう。あとオレンジかりんごを少しいただける? まったくあなたのよこしたあの鳩ったら、ほんとにそそっかしいんだから……窓を開ける前にガラスにぶつかって大騒ぎだったのよ」


 イルゼはにこにこしながら文句を言った。


 「だけど学校中で一番速い鳥だけあるわ。おかげで、こんなに早く来られたんだもの……さあ、パンを取ってちょうだい」


 アリアはすぐ向かいからパンを千切るイルゼを窺った。セヴィアンがさりげなく、バターの壺をアリアに押しやった。しかし、壺をきっかけにアリアが話しかけるより早く、イルゼが口を開いた。


 「なんて声をかけたらいいのかしら……って思ってるのよ」


 アリアはイルゼを見た。イルゼはパン越しにきらきらした黒い目でアリアを見つめていた。けれど輝いているのは瞳だけで、細い肩や紫色の肩掛けに包まれた背は、本当は心細げに縮んでいるのだった。


 「バターをありがとう、クロエ。あなたがクロエでしょう? すぐ分かったわ。リーツェの若い頃にそっくりだもの。それに、そっちのあなたはセヴィアンね。最後に会ってもうしばらくだけど、わたしのこと覚えてる? 」


 イルゼはバターをきれいに塗ったきり、パンを卵の皿に置いた。よく見れば、イルゼの皿からはりんごの一切れさえ減っていないのだった。ラーゴ先生もフィリオットーネも邪魔するまいとして口出しはしてこなかったが、ときおり真っ白な食器越しに心配そうな目をこちらに向けてよこした。


 できる限りに小さな声で、イルゼさん、と呟いてみた。何と呼んだら失礼にならないか、アリアには分からなかった。


 イルゼさん。イルゼ先生。賢女さま? 治療しかけの声は食器が鳴る音にさえ紛れてしまうほど小さいものだったけれど、スープのにんじんを意味もなく細かくしながら、セヴィアンがアリアと同じくらいの声で言った。


 「おばあちゃん、でいいんだよ」

 「なんですって? 」


 セヴィアンの皿で色のよいナツメをつついていたアビゲールが甲高く聞き返した。セヴィアンは鼻にしわを寄せた。


 「木苺をおあがりよ、アビゲール。おまえの声じゃ、内緒話もできやしない」

 「あら、内緒話があるの? 」


 イルゼは千切ったパンをまだ小さく千切って、それでもようやくひとかけ口に入れた。セヴィアンはにっこり笑い返した。


 「ええ、ルリフクロウなら大杉に棲んでる彼がいいって、アビゲールが」

 「冗談じゃないわよ! あんな陰気な連中」


 アビゲールが怒って頭を振り上げたので、木苺の果汁がセヴィアンの袖に点々と散らばった。


 「よせよ、落ちなくなるだろ」


 セヴィアンは呑気に言って、アビゲールの嘴にスープの豆を押し込んだ。相変わらずだな、とフィリオットーネが笑った。


 「おばあちゃん」


 出た声は思ったよりもかすれて、震えていたけれど、今度は食器の音に消されはしなかった。


 食卓の一同は黙り込み、ふたりの女性を見守った。張りつめた沈黙ではなかった。


 ラーゴ先生が目元を和ませた。嬉しくてたまらない、というほほえみを見せた、イルゼと同じように。


 クロエ・・・は六つのとき、母親と父親を一度に亡くした。なぜ急に自分はひとりきりになったのか。小さな彼女には知る由もなかったし、十二年考えても結局答えは出なかった。教えてくれる人もいなかった。


 ただ、最後に家族が言葉を交わした朝――両親の方では娘と会うのはこれきりになるという予感があったのかもしれない。ふたりがそのときどんな顔をしていたか、クロエには思い出せない。母は十八歳になったらと約束していた首飾りをクロエの首にかけてくれたあと、クロエには理由の分からない言伝を三つした。今日は絶対に、劇場へ来てはだめ。その首飾りをお守りにして、おうちにいるのよ。もし夜になってエドウィンが――ほら、父さんと母さんの大親友の――来たら、彼の言うことをよく聞いて。


 あと……もしエドウィンと一緒に行くことになったら、クロエという名前を人に教えてはだめ。どんなに優しい人が相手でもよ。あなたが自分のことを、ちゃんと守れるようになるまでは。父は何も言わずに、憧れの首飾りをかけてもらって素直に喜んでいるクロエを抱きしめた。少し痛いくらいだった。


 その晩母の言ったとおりにエドウィンが訪ねてきて、にこにこしながら迎えたクロエを一息に連れ去った。邪悪なものからも、悲しみからも、家族の思い出からも、一心にひとりの小さな娘を遠ざけながら、エドウィンは呟いたのだった。


 メルクリオとリーツェは、しばらく帰って来られないところへ公演に出ることになったんだ。……ふたりが戻ってくるまで、わたしのところへおいで。


 クロエは賢い娘だった。養父となる人のその言葉が、嘘だと分かるくらいには――。


 「……そう。そんなふうだったの……」


 人気のない森に射す木漏れ日に目を細めながら、イルゼは孫娘の話に深く頷いた。クロエは――イルゼはアリアとは呼ばなかった――まだ少し痺れている声で不自由にゆっくりゆっくりとしか話ができないのだが、イルゼにはそれがかえって尊いほどにも思えるらしく、一語一語を確かに拾ってくれた。イルゼの耳は、老婦人だからといってちっとも衰えてはいなかった。


 明るい、美しい森を、祖母とふたりで散歩する。昔から両親のいる劇場にばかり出入りしていたクロエは、そんな風景が人生にやってくるのを想像したことさえなかった。ラーゴ先生も、フィリオットーネも、セヴィアンも、一緒に行くとは言わなかった。


 「クロエ。わたしはね」


 イルゼは木漏れ日越しにクロエを見た。


 「できることなら、あなたには傷ついてほしくないの……」


 クロエは自由にならない声でおばあちゃん、と呼ぼうとした。傷ついているのは、他ならぬイルゼに見えたからだ。


 イルゼは足元の草むらにしゃがみこんだ。よく見れば、ぼうぼうとした細い草の陰に白い花が小さく咲いているのだった。


 「だけど、知りたいと思うのも、知りたくないと思うのも、あなたの自由なのよね。――何も知らずに守られて手に入る美しさなんてすぐに失われてしまうわ」


 わたしはこんな強い花が好きよ。イルゼは呟き、クロエを見つめた。


 「クロエ、あなたのお父さんとお母さんのことよ。……知りたい? 」

 「知りたいわ」


 静かな声がこぼれ出た。どことなく勢いづいて、すぐに怒りの混じるアビゲールの口調に慣れてしまった最近は、自分の声がどれも変に感傷的に聞こえた。


 「知りたい。……教えて、おばあちゃん」

 「……分かったわ」


 おばあちゃん、という言葉を確かめるように目を閉じて、イルゼは話しはじめた。


 「わたしね。リーツェとずっと喧嘩をしていたの」

 「喧嘩? ……おばあちゃんが? 」

 「そうなの。言い訳してもいいかしら? ミュセッティの家はね、女系の一族なの、魔法使いのよ(クロエはセヴィアンに魔法の才能があると言われたことを思い出した)。別に男の子が継いだって構わないのだけど、魔法の才能が女の子に遺伝しやすい血統みたいでね。わたしが賢女と呼ばれるくらいになれたように、リーツェにも素晴らしい力があったの。覚えてない? リーツェも魔女だったのよ」


 クロエは〈最後の朝〉以外に、両親についてはうまく思い出せない。それを悲しく思うこともあったけれど――。そういえば、と風景がわずかに心をよぎった。母さまは、よくお台所で不思議な薬を煮てたっけ。


 「当然、家を継いでくれると思っていたの」


 イルゼは苦しそうに言った。


 「だけどあの子ったら、急に歌手になりたいと言い出したの。いえ、本当はずっと前からだったんでしょうけど。わたし、あの子の気持ちを知らなかったのよ。それまで黙って魔法の勉強をしてたから、そんなことを考えてたなんて思いもしなかった」


 馬鹿みたいでしょう、とイルゼは眉を下げて笑った。


 「少し考えれば、分かることなのよ。わたしがあの子に強要できるものは何もないって……わたしが、身勝手だったの。今思えばそれだけのこと。でもそのことで、結局リーツェは出て行ってしまった。賢女なんていくら人から呼ばれたって何にもならないわ……本当は頭の固いただのおばあちゃんなのよ。娘のことを分かったつもりになって――」


 イルゼは息を詰まらせた。


 「――あの子の好きだったガラス玉の宝石が、床に落ちて粉々になったの。珍しい、赤い色のガラスでね。リーツェ・ミュセッティが殺されたっていう新聞が届いたのが、その三日あと。事故だったって――舞台に立っているとき、シャンデリアが落ちてきたそうよ。魔女だったのに落ちてくるシャンデリアを避けられなかったのは、それ以上に力のあるものの仕業だろう、なんて書いてあったけど、結局それっきり。今になるまで誰がやったのかは分かってないんですって。……あなたのことは、手紙をもらって知ってたわ。でも、わたしはまた、間違えたのよね。つまらない、意地を……そのときちゃんとリーツェと向き合っていたら……いいえ、わたし自身と向き合っていたら、違う未来があったかもしれないもの……」

 「母さまは……」


 クロエの目の前がゆらゆらと眩んだ。硬い石の床に叩きつけられて壊れたというガラスの赤い破片の幻が、ひとつひとつ鋭い針になってクロエの胸を串刺しにするようだった。


 「母さまは殺されたの? 父さまも……? 」

 「分からないわ。分からないの、なにも……わたしが、何もできなかったせいで」


 イルゼは水が噴き出るように言った。


 「ごめんなさい、クロエ。ごめんなさいね……」

 「おばあちゃん」


 クロエは一声すすり上げて静かに泣き出した祖母の背を抱きしめた。


 イルゼは、本当はクロエに会うのが怖かったに違いない。恨んでいるかもしれない、顔も見せてくれないかもしれないと、悩んでいたに違いない。


 リーツェ・ミュセッティがこの世を去った日からずっと、取り返しのつかない後悔を背負ってきたに違いない――。


 「おばあちゃん。ありがとう、会いに来てくれて」


 イルゼが顔を上げて、大きな目でクロエを見た。


 わたし、寂しかったの。ずっと寂しかったのよ――。



 ミロが運転業を再開し、翌々日のお昼には、今度はエドウィン団長がやって来た。イルゼの住むマドレブランカと、カレン・トーラントのちょうど中間の距離に魔法院がある。クロエの今後について話し合わなければならないということで、歌劇団の代表としてエドウィンが呼ばれたのだった。


 イルゼが、クロエを引き取りたいと申し出たからだ。


 「団長」


 クロエとセヴィアンが迎えると、エドウィンは階段を二段ずつすっ飛ばして着ぶくれの体を転がすように駆けてきた。


 「アリア! 」


 正面切ってアリアと呼ばれるのは、何だか懐かしいことに思えた。この学院の敷地内にいる限り隠しておく必要はないという意味で、いつの間にかクロエと呼ぶ人の方が多くなっていた。


 エドウィンは帽子を取るのもそこそこにクロエに尋ねた。


 「声が……? 声が出るのかい? 」

 「まだ長くはお話できないけど」


 かすれていようが途中で途切れようが、エドウィンにはたいした問題ではないようだった。そうか、そうかと頷きながら、手袋を外してセヴィアンの手を握りしめた。


 「ありがとう、ウォーメル君。君のおかげだ」

 「実は僕、何もしていません」


 セヴィアンは握られるままに任せながらも謙遜した。


 「今、僕の先生と彼女のおばあさまが治療していますから。今ならちゃんと言えますよ。また歌えるようになりますって」

 「突破口を開いたのは君だよ――師として誇らしい」


 ラーゴ先生がひょいと現れ、エドウィンから帽子と上着を受け取った。


 「アルジェント・ラーゴと申します。長旅でお疲れでしょう」

 「なんの」


 エドウィンは胸を張った。


 「疲れてなどおれませんよ。――娘のことで、お話があるとか」

 「――ええ」


 ラーゴ先生はエドウィンの気迫を感じ取ったのか、ともかくこちらへ、と促したきり言葉少なになった。


 一同はラーゴ先生の研究室に集まった。中ではイルゼがクロエのために薬を作りながら、待つともなしにみなを待っていた。部屋は使う人が勝手に内装を変えて使うのが当たり前と言わんばかりに、まるで別の部屋のようなしつらえになっていた――普段天球儀があるあたりに台所の暖炉がどんと居座り、甘い香りを漂わせながら薬を煮込んでいる。


 「あらあら」


 イルゼはみなに気がつくと、鍋をラーゴ先生に持たせてからぱちんと手を打った。一瞬で部屋は元に戻った。台所が引っ越してきていた証拠は、温かい飴色の薬だけだ。セヴィアンが呟いた。


 「すごいや、魔法みたいだ」

 「マドレブランカから台所を呼んだのよ」


 イルゼは陶器の器に薬をなみなみと注いでクロエに渡し、悠々と長椅子に腰かけた。


 「時間をかけてお飲みなさい、クロエ。急いで治したいと思うのが一番よくないのよ」

 「この子はアリアというんですよ」


 エドウィンのその一言で、イルゼはエドウィンがどんな思いでここまでやって来たのか見抜いたらしかった。唯一中立の立場でものが言えるからと呼ばれたミロが、首をすくめた。


 エドウィンには、クロエをイルゼに渡すつもりはないのだ。


 イルゼは真向かいに腰を下ろしたエドウィンの目に怯むことなく片眉を上げた。


 「わたしはクロエという名前しか存じませんわ。ここは劇場ではありませんでしょうに」

 「それでもです」


 エドウィンの低い声は、どこだろうがよく響いた。


 「わたしはこの子の両親から父親の役目を任されているのです。これまで姿を見せなかったあなたが――」


 エドウィンは勢いで口走りかけたことを危うく引っ込めた。イルゼはクロエにとってもはやたったひとりの肉親だということが、彼に良識を取り戻させたのだ。


 息を殺して成り行きを見守る人々の前で、イルゼは口を開いた。その声は意外なほど思いやり深かった。


 「歌手をやめてほしいとは思わないわ。わたしはもう、同じ間違いは繰り返さない。あとから死んだとだけ聞かされるのはもうたくさんだもの。ただ、今のクロエの状況を考えると、少し安全なところにいてほしいというだけ」

 「しかし……」

 「あなた、魔法使いがお嫌いなのね」


 イルゼはずばりと言った。それも無理からぬこと、という意味はきちんと込められていたのだが、エドウィンのたじろぎ方を見るとまるで断罪しているみたいだった。


 「嫌いなのではありません。滅相もない。わたしの友人――リーツェだって、素晴らしい魔女だったのですから」


 エドウィンはようやくそう口にした。部屋にいる人間の半分以上が魔法使いという中にあって、気まずげではあったがためらいのない口調だった。


 「リーツェからアリアを――いいでしょう、クロエを頼むと言われたとき、わたしは彼女が何を言っているのか分からなかった。ただ突然、もう生きて会えないかもしれないと言われたのですから。彼女の占いはよく当たりましたがね、冗談にしても限度があるだろう、と……メルクリオは咎めもせず、笑いもせず、頷いただけでした。――彼は、彼女の夫なのに。わたしと同じ、魔法を使わない人間なのに」


 エドウィンは顔を覆ってしまった。指の隙間から、絞り出すような声が聞こえる。


 「……その日の公演中、リーツェがふとコーラスから離れたのです。打ち合わせのとおり、王子役のメルクリオの手を引いて。他の人間は立つことが許されない、彼らのための舞台だったのです。ふたりは歌いながら手を取り合って踊り、そして――」


 あのシャンデリアが、と呟いたきり、エドウィンは黙ってしまった。クロエは、朗らかで優しい義父の心がこんなにも傷つけられていたことを知らなかった。親友ふたりの死を間近にいながら食い止められなかった彼が、クロエを守るためにいかに力を尽くしてきたのかということも。そうやって、理由の分からない力から必死に守ってきたクロエを、今度は祖母と名乗る大魔女が引き取りたいと申し出た、そのことがどんなに腹立たしく、恐ろしかったということも。


 エドウィンは力なく手を外し、それでもとても優しい目でクロエを見た。


 「君は、魔法が恐ろしくはないんだね」

 「はい」

 「おばあさまと暮らしたいと思っているんだね? 君がそう望んでいるんだね? 」

 「――はい」


 クロエはふいに、自分はとんでもないわがままを言っているのではないかという気になったが、人々の目は温かだった。


 「そうか……」


 エドウィンは元気がないとも、気が緩んだともいえる声で言った。十二年もの間、彼はクロエを守るために劇場への所属を断り続け、旅回りを続けた。その結果イルゼにすら居場所を悟らせなかった彼からすれば、これ以上は自分の力ではどうにもならないと認めることはたやすいことではなかったはずだ。しかし、エドウィンはみなが思うよりずっと分をわきまえた人間だった。


 それとも、義父は最初からこのときを覚悟していたのだろうか? アリアがそう感じたのは、次の瞬間のエドウィンの目があまりに決然としていたからだった。


 「では、君にこれを」


 エドウィンは上着の内ポケットから古い手帳を取り出し、クロエに差し出した。茶色い革の表紙には鍵代わりに薄桃色のリボンが結んである。長いこと誰も開いていないようで、端と結び目の中とでずいぶん色が違っていた。


 「リーツェの手帳だよ。預けられたが、中は見ていない」

 「母さまの……」

 「彼女に言われていたんだよ。もし君と別れて暮らすときが来たら渡してほしいと」


 手の中に滑り込んできた手帳の重さは、エドウィンと親子として過ごした時間の長さを思えばあまりに軽かった。だが、クロエは手帳を受け取った。クロエが自分で自分の人生を選び取れるまでに成長した――その姿を見せることこそが、彼女のために多くを犠牲にしてきたであろうエドウィンに対する一番の孝行であるような気がした。


 「やあ」


 戸の隙間から滑り込むように、セヴィアンが訪ねてきた。猫の子を後ろ手に隠しているみたいな仕草だ。クロエは荷造りの手を止めた。


 イルゼは日取りを組みながら、クロエに一日時間をくれたのだ。カレン・トーラントに帰るものたちとは魔法院でお別れだ。エドウィンとは、しばらく会えないけれど手紙を欠かさず書こうと約束してきた。出立は明日の朝と決まっていた。


 「まあ、どうしたの」


 クロエはもうすっかり綿の塊のような動物の子どもがいるのだとばかり思って(魔法院の森にはロッティたちやケットのように人の言葉を話す珍しい生きものがたくさん棲んでいた)、セヴィアンに近寄った。彼はちょっと困った顔をして笑った。


 「多分、君が考えてるものとは違うと思うよ。でも、君に贈りもの」


 セヴィアンはもったいぶるでもなく、持っているものをひょいと差し出した。動物ではなかった――はがきくらいの小さな紙が薄紙に挟まれて、淡い色のリボンが結んだ形でくっついている。小さなブローチで薄紙に留めてあるのだ。


 「開けていい? 」


 クロエが聞くと、セヴィアンはおかしそうにふっと息を立てた。薄紙の包装はまったく急なこしらえの体裁上のもので、一枚めくってしまえばすぐ中身が見られたからだ。


 クロエに答えるために、彼は頷いた。


 「うん、どうぞ」


 クロエは薄紙をそろりとめくった。


 美しい絵が包まれていた。黒い鉛筆に出せる色だけで、海辺の街並みと斜陽が表されている。いつかの夕暮れ時、あの時計台で彼が描きはじめた絵だ、とクロエには分かった。淡い光に満ちた空には、白い星が一筋流れていた。


 絵の中にはアリアに似た娘がひとり立って、優しい横顔を見せている。光のただなかで、彼女自身が光り輝いているようだった。


 クロエはセヴィアンを見つめた。こんな絵を描ける人がずっと自分の身近にいたなんて!


 「……あなたが描いたのよね? 本当に? 」

 「きれいだろ、君」


 セヴィアンは自分でも絵を覗いて目を細めた。


 「これが描けたのは君のおかげなんだ。だから君にあげる」

 「立ってただけよ……」

 「おかげで描きやすかったよ」


 セヴィアンの目はきらきら揺れていた。トパーズのような瞳を透かして、燃え立つような心の煌めきが見える。

君に話したいことがあるんだ、とセヴィアンは前置きした。


 「僕ね……色が見えないんだよ」

 「見えないって? 」

 「見えない……うん、分からないって言った方がいいかな。君たちのいう、赤とか青とかいうの、僕には区別できないんだ」

 「この絵みたいに見えてるってこと? 」

 「うん、多分ね」


 クロエは無駄と知りつつも、セヴィアンの見ている世界を想像しようとした。彼が描いたこの絵のように、白と黒との濃淡だけでできた世界を。確かめようがないことは分かっていたけれど。


 「生まれてからずっとなんだ。気がついたのは僕の母さん。たまに、色の分からない目を持った人はいる――いろいろ、見え方に差はあるみたいだけどね。だけど、僕の目は………」


 セヴィアンは目を伏せた。温かい色をした瞳だ。


「色が見えない目って大抵他にも特徴があって、たとえば他の人より光に敏感だったり、ちょっと目が悪かったりするみたいだ。でも、僕の目は違う。僕と同じ目の人は、ひとりもいない――なかなか分かってもらえないし、免許は取れないし、絵の具はみんな似たような色に見えるし、ちょっと拗ねてたんだよ」


 セヴィアンは職業魔法使いの免許も飛行艇の免許も持っていないと笑って話していた。問題児だからさなんてふざけていたけれど、本当は――。


 クロエは今さら呆然とした気持ちになりながら、尋ねずにはいられなかった。


 「治せないの? だって……あなた、こんなに絵が………」

 「治せないんだ。僕の場合は治し方が分かってるんだけど……いや、やっぱり結果的には難しいんだ。いろいろ試してはみたけどね」


 クロエはふいに、フィリオットーネが社会人学生を終えたあとで学者を志した理由を知った気がした。彼は諦めきれないのだ。些末なことで息子の人生がはなから狭められているのが。


 クロエは全体的に明るい色をしたセヴィアンを何も言えずに見守った。すぐ絡まってしまう細い金色の髪や、本物のともしびより温かい光が入ったオレンジ色の目。そういうものがどんなに人の目に鮮やかに映るのかも、セヴィアンは自分では何も知らないのだ。


 セヴィアンはクロエを見つめ返した。


 「フリアーニさんが狙ってる宝石、僕も探してるって言ったよね。元はただの水晶だったんだけど、僕のじいちゃんの魔法がかかってるんだ。それがあれば、もしかしたら……でもね、何年も前に行方知れずになった石を、僕の目だけで探すのは無理だったよ。見ても分からないと思う。……だから、もういいんだ」

 「だけど……」

 「もちろん簡単に出した結論じゃないよ。少しでも分かるようにならないかと思って、君が来た日も家で絵を描いてたんだ。画材って、お尻の方に色の名前が書いてあるだろ? 少し明るさが違うくらいかなっていう、色を選んでさ。今までそうやってきたけど、結局見分けられるようにはならなかった。努力しても変わらなかったってことは、変わらなくてもいいってことなのさ」


 クロエは言葉が出なかった。だが、セヴィアンは無理に自分を納得させているようではなかった。


 彼は心からの言葉をクロエに話しているのだ。


 「描きたいと思ったんだ、君のこと。僕は色がきれいって言われるものなんか大嫌いだった。夕焼けとかね――だけど、あのとき夕陽の前に立った君は……」


 きれいだったよ。本当にきれいだった。光と影だけでできた世界に、これほど心を震わせるものがまだあったなんて――。


 「だから、君のことを描かせてもらったんだ。そしたら、昔どうやって絵を描いてたかちょっと思い出した。……君のおかげだ」


 僕は自分で自分の芸術に背を向けていたんだ、とセヴィアンは言った。彼は世界を否定し、みずからの感受性を余計な重荷のように嫌うしかなかったのだ。その手の中にないものを求める限りは。


 「僕は、僕以外の誰かになろうとばかりしてきた。でも、それはもう終わりにするよ」


 セヴィアンは笑った。


 「クロエ。……その絵、きれいだろ」

 「きれい」


 クロエはやっとそれだけ言った。なんだか胸がいっぱいで、涙がひと粒こぼれた。


 「きれいだわ、とても……」


 セヴィアンはしばらくクロエを見守っていたが、やがて絵の上に薄紙を戻して、包装を辛うじて贈りもの用に見せているリボンを指差した。


 「君、飛行艇でリボンを風に持っていかれたろ。似合いそうなのを選んでもらったんだ。よかったらそれ使って」

 「ありがとう」


 クロエは一度そう言って絵の包みを抱きしめたが、彼に頼んだ。


 「あなた、結ってくださらない? 」


 セヴィアンは最初からそう言われると知っていたみたいに、すぐに答えた。


 「いいよ」


 セヴィアンの手は器用にできていて、櫛などなくても十分らしかった。しばらく言葉が途切れると、沈黙は雪のように少しずつ降ってきて、部屋の中に静かに積もりはじめた。どうしてかしらと考えて、そうだ、今はアビゲールがいないのだとクロエは気がついた。


 彼と出会って初めてふたりきりでいるのだ、と。


 部屋の、鏡のように光るガラス窓越しに、セヴィアンと目が合った。彼は尋ねた。


 「君の髪は、どんな色をしてるんだい」

 「黒よ。目の色も同じ。…………」


 答えはしたけれど、これでは答えになっていないとクロエは分かっていた。それでも、セヴィアンは頷いた。


 「へえ、〈黒〉か。絵の具を全部混ぜるとできるって聞いたことあるよ」

 「黒っていうのはね、……ええと、か、カラスとか、――夜の空とか、影の濃いところとか。そんな色なの。………あなたがくれた絵は、白と黒よ」

 「じゃあ、君の髪と目だけは、僕にもそのまま見えてるってことか……」


 セヴィアンは一束にしたクロエの髪にリボンを合わせながら、まじまじと見入った。


 「このリボンは、なんていう色? 君の髪には、すごく映えるように見えるけど…… 」

 「――そうね。白、ね」

 「〈白〉か……それじゃ、僕の絵の明るいところの色だね」

 「この〈白〉はね……」


 リボンの〈白〉は、複雑だった。糸の光沢が、様々な色の艶を生み出している。クロエは現実のものよりも、たとえ想像でしかなくても、心象としてその色にふさわしいところを考えてみることにした。セヴィアンには、そんな言い方の方が伝わる気がしたのだ。


 「好奇心、みたいな色だと思うわ……いろんな色が、きらきらしてるもの……」

 「君は、……」


 セヴィアンはふと手を止めた。アリアが窓を見ると、彼は伏し目がちにほほえんでいた。


 「僕の考えてることが分かるんだねえ……」


 セヴィアンはリボンを蝶の形に結んで、結び目にブローチをつけてくれた。その手がそばを離れていくとき、クロエはふいに、この人とはもう会うこともないかもしれない、と気がついた。離れて暮らすことになるとはいっても歌劇団を引退するわけではないから、エドウィンとはいつまでも親子でいられる――セヴィアンとも少し別れるだけだというような気がしていた。だが元を正せば公演先の町にたまたま彼がいたというだけで、アルモニアがカレン・トーラントを離れてしまえばそれきりになるような関係なのだ。それは予想外に衝撃的で、残酷な事実のように思えた。


 どうしてか、ずっと一緒にいられるような気がしていたのだ。クロエは混乱した。


 「ねえ、クロエ」


 クロエがはっと顔を上げると、振り向く前に窓のセヴィアンと目が合った。外はいつの間にか霧のような雨が降っていて、薄暗い板ガラスに映った青年の姿はおぼろげに、信じられないくらい美しく見えた。


 「振り向かないで。このまま出て行くから」


 セヴィアンの目の辺りを、するりと水が流れた。外が雨だからだわ、とクロエは思った。泣く理由なんて、この人にはないはずだもの……。


 セヴィアンは結ったばかりの髪の房を掌に掬い上げた。


 「君に会えてよかった」


 窓のセヴィアンは雷にかき消される直前、クロエの髪に口づけした。


 戸の閉まる音に我に返って振り返ったけれど、後ろ姿も見えはしなかった。

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