3、北の森へ

 アリアの見送りに港まで出てきたディーナは、引き出されてきた飛行艇を見た途端に大きな目をさらに大きく見開いた。最初はしおしおとうつむいていたのに、この感情の豊かさが彼女の魅力だ。


 「汽車? どうしてこんなところに? 」

 「あれが飛ぶのよ」


 アリアが説明すると、ディーナはセヴィアンを見た。セヴィアンは肩をすくめた。


 「……翼でも生やすの? 」

 「汽車に翼がついたら野暮だよ。動力は〈賢者の目〉っていう石さ。半永久的に魔力を出し続ける石で――……」

 セヴィアンは具体的に動力の説明をしようとしたようだったが、ディーナの顔を見て結論を急いだ。

 「――つまり、君の友だちが落ちることはないってこと」

 「ごめんな。ディーナのやつ、飛行艇にいい思い出がないんだ」


 ライアットが寄ってきて、小声でセヴィアンに言った。


 「前にひどく艇酔いしてさ。まああいつは、ちょっと馬車に乗るのも危ないんだけど」

 「旅の無事を」


 いよいよ出発というとき、エドウィンが挨拶した。アリアは車両の窓を開けてもらい、顔を出した。


 「お見送りの方は少し離れてください」


 運転手のミロが叫ぶと同時に、本物の汽車と変わらない汽笛が鳴り響いた。だが煙突が吐き出したのは煙ではなく、黄金色の火花だ。ディーナが悲鳴を上げて飛びすさった。


 「派手ねえ」


 アビゲールが呟いた。


 「演出だよ、見かけ上のね。煙が出る仕組みにはなってないんだ」


 セヴィアンは戸を閉めて施錠した。


 「動くよ。しっかりつかまって」


 がたんと車体が揺れて、車輪が動き出した。港の石畳を走り抜け、荷物の積み下ろし場から海へ飛び込み、そのまま水面を走り出す。飛んだと分かったのは、同じ目線で離れていくだけだった友人たちがだんだんと下に見えはじめたからだった。


 「飛んでるのっ? 」


 アリアは窓越しに尋ねた。思いのほか風が強い。運転席のある先頭車両が、斜め上向きに走っているのが見える。車輪は回っているが、当然地面と噛み合っているわけではなかった。


 「飛んでるよ」


 セヴィアンは自分も窓を開けようとしたが、カモメがすぐ鼻先を掠めそうになったのでアリアの横へ来た。


 「この艇はお客さんを乗せて運転する型だから、中の重力をちょっといじってあるんだ。嵐が来て上下が引っくり返ったって、このまま立っていられるくらいにはしてある。しばらくしたら安定するから、そしたらちょっと外へ出てみよう」

 「怖いこと言うのね! 」


 カモメはもうずっと下を飛んでいる。大きな帆船がおもちゃのようだ。


 ある一家を乗せた艇が空中ですれ違った。小さな子どもが窓枠から乗り出しているのに、母親らしい女性はまあ困った子ね、という顔で息子をちょっと引っ張っただけだった。あの艇も僕の設計なんだ、とセヴィアンは言った。


 「君には言わずにいたけど……」


 セヴィアンはよその艇の親子のやり取りを見送りながら暗い声で言い出した。


 「僕の設計した艇には、大体どれにも〈賢者の目〉と重力の魔法がかかってて、乗った人にはもれなく副作用があるんだ」

 「なんなの? 」


 アリアの通訳をしているアビゲールの声が笑いに震えている。何がおかしいのよ、とアリアは唇の動きだけでアビゲールを叱った。


 セヴィアンは構わず続けた。


 「艇を降りたあと、三日くらい体が浮きっぱなしになるんだ。ほんの少しだけ、紙一枚分くらい」

 「ええ? 」

 「飛んでいる途中、目的地の真上で飛び降りる魔法使いが結構いてさ。同じ魔法を安全確保に利用できないかと思って、重力をいじることを思いついたんだ。そしたら――」


 セヴィアンは言いよどんだ。


 「うまくいかなかったの? 」

 「いや、安全にはなったはずなんだ。艇から落ちても、ゆっくり降りていける魔法がかかってるからね。ただ、体重が元に戻るのに時間がかかるだけなんだ。これからの改善点さ」

 「この人、実験中に自分の重力の向きだけみんなと反対にしてしまったことがあるの」


 アビゲールがひいひい言いながら身をよじった。


 「しばらく天井を歩いて生活してたのよね。だけどあるとき、うっかり外に出ちゃって――」

 「どうしたの? 」

 「落っこちたよ。空に向かってね」


 セヴィアンはおもしろくなさそうに白状した。アビゲールにとっては笑い話でも、彼にとっては失敗談として語るのも恐ろしい体験なのだ。


 「二階の屋根に足が引っかかって助かったけどね。君たち、地面があるってのはありがたいことだよ」


 窓の外から海が消え、山が増えてきたころ、艇は空を水平に滑りはじめた。セヴィアンは最後尾の客車に備えつけられている寝台に乗って、天井のつまみを手に引っかけようとした。だが、見つからない。セヴィアンが渋い顔をすると、天井の空がもやもやと曇りはじめた。


 「一度消さないとだめだな」


 セヴィアンは客室の引き出しを開けて小瓶を取り出し、一体どういう魔法なのか、天井の景色を中にすべて収めてしまった。小さな瓶の中に、もっと小さな雲が漂っている。


 「ああ、ここだここだ」


 本物の天井が見えると、客室は本当以上に狭く見えた。セヴィアンは天井のつまみを引っ張って開け、細い梯子をかけた。天井は意外に薄く、壁紙の上に鉄板が二重になってすんなり重なっている。だが、頼りなげな鉄板に守られているに過ぎないと分かっても、うまく鍛えてあるに決まっていると思うくらいには、アリアはセヴィアンに親しんでいた。


 光が射し、風が入ってきた。セヴィアンは梯子を登り、屋根の上に平気で上がった。そして顔だけ覗かせて、君もおいで、とアリアを呼んだ。


 「落ちないよ。大丈夫」


 風は不思議なほど緩やかに後ろへ流れていく。アビゲールはふわふわした尾羽根をめちゃくちゃにあおられて迷惑そうな顔をした。


 空飛ぶ汽車は草原の羊や、その中にぽつりぽつりとある雑木林の上を蛇行しながら飛んでいた。まとまって草を食んでいる羊たちを前に暇そうに空を眺めていた羊飼いの青年が、艇の屋根のふたりに気がついて手を振った。のみならず、羊を追うための杖にまたがって追いかけてきた。


 「やあ」


 青年はそばかすだらけの顔でにこにこ挨拶した。肌が日に焼けて、まるで芥子粒を撒いて焼いたパンみたいだ。留守番を言い渡され、今頃拗ねて甘パンをかじっているであろうロッティを思い出して、アリアは寂しくなった。


 「いい艇だね」


 「君もなかなか個性的なもので飛ぶじゃないか」


 セヴィアンは青年の杖をよく見ようと乗り出したが、大丈夫と言ったとおり、彼は落ちなかった。セヴィアンが側面の窓に立っているのを、青年は気味悪そうに横目で見た。


 「あんたトカゲみたいだな」

 「立つ側が下になるように重力を調節してるんだよ」

 「難しんだな。普通に飛んだ方が楽なのに」


 青年は頬をかいて後ろを指差した。


 「あとから来てる人、あんたたちに用があるみたいだよ。ずっとついてきてる。それを言いに来たんだ」

 「誰だろう? 」


 セヴィアンは振り向き、目を細めて追跡者を探した。低い雲が多く、箒に乗った人影も、飛行艇らしいものもどこにも見えなかった。今何か光った、とセヴィアンは呟いた。


 「箒か何かで飛んでるのかい、その人? 」

 「いや、艇だったと思うよ。小さかったけど。雲に入っちまったのかなあ……」


 青年は自信なさげに言った。


 ――ばちん、と音がした。


 「何の音だ? 」


 青年は呑気な口調で尋ねたが、途端強烈にはね飛ばされて悲鳴を上げながら墜落していった。最後尾の客車の尻が急に左右に振れて、油断していた青年を掠めたのだ。


 「セヴィー! 」


 アビゲールの声が裏返り、いつも以上に聞く人の耳を突き刺す。屋根と側面の境目に立っていたセヴィアンは不安定な姿勢で揺さぶられ、足を取られた。


 「だめだ! 」


 アリアはセヴィアンの叫びに構わず彼のシャツの袖をつかまえたけれど、支えきれなかった。一緒に屋根を転げ落ちながら、セヴィアンがアリアを腕の中へ庇った。


 「ここに手をついて……そう。目は開けない方がいいかもしれない」


 屋根から落ちて四角い側面を滑り落ち、ふたりは〈どこか〉で止まった。客車はぐらぐらと左右に揺れ続け、どこからかぎいぎいと不吉な音をさせながらまだ飛び続けている。アリアはセヴィアンに手を引かれて、冷たい金属に頬を押し当てられた。セヴィアンが背の後ろで言った。


 「頭を上げちゃだめだよ……魔法が消えかけてる」


 耳元で凄まじい風が鳴る。髪が千切れそうだ。アビゲールのくぐもった悲鳴が聞こえたところで、アリアはついに目を開けた。


 髪を結っていたリボンが吹き飛ばされ、鉄の艇を毛先がばちばち弾く。蛇行する艇と逆向きに客車が揺れる。頬を覆っていた髪が後ろへ滑ったとき、アリアは頭のずっと上の方に森があるのを見た。爪先のすぐそばに車輪がある。たまに目の端に交じる金色の光は、セヴィアンの髪だ。セヴィアンがアリアの背にかぶさって彼女を守っているのだった。


 ふたりは飛行艇の底に横たわっているところだった。外側の姿こそ列車にそっくりだが、やはり普通の汽車とは違う仕組みでできているらしく、客車の底はのっぺりしていた。そのおかげでふたりは客車の底にくっついていられたが、代わりにつかまることのできるものも何もなかった。


 「連結がどこか外れたんだ」


 セヴィアンは風圧に逆らわず、アリアの耳元に聞こえるようにだけ言ったが、びいびいという風の勢いの前にはその声も切れ切れにしか聞こえなかった。連結部分の渡り道にかけてある手すりが欠け、弾丸のように飛んでいく。


 「いいかい……」


 セヴィアンは唇の動きを最小限に抑えているらしい、潰れぎみな声で言った。


 「〈賢者の目〉は運転席にひとつあるだけなんだ。もしこの客車の連結が切れると非常にまずい」


 どうするの、とアリアは尋ねたかったが、アビゲールはセヴィアンに抱えられているらしく、通訳されようがなかった。


 「僕たちみんなが助かるために、これから提案するよ。了解したら頷いてくれ」


 風のびいびいとセヴィアンの声の間に、またどこかがばちんと鳴った。セヴィアンは決して急かしはしなかったけれど、何も言われなくても事態がいかに急かは誰の目にも明らかだった。セヴィアンが連結の危機を訴える間にがたんと大きな揺れが来て、客車が傾いた。


 「さっき、艇から飛び降りても大丈夫なようにしてあるって話したろう? 連結が繋がっている間なら、僕らにも〈賢者の目〉の力が働いている。だから今もこんなことしていられるんだけど、つまり……」


 アリアの手の横についてあるセヴィアンの手が、片方だけアリアの手に重なった。


 「早いうちに僕と一緒にここから飛び降りてほしいんだ。できるかい? 」


 アリアは肩越しに振り向いてみた。そうすれば、さっきと同じように頭の上に地上が見えるはずだ。落ちていく先を確かめるだなんて、余計に決心がつかなくなるようなことをどうしてやろうと思ったのだろう? もしかすると、地上以外のものが見えるといいと思っていたのかもしれないが――。


 振り向いた先には、セヴィアンの目があった。


 「どうする? 」


 冷たい風に刺されて開けづらそうに細めた目は、それでもアリアの答えを待ってほほえんでいるようだった。嫌よと言ったって、そうかいと頷いてくれそうな目だ。君となら心中したっていいよ、と。


 アリアは頷いた。


 「そうかい、よかった」


 セヴィアンは言うなり、アリアを抱え上げて艇の底を思い切り蹴った。


 「まだ間に合う」


 とても不思議だった。それまで上だった方が地上なのだと、思い出す間もない。前に空に向かって落ちたというセヴィアンのように、アリアは自分の体の行く先を見失った。


 「目を開けてごらん」


 セヴィアンが言い、アリアの頬に触れたとき、彼女は初めて自分がいかに固く目をつぶっていたかを知った。飛行艇の底を離れてから少しの間の、かなり長いこと、本当は気を失っていたのだということも。


 ゆっくりと――ふたりの人間の体重から考えると信じられないくらいに――アリアとセヴィアンは空を落ち続けているところだった。今度は頭の上に空があり、靴の先に地上が見える。ドレスがふわふわと持ち上がり、クラゲみたいにふくらんだ。


 「アビゲール、もう出てきてもいいよ」


 アビゲールはセヴィアンのシャツの胸元からまず嘴を出し、肩に這って出て、よたよたしながら翼を開いた。


 「よくも潰したわね」


 ふらついた拍子に風にさらわれそうになったところを、アリアが手で庇った。みんなそのまま足から羽根のように軽く落ちて、とうとう金色の草地に転がった。


 あっははは、とセヴィアンが笑う。


 「ああ、死ぬかと思った」

 「ばかっ」


 アビゲールが怒って、セヴィアンの眉間をつついた。


 「さっきの羊飼いの人、大丈夫かしら? 」


 という、アリアの声まで怒っているみたいだ。セヴィアンはちくちくする草の間に起き上がり、絡まった髪を手で乱暴に梳いた。


 「大丈夫さ。ぶっ飛ばされたあとちゃんと立て直してたよ。飛び慣れているんだろうね、あの杖で。……おや、ミロさん、こっちに気づいたみたいだ」


 セヴィアンが指差す先で、飛行艇が向きを変えた。ミロがぷりぷり怒って拳を振り上げている。


 「怒られるなあ。黙って飛び降りちゃったからしかたないけど」

 「そうね……」

 「でも、僕だって怒ってるんだ。ミロさんには負けないよ」


 セヴィアンは手近の草を千切って投げつけた。やけになったように、ばたんと引っくり返る。しかし重力はまだおかしいままで、彼の頭が土まみれになることはなかった。アリアは聞いた。


 「誰に怒ってるの? 」

 「セヴィアン・ウォーメルに怒ってるのさ。怒り心頭だよ」


 近づいてくる汽車を眺めながら、セヴィアンは呟いた。拗ねたような目だった。


 「自分の設計で飛ばした艇が事故を起こすなんて、とんだ誉れだよ。挙句、君をあんな目に遭わせるなんてね」


 本当に嬉しいよ、と言いながら、セヴィアンは腕で顔を覆ってしまった。


 「追ってきた人がいるって、羊飼いの彼は言ってたね。もしかしたらその人が、連結をいじったのかもしれない。でもね、僕、あの連結が外されるなんて……連結を少し外されたくらいであんなふうになるなんて、考えてもみなかったんだよ……」


 アリアはおずおずと言った。


 「普通、わざとそんなことをする人がいるなんて思わないんじゃないかしら……」

 「普通はね。でも今の君の状況から考えたら、こんなこともあるかもしれないって考えておくべきだった。劇場は危ないかもしれないって僕のうちに来てもらったのに、こんなことじゃ……」


 腕の下から覗いた目が、するりと動いてアリアを見た。泣いてはいなかった。


 「ごめんよ、怖い思いをさせて」

 「本当よね」


 アビゲールが言い、セヴィアンの鳩尾の上で飛び跳ねた。言葉の中身ほどの怒りは、声からは感じなかった。


 「アリア、よくあそこで頷いたわねえ。わたしなら信じられないわ、平気だから飛び降りろなんて」

 「何も心配いらないって言ったもの」


 アリアが言うと、セヴィアンは飛び起きた。何か、アリアがとてつもなく感動的なことを言ったとでもいうように、まん丸に見開いた目でこちらを見る。アリアはリボンのなくなった髪の房をもじもじいじった。


 「――言ったわよね? 」

 「言ったよ。昨日、時計台でね。確かに言ったけど……」


 セヴィアンは口をつぐみ、じっとアリアを見つめた。しばらくぼんやりとそうしていたが、そうかい、と呟くと、今度は壊れてしまったみたいに笑い出した。


 「かわいいなあ、君! 」


 ふたりして髪はぼさぼさで、みっともないことこの上ない。けれど今はその間抜け具合が、輪をかけて安らかに思えた。


 「ウォーメル君! 」


 草を風圧でなぎ倒しながら、ミロの運転する飛行艇が降りてきた。ミロは車輪が止まりきるのももどかしく飛び降りてきて、つけつけと設計者を叱りはじめた。


 「急にどうしたんですか? 僕が気づかなかったら、あなたがた身ひとつで置いてけぼりでしたよ! 」


 ミロは物腰の柔らかな初老の運転士だ。お客を安全に運ぶことに人生と命を懸けている。その分、艇に自分ひとりしか乗っていないと気がついたとき、死ぬほど肝を潰したに違いなかった。


 「外に出ていたら、連結が外れたんだ」


 とセヴィアンは説明したが、説教する気持ちに満ち満ちたミロを前にしては、なんだか言い訳しているみたいだった。


 「一番後ろの車両の連結さ」

 「なんですって」


 ミロは首が千切れそうな勢いで艇を振り返り、最後尾の車両だけがずれて停まっているのに気がつくと、真っ青になって走り寄った。


 「そんな馬鹿な……」


 セヴィアンが個室から例の工具箱を持ってきて、呆然としているミロの横から覗き込んだ。


 アビゲールは怖いと言ったが、アリアもふたりの傍らから故障した飛行艇を見た。車両と車両の間にある通路の下に隠された連結の金具がふたつも外れ、残るひとつで辛うじて繋がっている。金具には丈夫な織布で覆いがしてあったが、引き裂かれて垂れ下がっているために金具が剥き出しになっているのだった。


 「この艇は、カレン・トーラント中で一番丈夫な設計なんですよ! 君が一番よく分かっているはずだ」

 「艇の安全管理を〈賢者の目〉に頼り過ぎたんだ」


 セヴィアンは冷静に言った。軍手をはめて、工具箱をあさる。


 「万が一連結が切れた場合、〈賢者の目〉の魔法は後ろの客車には及ばない――客車は風の抵抗をまともに受けるし、もし連結が外れてたら、重力が元に戻って墜落してただろう。今度のことでよく分かったよ」

 「いやしかし、〈目〉を使わない設計の艇は、我々のような魔法使いでないものには管理できませんからねえ」


 ミロは千切れた織布の織り目を確かめながら首を傾げた。


 「……どうしてこんなふうに千切れたのですかねえ。ねえウォーメル君、設計の手落ちなんかでなく、布が弱かったのではないですか? 」

 「布は悪くないよ。マトヴァさんに頼んだ特注だし、魔法も少しかかってる。それに、こないだ替えてもらったばかりだからね」


 セヴィアンは部品に欠けや故障がないか確かめていたが、おもむろに外れた連結を元通りに繋いでみせた。アリアからは、ちょっと撫でたようにしか見えなかったのだが。


 「整備士の資格だけは取れたんだ。魔法使い用の、だけど」


 と言う間にも、ぼろぼろの織布が綺麗に直っていく。その過程はひときわ見事だった。布は切れたところから織り出される前に戻り、糸がちゃんと繋がったところで、また一枚の布に戻っていくのだ。


 「布が先に裂けたんじゃなくて、連結が外れて布を破ったんだよ。最後のひとつだけは……そうか、切れた繊維が絡まって外れなかったんだ。運がよかった」

 「君の艇が、こんなことになるなんて……」


 ミロは過ぎ去った衝撃の大きさにぼんやりとしながらセヴィアンの手元を見守った。


 「故意に外そうとする意志でもなければ、外れるものではありませんよ」

 「ミロさん。カレン・トーラントに帰ったら、僕と一緒に警察についてきてくれないかな。僕、魔法院から先に手紙を出しておくから。艇の連結にいたずらして、外そうとした人がいるかもしれないってね」

 「ええ、もちろんです」


 ミロは内心の動揺を押し隠した。


 「でも、僕がついていっても意味がありますかね? 」

 「もちろん。こういうことには、第三者の証言があった方がいい。ミロさんは長いこと一度も事故を起こさないで運転手をしているから信頼もあるだろうし……僕、屋根に引っかかって警察に保護された変人ってことになってるみたいなんだ」

 「なるほど……」

 「とりあえず予定通り北の森まで飛ばしてほしいんだ。念のため、動力以外の魔法をこっちで管理するから。……と、アリア、それでいいかい? 」

 「えっ? 」


 アリアは故障の修理にすっかり見とれていたので、何が「いいかい」なのかさっぱり分からなかった。セヴィアンは直った連結を叩いて調子を窺った。


 「このとおり、艇はまた飛べるようにはなったけど、君はまだこれに乗ってくれるかい? 」

 「それは僕も心配ですね」


 ミロの上目遣いは気遣わしげだった。


 「ウォーメル君の腕は本当に確かなのですが、お嬢さま、事故の根本的な原因は僕には分かりません。もし怖いとお思いでしたら、その旨ご遠慮なく……」

 「そんな」


 アリアは否定の意味を込めて言った。


 「怖くなんかないわ。乗せてください」


 ミロはにっこり笑って運転室へ戻った。言葉尻が鼻歌のように弾む。


 「誠心誠意、運転いたします。もちろん、これまでに増して、ということですが」

 「彼、いい人だろう? 」


 セヴィアンは客車に指で複雑な形を描きながら言った、重力、防護、浮力、と喉の奥で呟いている。


 「ミロさんは、この艇が格納されてる間に誰かがいたずらしたんだと思ってるんだと思う――追ってくる人がいて、その人が魔法で連結をいじったかもしれないなんて教えられないよね。乗り物の運転は安らかな精神でやらなくちゃ」

 「もう大丈夫なの? 」


 思わず小声になって、アリアは尋ねた。セヴィアンは目を細めて草原に影を落としている雲間を遠く見遣った。そうしていると、彼は一枚の絵の中の人物のようだった。


 「……多分ね。小さな艇だったそうだから、きっと乗り手の魔法に頼って動かす型なんだろう。乗ったら動かすことに専念しないと。前を飛んでる艇の、魔法で守られた連結を壊すなんて大した腕だけど、二度もやるのは無理だよ。僕らだって警戒するし、下手したら自分の艇を落としちゃう」


 アリアは草地を振り向いた。背の高い草の間に、燃える飛行艇の煙の筋が見えるのではないかと――。


 セヴィアンはようやく軽い息とともに笑った。


 「大丈夫さ、落ちてやしないよ。そんな夢見の悪いヘマをするような相手じゃないと思うよ。ただ、君は――……」


 言葉を選ぶような間があった。


 「――君の声が出せなくなった原因が事故なのかどうか、確かなことはまだよく分かっていない。だけど、もし君の声のことも僕の艇のことも意図して企んだ人がいるんだとすれば、それは同じ人の仕業かもしれないね。飛んでる最中に艇を落とされたことなんか初めてだもの。念のために言っておくけど、君を狙っている人がいたとしてその人がこの艇を落としたんだとしても、それは君のせいじゃないんだからね」


 セヴィアンはアリアの考えていることを先回りして言った。アリアはうつむいた。そうして初めて、自分の手が震えていることに気がついた。


 セヴィアンは黙って、アリアの手を握ってくれた。


 絶対に守ってあげるだとか、絶対に大丈夫だとか、そういう約束めいた言葉は出なかった。気休めにもならないと分かっているのだ。


 代わりに、セヴィアンは言った。


 「……ありがとう。僕を信じてくれて」


 セヴィアンは微妙な間を開けてから言った。


 「君に魔法を教えてあげる。簡単な防衛のおまじない……君を守れる人がそばにいなくても身を守れるようにしてほしい。魔法に一番必要なものは、想いの強さなんだ。君を守ろうとする誰かの想いと同じくらい、君が自分で生きようとする意志は君自身を守る力になるはずだ」


 両手の親指と人差し指で二連の輪を作り、セヴィアンは目でやってごらんと合図した。


 「自分が大きなものに守られていることを想像するんだ。壁でもいいし、盾でもいい。日に干したての毛布っていう人もいたな」

 「まあ、ずいぶん柔らかい壁なのね……」

 「この魔法をうまくかけるコツは、いかに安堵感を持てるかということなんだよ。心から、ここなら安心だわってところを思い出してごらんよ」


 アリアが言われたとおりに試してみると、すぐそばに立っていたセヴィアンが急に突き飛ばされたみたいによろけた。


 「うまいじゃないか。何を想像したんだい? 」


 アリアは真っ赤になって、何でもないわとごまかした。艇から落ちるときに彼が支えてくれていた、そのときの感じを思い出していたなんてとても言えなかった。


 「出発いたします、お早く」


 ミロが運転席からふたりを呼んだ。行こう、置いていかれちゃう、とセヴィアンがアリアの手を取る。


 煙突から火花が吹き出し、車輪はゆっくりと草地を走りはじめた。

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