2、歯車の町
セヴィアンはかなり風変わりな青年だったので、彼の家ではアリアの予想を超えた出来事がよく起こった。居候として少しは役に立とうとアリアが台所を借りようとすると、お玉が彼女の前まで跳ねてきてお辞儀めいた仕草をした。薄く錆の浮いた鍋が、勝手にお湯を沸かしている。その隣では、まな板の上で包丁が食材を次々に細かくしていた。
アリアが驚いて突っ立っていると、食卓の椅子が勝手に引かれ、こちらへどうぞと言わんばかりにテーブルクロスがひらひらと彼女を招いた。
セヴィアンはパンを切りながらこともなげに言った。
「うちには〈見えない料理人〉がいるんだよ。台所の道具に古い魔法が宿っているんだ――もう半分精霊みたいなものかな」
「お客さんなんて珍しいから張り切ってるのよ。セヴィーの言うことは聞かないけどね」
アビゲールが横から茶々を入れた。セヴィアンは抗議した。
「しかたないだろ、もともとひいじいちゃんの代から使われてたやつばっかりなんだから。僕のことはまだ半人前扱いなんだ」
「それだけじゃないわよ。一度、味付けに口を挟んだじゃないの……古い鉄は気位が高いんだから」
「ずっとちっちゃいときの話だろ! 」
アビゲールはアリアの肩へ飛んでいってけしかけた。
「あんたたち、今までで一番の腕の見せ所よ。この子、国中を旅してる有名な歌手なんだから! 〈食卓の守り人〉の誇りにかけて、どこの料理よりもおいしいものを作るのよ! 」
台所道具たちは沸き立った。セヴィアンが口を挟んだ。
「でも、彼女は今喉を傷めてるから辛いものは絶対にだめだよ。あと、スープにキノコは入れないでくれ」
結局、この日出てきた料理はまったく辛みのない、塩加減や温度まで実に行き届いた素晴らしいものだった。
「ロッティ、僕の格好でそれやったら怒るからね」
セヴィアンは床で皿のパンくずを舐めているロッティに八つ当たりした。スープにはキノコが二種類使われていた。
鏡がたくさんかかった廊下もあった。アリアが見る限り、普通の鏡は一枚もないようだった。
「鏡を使った研究は人気の分野でさ。僕もちょっとかじったんだ」
セヴィアンは〈七倍みすぼらしく見える鏡〉を覗いて前髪を撫でつけた。〈鏡〉の中では、そこがひどい寝癖になっていた。
「気が塞いだとき笑えるかと思って作ったけど……だめだな。これじゃみじめになるばっかりだ……」
アリアは近くの鏡を覗いた。着ている服の色が変わって見えた。
「おもしろいわね」
「鏡の研究といえば、合わせ鏡を通り道にできないかっていう実験をした人たちがいたらしいんだ。もうずっと昔の話だよ」
セヴィアンは声を低めた。
「人間が石の壁に制限されない移動手段だとかいって、すごく画期的だと称賛を浴びたんだ。一冊だけ、ものすごく古い本に〈鏡を合わせてまじないをかけてはならない〉って書いてあったけど、迷信に近い記述が多い本だったんで誰も本気にしなかったんだって」
セヴィアンはシャツの袖口で〈七倍みすぼらしい鏡〉の表面を磨いた。鏡の中のセヴィアンは綺麗になるどころか、顔色が悪く痩せこけて、ひどく不健康に見えだした。アリアの方を向いた、本物の彼の肌艶が疑われるくらいに。
「これは魔法使いの卵に魔法の心得を教えるための怪談話なんだ。ひとつ、賢者を志すものは先人の教えを侮るべからず。怪談話だけど、教科書にも載ってる」
アリアは口ごもった。
「それじゃ、鏡の道は……」
「そう。うまくいかなかった……というか、うまくいったかどうかも分からなかった。まあ、今でも実用化されていないことがすべての答えだよね」
セヴィアンは〈七倍みすぼらしい鏡〉に手を伸ばした(ささくれ立った汚い指が映った)。手は鏡の表面を触り、七倍みっともない手が向こうから同じように伸びていたが、鏡の中へ通り抜けることはなかった。
「試しに鏡へ入った人は、ひとりも戻って来なかったんだって。どこへ行ったのか、鏡の中にいるのか、いつ帰ってくるのか、何も分からなかった。彼らは鏡の中に閉じ込められて、今でもさ迷い歩いている。真夜中に鏡を覗くと、たまに彼らの顔が見えるっていう――」
セヴィアンはアリアの顔色を見て話を早めに切り上げた(ほとんど手遅れだったが)。そして、七倍みすぼらしい自分の顔と間近で見つめ合った。
「そもそも、鏡に映った自分と鏡のこっち側の自分は、同じ自分なのかな? 自由な探究心を持つことは大切だけど、せっかく先に失敗してくれた人がいたんだから、その経験をもう少し尊重した方がよかったんだ。同じように失敗なら新しい失敗を発見する方がいい。人間はそうやって飛べるようにまでなったんだから」
「あなたも飛べるの? 」
「ええ、飛べるわよ――人を飛ばす方が得意だけどね」
アビゲールはアリアの声で尋ねておいてから、自分でそれに答えた。
「セヴィアンは飛行艇の設計をしてるの。艇を飛ばすための魔法力学とか、効率のいい飛行翼断面とか、どうしたら動力がうまく管理できるかとか、そんなことばかりやっているのよ」
「僕は飛行艇の操縦、できないけどね。別に、設計者と使用者は同じでなくたって構わないんだから。まったく、免許ってやつにはつくづく縁がないよ」
その声はなんだかやけじみていて、セヴィアンもそれに気がついたのか、軽やかな仕草でそばに置いてある箒を手に取った。その手つきだけが陽気だった。
セヴィアンは椅子にそうするのと変わりなく箒の柄に腰かけた。よく磨かれた焦げ茶色の柄は何の問題もなく彼を支えた。
「魔法って、人の性格が出やすいんだよね」
セヴィアンは箒に座ったまま呟いた。
「僕、偉そうにしてる人は嫌いなんだ――」
不遜に脚を組んだ途端、箒は彼の下をすり抜けた。
セヴィアンは自分の住まいがアリアから見て〈変〉であることを重々承知していて、家の中を案内することに時間を割いてくれた。アリアは、これほど間近に魔法を経験したことはなかった――セヴィアンはアリアを驚かせたり感心させたりして彼女を楽しませ、それを見て彼自身も楽しんでいるようだった。
それ以外の時間、たとえばふたりと一匹と一羽が居間に集まっているようなとき、彼はひたすらに机へ向かっていた。細かな音がするときは、字を書いているとき。定規を持ち出して長い線を引いているときは、設計しているとき。大抵このどちらかだったが、書きものと設計との合い間に厚紙の帳面に向かっているときもあり、このとき彼が何を描いているのかはアリアには分からなかった。画材もまちまちで、その上何かを仕上げたらしい素振りのあとすぐ帳面を閉じてしまったり本の上に投げたりするので、細かな設計に入る前のスケッチをしていて、それがあまりうまくいっていないのだろうとアリアは勝手に思うことにした。
また、調子が悪いみたいだ。セヴィアンはいつもと同じように厚紙に向かっていたが、やがて帳面を閉じてため息をついた。アリアがセヴィアンの横顔を見るともなしに見ていると、ふと彼がこちらを向いた。
「君も何か描くかい」
「絵は苦手なの」
ロッティはアリアの膝に埋もれている。アビゲールはアリアの髪の艶と自分の羽根の輝きを比べている。セヴィアンはアリアを放っておくことに気が咎めて声をかけてくれたのだろうに、放っておかれたのは自分の方だったと初めて気がついたようで、みんなのいる長椅子に寄ってきた。
「僕も少し休憩するよ」
セヴィアンが机を離れたとき、窓の外に大きな影が現れた。中庭に面した二階の窓に郵便局の飛行艇が横づけしたのだ。青いリボンを巻いた制帽の局員が、窓ガラスをこつこつ叩いた。
「ウォーメルさん、郵便ですよ」
セヴィアンが窓を開けると、飛行艇についている風車のような鉄の羽根が町の風をばらばらに部屋へ送り込んできた。丸い窓がはめられたその外観は魚にそっくりだ。アリアがセヴィアンの横から顔を出すと、運転席の局員は金属のチョウチンアンコウの鼻先についたカンテラを下げて彼女に挨拶した。
「ペーシェ君の調子はどうですか」
セヴィアンが手紙の束を受け取りがてらに聞くと、局員は接客用のもの言いをとっぱらった。欠けた前歯が唇の影から見えるのがあどけない。
「いやあ、おさかな、おさかなってお子さんに大人気です。他の地区でも自転車をやめようかってくらい評判で」
「それはよかった」
言いながら、セヴィアンが目でアンコウのカンテラから尾にある鉄の鱗までをすうっとなぞったのにアリアは気づいた。歯車ひとつの不調さえ見逃すまいとする目、――ある意味ではこれ以上ないくらいの冷たい目だった。
セヴィアンは明るい茶色の目をしている。オレンジに近い色だ。そこだけ明かりがぽっと灯ったような、ランタンみたいな瞳が見せたほんのわずかな鋭いまなざしは、彼に出会って間もないアリアにセヴィアンのことをひとつ教えた。
彼は自分の仕事に対してとても張りつめている。
「今度整備に伺いますね」
セヴィアンは親しげなほほえみを引っ張ってくるのも得意らしかった。ペーシェ君に不調は認められなかったらしい。
アンコウは水の中と変わりなく空を泳いで飛び去った。
「先生から返事が来たよ」
セヴィアンは結局、ラーゴ先生宛の手紙を郵便局から速達で出していた。セヴィアンは封の端を千切り、綺麗な封蝋だろ、と言って封筒をアリアによこした。銀色の封蝋は、星のついた杖にフクロウとりんごを組み合わせた美しいものだった。その下に、縦に長い字で差し出し人の名がある。
『北の森 国立魔法院 アルジェント・ラーゴ』
「いつでもおいでと書いてある」
ラーゴ先生の返信はあっさりとしたものだったらしく、セヴィアンは一枚きりの便箋を何度もひっくり返した。
「積もる話があるのさ。久々に連絡したからね」
文面は金の麦の穂の賛から詩的に始まっていた。その時節の挨拶が半分近くを占めている。そしてセヴィアンの言うように、本来の用件が二行ほどでまとまっていた。
君たちの都合のよいときに、いつでも訪ねていらっしゃい。
「長く話をしたいときは本人に会って――っていう先生だから。だらだら文章を書きたがらない人なんだ。詩人だからね」
出発は二日後と決まった。国立魔法院は、国の北の果ての森に建っているというのは有名な話だ。気軽な日帰り旅行というわけにはいかなそうだった。
「ここから出かけていくことを考えると、飛行艇でも一日仕事だね」
飛行艇か、汽車か、それとも馬車かという問いにアリアが飛行艇と答えたので、セヴィアンはいそいそと工具箱を持ち出してきた。
「飛行艇を飛ばしてくれる専門の業者がいるんだ。職人組合と提携しててね……僕も仲のいい人がいるから、整備がてらかけ合ってこよう。君も出かけられるように準備しておいてね」
「それじゃあ、わたしもお買いものに行ってくるわ」
アリアはセヴィアンと一緒に町へ出て、途中で彼と別れた。ロッティとアビゲールが一緒についてきた。カレン・トーラントは白い石畳が続く町だ。馬車の
柔らかに焼けたパンと、穴の開いたチーズと、量り売りの鶏肉と、少しの野菜、それにオレンジとりんごとチョコレートが、みんな同じ店で買えた。職人が多いこの町の住人は食事を片手間に済ましがちなのか、パン屋がやけに多い。一軒の前でロッティがてこでも動かないという姿勢を見せたので、アリアは籠に甘いパンを追加した。
訪ねた店や立ち並ぶ工房の壁にはアルモニアの公演ポスターがたくさん張り出されていた。主演の代役を立てることが決まったので、予定から二週間遅れで次の公演がはじまる――というようなことが朱書きで書き足されている。海の上の劇場を遠目に見遣ると歌劇団の馬車は確かにまだそこにあったが、友人たちはひとりも姿を現さなかった――。
「失礼、お嬢さん」
劇場から目を背け、どこへ行くでもなく歩き出そうとしたとき、アリアは陽気な声に呼び止められた。黒い耳をひょこひょこ揺らして横を歩いていたロッティが足を止めて、アリアの前へ進み出た。
前の路地から小柄な男が踊るような足取りで現れ、さりげなくアリアの行く手を塞いだ。脱いだシルクハットを手に、品のあるお辞儀をしてみせる。白髪ひとつない髪はぺたりと撫でつけられ、口元の髭も油で形を整えているようだった。
実に優雅な紳士らしい男だったが、アリアは後ずさった。見苦しいところはないのだが、どこか胡散臭い。
「セヴィー! 」
ロッティが一目散に駆け出した。アリアとアビゲールは後について行き損ねて取り残されてしまった。男はのんびりと言った。
「誰が来ようが構わんよ。少し話をしたいだけだから」
「あなたは? 」
「わたしはマルチノ。マルチノ・フリアーニだ」
マルチノはアリアがアビゲールの通訳を介していることに少し驚いた顔をした。それは事の意外さにというよりも、疑いが確信へ変わったという類の驚きであるらしかった。
「それでは、本当だったのだね。歌姫が急病という……いや」
アリアの気持ちを傷つけることを恐れるみたいに、彼は言葉を引っ込めた。そして気を取り直すように肩をすくめると、白手袋をした丸っこい手の中にどこからか薔薇を取り出した。棘はきちんと取れていた。
「フリアーニさんも魔法をお使いに? 」
ためらったが、アリアは薔薇を受け取った。マルチノは頬をかいた。
「使えないことはないが、わたしは――えー……そう、手品師だ。タネと仕掛けと知恵を使うのが仕事だから……誤解されがちだが、魔法とはあまり重ならない。魔法のように見せることを目指してはいるがね」
そう言う間にも、マルチノの手からは硬貨がばらばらと生まれ、どこかへ消えていく。最後の銀貨が消えたあとで、今度はトランプが一組丸ごと現れた。
「お嬢さん、君は」
マルチノはカードを放り上げて派手に切り、元の通りに手に収めてから裏向きの一番上をアリアに引かせた。ハートのAだった。
「セヴィアン・ウォーメル君の恋人かな? 」
「恋人? 」
「別に不自然なことではない。うむ、実に美しい」
マルチノはアリアの手からトランプを取り、くるりと回して戻した。
タロットの〈塔〉だった。
「これは、突然の衝撃的な出来事を暗示するカードだ。これまで築き上げてきた高い塔も、神の手による落雷の一撃で瞬く間に崩れ去る」
とマルチノが解説した。
「個人的には、美男美女には艱難辛苦がよく映えると思うのだが、どうかね」
「恋人なんかじゃありません」
何か不吉なことを宣告された気がして、アリアは急いでタロットをマルチノに押しつけた。暗い色のカードには雷光が白い塔を撃ち崩す絵が描かれている。魔法がかかっているのだろう、絵は崩れた塔から男が放り出され、木立ちへ消えるところを繰り返していた。絵が動くのはこの国では珍しいことではないが、アリアはこのとき、初めて絵の中の時間に思いを巡らせた――あのひとはこれからもずっと、永遠に塔から落ち続けるんだわ。
「わたしは、患者としてお世話になっているだけです。劇場は……」
危ないかもしれないから、と言いかけて、アリアは慌ててやめた。どんな人か分からないマルチノに、うかつなことは言えない。
「患者? 」
マルチノは訝しげな顔でタロットを引っ込めた。
「彼は魔法医の免許を持っていないはずだが? ……うむ、間違いない。わたしの下調べに誤りがあるはずはない。彼は目が――」
「……この悪党! 」
通りの向こうからセヴィアンが駆けてきた。勢いそのまま、整備道具のスパナをマルチに投げつける。マルチノは朗らかに笑いながら酒場の二階の手すりへ飛び上がった。
「まあまあ、そう怒りなさんな」
「またあんたか! 〈夕焼け〉ならありませんよ! 」
セヴィアンは彼らしい冷静さを欠いて肩を怒らせて叫び、マルチノがいる辺りを指差した。途端に近くに置かれていた植木鉢のサボテンが棘を矢のように吐き出したので、酒場の二階でくつろいでいた客がグラスを持って逃げ出した。
「怒りは集中を乱す」
マルチノは上着に刺さった棘を真面目に抜き取りながらしゃあしゃあと言った。
「他人を巻きこんじゃいかんだろう」
「あんたがうちに忍びこんでくるせいで、窓まで消しとかないと出かけられないんですからね! 」
「おお、あれはわたしのためのもてなしだったわけか。いやいや、前に中にお邪魔したときに鍋やら食器やら包丁やらに襲われたのにも困ったが、君、あの施錠はやりすぎだね。東方に、トーフという豆料理があるのを知っているかね? まさにあんなふうだね、君の家は」
「こらあ! 」
今度は黒い自転車が通行人を蹴散らして突っ込んできた。運転手は降りる時間ももどかしいというように乱暴に愛車を横倒しにすると、腰から警棒を抜いてマルチノに突きつけた。
「マルチノ・フリアーニ! もろもろの窃盗、家宅侵入、魔法悪用その他の容疑で逮捕する! 」
「これはいけない」
マルチノは体裁上そう呟いたのだということがアリアには分かった。彼はまったく慌てた素振りもなく、酒場の屋根へひらりと飛び上がってたちまち姿を消した。
「また会おう、美しいお嬢さん! 君もね、ウォーメル君」
「くそっ、また逃げられた……もう何枚、あいつのために始末書を書いたか分かりゃしねえよ、まったく」
警官は自転車を起こしてセヴィアンとアリアに愚痴をこぼした。ぶっきらぼうな口の利き方が、どことなくオルゴール屋のフランコに似ていた。
セヴィアンはスパナを拾ってきて、渋い顔をした。
「ピッケさん、早くあれ捕まえてよ。僕んちだけじゃなくて、フランコさんのところにも被害が出てるんだ」
「本当か。兄貴はおまえみたいに戸ごと消しちまうなんてできないからなあ……」
ピッケは溜め息をついて警棒で肩をほぐしたが、ふとアリアを見つめた。
「――まさか、とうとう人間をさらおうとしたんじゃないだろうな」
「そうなのかい? 何かおかしなことされた? 」
「いいえ」
セヴィアンに肩を掴まれ、アリアは慌てて首を振った。確かにマルチノは怪しげではあったけれど、ピッケが並べた罪状に見合うほど悪い人には見えなかった。
「あなたの……あなたとどういう関係か聞かれただけ」
「目聡いなあ」
セヴィアンはマルチノが消えた方から落ちてきた薔薇の花びらを忌々しげに払いのけたが、深く尋ねてくることはなかった。アリアはほっとした。恋人と間違われたなんて、本人に言えるわけがない。笑い飛ばされるのも、真剣に聞かれるのも、同じくらい恥ずかしいと思った。
「あいつはコソ泥なんだよ。怪盗なんて、気取ってやがるがな」
ピッケの口は悪くなるばかりだ。あら、手品師だって言っていたのに。アリアは改めてマルチノの去った方を見てしまった。
「絶対ふんじばって、いつかブタ箱に……」
「ピッケさん、僕だけが聞いてるんじゃないんだから」
セヴィアンがやんわりと咎めた。ピッケはアリアを見て、恥じらいのためにやや赤くなった。
「すまねえな。その……学がないもんで」
「セヴィアンの家が狙われているんですか? 」
どうりで、おかしな家だったわけだ。セヴィアンは苦笑いした。
「僕の家族は魔法使いが多くてね。じいちゃんが作った魔法の石が欲しいんだよ、あのフリアーニさんは。僕のところにはないっていうのに」
「そうなの……」
「だって、僕もそれを探してるんだからね。ちっとも見つからないけど」
そのとき、セヴィアンのところからピッケを呼びに行かされたらしいかわいそうなロッティがよれよれになって戻ってきて、ヒイヒイ息をしながらごろりと石畳に転がった。抱き上げようとしたセヴィアンの軍手は油じみだらけだったので、ロッティは鼻に皺を寄せてアリアに擦り寄った。
セヴィアンが整備をしに行っていたドックは港の近くにあった。旅行に出かける一家が船倉に荷物を積み込み、揚々と乗り込む様子が見える。客船も出ているようだったが、風が頼みの気ままで危険な旅を好まない人々は飛行艇を便利に使っているのだった。
「全部、あなたが作ったの? 」
「設計者はもうひとりかふたりいるよ」
セヴィアンはドック中で一番大きな艇――美しい汽車の形――の車輪に油を注しながらトビウオを指差した。
「そのトビウオは僕の設計じゃない。それを作ったのは小型の艇専門の設計者でね、職人組合の中に取り決めがあるんだよ。――さあ、これが僕らの艇だよ」
セヴィアンは汚れた軍手をまとめて工具箱に押し込み、客車の中へアリアを誘った。中の造りはやはり豪華な汽車とほとんど変わらなく見えた。しかし外観から想像できるよりずっと広い空間が艇には収まっていて(多分何か魔法がかかっているのだろうとアリアは思った)、運転室と個室がふたつ、簡単な風呂場に台所が、みんな別々に分かれていた。
中でも、天井の仕掛けは感動的だった。天井は部屋で区切られていたが、一面にひと続きの空が映っていた。狭い中で長い時間を過ごすのだから、神経をむやみに傷めつけないためには広々とした空間を感じられた方がいい、というのがセヴィアンの持論なのだった。
運転席には船についているものに似た舵輪がつけられていた。前を見るための窓はなかった。必要ないのだ――天井があってないのと同じように、運転手からは前方と左右の壁が見えない造りになっていた。
「あの空は必ずしも実景じゃないけど、これは完全に外の景色と同じさ。……おや、この艇、塗装が剥げているよ」
セヴィアンはドックで隣り合っている艇を指差した。外が見えすぎて、心許ないくらいだ。本当は壁などないのではないかとアリアは疑ったが、セヴィアンの指はあるところでちゃんと何かに突き当たり、こつんという音までした。アビゲールはその辺りを飛んでいたが、やはり突然見えない何かにぶつかってぷりぷり文句を言った。
「ここに壁があるのね」
アリアがぺたりと掌に押し当てると、確かに壁紙のような手触りがある。どうなっているのだろう? アリアは好奇心から壁をなぞった。見れば見るほど不思議だ。見えないものに触れるというのは、頭で考える以上におかしな体験だった。
だが本当に不思議なことが起こったのはここからだった。アリアが手を退けると、アリアが触ったところだけが不透明になった――本来の姿に戻り、壁紙が見えるようになったのだ。品のある小花柄の手形が、空中にぽっかり浮いている。
「僕の魔法が……」
セヴィアンは知らず口を半開きにして、アリアの手の跡にまじまじと見入った。それがあんまり間の抜けた顔なので(なにしろアリアの手形を嗅いでいるロッティにそっくりだったのだ)、アリアは思わず彼の肩をつついた。
「あなたがやったんでしょう? 」
しかし……
「僕は何もしてないよ」
誓うよ、とセヴィアンは言い添えた。
「君がやったんだ」
「まさか」
「本当さ」
セヴィアンは手形に掌を重ねて魔法をかけなおした。
「言ったろう、素質があるって。気がついてないだけで、もともと誰でも開発できる類の力なんだよ、魔法っていうのは……見えない壁に対する君の好奇心が、僕の魔法より強かったんだ」
なかなかいい壁紙だっただろう、とセヴィアンは楽しげな口振りで言った。例の、飛行艇に不具合がないかを調べ上げている目が、アリアを見つめている。彼は自分では、それがどんなまなざしなのか知らないに違いない。あんなに鏡をたくさん持っているくせに、とアリアは身震いした。怖いというわけではない、美しい彼の目は、アリアの思っていることをみんな見抜いてしまいそうだったのだ。
「歌と呪文は似ている。どっちも、声と言葉の芸術だ」
独り言だろうかという声量で、セヴィアンは呟いた。
「とすると、歌の上手な君には、特別な魔法の才能があったってちっともおかしなことじゃない。……アリア、この壁には、少し強めに魔法をかけてあるんだ。飛んでいる最中に何かの拍子に急に周りが見えなくなったら危ないだろう? でも君はそれを解いた。ものの二秒でね」
「魔法だなんて、使おうと思ったこともないのよ……」
アリアは手形をつけてしまったところを触ろうとして、手を引っ込めた。セヴィアンはアリアが魔法を使ったと言うが、もしそうだとしてもそれはたまたまのことで、また手形をつけてしまったらアリアには元に戻せないのだ。
「セヴィーのお父さんは生まれてからずっと魔法が使えなかったんだけど、あるとき急に使えるようになったのよ」
とアビゲールが言った。
「生まれたばかりの子どもの上に、スープをこぼしそうになって……フィリがそのとき咄嗟に、そうと知らないで魔法をかけたおかげで、セヴィーは今無事なわけ。どんなことだってそうじゃない。今までがどうだったかなんて、ホントは関係ないのよ」
「ええ、でも……」
アリアは言いよどんだ。セヴィアンは舵輪をきちんと回せるかどうかを確かめながら、思いやり深く言った。
「まあ、人は必ずしも自分の生まれ持ったものを好むとは限らないさ」
揃ってドックから出たとき、四時の鐘が鳴りだした。浅い秋の、海辺の風は生ぬるい。
セヴィアンがライラック色の空を指差した。
「もう星が出てる」
「どこ? 」
アリアは彼の指の指す先を目で追っていったが、白く細い月影の他には何も見えなかった。アリアはあちこち探したが、見えない星よりも素晴らしいものがじきに彼女の心を奪ってしまった。
路地から出て視界が海に向かって開けたとき、七色の空が見えた。快晴の空が暮れかけて、雲が緋色に燃え立つようだ。金色の光が交わるところには緑があり、翳ったところには深い青があり、その中に、セヴィアンが言ったものとは違う方角だったけれど、アリアも小さな星を見つけた。セヴィアンがアリアの見つけた星を指差した。
「あの星、そばにもうひとつ星があるよ。……あ、流れた」
「あなた、目がいいのね」
流れ星も見えなかったアリアは感嘆した。セヴィアンはちらりとはにかみ笑いを浮かべた。十八歳の青年にふさわしい表情だった。
「――時計台へ行ってみようか? そこから見る夕焼けがきれいだってフランコさんが言ってた」
時計台の足元にはピッケがいて、ふたりを見ると手を上げて挨拶した。
「よお、また会ったなおふたりさん。夕焼けを見るなら、足元が暗いから気をつけろよ」
セヴィアンは時計台に入りざま、振り向いてピッケに言った。
「明後日から少し家を留守にするんだ。留守番がいるから窓と門をつけたまま行きたいんだけど、警備を頼めないかな」
「そうか、それじゃ、誰かに重点的に巡回してくれるように頼んでやる。悪いが、おれはちょうど明後日から劇場警備に異動になったんだ。半年ばかりな」
マルチノを取り逃がしたことへの処分がさっそく下されたのだろう。しかし、ピッケはなぜかほくほくしている様子だった。兄と同じように彼も歌劇が好きなのだろう。
「あの怪盗野郎を追えねえのは残念だが、歌劇を見るだけ見て給料が出るなんてうまい話だよ」
「今、劇場で何をやっているんですか」
アリアは聞いた。ピッケは優しく言った。
「アルモニアの連中は、別の歌劇に役をもらって出ているよ。町主催のやつなんかは、素人ばかりだから喜ばれてな。『デルトーレの賢女』は、来週一度代役を立ててやるってポスターにも書いてあるぜ。……お嬢さんの飲んだお茶の件は魔法医のグラニータ先生が調べているんだが、まだはっきりしたことは分からないみたいだ」
アリアとセヴィアンはピッケと別れて階段を上がりきり、カレン・トーラントの町を見下ろした。町をふたつの区に分けている川に夕陽の光が散らばり、暗がりの増えた町でそこだけが眩しい。
少し冷える日だったからか、観光客もいない。ふたりの声はお互いにとってよく聞こえた。
「なんだか不思議ね。一週間も経っていないのに、あの劇場でディーナと練習したのがもうずいぶん前のことみたいだわ」
「寂しいかい」
「寂しい……寂しさなら、もうずっとよ」
アリアは自分の心を持て余した。一から話してみようという気になった。セヴィアンなら、きっと最後まで聞いてくれるだろうから。
「アルモニアは最初ふたりきりの一座だったの。わたしと団長の、ふたりきりよ。今年で、やっと十年……」
「へえ」
セヴィアンはもたれていた壁から背を離した。
「それは知らなかったな」
「今じゃあんなにたくさん人がいるけど、昔はたったふたりでいろんな町を旅していたの。少し病気がちだったのに、おかげですっかり丈夫になったわ」
「ちょっと荒療治じゃないかなあ……」
セヴィアンは賛成できないという顔をした。アリアはそうね、と認めたが、優しい義父との旅回りは美しい思い出であるだけでなく、彼女にとってかけがえのない体験として心に残っていた。
「熱を出して舞台に出られなくなったとき、お客さんが怒ってきたことがあったの……わたしは寝込んでいたからお目にかかってはいないけど、大きな声を出していたから聞こえてしまったのよ。そのとき、団長が言ったの。気に病んではいけない、君はいつも本当に頑張っているから、今は〈お休み〉をもらったんだと思っていいんだよって。本当に君の歌を愛している人なら、君に無理をさせることは決してないからって……」
「エドウィン団長は、本当にお父さんみたいな人なんだね。君は、そういう教えをたくさん受け取ってきたわけだ」
「そうね」
アリアはカレン・トーラントの町を見つめた。夕陽はだんだんとくすんでいって、潤んだような光へ変わっていく。町中に明かりが入り、酒場でアコーディオンの演奏がはじまった。アビゲールの羽根は真っ赤な光の塊のようにきらきら輝き、ロッティはセヴィアンに抱き上げられて丸い目を細めた。
手を前にいっぱいに伸ばすと、夕陽の残光が温かいような気がした。声が伸びるようにと、こうして練習するのだ。そのままいつものように声が出せそうな感覚に陥ったが、やはりそれはアビゲールの助けなしには出せない声だった。
「今度のことがあって、そのときのことを思い出したわ。ちょうどまた、そんな時期が来たのかもしれないって……〈お休み〉がね」
セヴィアンはひっそりと笑い声を立てた。
「なら、君は今もちゃんと羽根を伸ばしてるんだろうね? 」
「そうね……いつも歌の練習ばかりしているから。ずっと小さい頃、歌手になる前はどんなふうに過ごしていたかしらって、懐かしいことを思い出したりするの……」
本当は、過去を思い出しているだけではなかった。これからのことが常に頭の一隅を占め、〈もし喉が治らなかったら〉という問いかけが、答えの出ないままぐるぐると渦巻き続けていた。セヴィアンに打ち明けられたら楽になるかもしれないと思ったが、アリアのために力を貸してくれている彼に
「喉が治らなかったらどうしよう」
などと気持ちのまま不安をこぼすのは失礼なことだと思った。
セヴィアンは黙って聞いていたが、やがて柔らかく言った。
「やっぱり君も、絵を描いてみたらどうかな? 」
「あら、どうして? 」
「芸術や文学は不安から生まれたりするからさ。彼らのすごいところはそこだよ。不安や孤独の中から、信じられないほど美しい姿で生まれてくるんだから」
アリアは驚いて彼を見つめた。セヴィアンは冗談めかして言ってから、ふと優しい目で彼女を見た。
「――君の喉は、治るまで僕が責任を持って見届けるよ。それに、僕の先生はこの国でも指折りの名医なんだ。なんにも心配いらないからね」
セヴィアンの目はやっぱりランタンなんだわ、とアリアは思った。つつましく胸に秘めている想いを、無理やり白日の下にさらしたりはしない。分かった上で心そっと明るくしてくれるランタンなのだ、と。
アリアが黙ってうつむくと、セヴィアンは工具箱から鉛筆と例の帳面を取り出して開いた。そして思いもかけないことをアリアに尋ねた。
「君のこと描いてもいいかい」
アリアはびっくりして顔を背けたが、あまり拒否しているように見える仕草とは言えなかった。
「町を描くんじゃないの! 」
「最高の画題だと思うけどな。君、とても絵になるよ。知らないの? 」
セヴィアンは茶目っ気のある口を利きながら構図を取りはじめた。アリアが断らないのを知っているみたいに。
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