暗がりを渡る
@800_armond
第1話
「人生の夏休み」と言われる大学生活の本当の夏休みが3回過ぎ去って始まった新学期。肌寒くなったかと思えば、相変わらず冷房のリモコンに躊躇なく手を伸ばすほどの季節で、今日も服装には迷いが生じていた。半袖か、長袖か。羽織れるタイプのパーカーは昨夜カフェオレまみれになって今は洗濯機の中だ。選択肢は2つしかない。この手の課題に即決できるような人間ではないことを自分は良く知っていた。もっとも、慣れ親しんだ生活に今日から大きな変化が加わるということが適当な衣類の決定を難しくさせているのかもしれない。
「みんなどんな服着てくるのかもわからないな。」
クローゼットの中の空間に独り言はしみ込んだ。眉間にしわが寄ることを感じつつ、目を瞑って無造作に手を伸ばした。綿の感覚が手に馴染んで目を開ける。白いTシャツの袖は肘より上のものだ。これ以上悩んでいる時間もなく、素早く着替えを済ませては、筆記用具とルーズリーフが数枚入ったトートバックを肩にかけ、ようやく家に鍵を掛けた。
K大学。京都にある私立の大学で、傾斜が激しいが広大な土地にキャンパスが広がっている。知名度はそこそこにあり、難関校とまではいかないまでも人気のある大学で、実際入試自体も楽ではない。特に理系学部は募集人数も少ないため、本番のテストに手ごたえを感じていても結果が出るまではずっと不安な気持ちを持ったまま気が気でない生活を過ごしていた。
それから入学し、大学生活を送っていた。慣れない土地での一人暮らしの辛さはあれど、大学の勉強自体も1回生まではカリキュラムの内容も基礎的な物であったし、真面目に取り組んでいた分もあって詰まるようなところはなかった。しかし、実験実習が始まってからは実験ノート作りや授業後のレポートなどで苦しい生活が続く部分もあって、理系大学生ならではの生活を体感した。それも嵐のように過ぎ去って、大学への道はずいぶんと通い慣れた。
一人暮らしの自分のアパートから大学までは歩いて約10分かからないほどの近さだ。自分の歩く真横を、大きなトラックと自家用車が連続で追い抜いて行った。夏休み前には眩しいほどの緑が歩道の脇に生い茂っていたが、木々はいつの間にか黄色や赤色にわずかに色を変えていた。
草木の色の変化を見て思い出すのは授業の余談で話していた、見えている物質の色は物質が吸収しなかった色ということだった。見えている色は物質そのものの色が見えているように思うが、実は物質が吸収しなかった光が反射し自分たちの網膜まで届く。つまり今見ている植物の緑も、植物が必要としなかった緑の光を見ているというわけだ。
大学での道のりでこんな風に考えてしまうのは、今日から配属される研究室の教授がこの話をしていたからだと思う。
B108教室の手狭な空間には20人には届かないほどの数の人がすでに集まっており、席はまばらに埋まっていた。ドアをくぐれば視線が集まってくるのが分かって、カバンの手持ちに皺が寄る。部屋を見渡せば知らない人の中に見知った姿が見え、そこを目指して視線をかき分け進む。
「おはよ。ヒロキ」
「おはよう。珍しく来るの早いね。」
「さっき授業あったんだよね。」
時間を確認する習慣のない彼が当然のようにここにいることを納得させる理由だ。授業に出席しているのも新学期が始まったばかりだからだろうが。
実験棟にいくつかある研究室の少人数用のセミナー室は、授業で使われることはほとんどなく多くは各研究室の発表の場になっている。今まで実験棟には実験実習で入ることしかなかったが、その時セミナー室の前を通ると、内容までは分からないものの、熱心に発表する人とそれにくぎ付けになったかのように真剣に話を聞く学生の様子がたびたび見られた。自分自身がその一員になるということに少し落ち着かず、そわそわしてしまう。
視線はあちこち泳ぐが、できるだけ周りに座っている人と目を合わせないようにと細心の注意を払った。ここには同じ3回生も4回生や院生に紛れて出席しているはずだが、誰がそうなのかはぱっと見ただけではわからない。学部の中には文系学部に比べれば少ないものの150人はいるのだから当然のように話したこともない人が過半数を占める。それに大学生だと自分から話しかけなければ友達はできにくい状況で、開けっ広げなタイプとは到底言えない自分は、当然交友関係の広さは学生用のマンションのように狭かった。知らない人の中に放り込まれることの不安感や居心地の悪さもあるが、それ以上にこれから仲良くならなくてはいけないという背負う必要のないプレッシャーを感じている。
スマートフォンで時間を確認すると、3限目の開始1分前で、そのとき誰かが教室の後ろの電気を消した。
「じゃあ時間になったので始めますね。」
4限の始まる時間に合わせて教授の声が雑音交じりの教室に響いた。静かになった教室に声は続く。
「後期の授業が始まって一回目のセミナーになりますが、3回生の学生も今日から研究活動に参加していきますので、まずは自己紹介から始めようかと思います。」
プロジェクターのスクリーンの横に立ち、淡々と話しを始めたかと思えばいきなり教授と目が合う。研究室に配属され間もない自分たちに、前に立つよう教授から指示が出された。自己紹介って何言えばいいんだっけ、と頭の中で思考を巡らせている中、隣に座っていた彼はすぐに立ち上がり前方に向かい迷いなく進んでいた。周りを見れば他の人もそそくさと前へ向かっており、自分も急いで席を立つ。何の打ち合わせもないままに自然と横一列が形成され、出遅れたせいで自分は教授の隣。
「はいじゃあ、手前から行きましょう。」
教室に入った時の視線が集まる感覚を再び感じてしまう。心臓が大きく内臓を叩いた。初めて研究室のメンバーが集まってすることなんて決まり切っていたはずなのになぜ準備をしてこなかったのだろうか。
「初めまして、生命科学部3回生の森川弘樹です。よろしくお願いします。」
集まる視線に頭の中はかき乱されて、自己紹介というよりも名を名乗っただけの人間になってしまう。その上言い切ってしまったらさらに言葉を続けることは難しく、沈黙が漂い始めた。拍手なんて到底できない内容に何とも言えない空気感になってしまう。
そこに助け舟を出したのは教授だった。
「何かもうちょっとお願いします。」
助け舟というにはあまりに構造が薄かったが、口を開くきっかけには何とかすることができる。
「何を言えばいいですかね。」
「なんでもいいよ。」
なんでもいいが一番困ると母はよく言うが、全くもってその通りだ。
「あー。えっと、高校からバスケをしていて、大学でも一応サークルに入っています。」
ちらりと教授の方を見るが、完全に続きを待っているような面持ちをしている。これ以上間を開けるのはまずいと思い、どうにでもなれという気持ちでさらに言葉を続けた。
「趣味は読書とか寝ることとか、最近免許を取って友達とドライブに行ったりします。よろしくお願いします。」
無理やりに締める言葉を投げると周りからは拍手が起こる。軽く頭を下げれば浅い呼吸をしていた自分に気づく。大学3回生にもなってこんな自己紹介しかできない自分に情けなさを感じてしまう。手足の先が冷えて、脇の下にじんわりと汗が出る感覚がしたが、山場を早急に超えてしまえば心が少しずつ落ち着いていくのがわかる。薄明るい教室にこれから関わることになる先輩たちがこちらを向いているのをようやく見ることができた。
「ありがとうございます。はいじゃあ次。」
こちらの緊張などつゆ知らず、教授は掌で次を指して、淡々と取り仕切っていく。隣にいるのはこちらも落ち着きのない裕也だった。
「初めまして、生命科学部3回生の小林裕也です。出身は愛知です!中学では野球していて、高校でハンドボールしていました!好きな食べ物は焼き肉です。世紀の大発見目指して頑張ります!よろしくお願いします。」
当の本人はただありのままに自己紹介を行っただけだとは思うが、教室内ではわずかに笑いが起き、彼の明るい挨拶で少し緊張感のあるこの場がずいぶんと和んだ。自分との身長差で少し下に見える彼はずいぶんと頼もしく見える。こういう場が彼は得意そうで人前でも緊張せず堂々と過ごしていられるのはとてつもなく羨ましい。拍手も大きなものだった。
今回研究室に配属になった3回生のことはあまり知らなかった。もちろん配属を決める際に顔を合わせたが普段から仲がいいとはいえず、順番にそれぞれ挨拶をしてどこの出身か、好きな食べ物、動物、スポーツなどを初めて知る。5人目の挨拶が終わり最後の拍手が鳴り止んだ。
「今度は4回生と院生の自己紹介にしましょう。今日は用事でいませんが、森川克己くんという森川くんの親戚の修士2年生がいますね。来週は彼の発表になるので楽しみにしていてください。それでは院生から自己紹介しましょうか。」
座っている先輩たちは互いに顔を見合わせながらは自己紹介の順番を決めている。小突きあって楽しそうに決める彼らに研究室の仲の良さがなんとなく伺えて、それだけで安心できた。
「今日は3回生の皆さんが分属されて、初めてのセミナーになります。なので、改めてこの研究室の研究内容について話していきたいと思います。」
教授は授業のような段取りで、セミナーを取りまとめ始めた。降ろされたスクリーンには接続されたパソコンの映像が映し出される。
「研究の話をする前に2つ言っておくことがあります。」
教授はこちら側に向き直って2本の指を立てた。
「まず一つ目は、疑問に思うことがあればどんどん質問して下さい。」
これは大学に入学してからどの先生もが教える言葉そのものだ。
最近少しずつ動き出している就職活動でも、企業の説明会に行けば最後には必ず「何か質問はありますか。」と聞かれるものだが、その時すら当たり障りのないような質問や他の人が質問するだろうと黙ってみている方だ。授業でも、わからないことがあっても質問をすることはめったにない。
「疑問に思うことが研究への第一歩であり、あなたの興味の入り口です。無理に疑問を出すということは時には練習として必要かもしれません。ですが、それ以上に自然に湧き出た疑問に敏感であってほしいと思いますね。そしてその疑問を追求して考えることです。」
3回生に向けた言葉を掛けるぶん、みんなのことを見ているのだろうが、ちらりとこちらを見た教授と目が合って、少しだけ心を見透かされたような気がする。疑問を持ってそれを追求することは、これまでの自分の姿とはかけ離れたことだ。プロジェクターの光が急に眩しく感じて、メモする場面ではないが手元のペンに視線を移してしまう。そうして耳が痛い言葉を聞きながらも、教授は話を流れるように続けた。
「2つ目は、いっぺんにすべてを理解する必要はありません。というか、そもそも教え切ることはできませんし、今後のセミナーでもわからないことは出てくると思いますが、焦らず、しかし着実に理解できるよう取り組んでください。」
教授は話をすると、自然に整えられているが少しばかり髪が伸びている頭に触れた。
「2つと言いながら同じようなことを言いましたね。まぁ、大事なことは自分で考えることですよ。これからの研究を通して一番重要ですからね。」
やはり勉学を極めた人というのは少しかけ離れた人なのかもしれない。先ほどの2つの話はそこまで同じには感じなかったが、彼の中では1つの話になっていたようだった。
「このことを常に頭に入れながら研究に励むようにしてください。これは3回生に限った話ではなく皆さんに向けた話でもあります。」
周りで少し布がすれて、椅子と机が動く音がした。当事者は自分だけではないらしい。
「前置きはこのくらいにしておきましょうか。」
笑みを含んだ教授はプロジェクターへそそくさと向き直り、スライドを変えた。まるでいつもの講義のような風景だけれど、少し違うように感じるのは、人ごとではなく、これから身をもって体験するようになるからだろうか。
ルーズリーフではなくノートにすればよかったと少し思った。
「さて、では研究の話をするとして、まず考えてみてください。私たちはショウジョウバエをモデルとして研究を行っていますが、なぜショウジョウバエを研究に用いるのかわかりますか?」
この雰囲気は当てられるパターンだろうか。考えるふりをして下を向くのは誰しもがしたことのある行為に違いない。しかし予想は外れて当てられることはないようだった。「当てませんので自分で少し考えてみてください。」と教授が言うとみんな安心してシンキングタイムへと進んだ。
なんだろう。ショウジョウバエを使う理由は。単純に扱いやすいというところだろうか。ラットを使う理由の一つとしてあの特徴的な長いしっぽが理由の一つだということはなんとなく覚えている。少しかわいそうではあるが、ラットのしっぽを掴んで移動させることがあり、そういう意味で扱いやすく研究のモデルになったりもすると言った話を少し聞いたことがあったのだ。もちろんそれだけではなく、繁殖力が強いので個体数を確保しやすい。その点もショウジョウバエに当てはまるだろう。
「皆さん考えましたか?4回生と院生はよくわかっていることかもしれませんが。ショウジョウバエをモデルとして使う理由はいくつかあります。」
「一つは生物に共通した機構を持ちながらも比較的簡単な構造をしていることです。人間と似た構造、違う構造ありますが、基本的に簡単な構造をしていますね。染色体数もヒトは46本の染色体をもっていますが、研究に使っているキイロショウジョウバエは4対の染色体しか持たず人間と比べてかなり少ないです。この点も遺伝学的研究には都合が良いことです。」
手元のルーズリーフにメモを取る。周りからもペンが走る音がかすかに聞こえて自分もそうせずにはいられない同調圧力のようなものが掛かる。あるいは遅れをとらないためかもしれないが、そうしている間にも話はどんどんと進んで箇条書きにして、「遺伝子の情報の豊富さ」と書き込んだ。ショウジョウバエをモデルとした研究は100年以上前から行われており、DNAの塩基配列が全て解読されている。蓄積の多さは研究のしやすさにつながるということらしい。さらにもう一つの研究モデルの理由として、生殖サイクルの速さが挙げられていた。自分の考えもその答えを含んでいたので、当てられても恥をかかずに済んだと心の中でほっとした。
そして始まったのは本格的な研究内容の紹介だった。
普段は英語で発表をするのだろうか、世界の公用語として1番目立つように配置されており、次のページでも使われる単語はほとんどが英語だ。
「この研究室では、ショウジョウバエの脳を用いて神経細胞間、すなわちシナプス間隙に局在するタンパク質や、受容体の研究を行っています。」
頭の中でこれまで学んできたシナプスに関する情報が浮かんでくる。神経細胞は星形で複数の樹状突起をもつ細胞体とそこから伸びた一本の軸索からなる。神経細胞が無数に連なった回路の中で信号は伝わる。神経細胞内では電気信号を通して情報を伝えるが、神経細胞の間では軸索末端からの神経伝達物質の分泌を通して信号が伝わる。軸索末端は次の神経細胞の樹状突起に隣接しており、その接続部のことをシナプスと呼び、シナプスの隙間のことをシナプス間隙と呼ぶ。
スクリーンに表示された次のスライドにはまさにそのシナプス間隙についての模式図が描かれていた。
「こちらがシナプス間隙の模式図で上がシナプス前部、下が後部ですね。」
赤いポインターの光が”Presynapse”の文字を何度か回る。その光はそのまま降りて“Hig”の文字を今度は指した。
「脳の神経のシナプス間隙に局在する分泌性のタンパク質のHigですね。これがニコチン性アセチルコリン受容体と結合する物質になります。このHigタンパク質を中心にこの研究室では研究を行っています。」
急に専門的な用語が飛び出してノートにはメモ程度に単語がいくつも連なるだけで到底追いつきはしない。
「このHigタンパク質を合成できないようにしたhig変異体では、大きな特徴として活動性が低下し寿命が短くなります。Higの名前の由来はHikaru Genkiと言いますが、光をhig変異体に当てると活動性が上がるという点からHikaru Genki と名付けられています。」
「活動性の低い突然変異体を調べ、その原因となる遺伝子を特定した結果、hig遺伝子が活動性の低下を引き起こす原因遺伝子であることがわかりました。そこから研究室では、Higタンパク質がシナプス間隙の中でどのように作用し、活動性の低下を引き起こしているのかを調べており、最終的にはシナプス間隙を含めたシナプスの作動機構を明らかにすべく研究をしています。」
「そしてHigタンパク質の他に、シナプス間隙にはHigタンパク質と相互作用するアセチルコリン受容体とHaspが存在し、またHaspと相互作用するSclampと呼ばれるタンパク質も存在しています。これらの役者が働いて機能的なシナプス間隙を作っているのです。」
ここから怒涛の講義が始まる。ノートをとる文字が段々と瓦解していく。その瓦礫はレールを無視してはみ出している。
「まずはアセチルコリン受容体ですね。この受容体は5つのサブユニットからなる5量体、すなわち5つのタンパク質が集まり一つの機能的な受容体をつくっています。このサブユニットは10種類あり、そのうちHigタンパク質はDα5とDα7に結合することが分かっており、特にDα5とHigは局在量を相互的に制御し合っています。hig変異体ではDα5は減少し、Dα5変異体ではHigが減少するということですね。」
局在とは局所に存在しているという意味でよさそうだ。
「次に、Hasp、Sclampという2つのタンパク質です。Haspタンパク質はHigと同じく分泌性のタンパク質でシナプス間隙に局在していますが、HigとHaspはそれぞれがナノコンパートメントを形成していることが分かっています。」
スクリーンにはハエの脳を染色されたものが映し出されていた。6つの脳が映し出されており上段3つが黄緑色、下段が赤紫に蛍光を発している。
「このHaspタンパク質は受容体とは違って一方的にHigの局在量を制御しており、hig変異体ではHaspはなくなりませんが、hasp変異体ではHigはシナプス間隙に局在することができなくなります。」
調べられたショウジョウバエの脳は、野生型とhig変異体、hasp変異体だ。上段はHigを染色したもので、下段はHaspを染色したものだった。もちろん、hig変異体の脳ではHigの蛍光が消えている。そして下段のHaspを染色したものでは、hasp変異体と共にhig変異体の蛍光が消えていることがよくわかった。なるほど、Haspが無くなればHigも無くなるということか。教授の言っていることが理解できてきた。
「そして、このHaspタンパク質の局在を制御するタンパク質もわかっています。それがSclampです。Sclampは分泌性のタンパク質ではなく膜貫通型のタンパク質で、その機能を示す局在場所はわかっていませんが、シナプス前部、後部、もしくはグリア細胞に存在していると考えられています。」
「Sclampは現在大学院生の人が研究をしてくれていて、SclampはHaspの局在を制御していることは明確ですが、Dα5とHigのように互いに局在制御をしているのかは現在実験中です。」
「Hig、Hasp、Sclampの局在制御について現在2つの大きな謎があります。」
マイクを握りなおす教授はスライドからこちらに向き直る。
「一つはHigとHaspの不規則なナノコンパートメントの形成です。」
画面は黄緑と赤色に染色されたクリスマスのリースのように見える。もちろんそんなはずはなく、画像は染色したHigとHaspの蛍光だった。見れば、1つのHigに対して複数のHaspが面しているのが分かる。
「Haspは共免疫沈降という方法を行い発見されました。共免疫沈降法は目的のタンパク質に対する抗体を用いて、目的のタンパク質とそのタンパク質の複合体を取り出す方法です。ですからHigとHaspは複合体を形成していることは分かっていました。しかし、HigとHaspは1対1ではなく不規則にコンパートメント形成をしているのです。どうしてこのようなコンパートメント形成を行っているのかはまだわかっていない点です。」
「もう一つはSclamp変異体でのHigタンパク質の局在です。HigはHaspによって局在制御されていますが、そのHaspはSclampによって局在制御されています。このことから、Sclamp変異体であれば、Haspが局在できなくなり、Higも局在できなくなると思われます。しかし、Sclamp変異体において、Haspは局在できなくなるもののHigが局在しています。この点も大きな謎であり、これからの研究で明らかにしていきたい部分ですね。」
教授の講義は続いた。
必死でメモをとり続けたセミナーだった。先輩の一人が近くに寄ってきて、息つく間もなく身構えてしまう。
「3回生の人に席を案内するね。改めて、4回生の最上です。」
黒縁の眼鏡に、薄い水色のカーディガンを羽織っている先輩は見るからに優しそうで硬直した背筋も緊張を解いた。
「知っていると思うけど、ここが研究室です。席は空いているところが3回生の席だよ。荷物置いたらまた集まってね。」
研究室を決める際にいくつかの研究室を訪れていたため、それぞれある程度の設備は知っていた。長い棚と机を兼ねており、向かい合わせに座るような形だ。と言っても前は大きなパソコンのモニターで埋め尽くされていて、わずかな隙間からしか向かいの様子は見えない。割り振られた席に荷物を置くと隣は最上さんの席だった。
「先輩と隣り合わせになるよう決められてるの。院生の方が決めてくれたのよ。何でも話してね。」
確かに先輩が隣にいたほうが、色々と聞きやすいだろう。キャスターの椅子を軽く引いて荷物を置き、研究室の入り口の方へと戻った。
「さっき先生から説明があった危険な薬品を管理している棚と、これが記録。あと、こっちがハエの餌を作るところね。作るのは当番制で、来週から順番に作るからその時に作り方は教えます。」
見渡せば、実験に使うであろう薬品が置かれてあり、その使用履歴を確認するファイルがぶら下がっていた。反対側には、コンロが2つ置かれた台があった。下には元栓がある。
「何か質問あったりする?」
そこで手を挙げたのは裕也だった。
「研究室はどのくらいの頻度で行けばいいですか?」
教授には直接しづらい質問だろう。
「そりゃ来れる分だけ来た方がいいと思うけど、毎週のセミナーと合同セミナーは出ないとね。特に研究室のセミナーは絶対だね。一応単位でもあるから。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「他にはなさそうかな。じゃあみんなついてきて。」
「ここがハエ部屋。」
案内されたのは聞き馴染みがあまりない部屋だった。そこには授業として、また、研究室を選ぶ際に訪問したことがあり、何度か立ち入ったことがあった。扉を開けると発酵食品のような匂いが空気に混じる。そもそもこの研究室棟自体少し変わった匂いがするけれど。
扉の奥には両腕幅の中身が見える冷蔵庫のような物が二つおいてあり、その奥にはまた引き戸があってさらに部屋が見える。冷蔵庫の中は全ては見えないが、中にはショウジョウバエがいることを知っている。
「遺伝子を組換えたハエが逃げないように、この部屋は二重扉になっているんだ。」
一つ上の最上さんは足元のスリッパに素早く履き替えている。粘着テープの上に置かれたスリッパを履いて足を持ち上げれば、バリバリと音を立てて底がはがれた。あの嫌われ者の虫を捕まえるための道具を少しだけ想像してしまう。この粘着テープはゴミをもちこまないための工夫だ。先輩と同じようにスリッパに履き替え、奥の部屋に進む。扉の開閉を最小限にするように気を遣う。
二重扉の奥には机と椅子、顕微鏡が何台か置いてあって、机や壁に積まれたマス目状の銀色のラックにはおそらく先ほどの冷蔵庫に保管されていたと同じであろうプラスチック製のチューブがびっしりと立てられている。試験管を一回り太くした円柱状の透明容器の下の方にはクリーム色のエサが入れられ、その上には大量のショウジョウバエがいて、背筋に何かが触れたような気がする。先輩はラックを棚から取り上げる。マス目は5×10のケースでいっぱいに容器が立てられていた。
「これがバイアルって言います。」
先輩はケースから一本取り出して見せた。
「うわぁ。」
心の声を漏らしたのは裕也だ。確かに。気持ちはわかる。先輩はもうきっと見慣れてしまっているだろうが、初めて見るとなればなかなかショッキングだ。遠目で見ているよりもずっとグロテスクで、バイアルの中で動き回るハエは法則性を持たず自由に飛び回っていて、静止していたとしても数えられそうもない。
自分自身、虫は苦手ではないがわざわざハエを好きになるほど変わっているという自覚もない。当然顔は不快感を表しているだろう。
「初めて見ると気持ち悪いよね。まぁすぐになれるよ。今からエサ替えの仕方教えるし。」
先輩はさっそく椅子に座り、備え付けの机にバイアルを置いた。
「基本的に同じ遺伝子型を持った系統が2列ずつあって、片方が全滅しても片方が生き残ってその系統のハエが無くならないようにしている。」
机に半透明のシリコン製の分厚いパットとハエのいない餌のみが入った替えのバイアルを取り出し、そのバイアルに今日の日付を書く。
「列の初めのバイアルだけ書いておけばその列はいつ変えたかわかるから。大体交換頻度は18℃のインキュベーターの方だと1ヶ月から1ヶ月半で換えるのが良くて、室温保存だと1ヶ月以内に換えたほうがいいね。」
日付の書かれた新しいバイアルからスポンジ栓をとって静かに置くと、もう片方のハエの入ったバイアルをシリコンパッドに軽く底をうちつける。
「こうやってハエを底に落として蓋を開ければハエが逃げないから、その間に新しいのをかぶせてひっくり返す。」
砂時計で時間を測り始めるときのように、口で繋がった2つのバイアルをひっくり返すとハエがきれいなバイアルに落ちる。そのまま再びトントンとシリコンパッドに打ちつけると元の方にいたハエのほとんどが移される。そしてハエが外に逃げないうちに再び栓をして、系統が記載されたビニールテープを張り替え、これで終わりとマス目の元居た場所に戻される。古いほうのバイアルは段ボール製のゴミ箱に入れられる。中身がいっぱいになれば、箱ごと2日以上冷凍してその後に業者によって処分されるようだった。
「じゃあとりあえず3回生で餌替えの分担決めて、今日やりたい人はやったらいいし、また別の日やってくれてもいいよ。」
二重扉を再び出て、最初に見たインキュベーターのどれかを分担するらしい。ブロックごとに管理するようだが、そのブロックごとのバイアルの量は明らかに不均等だった。こういう時はもちろんじゃんけんで決めるのだが、そう言い出したのは裕也で言い出した人が負けるというのはよくあることだ。彼を気の毒に思いながらも1番量が少なそうなブロックを選び、せっかくなので餌替えをしてから帰ることにした。
先ほど見たようにバイアルの交換を進めようとする。しかし自分で手にもって間近で見てみるとさらに不快感を増している。普段見ることがない大量のハエが狭いスペースを飛び回る。新しいバイアルであればきれいな餌も食われ、雨後の土のようにドロドロしている。薄黄色い幼虫は動き回り、褐色の蛹は壁にへばりついている。怖いもの見たさで、気持ち悪いと思っているのに見てしまう。
先ほど教えてもらった通りに交換を始めていく。
「うわ逃げた!!」
早速やらかしたのは裕也だった。栓を閉めるのが間に合わず3、4匹の粒が飛翔して、そこまで近くにいたわけでもないのに私の身体は反射的に仰け反った。初手から見事に逃げていったが、逃げていくハエの末路は同じ机の上に置かれていた。よく見る大きめのビンの中には蓋の代わりに漏斗がおいてあり、ビンの中身は透明の液体とそこに溜まった無数の粒があった。
ようやく終わったころには1時間が過ぎていた。インキュベーターにハエを戻し、ハエ部屋を後にする。自分の衣服を軽く払ってから外に出た。
割り当てられた自分の机に戻って荷物を握りしめる。これからここで研究を行っていかなくてはならない。今日のセミナーで、教授は今日ですべてを理解する必要はないと言っていたが、理解できない部分も知らないことが大半だ。研究テーマを決める所がまずはスタートだが、これから研究を進めていけばそれもわかるようになるのだろうか。先はまるで見えそうに無い。漠然とした不安を抱きながらもようやく帰路についた。
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