七話

 昼を過ぎた午後、書類整理を始めようかと立ったあたしにリベカさんが声をかけてきた。


「ミリアム、ちょっとお使い頼まれてくれる?」


「はい、何ですか?」


「ここに書いたもの、買って来てくれないかな」


 渡された小さな紙には、日用品や筆記用具など、細かな品物が書かれてた。


「最近暇な時間が夜しかなくて、それだと店が閉まってるんだよね。代わりに行って来てくれる?」


「お安いご用です。これ全部買って来ればいいんですね」


「うん。それと、お金。これぐらいあれば足りると思うから」


 リベカさんは机の引き出しからお札を数枚取り出してあたしに渡した。……六百リドある。ちょっと多い気もするけど。


「じゃよろしくね」


「はい。行ってきます」


 あたしは紙を手に、お金は買い物かごにしまって出発した。


 明るい空の下、商店の並ぶ通りへ向かいながらあたしは買い物かごの中を見下ろした。これまで仕事は任されたことあるけど、お金を預けられたことはこれが初めてだ。思えば、普段の買い物なんてあたしにやらせればいいことなのに、リベカさんは忙しい中でもずっと自分で行ってた。でもこうして任せてくれたってことは、あたしを信用してくれたって証になるのかな。もしそうならすごく嬉しいな。やっと便利屋セビンケルの一員になれたみたいで。


「最初は、筆記用具から買おうかな……」


 多くの商店が軒を連ねる通りには、あたしと同じような買い物客が行き交ってる。その中に混じって一軒目の店を探す。確かこの近くにペンとか売ってる店があったと思うんだけど――


「きゃっ!」


 ドン、と肩に何かがぶつかったと同時に女性の小さな悲鳴が上がって、あたしは振り向いた。見れば女性はぶつかった衝撃からか、転んでうずくまってた。その周りには女性の荷物なのか、大きな買い物袋と、そこから転がり出てしまった大量の木の実や果物が散らばってた。


「だ、大丈夫ですか!」


 あたしはすぐさましゃがんで女性の様子を見た。まだ若い女性は腰の辺りをさすって痛そうにしてた。転んで打っちゃったのかもしれない。どうしよう。


「ごめんなさい。あたし、店を探してよそ見してたから……」


「こちらこそ、前を見ずに歩いてぶつかってしまって……」


 女性は痛そうにしながらも笑ってくれた。


「あの、立てますか? 手を貸します」


「ああ、大丈夫ですよ。ちょっと尻もちをついただけですから。それより、袋から出たものを……」


 女性が困ったように視線を向けた。道には大量の木の実と果物が散乱して、道行く人はそれを避けて通って行く。急いで拾ってあげないと――あたしはリベカさんが書いた紙を買い物かごに入れて、転がった木の実を袋へ戻していった。


「ありがとうございます。助かります」


 そう言って女性も一緒に拾い始めた。それにしてもこんなに大量の木の実と果物、相当重いと思うけど、一人で運んでたのかな。細い腕なのに、意外に力持ちなのかもしれない。


「僕も拾いますよ」


 声に顔を上げると、見知らぬ若い男性が隣に来て、一緒に木の実を拾い始めてくれた。


「すみません。ご親切に」


「いや、大変そうだったから見過ごせなくて」


 にこにこ笑いながら男性はあたしの周囲の果物も拾っていく。その機敏さで散らばったものは全部袋に戻り、立ち上がった女性は笑顔で言った。


「本当にありがとうございます。お時間を使わせてしまって」


「いいんですよ。じゃあ僕はこれで」


 男性は終始にこにこしながら立ち去って行った。良い人が通りかかってくれて助かった。


「ぶつかってしまって申し訳ありません」


 女性は小さく頭を下げた。


「こ、こっちこそ申し訳ありませんでした。怪我はしませんでしたか?」


「はい。次からはしっかり前を見て歩くようにします。それでは失礼します」


 会釈した女性は木の実と果物が詰まった重そうな買い物袋を抱えて通りの奥へ消えた。……ふう、驚いた。あたしもよそ見しながら歩くのはやめよう。


 その後、目的の店を見つけて、改めて紙に書かれた品物を確認しようとした時だった。


「……あれ? 紙が……」


 さっきのことで、持ってた紙は買い物かごに入れたはず――でもあたしはそれ以上の事態が起こってることにすぐ気付いた。


「お金……お金がない!」


 買い物かごに顔を近付けて、底をくまなく確認してみても、あったはずの六百リドのお札は跡形もなく消え失せてた。わけがわからない。一体どこで、どうやって消えたの? 買い物かごはずっと持ってたし、振り回したりもしてない。落とすようなことはしてないはずだけど……。


 とりあえずあたしは店を出て、お金をなくした原因を考えた。落としてないとすると、他には――


「あの時……?」


 女性とぶつかった時だろうか。女性と散らばった荷物に気を取られて、自分の買い物かごなんて全然気にしてなかったし。きっとそうだ。あの時、無意識にかごを傾けちゃって、それでその拍子にお金が出たのかもしれない。だとしたら早く探しに行かないと。


 さっきの道に慌てて戻って、あたしは人が引っ切り無しに通る地面を血眼になって探した。でもあるのは砂と小石ばかり。少し範囲を広げて見てみても、なくなった六百リドが見つかることはなかった。そりゃそうだろう。道端にお札が落ちてたら、あたしだって拾っちゃうかもしれない。もうとっくに誰かが拾っちゃったんだ。ああ、預かったお金をなくすなんて、せっかく信用されて頼まれた買い物なのに、最悪もいいところだ――鉛を引きずるような重い足で、あたしは事務所に帰るしかなかった。


「お帰り。思ったより早かったね」


 戻ると、リベカさんは事務の手を止めて笑顔で迎えてくれた。返事をしたいけど、胸の痛みにそれも出来ない……。


「ん? どうしたの? 随分暗い顔に見えるけど」


 あたしはリベカさんのいる机まで近付いて、そこに買い物かごを置いて言った。


「ごめんなさい……」


 かごの中を見ると、リベカさんは怪訝な目を向けた。


「何にも入ってないけど……何かあったの?」


「あたし、お金をなくしてしまって……本当にごめんなさい!」


「え? どういうこと? 何でなくしちゃったの?」


「その、店を探してる時に――」


 あたしは女性とぶつかった出来事を話して、なくした経緯を伝えた。それをリベカさんは最初は驚いた顔で聞いてたけど、だんだん真剣な顔になって、最後は考えるように腕を組んだ。どうしよう。怒ってるのかな。それとも呆れてるのかな……。


「――落としたのは、その時だと思うんですけど、気付いて戻った時には、もう見つからなくて……あたしの完全な不注意です。なくした分は給料から――」


「多分ミリアムのせいじゃないね、それ」


「……え?」


 あたしは瞬きをしながらリベカさんを見た。


「お金なくしたなんて、ミリアムらしくないなとは思ったんだよね。いつも仕事はきっちりこなしてくれるのに、そんな単純な失敗するかなって」


「あたしがお金をなくしたことは、間違いないことだと思いますけど……」


 するとリベカさんは肩をすくめて言った。


「あなたは騙されたのよ」


 ……騙された?


「誰にですか?」


「当然、ぶつかった女に」


 あたしは首をかしげた。


「……よく、わからないんですけど」


「鈍いなあ。だから、その女が、お金を盗ったってことよ」


 あの人が、お金を?


「でも、女性はあたしの前で落ちた物をずっと拾ってて、買い物かごに手を伸ばすような不自然なことは何も……」


 最初から最後まで、女性はあたしの視界の中にいた。こっそり盗むなんてことは出来なかったはずだ。


「じゃあ、その女は仕掛け役だったのかもね……その場にはミリアムと女しかいなかったの?」


「通り過ぎる人はたくさんいましたけど、そこには――あっ、もう一人、一緒に拾ってくれた親切な男性がいました」


 リベカさんは不敵な笑みを浮かべて頷いた。


「やっぱりね。男はどんな動きしてた?」


「えっと、果物を拾ってくれてたのは見たんですけど、あたしの周りを動いてて、ちゃんとは見てませんでした」


「決まりね。そいつが実行犯よ」


「あの男性が、お金を……?」


 言われても何だか信じられなかった。親切な人だと思ったのに。


「手順はこんな感じ。散らばるような荷物を持って、まずは女がミリアムにわざとぶつかってこける。散乱した荷物を一緒に拾って気を引き付けたら、仲間の男が通りすがりを装って加わる。その時ミリアムは拾うことに集中してるから、男はかごから難なくお金を盗める。荷物を拾い終えたら、二人はそのまま立ち去るだけ……計画的なスリね」


「じゃあ、あの二人は偶然じゃなくて、手を組んだスリだったんですか?」


「話を聞く限り、多分間違いないわね。最近、通りでスリ被害が増えてるって聞いてたんだけど、ミリアムにそれ、言っとけばよかったね」


 落としたんじゃなくて、すられた――確かに、女性に比べて男性のことはほとんど見てなかったし、盗る隙は十分あっただろう。あの二人はいつからあたしを狙ってたんだろう。盗りやすそうな間抜けな人間に見えたんだろうか。そう思うと今さら怒りを感じてくる。預かった大事なお金を……不覚だ。あのにこにこ笑顔に騙された!


「帰ったぞ。昼飯の用意でも……何真面目な顔で話してんだ?」


 得意先回りから戻って来たシモンさんがあたし達のもとにやって来る。


「ミリアムがスリに遭っちゃって、その話を聞いてたの」


「何? マジかよ。で何盗られたんだ」


「買い物で渡した六百リド。そんな大きい額じゃないけどね」


 これにシモンさんの表情が険しくなった。


「額の問題じゃねえだろ。見過ごせねえな……うちの従業員から金盗っといて、泣き寝入りで済ませるわけにいかねえよ」


「気持ちはわかるけど、そんな小者は山ほどいるんだし、捕まえるのは難しいって」


「難しいから諦めろって? お前らしくねえ言葉だな」


「私は現実的に言ってるだけ」


「そりゃどうだかな。俺達は便利屋で、人捜しなんてしょっちゅうやってんだろ。スリの一人や二人、本気になりゃすぐ捕まえられるさ」


「その時間を、仕事に使う気はないの?」


 半ば睨むように見るリベカさんに、シモンさんはぴしゃりと言った。


「ないな。今もどこかでのさばってると思うと腹立たしいしな。ミリアムもそうだろ? 金盗られて、許せないよな」


 あたしは自分の気持ちに従って、素直に頷いた。


「はい。許せません。出来ることなら取り返したいです」


 せっかく信用されて任された買い物を、あの二人のスリに邪魔されたんだ。このまま引き下がったら犯罪者の得になるだけ。でもそうはさせたくない!


「ミリアムまで……責任感じてんならいいんだよ? たかが六百リドぐらい――」


「だから額の問題じゃねえって言ったろ。これはけじめの問題だ。スリ犯見つけたら、きっちりけじめ付けさせてやる」


「あたしも、そう望みます」


 シモンさんはこっちを見て、深く頷いてくれた。シモンさんにこう言ってもらえると心強い。


「まあ、ミリアムもそう言うんなら止めないけどさ。でも仕事には影響させないでよね」


「わかってるよ。そっちの手は抜かねえって。……それじゃミリアム、飯食ったら作戦会議するぞ」


「はい!」


 昼食を食べ終えてから、あたしとシモンさんはスリの二人組をどう見つけるかの作戦を話し合った。裏社会は犯罪者とも密接な関係があるようで、シモンさんによれば、警察に知られてない犯罪者の溜まり場がいくつかあって、そこで話が聞ければ二人組の行方もわかるかもしれないという。そして後日、実際に聞き込んだところ、スリや窃盗犯が情報交換するため、定期的に集まってるっていう話を聞いて、シモンさんは向かった。ちなみにあたしは危険な場所だからと留守番だった。


 そうしてわかったのは、スリがよく行く場所だ。大きく分けて三箇所あるらしく、どこも人通りが多くて、それが買い物客であって、そしてたくさんの路地に面してる場所だった。これは多分、すぐに逃げられる道を確保するためだろう。あたしが盗られた通りも、まさにそんなところだった。シモンさんいわく、スリは長く同じ場所で動かないはずだからと、あたしが被害に遭った通りを外した、他の通りを重点的に見回った。この時はあたしも一緒だった。二人組の容姿を伝えて、それらしい人物を時間を見ては連日捜し続けた。そんな努力が報われる瞬間は、ある時突然やってきた。


「……ミリアム、あいつらじゃねえか?」


 買い物客に紛れて歩いてると、シモンさんが遠くを見て言った。その視線の先を見れば、見覚えのある若い女性と男性が、何やら顔を寄せ合って話してた。そんな女性の足下には大きな買い物袋が置かれてて、中身は見えないものの、ぱんぱんに何かが詰まってる。あたしの脳裏には瞬時にあの日の光景がよみがえった。女性も、男性も、服装は違うけど顔は間違いなく、あの時の二人だ。


「そうです。あの二人です! すぐに捕まえ――」


 走り出そうとしたあたしを、シモンさんは手で制した。


「まあ待て。ここまで来て人違いだって白を切られるのも面倒だ。決定的瞬間を押さえてからでも遅くねえだろ」


 決定的瞬間――スリを実行した瞬間に捕まえれば、何も言い訳出来ないし、逃げられもしない。あたしはシモンさんと一緒に建物の陰から二人組の様子をうかがった。すると――


「あの婆さんを標的にしたか……」


 二人組の視線は身なりのいいお婆さんを見つめてた。あたしもあんなふうに標的にされたのか。短く話してから、女性は重そうな買い物袋を持ち上げると、お婆さんの歩くほうへ向かい始めた。よろよろした足取りで、でも確実にお婆さんのほうに近付いてく。そして次の瞬間、自分の肩をぶつけて大げさに転ぶと、持ってた袋の中身を地面にばらまいた。転がり出てきたのは大量の木の実と果物……あたしの時とまったく同じだ。


 お婆さんは心配して転んだ女性に近付く。その次には地面に広がる木の実を拾い始めた。それらを袋に戻してると……来た。男性だ。他人のふりでお婆さんに声をかけると、にこにこしながら一緒に拾い始める。あの笑顔にあたしは騙されてしまった。


「見てろよ。犯行の瞬間だ」


 男性は拾いつつ、徐々にお婆さんの死角に入ると、腕から下がるかばんの中にそっと手を忍び込ませた。その間、女性はお婆さんに声をかけて気を引いてる。男性の手がかばんを探ってるのに、お婆さんはまったく気付いてない。見てるだけでも腹立たしい行為だ。


 男性がかばんから手を抜くと、そこには財布らしきものが握られてた。それを素早く上着の内側に隠すと、また木の実や果物を拾い始める。その動きはさっきよりも速い。用が済んで、あとは立ち去るだけだからか。でも今回はそうはいかない……!


「……それじゃ、捕まえるか」


 そう言って歩き始めたシモンさんの後ろをあたしは付いて行く。二人組は何も知らずに落ちたものを拾い続けてる。


「俺も手伝おうか?」


 突然のシモンさんの声に、男性も女性も、お婆さんも顔を上げた。


「あ、ありがとうございます」


 女性はぎこちなく笑った。


「親切な方って、意外に多いのね」


 お婆さんは嬉しそうにシモンさんを見る。


「親切な方って、俺と、もしかして――」


 シモンさんはしゃがんでる男性の胸ぐらを強引に引っ張って立たせると、上着の内側をまさぐって財布を奪った。


「あんたの財布を盗った、この男のことか?」


「なっ……!」


 焦る男性の目の前に財布が掲げられて、女性もお婆さんも口を開けて固まった。……これで言い逃れ出来ないんだから。


「チッ……」


 その瞬間、舌打ちした仕掛け役の女性は、荷物を放って脱兎のごとく逃げ出した。


「うお、おいっ、見捨てんな! 待て!」


 置いてかれた男性はうろたえる声で叫ぶ。その様子をお婆さんはまだ呑み込めない様子で見てる。


「婆さん、あんたこの男に財布盗られてたんだぞ。ほらこれ、自分の物だろ?」


 シモンさんはお婆さんに財布を投げて渡した。それを受け取ったお婆さんはまじまじと見つめてから、ようやく驚きを見せた。


「……私の財布だわ。あなたが盗んだの?」


 お婆さんの目が胸ぐらをつかまれる男性に向く。


「それは、あー、何かの誤解で――うぎ!」


 言い逃れようとする男性の襟を絞めてシモンさんは黙らせた。


「危ないところだったな、婆さん。あとはこっちで灸を据えとくから」


「ありがとうございました。お礼に何かを……」


「いらねえって。気にせず買い物にでも行ってくれ」


「いいんですか? 本当に? 取り返していただいたのに、何だか申し訳ないけど……そう仰るなら失礼させてもらいますね。このご恩は忘れません」


 品のいい笑顔を浮かべると、お婆さんは財布をしまって通りの先へ消えて行った。それを見送って、男性に視線を戻したシモンさんの顔は、打って変わって冷酷さをたたえる。次はあたしの、リベカさんから預かったお金を取り返さないと。


「じゃ、こっち来いよ」


 つかむ胸ぐらを引っ張って、シモンさんは男性を引きずるように人目のない路地へ連れて行く。そして建物の壁に押し付けると、動揺する男性を睨み据えた。


「な、何なんだよ、お前は……」


「俺のことはいいんだよ。問題は、そこにいるうちの従業員から、てめえが金盗ったことだ。憶えてんだろ」


 男性の視線が、ちらとあたしを見た。あたしはそれに睨み返してやった。


「……悪いけど、似たような女なんて毎日見てるからさ、はっきりとは――うぐ!」


 シモンさんはまた男性の襟を絞めた。


「六百リド、それと迷惑料として四百リド、合わせて千リドだ。切りのいい額で払いやすいだろ」


 迷惑料は高い気もするけど、でも捜し回った手間と時間を考えれば安いのかもしれない。


「今すぐ払えよ」


「そんな金、持ってねえって。それに、憶えてもねえ金なんか払えるか」


「もう一度言うぞ。今すぐ、払え」


「警察に突き出すなり、殴って脅すなり、好きにしろよ。それでも俺は払えねえよ!」


 ぴりついた空気が漂う――まさか本当に殴ったりしないよね……?


 シモンさんは怖い目付きで男性をしばらく見つめてたけど、おもむろに言った。


「……そうか。やっと思い出したぞ」


「な、何をだよ」


「てめえを見た時、前にどっかで見かけたことがある気がずっとしてたんだよ。……お前、コーレノン商会のやつだろ」


 その指摘に、男性の表情が明らかに変わった。図星らしい。それを見てシモンさんの表情に怪しい笑みが浮かんだ。


「あそこは、部下にこんなケチな仕事をさせるようなところじゃないはずだけどな……違うか?」


「コーレノン商会なんて、聞いたことねえけど……」


 男性の声はひどく小さい。嘘はばればれだ。


「ふーん、前に商会を訪ねた時に、確かにてめえの顔があったんだけどな……それが間違いかどうか、確認してみるか」


「確認……?」


「商会に、うちのお得意さんがいんだよ。グリオンさんっていってさ」


「グ……!」


 この名前に、男性はわかりやすく慌て始めた。


「ま、待ってくれ! お前、グリオンさんと知り合いなのか」


「だったら何だ」


「悪かった! もうこんな真似二度としねえ! この通り謝るから、だから商会には……グリオンさんには言わないでくれ。頼む!」


 男性は胸ぐらをつかむシモンさんの腕にすがって懇願する。その顔は必死そのものだ。グリオンさんは商会の幹部らしいけど、かなり恐れられる存在なのかな……。


「それは、金盗ったこと認めんだな」


「認めるよ。俺は小遣い稼ぎのつもりで、誘った女と一緒にスリをしてた……」


 シモンさんは呆れたように鼻を鳴らした。


「ふん、初めから潔く認めろってんだよ。商会にばれんのが怖いならスリなんかやるな。……じゃあ、さっさと金払えよ」


「そうしたいのはやまやまなんだけど、今本当に手持ちがねえんだよ。嘘じゃねえ。何なら調べてもらったっていい」


「……ミリアム、こいつの服調べてみろ」


 言われてあたしは男性の上着やズボンのポケットを手で探ってみた。そうして出てきたのは、飴すら買えない一リドの硬貨だけだった。


「本当になさそうですよ」


「ほらな。払えねえんだよ」


「今はな。だがたった千リドだ。用意は出来るよな」


「あ、ああ。もちろん。でも、俺の隠れ家は結構遠い場所にあるけど……」


「遠かろうと取って来いよ。俺達はここで待ってる。言っとくが、そのままずらかったり、またスリで稼ごうなんてしたら、全部グリオンさんに伝えるからな。その時は覚悟しとけよ」


「わかってるよ。そんなことは絶対にしねえ……」


 すっかり大人しくなった男性は、シモンさんから解放されると走って路地を飛び出して行く。グリオンさんの名前だけで、あれだけ慌ててたことだし、お金はちゃんと持ってきてくれるだろう。だけどスリを行ったのは一人だけじゃない――


「シモンさん、仕掛け役の女性、どうしますか? 逃げちゃいましたけど……」


「まあ、いいんじゃねえか? 女は誘われた身で、主導したのはあいつみたいだからな。金が戻れば解決でいいだろ。俺達は警察じゃねえし」


 確かにそうだ。あたしはリベカさんに返せるお金が戻ればいいだけだし、シモンさんも仕事をしなきゃいけない。犯人捜しは警察に任せておこう。


 その後、逃げることなく戻って来た男性から、迷惑料を含めた千リドを取り戻して、この事件は終わった――と思ってた矢先、思いがけないものが事務所に届けられた。


「……グリオンさんからのお詫び?」


 怪訝に聞き返したリベカさんに対して、コーレノン商会の使いの者だという男性は頷いた。


「はい。こちらの従業員の方に、うちの部下が大変なご迷惑をおかけしてしまったことを、グリオンは謝罪したいと申しておりまして、そのお詫びに、受け取っていただきたいと」


 応接室の机に置かれた大きな革のかばんを開くと、中には綺麗に積み重ねられたお札の束が大量にあった。こんな大金、見るのは二度目だけど、はしたないと自覚してても、やっぱり凝視しちゃう……。


「グリオン本人は直々に謝罪をするつもりでいたのですが、急遽予定が入ってしまい、後日改めて謝罪に訪れたいと申しております。ですがその気持ちは早くお伝えするべきかと、お詫びの品だけお届けに参った次第です」


 リベカさんもシモンさんも、いきなりのことすぎて何を言えばいいのかわからないようだった。あたしも、思いもよらない届け物に口が閉じられなかった。


「はあ、どうも……」


「グリオンからのお詫びの気持ち、どうぞお受け取りください」


「本当に、いいんですか……?」


「ご迷惑をおかけしたお詫びですから。……では、私はこれにて失礼いたします」


 ソファーから立って会釈すると、使いの男性は扉から出る最後まで礼儀正しく帰って行った。事務所内が静まり返った中で、あたし達三人はじっとかばんの大金を見つめた。


「……ねえシモン。あんたスリ犯のこと、グリオンさんに言ったの?」


「言うわけねえだろ。言えば俺が脅してるって勘違いされる」


「じゃあ、何でグリオンさんは知ってんの?」


 まったくだ。もちろんあたしだって誰かに話したりしてないし。


「さあな……でもグリオンさんなら、どんな些細なことでも把握してそうだ。それに部下が関わってんならなおさらにな」


「ありがたく貰っちゃって、いいのかな」


「気持ちだっていうし、いいんじゃねえの? 突き返すのも失礼だろ」


「そうだよね……それじゃあ、秘密の場所に大事にしまっておくか」


 そう言ってリベカさんはかばんを静かに閉じる。


「にしても、スリ犯捕まえたら、こんなおまけが付いてくるとはな」


「ふふっ、あの時私、引き止めなくてよかった。これでこの間のグリオンさんの依頼の報酬、取り戻せたかもね」


「やっぱ、苦労した人間は報われるようになってんだな」


 二人の顔は戸惑いから、ようやく明るい笑顔に変わった。絵を探す依頼の時は本当に大変だった。その苦労がグリオンさんの信頼をつかんで、今につながったのかもしれない。苦労は報われると、身をもって学べた。それともう一つ、グリオンさんの情報網は半端ないってことも。

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