三話

「……さあて、報告書まとめる前に一眠りするかな」


 朝食を食べ終えたシモンさんは、両腕を大きく伸ばすと応接室へ向かおうとする。


「寝るなら食器を片付けてからにして。机が使えないでしょ」


「へえへえ、わかったよ」


 向きを変えたシモンさんは自分の使った食器を持って台所へ行く。それを見ながらあたしも朝食を食べ終えて、食器を持ってシモンさんの隣に並ぶ。


「置いといてくれれば、あたし洗いますよ」


「お、いいのか? じゃ頼むわ」


 洗いかけた食器を置いて、シモンさんはそそくさと応接室へ消えた。


「……ミリアム、あいつを甘やかさないで」


 背後の声に振り向くと、そこには不満そうなリベカさんが立ってた。


「でもシモンさん、徹夜の仕事だったし、ついでなんで」


「あなたがするのは掃除だけで、他の家事はしなくていいの。じゃないとあいつ、全部あなたに任せるんだから。家事は習慣付けないとやらないから、今後は自分以外の食器は無視してね」


「わかり、ました」


 いろいろ方針を決めてるんだな。リベカさんがシモンさんの母親みたいに見えてくる。


 食器を洗い終えたあたしは手持ち無沙汰になって、何気なく玄関へと向かった。


「……ミリアム、どっか行くの?」


 机で事務作業をするリベカさんが聞いてきた。


「いえ、別に」


「出かけるんじゃないの?」


「そうですけど……」


「今日仕事は休みなんでしょ? 遊びにでも行くの?」


「遊ぶような場所もお金もありませんから」


 これにリベカさんは首をかしげた。


「じゃあ、何しに行くの?」


「何も。街中をぶらぶら歩くだけです」


「何で?」


「何でって、仕事をするお二人の邪魔にならないよう――」


「ちょっと待って。私達のために無理に出て行くことなんてないから。ゆっくりしたいなら、ここでも二階でも好きにいてくれていいし」


「そうすると、気が散りませんか? 静かな環境のほうが――」


「そんな気遣いいらないって。今はここがあなたの家なんだから、自由に過ごしてよ」


「そんなに暇なら、こっちの仕事手伝ってもらったらどうだ」


 顔は見えないけど、応接室からシモンさんが言ってきた。あたし達の会話が聞こえてたみたい。


「まだ起きてるんなら姿ぐらい見せなさいって。……うーん、でも、それもいいかもね。難しいことはさすがにやらせらんないけど、簡単な事務程度なら……」


「あたしに手伝えることなら、ぜひやらせてください。どうせ暇ですから」


「そう言ってくれると助かるわ。だけど、せっかくの休みにタダで手伝ってもらうってのも何かね……」


「ベッドと食事を与えてくれるのに掃除だけでいいっていうのは、ちょっと物足りない気がしてたんです。他に出来ることがあればどんどん言ってください」


「それは違うわ。寝場所を提供する条件は掃除をすることだけっていうのが最初の約束なんだから、後から条件を増やすのは駄目よ。新たに約束するんなら、また別の条件を付けないと。今回はこっち側のお願いだから、条件はミリアムが言って」


「言ってって、何を言えば……?」


「何でも。こうしてくれたら、私は喜んで手伝いますよっていう条件よ。私達に何か要望はない?」


「要望なんて……特には……」


 毎日食べられて、部屋も貸してくれて、これ以上二人に望むことなんかないけど。


「遠慮してない? 何でもいいんだけど……あ、そうだ」


 何か閃いたように、リベカさんはあたしを見た。


「ミリアムは誰か捜してるって言ってたよね。それ、捜してあげるっていうのはどう?」


「え……」


「はあ?」


 あたしの声と同時に、応接室からシモンさんが声を上げて飛び出して来た。


「何言ってんだよ。仕事増やす気か?」


「寝てなかったの? いいでしょ、一つぐらい増えたって。それに言うほど依頼が詰まってるわけじゃないんだから」


「そうだけどよ、いきなり仕事増やされんのは困るんだよ。しかもタダ働きって――」


「違う。ミリアムは私達の仕事を手伝ってくれるの。こっちの益になるんだからタダじゃない。まったく、この程度でがたがた言わないで」


「まったくなのは俺のほうだっての……はあ」


 シモンさんは大きな溜息を吐くと、うなだれたまま近くの椅子に座り込んだ。こうと決めてしまったリベカさんには逆らえないって、シモンさんはちゃんとわかってるようだ。顔には諦めの色しかない。


「じゃあこれで決まりね。ミリアムもいい?」


「あの、でも、依頼すると十万リドはかかることなんですよね?」


「まあね。お金が気になるなら、ミリアムが十万リド分の仕事をすればいいだけのことよ」


「じゅ、十万、ですか……」


 あたしの月収が今、五十リドだから……ど、どういう働きをすれば……。


「ふふ、冗談だって。青い顔しないで。そんなこと気にすることないし。ミリアムはミリアムなりに手伝ってくれればいいから。そうだな……まず出来そうなのは書類の整理とかかな。机の上見ればわかると思うけど、資料とか過去の報告書がごちゃ混ぜになっちゃってるんだよね。それを分類してくれると助かるんだけど……出来そう?」


 確かに事務所の机にはいろいろな書類が無造作に積まれてるけど――


「出来るとは、思います……」


「何? 何か歯切れ悪いけど」


「あたし、子供の頃、あんまり学校に通えてなくて……」


「……もしかして、文字が読めないとか?」


「昔はそうでしたけど、今はどうにか読めます。でも、読むのにまだ時間がかかっちゃって……」


 独学で文字の読み書きは習得したけど、周りの人のようにすらすら読めるようにはまだなってない。あたしが野宿生活をしてた原因はこれが大きい。多くの仕事場じゃ読み書きは必要なことだ。でもあたしはそれが人より遅い。そう知った雇い主がいつまでもあたしを雇うはずがない。だからそういう人は読み書きの関係ない、単純作業で低賃金の仕事をするしかなくなる。貧民街の出身者にはよくある話だ。


「ふうん。文字が読めるんなら問題ないわ」


「時間、かかってもいいんですか?」


「時間より、机の上が整理されることのほうが重要だから。何なら書類整理しながら読む練習したっていいし。そうすれば片付け時間も少しずつ短くなってくでしょ」


 あたしはにこやかに言うリベカさんを見つめた。見下したり差別しないこの人の心には感動すら覚えてしまう。


「……ん? どうかした?」


「い、いえ、そう言ってもらえて、すごく嬉しくて。あたし、頑張ります」


「うん、頑張って。休日だけで構わないからね。さて、ミリアムが手伝ってくれるなら、次は――」


 そう言うとリベカさんはおもむろに紙とペンを用意し始めて、机の席に着いた。


「ミリアムも座って。あなたが捜したい人のこと、教えてよ」


「あ、はい」


 あたしはリベカさんの机の正面に椅子を持って行って座った。


「ちょっとシモン、あんたも捜すんだから聞いててよ」


「……へえへえ」


 シモンさんはうなだれた頭を上げると、腕と足を組んでこっちを見る。


「それじゃ、まずは誰を捜してるの?」


 ペンを握って聞くリベカさんを見て、あたしは言った。


「捜してるのは、幼馴染みの友達で、名前はノア・ザッケス」


「ノア・ザッケス……男性ね。歳は?」


「あたしと同じ二十歳です」


 リベカさんはあたしが言ったことを紙にさらさらと書いてく。


「容姿はどんな?」


「黒い髪で、目も黒かったと思います。当時は日焼けしてて、肌は少し浅黒かったです」


「……当時って?」


「最後に会った六年前です」


「六年間、会ってないの?」


「はい。行方不明になっちゃって」


「連絡とかよこしたりは?」


「ありません」


「ってことは、姿を消したのは十四歳の時、ってわけ?」


 あたしは頷いた。これを見て二人は顔を見合わせる。


「今は二十歳……背格好は大分変わってるかもな」


 シモンさんが顎に手を当てて言った。


「この子の家と、ご家族なんかは?」


「家はあたしの実家のすぐ隣――南地区の貧民街にありました」


「今はもうないの?」


「ノアがいなくなった後、彼の家族は引っ越しちゃったみたいで……」


「その家族の行方もわかんない、と」


 ペンが書き留める音を聞きながら、あたしは頷く。


「ミリアム、そいつが消えた理由は知ってんのか」


「……家に、いられなくなったんだと思います」


「何でだ」


「それは……わかりません」


「何だそりゃ」


 ノアが殺人容疑で手配されてるなんて言ったら、きっと二人は協力してくれなくなっちゃう。


「単なる家出か?」


「それは絶対に違います」


「自信ありげだな。根拠は」


「根拠は……幼馴染みのあたしに、黙って出て行くわけないですから」


 これにシモンさんは、ふっと笑った。


「大分弱い根拠だな」


「弱いかどうか、まだわかんないでしょ。……ミリアムは、その子とどんな関係だったの?」


「毎日遊ぶぐらい、すごく仲が良くて、あたしを心配してくれる、唯一の友達でした」


「へえ。ノアはいい子だったの?」


「はい。優しくて、本当にいい友達でした――」


 彼との記憶は、どれも温かくて、笑顔になるものばっかりだ。


 言ったように、ノアはあたしの家のすぐ隣に住んでた。行動範囲がほぼ同じだったせいもあって、何度か見かけてるうちに自然と遊ぶようになってた。他にも子供はいたけど、ノアは一番近いし、何より気が合ったんだと思う。お互いの貧しくて苦しい状況を、彼と遊んでる時間だけはさっぱり忘れさせてくれた。


 ノアはとにかく明るい性格で、怖いもの知らずなところもあった。高い塀の上を歩いてみたり、近所で知られる凶暴な犬にちょっかいを出してみたり。いわゆるわんぱくな子供だった。そんな彼と遊ぶあたしも、必然的にわんぱくな遊びをすることになって、弟のアロンと一緒に男の子らしい遊びばっかりをする毎日を送ってた。


 そんなある日に、あたしは怪我をした。何年も放置された廃墟に入って遊んでた時、大きく抜けた床を見たノアがここを飛び越えようと言って、まずは自分が飛び越えて見せた。穴の幅は子供でも何とか飛べる程度だったし、深さも伸ばした手が届くぐらいで、それほど怖さはなかった。だからあたしはためらうことなくその穴を飛び越えた。でも着地の瞬間、足下がバキッと鳴り、床板が割れて、あたしは穴に転げ落ちた。舞い上がった埃をかぶる中、腕に鋭い痛みを感じて見てみれば、直線に切れた赤い傷があった。落ちる時に咄嗟に伸ばした腕が、割れた床板に引っ掛かって傷を作ったらしかった。痛みというより、こんな大きな傷が出来たことのほうが怖くて、あたしは動揺して動けなかった。でもノアはすぐに助け出してくれて、傷を水で洗い流してくれた。そして俺のせいだと謝った。あたしは彼が悪いなんて思わなかったし、落ちたのは単なる不運だと感じてた。それでもノアは自分が悪いと言って、後日、あたしにお菓子をくれた。お詫びだと申し訳なさそうに渡してくれたことは、子供ながらすごく嬉しくて、貰ったお菓子も何だかもったいなくて、すぐに食べずに取って置いた。そのお菓子は結局食べることなく、弟に食べられはしたけど。


 そんなことがあってから、ノアは遊び方を少し変えてくれた。廃墟みたいな、いかにも危ない場所へは行かなくなって、空き地や野原なんかで遊ぶようになった。それはそれで少し物足りない気がして、あたしがまた廃墟へ行こうと言えば、ミリアムが怪我するから駄目と、ノアは絶対に行こうとしなかった。強い責任感と、人を思い遣る優しさ。彼にはそんな心がしっかりとあった。


「――確かに、優しい、いいやつだな」


 シモンさんがぼそりと言った。


「ミリアムはそういう友達だから、捜してまでまた会いたいってわけなの?」


 リベカさんに聞かれて、あたしは言葉を選んで言った。


「……ノアに、会わないといけないんです。あたしは」


「昔のお礼でもするの?」


「まあ……そんな感じです」


 ちらとリベカさんを見ると、まだ何か聞きたそうにこっちを見てたけど、あたしが目をそらすと、一息吐いてから言った。


「ふう……とりあえず情報はこんなもんでいいか。見つけるには時間がかかりそうだけど」


「手掛かりが少なすぎだ」


「仕方ないでしょ。ミリアムだってわかんないんだから」


「ごめんなさい。迷惑かけてしまって……」


 これにリベカさんは大きく首を横に振った。


「迷惑じゃないってば。これは私達の仕事。腕の見せ所ってやつよ。でも他の依頼もあるから、並行してとなると進みは遅くなると思うけど、そこは勘弁してね」


「わかってます。本当の依頼のほうを優先してください。あたしのほうはいつでもいいんで」


「ありがとう。じゃ、捜してみますか。見つかるまで待ってて」


 これでノアの元へ一歩近付けただろうか。私が捜すより二人に捜してもらったほうが、見つかる確率は断然上がると思うし。でも手掛かりはほとんどない。時間がかかることは覚悟しておかないと。


 ノアが見つかることに小さな期待を持てた、その翌日――あたしの身にある出来事が起きた。


「リベカさん、お話があるんですけど」


 仕事から帰って来て早々、あたしは事務所にいたリベカさんに話しかけた。


「ん、何?」


「今日、仕事をクビになりました」


「ええ? 何それ、どういうこと?」


 緑の丸い目があたしを見つめる。


「不景気で、人員を削減するとかで……そういう時、真っ先に切られるのは末端で働くあたし達なんで。よくあることです。クビになったのはこれで五回目だし」


「そ、そんなに? 苦労してるんだ……」


「明日から仕事を探しに行きます。多分すぐには見つかんないと思うんで、他の地区にも行って帰りが遅くなると思いますけど、心配しないで――」


「だったらさ、もううちで働く?」


「……え?」


 驚いたあたしにリベカさんは笑顔で言う。


「真面目に掃除してくれるし、頼んでないこともたまにやってくれるし、もううちの従業員みたいなもんじゃない? だったら雇ったほうがいいかなって思って」


 雇ってくれるなんて、願ってもないことだけど――


「そこまで面倒を見てもらうわけには……」


「別にそういうわけじゃないわよ。ただミリアムの働きっぷりを気に入っただけ。気に入ったから雇いたいなって思ったの。いいでしょ?」


 はいと返事はしたいものの、そうなるといろいろ確かめたいことがある。


「雇ってくれるってことは、給料が出るんですか?」


「もちろん。雇用ってそういうもんでしょ」


「あたし、このままここにいていいんでしょうか」


「何で?」


「お金も貰って、寝場所や食事までお世話になって……これじゃあまりに頼りすぎです」


「だって仕方ないじゃない。あなた家ないんだから。いい部屋が見つかるまで、ここにいていいから」


「それだったら、これまでとこれからの家賃、払います。食費も一緒に――」


「待って待って。ミリアム、あなた変わってんのね。そんなにお金が払いたいなら、いいわ。食費は給料から天引きしとく」


「家賃もお願いします」


「そっちはしない」


「何でですか?」


「何でって、ここに呼んだのは私だし、掃除との交換条件出したのも私だし。今さら家賃貰うわけにはいかないでしょ。本当は食費だっていらないんだけど、そっちの気が収まらないみたいだからね」


「こんなこと言うのは悪いんですけど、給料貰っても、あたしには大して使い道がないんです。毎日平凡に暮らせるだけのお金があれば十分なので……」


「そんなことないでしょ。部屋借りるお金も要るし、その服も大分長いこと着てるみたいだし、そろそろ新調したら? それに弟君がいるじゃない。使い道がないっていうなら、彼のために使ってあげたらどう?」


 アロンのため――会いには行くけど、何か物をあげたことはなかったな……。


「そういうことだから、ミリアムは今まで通りのまま、掃除と書類整理、それとこれからは簡単な仕事を頼むかもしんないけど、特に大きく変わることはないから、そのつもりで。……話はこれぐらいでいい?」


「……あたし、もう従業員なんですか?」


「うん。そうだよ」


 リベカさんはにこにこしながら頷いた。……少し、涙が出そう。


「何? 何か言いたそうに見えるけど」


 あたしは目の奥の熱さをこらえながら聞いた。


「リベカさん……」


「ん?」


「何であたしに、ここまでよくしてくれるんですか?」


 考えるように首をかしげて、リベカさんは宙を見つめる。


「え? うーん、何でかな……まあ、一言で言えば、ミリアムに幸せに生きてもらいたいから、かな?」


 はにかんだ目と合うと、リベカさんはそれを隠すように笑顔を作った。あたしはこの人と何の関係もない。家族でも友達でもなく、数日前に出会っただけの赤の他人。そんな相手にここまで親切にしてくれる人が他にいるだろうか。この人の他人を思い遣る心は底なしに違いない……!


「……ちょっと、何で泣いてんの?」


 気付けばあたしの視界は涙で歪んでた。


「一生懸命働くので、よろしくお願いします!」


「あ、うん。よろしく。……あんまり気負わないようにね」


 こうして、あたしの新たな仕事が始まることになった。

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