「眼」の話(中④)

4




 インク瓶の言う通り、部屋の前の『何か』は直接的な行動は何もして来なかった。


 ただドアの前に佇み、私達の気配を追っているだけ。

 部屋に無理矢理押し入る事も、叫んだり、何かを呼び掛けて来る事も無く、静かなものだ。


 私や黒髪女の声、アゴ男の寝言にも一切の反応は無く、本当に見られさえしなければ襲われる事は無いらしい。

 おかげで、多少は冷静になるための時間も作れていた。



『とりあえず、下手にちょっかいをかけて動かれてもまずい。アレが自分で扉の前からどくのを静かに待とう』


「……動く様子、無いんだけど」



 インク瓶の言葉にドアのすりガラスを見れば、やはり白い影は揺らめいたままだ。

 移動する気配など欠片も無く、不安が募る。



『だが今はそれしか無い。イザとなったら外側から気を引けないか試してみるから、大人しくしといてくれよ。特に……』


「わ、分かってるよ……アイツらね」



 ちらりと背後、ぼうっとした様子でドアを見つめている黒髪女と、相変わらず寝こけているアゴ男を見る。


 アゴに関してはあんな様子だし、ほっといても良いだろう。

 だが問題は黒髪女の方だ。ツーブロ男の安否が定かではない現状、また突拍子もない行動を起こされる可能性がある。


 既にスマホは取り上げて電源も切っているため、もう下手な事は出来ないだろうが……それでも不安が拭えない。

 もしトチ狂ってドアを開けられでもすれば最悪だ。私は彼女とドアを遮るように身を置きつつ、警戒を深めておく。


 ……ピアス男と一緒に死んでたら面倒ないんだけどな、ツーブロ男――なんて事は露ほども思っていない。本当です。信じて。


 ともかくとして、そんな私にインク瓶は紙面に表示した『よし』を上下に動かした。頷いたつもりのようだ。



『それと、もしこの部屋を出られたら、さっきの入口に向かってくれ。それが無理なら他の場所でも良いが……出来れば、どこの窓や出口を使うかは正確に伝えて欲しい』


「ん、そうする……」



 よく分からんけど、きっと脱出に必要な事なんだろう。

 私はとりあえずそう頷くと、メモから視線を離し再び黒髪女を見る。


 彼女は私を通り越して後ろにあるドアを見つめていたようだったが、私の視線に気が付くと、濁った眼を合わせて小さく笑った。



「も~、そんな怖い顔しないでよぉ。ワタシもう何も出来ないんだからさ」


「安心できるワケねーだろ。自分のした事思い出せっての」



 渋面を作ってそう吐き捨てるけど、黒髪女の表情は変わらない。

 すっとぼけたように小首を傾げ、またドアを見つめる姿勢に戻る。あんな怖いもんよく見続けられるな。


 ……そうしている内だけは瞳の濁りが薄れているようにも見えて、私はそれ以上文句をつける気を失った。

 私はその場から動かないまま、彼女の視線からズレるようにしゃがみ込む。



「ありがとね」


「……ふんっ」



 何故か礼が返ったが、知らん。

 そのまま二人して黙り込み、後にはアゴ男の寝息だけがいやに大きく響き続ける。



「……視えないのに、とか思ってる?」



 突然、黒髪女がそう呟いた。

 その視線は相変わらずドアの磨りガラスに注がれていたけれど、定める焦点が見つからないかのように揺れている。


 ――黒髪女は、霊視能力を持っていない。先程、インク瓶が告げた事実だ。


 聞いた時は何を馬鹿なと思ったが、振り返れば心当たりしか見当たらない。

 トイレに行く道中、二階に白い影を見つけた時。

 タバコ女が死んだ後、手を引いて廊下を歩いている最中。

 どのタイミングでも彼女は『何か』を認識できていなかったように思える。


 唯一、その絶叫だけは聞こえていたようだったけど、逆に言えばあれ程激しいものでなければ認識するに届かなかったという事だ。


 つまり――二日前に私に語った「バスの一件以来変な物が見えるようになった」から始まるくだりは、その殆どが嘘となる。

 マジでとんでもねぇ女だなと、今更ながらにゾッとした。



「……何でそんな嘘ついたんだよ」



 黒髪女の呟きに答える形として、そう問いかける。



「今まで見る限り、友達が乱暴されたとかはホントなんだろ。犯人があのピアス男達とか、復讐とか、そういうのとかもさ」


「そーだよ」


「じゃあなおさら意味分かんないよ。何も視えなくて、ここで友達の幽霊視たってのも嘘だってんなら、私呼ぶ意味ないじゃん。オバケを元気にしろって頼みだったのに、そのオバケ自体が居ないんだからさ。……いや居たけど、そりゃ結果論ってヤツだし」



 そう、彼女に霊視能力が無いのであれば、「このビルに友達の幽霊が居る」という前提自体が崩れ去る。

 真実はどうあったにしろ、その時点で私を呼ぶ必要性は無くなるのだ。彼女の中では、ここに友達が居るかどうかすら分かっていなかった筈なのだから。


 ……なのに、わざわざ私を探し出し、嘘を吐いてまで強引に巻き込んで来るというのはどうなんだ?


 まぁ視えなくても、ここに友達の幽霊が居ると最初から決め打ちしていたのであれば、一種の『賭け』という事で分からなくもない。


 だがここまでの彼女の態度は、そういったものではなかった。

 私と同じように戸惑い恐怖していたその様は、オカルトをまるで想定に入れていない様相だった――そう投げかければ、黒髪女は暫く黙り込んだ後、濁った眼をそっと伏せた。



「……最初はねぇ、ワタシ一人でやろうと思ってたんだぁ」



 ぽつ、ぽつり。

 零すように、呟き始める。



「あの子が酷い事されて、許せなくて。あの先輩ら、滅茶苦茶にしてやろうって決めてたの」


「……殺そうとしてた?」


「それが出来ればやってたけどねぇ。でも四人相手だと難しいし、下手に殺し損ねて警察&裁判フェーズに行っちゃったら、なーんか納得できない結果になりそうでさ。ほら、向こう金持ちボンちゃん居たし」



 そういえば、ツーブロ男の家がそうなんだっけか。

 まぁ被害者に彼が含まれていたらその家族は出張って来るだろうし、それで腕利きの弁護士でも雇われたら色々と胡散臭い展開になりそうではあった。



「だからまぁ、徹底的に被害者になって暴れようかなーって」


「被害者……?」


「そぉ。あの子と同じ事されてねぇ、それを大声で周りにぶちまけよっかなーって」



 余りにもあっけらかんとした物言いに、言葉の理解が少し遅れた。



「……え? いや……えっと……は?」


「世の中に訴えるとしたらさぁ、やっぱ自分が被害者になってた方が声通るでしょぉ? 先輩らも動画とか写真とかバラ撒くだろうけど、別にいいの。むしろそれに乗っかってもっとも~っと被害者ムーブして、声かけ出来るとこ全部かけて、出られるとこ全部出て。あいつらの顔も名前も一生消えないデジタルタトゥーにして、人間関係やら人生設計やら全部ぐちゃぐちゃのパーにする。そういうやつ、やろうと思ってたんだぁ」


「…………」



 絶句。

 それほどに大切な友達だったのか、或いはこの女がナチュラルにキマっているのか。

 背筋に薄ら寒いものを感じ、気持ち彼女から距離を取る。



「色々ね、準備したの。証拠造りのカメラとかボイレコとか……それとあの子の事も、さ。もしかしたらワタシと一緒に写真ばら撒かれるかもしれないから、せめて特定され難いようにSNSとかに上げてた画像とか消したりね。あの子のスマホ、私が持ったまんまだったのは僥倖だったよねぇ。あ、分かる? 僥倖。ラッキー」


「……写真ばら撒かれるの、友達の人が生きてたら嫌がるとか、さ……」


「思ったよ。だからワタシも同じ恥辱を受けるの。あの子と一緒に、なるの」


「……、……」



 納得は出来ない。

 けど、これは私が口を挟むべきものじゃない事もまた分かった。

 責める言葉を吐きかけた口を閉じ、話の続きを静かに待つ。



「でさぁ、そうやってあの子のスマホ色々見てたら――見つけたんだぁ、キミの事」


「……は? 私? な、何でそうなるんだよ、あんたの友達の事なんて私なんも、」


「――ひひいろちゃんねる、だっけ」



 ――その言葉を聞いた瞬間、胃の底が酷く冷え込んだ。



「…………」


「前にも言ったと思うけど、あの子って夢見がちなとこあったからさ。そういう系の配信とかもよく見てたっぽいんだぁ。有料会員にまでなってたよ、ひひいろちゃんねる」


「……知んねーよ」



 呻くように吐き捨てる。


 ――『ひひいろちゃんねる』

 それは私の……私の親友だったヤツが某動画サイト内に持っていた、個人配信チャンネルだ。


 メインコンテンツとしてはオカルト系が主であり、自らの恐怖体験を語る動画や、ホラースポットの探索風景の配信などを行っていた。

 結果的に配信者が『本物』であったからなのか、それなりに人気はあったようだ。


 ……そして私は、それにたった一度だけ出演した事がある。

 親友だったヤツに誘われ、共にとあるホラースポットの探索へと赴いたのだ。黒髪女は、その唯一の回を見つけたらしい。



「あの動画、再生数一桁違ってて目についてさ。あ、バスの時の子だ~って、すぐに分かったよ。お友達と一緒で楽しそうだったよねぇ」


「…………」


「お喋りして、笑顔で、言い合いしたり、ふざけ合ったり……そしたら、ふって思っちゃったんだぁ」



 ああ――あんなノリで、バスの騒動も起こされたのかなぁ、って。


 どろり。

 濁りを増した黒髪女の眼が、改めて私を捉えた。



「そんな下らない子のせいで、ワタシは一番大切な時あの子の傍に居られなかったのかなって。もしかして動画のネタ作りとかそういう理由で、あの子一人だけで酷い目に遭わせる結果になっちゃったのかなって。そんな感じの考えが溢れて、止まらなくなっちゃった」


「なっ……んな訳無いだろッ! 誰が好き好んで――!」


「うん、もう分かってるよ。実際にこうなって、キミも大変なんだなって思った。ごめんね。ごめんねなんだけど、でもねぇ、その時は本気でそうだって思っちゃってたんだぁ」



 黒髪女はそこで一旦区切り、天井を仰いだ。

 濁った眼がぐるぐると回り、当時の感情を思い出しているかのようだった。



「キミの事、先輩らと同じく許せなくなった。だからワタシと一緒に同じ目に遭って貰って、償わせようって思ったの」


「……トイレでの事とかあったし、何となくそんな気はしてたよ。でも、何で」


「だって中学生が被害者ってなったら、ワタシだけより社会的ダメージ大きいでしょぉ? 児童ナンタラ法とかロリコン扱いとか、先輩らの罪ももっと重くなるし、もっと人から軽蔑される。それってすっごく素敵じゃない?」


「……キッッッツ……」


『うーん、君には悪いが正直嫌いじゃないな、この娘』



 インク瓶がそうメモを揺らしたけど、当事者の私としては堪ったもんじゃない。

 ドン引いたままさらに腰を引けば、黒髪女は少しだけ目の濁りを薄めて笑った。



「探すのは簡単だったよ。興信所とか頼ろうと思ってたのに、動画のコメント欄で殆ど特定されてるんだもん。有名人じゃんね?」


「悪目立ちしてるだけだよ、クソが」



 私は乱暴に返すと、黒髪女から目を逸らす。

 しかし、彼女からの視線は変わらず注がれ続け、居心地が悪い。



「バスの時に横で色々聞こえてたから、それで適当に言い包めて。ちょ~っと強引めに行くためのスタンガンとかも用意してさ、結構頑張ったんだよねぇ。ま、結果はこんな感じなんだけど」



 黒髪女はそう言って、私越しにまたドアを見る。



「……結局、あの子が殆どやっちゃったんだねぇ。視えないけど、でも、居るんでしょ?」


「おかげで出らんないんだよ、私達」


「いいなぁ、ワタシも視えたらなぁ……」



 黒髪女は心底惜しそうに呟くと、体育座りでゆらゆら揺れる。


 ……いや、どう反応したらいいんだよ。

 私は何を言う事も出来ないまま舌打ちだけを鳴らし、再びドアへと意識を戻し、



「――あ、そうそう。お友達の方には何もやってないから、安心してね」


「っ」



 寸前、その不意打ちに身が跳ねた。

 咄嗟に抑えたつもりだったけど、黒髪女には伝わってしまったようだった。



「嘘じゃないよ? バスの時に居なかったし、無関係かなって思って……」


「いや……」



 さっき以上に反応の仕方が分からず、ただ首を振る。


 ……無関係、ではないのだ。

 だが、それを一から語るのも億劫で、私の唇が鉛を塗ったかのように重くなる。

 私は暫く言い淀んだ末……顛末だけをぽつりと零した。



「……アイツ、もう居ないから。心配するも何もないし」


「あ、そうなんだ。引っ越しちゃった?」


「…………この街には、居る」



 私はそれきり黙り込み、黒髪女から逃げるように、くるりと身体ごと顔を逸らした。


 もう良いだろ。聞くもんは聞いたし、これ以上この女の話を聞いてると体調悪くなりそうだ。

 私は大きな溜息をひとつ吐くと、今度こそ部屋のドアへと意識を戻し、



「……………………、」



 ……ドアノブが、下がっていた。


 扉の向こうで『何か』がノブを握り、下ろしているのだ。

 音も、振動も無く、いつからそうなっていたのかも分からなかった。


 明らかに入室の意思を感じるその光景に、私の全身が総毛立つ。



「見られなきゃ動かないんじゃなかったの……!?」


『……鍵は掛けてあるんだろ? まだほとんど力は込められてない、猶予はある……筈だ』



 インク瓶の文字もどこか緊張感が纏っている気がして、自然と呼吸が浅くなる。


 ドアから目を離せない。ゆっくりと後退りしつつ、黒髪女を背に庇う。

 彼女はとっくの昔にドアノブの変化に気が付いていたらしく、動揺した様子は無い。

 ……しかしドアの磨りガラスを見つめる顔は、やはり青褪めているように見えた。



「……な、なぁ。あんたさ、ダメもとで呼びかけとかしてくんない? 視えなくても、もしかしたらそれで何か――」


「しない」



 ばっさり。

 これまでのどの言葉よりも力強い一言に、私は数瞬言葉を失った。



「……な、なんでよ」


「最初に言ったでしょ。あの子のしたい事をさせて欲しいって。あの時はデタラメだったけど、実際に居たのなら……デタラメじゃないんだぁ」


「タバコ女みたいにされるかもしれないんだぞ!? あんただって怖がって――」


「うん。でも、ごめんね?」



 青い顔でそう笑う黒髪女の眼には、濁ってもなお輝きを保つ光があった。


 これじゃ説得なんて無理だ。

 理屈抜きでそう悟った私は黒髪女に頼る事を早々に諦め、改めてドアへと向き直る。


 ……かた。


 見つめる内、鍵のかかったドアが小さく音を立てた。

 揺れた。揺れているのだ。

 向こう側に立つ『何か』が下げたドアノブを押し引きしている。

 ……この部屋に入ろうと試みている。


 かた。

 かた、かた。

 かた、かた、がた――。


 その音は徐々に強くなり、やがて揺れも目に見える程大きくなっていた。

 息切れがする。動悸が酷い。


 メモが揺れるけど、ドアから目を離すのが怖かった。

 だって、蝶番が軋み始めている。鍵がメリメリと異音を立てている。

 目を逸らしたら、その瞬間に弾け飛ぶんじゃないかとすら思ってしまう。


 ただ、ただ。私は瞬きすら忘れ、揺れ続けるドアを見つめ続け――。



 ――テン テケ テンテケテンテン テンテケテンテン テン。



「っ!?」



 突然、素っ頓狂な音楽が流れ出した。

 スマホの着信音――音の鳴る方向に目をやれば、それはこの期に及んでもまだ寝続けていたアゴ男から流れていた。



「なっ、あ、ちょぉっ……!」



 空気が読めないにも程がある。

 私は戦々恐々とドアの様子を窺うが、幸い『何か』の行動に変化は無い。

 ドアを開けようとする動きを速める事も、逆に遅くする事も無く、ただガタガタと続けていた。



「……ん、ふにゃぁ……?」



 近くで鳴り続ける着信音に、流石のアゴ男も起こされたようだった。

 クソほど似合ってない寝ぼけた声を上げ、ぼんやりしたままゴソゴソと衣服を探る。


 そして取り出したスマホの画面を見る事も無く、あくびと共に通話ボタンをタップして、



『――おま、お前ぇ!! っ……い、今……今どこに居んだ……ッ!』



 まず聞こえたのは、男の怒鳴り声。

 しかしその声量はすぐに絞られ、抑えられた囁き声へと変わっていく。


 最初は誰の声か分からなかったが、すぐ後ろで黒髪女がその名前を呟き、それで分かった。


 ツーブロ男だ。

 どうやらエレベーター内で死んだのはピアス男だけだったらしい。

 私の肩を掴む黒髪女の力が、少しだけ強まった。



「んぁ? センパイ? ……う、おぇ、気持ちわりー……」


『知るか! 他は全員繋がんねぇのに、なんでお前なんだよ! クソ、クソ!!』


「大声やめてぇ……頭ガンガンする……ちょっと落ち着いてくださいてぇ……」


『そんな事言ってる場合じゃねぇんだよ! こんな、意味分かんねぇ、あちこち血塗れで、エレベ……ぐ、おえぇぇ……!!』


「うわ、だいじょぶすか……?」



 びちゃびちゃと、アゴ男のスマホから嘔吐の音が小さく響く。色々と見たものがフラッシュバックしたのかもしれない。


 話を聞く限り、ツーブロ男は今になってこの事態に気が付いたようだ。

 黒髪女の策はピアス男だけにハマり、そのまま彼に置き去りにされていたのだろう。

 コイツらはたぶん、友達でも何でも無かったんだろうな。そう察した。



『……っぐ、と、とにかくどこに居んだお前。そんな暢気にラリッてられんなら、少しは安全なとこ居るんだろ。何でか外に出らんねぇんだ。ビルん中だろ? どこだよ、言え、早く……!!』


「えぇ~……ちょっと待って……ええっと、あれぇ? ここどこ? うわめっちゃドア揺れてんじゃん、おもろ」



 おもろくねぇわ。


 ともかく、言われて初めて自分の状況を把握したのだろう。

 アゴ男は一度スマホを耳から離すと、首を傾げながら部屋を見回し――やがて私達の存在に気付き、ヘラリと笑った。



「あっ、クロユリちゃんとタマちゃんも居るじゃ~ん。ねぇここどこなん?」


『おい、他にも居んのか? おい、おい!』



 電話の向こうでツーブロ男が騒いでいるがアゴ男は気付きもせず、ただただ暢気に問いかける。


 当然、私は無視をした。

 だってこうしている間にも、ドアはガタガタと揺れているのだ。

 場所を言えば、流れから言ってツーブロ男がこっちに向かって来る事になる。もしそうなったら彼は、



「――っ」



 ――その考えに至った瞬間、私は慌てて背後の黒髪女を拘束しようとした。


 だけど、少しだけ遅かった。

 当たり前の話だけど、私よりも黒髪女の方が頭の回りが良かったのだ。



「はい、ビリビリ~」



 振り向こうとした私の背中に硬い何かが押し当てられ、同時に耳元で囁かれた言葉に動きが止まる。

 実際に電撃の類は無かったけど、それで背中に感じる硬いものの正体は察せられた。


 ――二本目のスタンガンだ。



「あ、あんた……まだ持ってたのかよ……!?」


「…………」



 黒髪女は何も答えず、片手で私の口元をそっと覆う。

 そして私達の様子にハテナを浮かべているアゴ男へ、にっこりと深い笑みを作り、



「――ビルの出口の横、一階東の方の廊下にある倉庫部屋で~す」



 何の臆面もなく、そう言った。



『――――!』



 その途端アゴ男のスマホから慌ただしい音が響く。

 きっと、聞いたこの場所へと走り出したのだろう。ツーブロ男が今どこに居るのかは知らないが、繋がったままの通話からは足音がけたたましく流れていた。



「……ワタシのせいだから、いいんだよ」


「え……」



 すると耳元でそんな声が落ち、背中に突きつけられていた硬いものが離れた。

 私はすぐさま口元の手も振り払い、黒髪女へと振り向き――突きつけられていた物の正体に言葉を失った。



「は……ゆ、指……?」



 そう、彼女の手には何も握られていなかった。

 人差し指と中指を軽く曲げ、その関節を押し当てていただけ。黒髪女の言葉を受けた私が、その感触をスタンガンだと勘違いしたのだ。



「あ、あん……あんた……」


「準備、しないの?」



 わなわなと震える私をよそに、黒髪女はまたドアを眺める。


 準備。その言わんとする事は私にも分かる。

 分かるけど、すんなり呑み込めるかは別の話で。

 そう狼狽える私に黒髪女は苦笑して、更に何か言葉を重ねようとして――



 ――あぇ?



 ……部屋の、外。

 ビルの入口側の廊下奥から、誰かの間抜けな声が耳に届く。


 ツーブロ男の、声だった。






 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ






 絶叫。

 下げられていたドアノブが跳ね上がり、磨りガラスに映っていた白い影が消える。

 湿った足音が遠ざかり、ドアの前から気配が消えた。


 視認したのだ。そこに居た『何か』が、この部屋に近寄る者の姿を――。



『――走れッ!!』


「!」



 メモ帳が一際大きく揺れた。


 中身に何が記されたのかなんて、読まなくたって分かる。

 私の身体が即座に動き、アゴ男と黒髪女の腕を掴んで駆けだした。



「へ? あ、おわぁっ!?」


「……っ!」



 ドアを正面から蹴り飛ばし、壊されかけていた鍵を完全に破壊して外に飛び出す。


 当然騒音が響いたけど、もう気にしている場合じゃない。

 邪魔なドアの残骸を蹴り飛ばしつつ、私は『何か』が走り去ったビルの入口に繋がる先を確認し――その時、廊下奥の曲がり角から鮮血と肉片が飛び散った。



「――――」



 まるで、トマトスープの入った鍋をひっくり返したかのようだった。

 床と壁が穢らしい赤で濡れ、肉片が、臓腑が、潰れた目玉が沈んでいく。


 絶叫が反響し、悲鳴も何も届かない。

 だけど私は、その中にツーブロ男の断末魔を聞いた気がした。



「……ッ! い、入口と逆! 東廊下の奥側ぁ!!」



 恐怖と共に吐き気が昇ったけど、無理矢理抑え込んで廊下の反対側へと駆け出した。


 もうビルの入口には向かえない。行けば間違いなくツーブロ男の二の舞だ。

 仕方なく別方向に行くとインク瓶に告げ、返事を見ないまま周囲を探る。



「な、なにこれ? うるさっ、これっ、なんなん? どーなってんのぉ……!?」



 響き続ける絶叫の中アゴ男が何かを言っていたけれど、聞き直している暇など無い。

 私は彼と黒髪女を振り回しながら必死に視線を走らせ、開閉可能な窓や扉を探し求め――。



「――!!」



 曲がり角。

 丁度吹き抜け階段の近くの小ホールに差し掛かった時、その窓を見た。


 全面ガラス張り。分厚く大きい押し開き式の、窓というより半ばガラス扉と言っても遜色のないそれ。

 その重たい窓に外側から張り付くようにして、彼らはそこに立っていた。



「――ひ、髭擦くん……!?」



 そう、窓の外にあったのは、必死の形相で窓を叩く髭擦くんと、ついでに『親』の一人らしい見知らぬ男性の姿だった。


 いや、というか『親』は分かるが、なんで髭擦くんまで来てるんだ。

 私はほんの一瞬呆然とし――その時、背後から聞こえていた絶叫が唐突に消え去った。

 代わりに湿った足音と何かを引きずって来る音が聞こえ始め、どんどんと近づいて来る。


 ……事切れたツーブロ男を例の部屋まで運搬せずに、引きずったまま私達を追って来ている。考えるまでも無くそれが分かり、喉の奥が引き攣った。



「横着してんなってぇ……!!」



 私は慌てて髭擦くん達の居る窓に近づくが、分厚いガラスに遮られ彼らの声は届かない。

 代わりにメモ帳に目をやって、インク瓶に縋りつく。



「ね、ねぇ! 髭擦くん達ここに居るって事は、こっから出られるんでしょ!? 私どうしたらいいんだ!?」


『外側と内側から同時に窓を開けるんだ! 彼が気付かれてない一度目しかチャンスは無い! 早く!』



 インク瓶の文章にも一切の余裕は感じられず、状況の切迫具合が強く伝わる。


 焦りのまま指示に従いガラスに肩を押し付ければ、窓の外で髭擦くんも取っ手を握る。

 互いの声は届かなかったが、複雑な事をする訳じゃない。口元の動きさえ見れば単純な意思疎通は図れた。



「い、いち、にーの――さんッ!!」



 タイミングを合わせ、私は全力でガラスを押し込み、髭擦くんは全力で引く。

 だけど、動かない。

 肩口に伝わる不動の感触に、諦めと絶望が脳裏を掠め、


 ――瞬間、感じていた抵抗が消え去った。



「え!? うわあっ!?」


「ぬおっ!?」



 何かが割れる音がして、どこからか黒い火花が弾け飛ぶ。

 同時にあれほど強固だったガラス窓があっさりと動き、私と髭擦くんはバランスを崩して倒れ込んだ。


 砂利とアスファルトが肌を擦り、通り抜けた風に鉄錆混じりの淀んだ空気が流される。

 外の空気だ。心の奥底から安堵が押し寄せ、吐息が震えた。



「あ、開いた……おい、大丈夫か!?」


「う、うん、平気。あ、ねぇ! あんたらも今の内――、っ!?」



 そうして黒髪女とアゴ男も呼び寄せようとした時、ギシリと何かが軋む音が聞こえた。

 それが今まさに開け放ったガラス窓から鳴ったと気付いた瞬間、私は跳ね起きその隙間に身をねじ込んだ。


 そう、ねじ込んだのだ。

 ガラス窓がひとりでに動き、開いたばかりの出口を再び閉じ込もうとしていた。



「ちょおっ!? まっ、ぐ、おかし、ぬおぉぉぉぉ……!!」



 物凄い力だった。

 私の膂力でも、これ以上閉まらないよう突っ張るのが精いっぱいだ。

 髭擦くんや『親』も手伝ってくれたが、もう一度大きく開け放つ事は出来そうに無かった。



「やはり、ここまですれば幾ら髭擦君でも気付かれるか……もう少し屈強な身体で来るべきだった」


「言ってる場合か……! くそ、いいから早くこっち来い! こっち!!」


「へ? あー……え? え?」



 私は必死にガラス窓を押し返しながら、まだ建物の中に居る二人を今度こそ呼び寄せる。


 アゴ男は何もかも意味が分からない様子だったが、私の怒鳴り声に流され、窓の隙間を縫って外に出た。

 あとは黒髪女だけだ。湿った足音がもうすぐそこまで迫っており、一刻の猶予も無い。


 ……だが、黒髪女は動かなかった。



「何してんだよ……!? 早く来いって! じゃないと――」


「いーよ、ワタシは」



 私の呼びかけをぴしゃりと遮り、黒髪女はにっこりと笑う。

 言っている意味が分からず、また呆けた。



「は、はぁ? 何バカな事言ってんだ! 良い訳ないだろそこ居たら殺されるんだぞ!?」


「そーかも。でもそれがあの子のしたい事なら、ねぇ」



 そう言うと黒髪女は窓から数歩離れ、くるりとこちらに背を向けた。

 どうも本気で『何か』に殺されるつもりでいるらしい。


 ここまで一緒に逃げといてそれは無いだろ。

 私は更に言い募ろうと怒鳴り声をあげ……その寸前、彼女の肩が震えている事に気が付いた。


 いや、肩だけじゃない。

 握り締められた手や、揺れる膝。身体の至る所が弱々しく震え、その本音を伝えている。


 本当は怖いのだ、彼女も――。



「ずっと考えてたんだぁ。あの子がワタシも狙ってるっていうのは、そういう事なのかなって。大変な時に一緒に居られなかったの、怒ってるんだろうなって」


「それはっ……だって、その」


「だから今度は、今度こそは一緒に居なくちゃ。ほんとに幽霊になってたなら、わ、ワタシも、」






 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ






 その時、また絶叫が轟いた。


 黒髪女に遮られ、私から『何か』の姿は見えなかった。

 けれど確かに廊下の奥から近づいて来るそれに、『親』以外の全員の身が竦む。



「うおっ!? な、何だこの声……!?」


「ねぇ! やめろよそんなの! あんたもう十分だよ! 友達乱暴したヤツ全員やったろ! じゃあもう良いだろそれで!!」



 狼狽える髭擦くんを無視し、黒髪女へそう叫ぶ。

 だけど絶叫に遮られ届かない。いや、聞こえないフリをされている。


 ……正直言って、彼女を必死になって助けてやる義理なんて私には無い。

 嘘つかれて連れて来られ、男に穢される事を期待され、スタンガンで脅されて、その後も色々余計な事ばかりをされた。

 ピアス男達と同じく、見捨ててしまったって誰からも文句は言われないんじゃないか。そんなレベルだ。


 ……だけど一方で、私はこの女を嫌いになり切れていない。


 それはきっと、理解出来てしまうからだろう。

 親友への想いとか、罪悪感とか、そういったものが、私にも――。



 ――あはぁ。



「……っ!!」



 また記憶の中で笑い声が聞こえ、私は黒髪女の背中へ手を伸ばした。


 当然、届く筈が無い。

 それどころか支えを無くしたガラス窓が大きく動き、閉まっていく。


 髭擦くんや、『親』の力だけではどうにもならかった。


 彼女が死んでいく。

 彼女の友達と、一緒のものになっていく。


 私は――彼女が絶叫に呑まれて行くのを、ただ眺める事しか出来なかったのだ。













「――えっとぉ、こ、こう? よく分かんねぇけど、俺もこれやる雰囲気ぃ?」




 ――その、空気の読めない声が聞こえてくるまでは。



「っ」



 ガラス窓の閉まる速度が僅かに緩む。

 ほっとかれて寂しかったのか、いつの間にか近寄って来たアゴ男がガラス窓の抑え込みに加わっていたのだ



「んぎぎぎぎ……おっも、おん、もぉぉぉぁぁぁ……!?」



 とはいえ、背が高いだけのヒョロガリだ。

 彼が加わったところで、長めのつっかえ棒代わりにしかならない。助けとしては雀の涙程度である。


 ――だけど、私にとってはその一滴で十分だった。



「こ、っのおおおおおおおおお!!」



 全力で地面を蹴り出し、建物の中へと飛び込んだ。


 ガラス窓がガクンと揺れるが、「ぎえぇぇぇ」挟まれた長めのつっかえ棒のおかげですぐには閉まらない。

 その間に私は黒髪女へ飛び付き、強引に抱え上げた。



「っきゃあ!? え、や、離しっ」


「聞こえないね!!」



 そうしてジタバタ暴れる黒髪女の抗議を、今度は私の方が知らんぷり。

 力の限り抱きしめ、耳がおかしくなる程の絶叫から背を向け床を蹴った。





 あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ






 声はすぐ後ろから聞こえ、何かが背中を掠める。

 しかし私は決して振り返らずに駆け抜け――ガラス窓を破る勢いで、思いっ切り突っ込んだ。



「うあッ――!?」



 誰のものかも分からない悲鳴が起き、ガラス窓が大きく揺れる。

 私は黒髪女を抱きしめたまま、皮と肉を削りながら隙間を通り、ガラス窓を支えていた全員と一緒に外の地面に転がった。


 そしてつかえの無くなったガラス窓は、割れるんじゃないかと思うほどの勢いで閉じられ――直後、ガラス一面が真っ赤に染まり、絶叫が途絶えた。


 私達を追っていた『何か』が衝突し、引きずっていたツーブロ男の血が飛び散ったのだ。



「いってぇぇぇ……!!」


「っう……な、なんで、ひどいよ――ひっ」



 真っ先に起き上がったのは、私に護られていた黒髪女だった。

 そして血の広がったガラスに短い悲鳴を上げ……すぐに息を呑み、凍り付く。


 それは今まで散々血だまり見て来たにしてはどこか妙で、私も削れた皮膚の痛みに呻きつつ、彼女の視線を追った。



「……っ」



 赤く穢れたガラスの隙間に見えたのは、ツーブロ男の血肉を頭から被った『何か』――白い服を着た女性の姿だった。


 さっきの衝突でこうなったのだろう。

 ガラスにへばり付いた血肉に隠れ、ご尊顔こそ見えなかった。ただ、再び二階でやっていたような頭突きを、ガラス窓に繰り返していた。


 それはこちらを見ていない。

 怒っているのか、悔しがっているのか、それとも嘆いているのか。その様子からは、やはり何も汲み取れない。


 ――だが、外まで追って来る様子も無かった。


 ……逃げ切れた、のだろうか。

 まだ、よく分からなかった。



「…………」



 そしてこれなら、霊視能力の無い黒髪女でも『何か』を視認出来るだろう。

 被った血肉の縁取りが、疑似的な霊視を彼女に与えているのだ。


 ……喪われた友達との再会。

 私は何を言うべきかを迷い、しかし話しかけても文句しか出て来ない気がした。

 そのまま口を噤み、代わりに隣で呻いている髭擦くんを助け起こそうと手を差し伸べて、



「……違う」



 ぽつり。突然、黒髪女がそう零す。


 再び見れば、彼女の視線は私の位置からは見えない『何か』の顔へと注がれている。

 青く染まったその表情は尋常なものではなく、思わず声をかけていた。



「……何がよ」


「これ……この人――あ、あの子じゃ、ない」


「……、……え?」



 一瞬、頭が言葉の理解を拒んだ。


 ……いや、何言ってんだ?

 ここに居るのは彼女の友達の幽霊で、だからこうなっている筈だろう。

 それが、そうじゃなかったって言うんなら、そんなの――。


 冗談を疑ったけど、黒髪女の顔からはとてもそう思えない。震えながら、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返している。



「ちがう……鼻、口……胸……大きさ、形、ぜ、ぜんぶ、ちがう、ちがうの……」


「……いや、だって……」


「ち、違う。ちがう……あの子じゃない……あの、あの子じゃ……」


「…………」



 ……じゃあ――これは、誰なんだ?


 私はもう一度、ガラス窓に頭突きを続ける『何か』を見る。

 その顔はやはりガラスの血肉に遮られ、私の位置からは窺えない。


 けれど、わざわざその顔を確認する気も、また起きなくて。



「…………」



 ガラスの向こうで、『何か』の頭突きが続いている。

 音は無く、揺れも無い。ただ、そう見える動きだけ。


 ――顔の見えない『何か』は、いつまでも、いつまでも、それを止める事は無かった。

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