六、瑞枝
「〈すべてのもの〉が産まれた」
早鷹が言うと、車座がざわめいた。ヒノメが聞いた。
「〈すべてのもの〉
「〈すべてのもの〉が、だ。あれは、他に言い表しようのない子だ」
へえ! とか、なんとまあ、とかいう声が、ひとしきり場に満ちた。別の神が言った。
「他に言い表しようがないとは、どういうことだね? 何か、見たこともないような姿をしているだとか、そういうことかね」
「頭が九つある
「わたしは乙女の顔をした獅子を創ったことがあるよ。これがなかなか賢くてな」
「わたくしは父の頭から産まれました」
あらゆる神々ががやがやと言い合った。しかし、〈すべてのもの〉が産まれたとは何なのか、言い当てたものはなかった。
早鷹は手を上げてみなを黙らせた。
「その子は、疾風の子として産まれた。豊葦原で生まれたのだ」
「豊葦原で? それなら国つ神か? 」
「いや。産まれたとき、決まった器を持っていなかったらしい。名を与えて、留めたそうだ」
「では、常世神が豊葦原で生まれたのか? そんなことがあるのか? 」
「常世神とも言い切れん……その子の母は人間なのだ」
しばらく、誰もものを言えなかった。吉祥か不祥かも分からない。何しろ、常世神と人との間に、子どもなど生まれたことがなかった。
ようやくある神が言った。
「……その、若子の母御。豊葦原にある人の身で、疾風の姿が恐ろしくはなかったのかのう。ほれ、豊葦原に行っているものは、常世神の姿が正しく見えんそうではないか? 」
「めったにいないが、恐れを超えた目を持つものはいるようだ。常世にいたときのことを、魂の奥底で覚えているのだろう」
と早鷹が答えた。
「豊葦原は、常世国では見出せぬものを見出すための場だ。恐らく、常世のことを記憶しているということでしか、得られぬ学びがあるのだろう。他のものが忘れているのならなおのこと」
「それならば、あまりよい扱いは受けていなかったのではないか? 」
「あるいはな。なればこそ、疾風と結ばれたということもありうる」
「わたしたちが知っておかねばならないのは」
日照雨がみなを見回しながら言った。
「その子が〈すべてのもの〉である以上、わたしたちの知らぬこともすべて知っているかもしれないということだよ。わたしたちが生まれ、生きながら学ぶものを、その子はもうすべて持っている――何もかもを同じように持っているから、まだ何ものでもない」
神々が息を呑んだ。車座の一同は、みな自分が〈すべてのもの〉から分かれ、〈すべてのもの〉からいくつかの性質を受け継いで生まれたものか、その子であることを知っている。源は同じでも、そうして分かれたものは少しずつ違う。
だが、疾風の若子は違うのだ。疾風の若子は、〈すべてのもの〉そのものなのだ。あらゆる神の力、あらゆる人の情、あらゆる美しいもの、あらゆる醜いもの、あらゆる聖なるもの、あらゆる卑しいもの、持たぬものもなく、持つものもない、生まれながらに何も定まっていない、誰も見たことのない子ども――。
「あの子がどうなるかは、誰にも分からぬ。あの子にすら分からぬだろう。吉祥とも不祥とも言える。あの子がみずからの中から何を選び取るようになるかにかかっておる」
沈黙を破って、ある神が言った。彼は知恵を司る神だった。
「まこと忌まわしい、恐ろしい災厄の神となるやもしれぬ。〈すべてのもの〉には、我々が思いもよらない惨いものもあるであろうから。しかしあるいは、この上なく気高い、美しい神となるやもしれぬ。どんなものもかいなに
「その子は、イザナミとは違うのか? 」
最後に、また別の神が聞いた。その声には、期待のようなものがにじんでいた。
「イザナミも、〈すべてのもの〉へ還って久しかろう。もしや、関わりがあるのではないか? 」
「その子は、イザナミであり、わたしであり、そなたであり、またその子自身でもある」
知恵の神が答えた。
「だが、誰がそうでないと言えるのかね。確たる我など、あってないようなものではないか。我々とて、同じ源から生まれたのだから」
※
その日、常世国の淡海に豊葦原からひとつの舟が現れた。まろうどを迎えるために集まったものたちは、操るものもなしに岸へやってきた舟から降りた疾風を恭しく迎えたが、いつまでも堅苦しい姿勢でいることはできなかった。
疾風に手を引かれ、まだ幼い少年――顔かたちは娘のようでもあったが、少なくとも、装いは貴人の少年のものだった――が姿を現したのだ。その子は大人びた、凛とした目をしていたが、顔立ちに残る愛らしさに和らげられていた。
「悠さまもご一緒で」
前の方にいた八雲は難しい顔をあっという間に引っ込めた。ひざかも、何もしなくとも尖って見える目じりを今ばかりは下げた。
「これはこれは、嬉しゅうございますなあ。久しくお目にかからないうちに、大きくおなりあそばして」
疾風が笑った。
「豊葦原のひとのようなことを言うなあ、ひざかよ。向こうは一年も経っていないぞ」
「幼い子の育ちが早く感ぜられるのはどこでも同じことなれば……」
「
大人たちのやりとりなど知らぬげに、悠がうずうずと尋ねた。八雲はほほえんだ。
「真珠さまも悠さまをお待ちです。おじいさまもおばあさまも、ヒノトさまも、みなさまがお待ちですよ」
悠は父の顔を見上げた。疾風は頷いた。
「父はあとから行こう。先に
「では、わたくしがお連れいたしましょう」
「お優しい方におなりで、なによりでございますなあ」
八雲が目元を緩ませた。疾風は頷いた。
「今のところ、何も恐ろしい質は現れていない。まあ、神だとて、人の子だとてそうだろう。惨いことをするようになるものは、わけなくそんなふうに育つのではない。わたしたちは、悠に多くのものを見せてやらねばなるまい。……もっとも、あの子の方が知っていることは多いのかもしれないが。たまに、こちらが驚くようなことを言うのだ。幼い幼いと思っているのは、わたしだけなのかもしれぬ」
「我が子に育てられているようとは、よう言ったものじゃ」
ひざかは疾風を労った。
「悠さまには、疾風さまも小夜さまも、真珠さまもいらっしゃる。なにも不安はございますまい」
「うん。真珠があの子に見せてくれるものは、わたしたちとは違うからな」
疾風は声を低めた。
「実はな。このたびは、悠に神として名を賜るために常世へ戻ったのだ」
「なんと」
「悠が言い出したのだ。……真珠のかたわらにいつまでもいられるように、人でなく神になるのだと」
※
悠たちが里へ着いたときには、里で一番大きなヒノメとヒノトの屋形にみなが集まっていた。みな悠を迎え、悠も喜んでみなの輪へ加わった。
そして、その中に真珠もいた。さみどりの柔らかな髪が、遠目にもきらきらと細く輝いている。
「真珠! 」
真珠ははっと顔を上げた。髪と同じ、明るい瞳には、内から光が宿っているかのようだ。悠は真珠のものほど美しい目を他に知らなかった。
「悠! 」
真珠は駆け寄ってきて、悠に飛びついた。早鷹が笑った。
「仲が良いなあ、おまえたちは」
「あなただって似たようなものだったろう。……悠、おまえの父上から聞いたよ。悠は常世国で暮らすつもりだとね」
「本当か」
日照雨の言葉に、ヒノトが叫んだ。ヒノトは悠や真珠より少し先に生まれただけだというのに、すでに子どもらしからぬ凛々しい面構えを備えていた。といっても、常世の神の中ではやはりまだ若く、悠たちにとっては兄のようなものだった。
「それじゃあ、常世に戻ると決めたんだな。人として生きるのは、やはり辛いか? 」
「辛いばかりではないよ。豊葦原にいるのも悪くはないさ。でも、わたしは自分で国を創る方がいいと思って」
遅れて疾風たちがやって来て、屋形の中にひとが揃った。白い髭を美しくたくわえた神が取り仕切った。知恵を司る、思金神だ。
「みなで良き名を考えてしんぜようぞ。疾風殿、何か考えがあるかね? 」
「この子は、〈すべてのもの〉なのです」
疾風の声は凛としていた。いつも朗らかで、母や悠を笑わせてばかりいる父がそんなにかしこまったもの言いをするところを、悠は初めて見た。思金神は髭を撫で、頷いた。
「そのとおりじゃ」
「我らすべてを生み、すべてを還すあの大いなるもの。この子の名には、それがもっともよく現れるようにしたいと存じます。ひとはしらの神として一個のものとなっても、源には大きな力が流れ続けるように」
「ふむ」
「また、〈すべてのもの〉の中から、この子が善きものを選べるように。すべてを持つものなればこそ、ふさわしいものを選べるように、何か言祝ぎを加えたく存じます」
「なるほどのう」
「呼び名もそれにふさわしくなければなるまい」
早鷹が口を挟んだ。
「美しく呼びやすい、力ある名でなくては。わたしたちは、生まれたときに名をすでに決めてくるからな。ひとの名をつけるからには、よく考えねば」
「あまり詰め込みすぎてもおかしなことになってしまうぞ……」
「自分の名を決めるときどうしたのだったかな」
神々はあれやこれやと話し合いをはじめた。これから二日の間、みな悠のために名を考えるのだ。
行こう、とヒノトが悠と真珠を促し、三人で屋形を出た。里では常世国に暮らすものたちが思い思いに時を過ごしている。青い稲が波のようにさざめく。どこからともなく流れてくる笛の音がのどかだった。
悠たちは山道を登って早鷹の屋形まで行き、南向きの廊から見下ろした。眼下に滝の里が見え、森や山、淡海がみな見えた。山々の連なりのまだ奥に輝くところがあって、ヒノトによるとそこは、淡海より大きな海だということだった。
「常世国で何かを創るのなら、これまで神々がどんなものを創ってきたのかを見ておくのも悪くない。常世国には果てがないからな。いつも新しく創られるものがあるし、一度創られたものも変わるものだ」
「悠は一緒に決めなくてもいいの? 」
と真珠が聞いた。悠は頷いた。
「わたしは、まだみずから〈何か〉になろうとすることができないんだよ。悠という名をつけていただいたから〈悠〉として生きているが、もともとは何ものでもあり、何ものでもない。だから、新しく〈何か〉になろうとするならば、ひとからきっかけをもらわなければならない。言祝ぎを込めた名をわたしに与えることで、いざというときわたしを止められるように、という意味もあるだろう」
ヒノトが肩をすくめた。
「君にそんな心配がいるとは思えないがな……」
「それは分からない。わたしにも、わたしが持っているものすべては見えていないのだから」
「とんでもなく難しい名にならなければよいな。あるいは、やたらに長い名だとか……」
「そうなったら、わたしにはその名がふさわしいということさ。第一、人の子はみな父上や母上から名を賜るのだから。たとえば、わたしの母の名は小夜というのだが、母が生まれたのは月の美しい夜だったそうだ。……真珠やヒノトは、自分で名を決めたんだろう? 」
「そうだな。〈すべてのもの〉の中にいるとき、〈わたし〉が集まりはじめたときに決めたよ。名を決めると、〈すべてのもの〉から切り離されるんだ――わたしは鉄を鍛える火の神だから、本当の名は〈鉄を打つ勢いのある炎〉という意味だ。呼び名のヒノトというのは、〈火の弟〉だからだ。姉がいるということと、ひとに使われる火であるということをかけている。真珠もそうだろう」
「わたしも同じ。わたしは土の神だから、本当の名前は〈不思議な力のある美しい大地〉という意味なの。〈真珠〉は、きらきら光る綺麗な石、ということ。石や岩も、土の中にあるから」
真珠は遠く見える山を指差した。頂から白い煙が上っている。
「土の神と火の神が力を合わせると、ああいう火の山が創れるの。あの山から、石や岩の素が出るんだよ」
「真珠がヒノトと創ったのか? 」
「ううん、あの山を創ったのは、別の土のひと。一緒に山を創った火のひとと妹背になって、あの山の麓の里にいるよ。わたしもそのうち大きいものを創ってみたいんだ」
「わたしは、いずれ宝剣と呼ばれるような剣を鍛えたいな――持つものの心を整え、力を授ける宝剣だ。主を助け、迷いを断ち切り、曇りを晴らすような。鏡も悪くない。向き合うもののまことを映し出す、神の持ちものだ」
悠は常世国の空を見上げた。常世国には、豊葦原のような空はない。星の巡りによって時が経つのは分かるが、常に暗い天に星がいくつも瞬いているのが見えている。大小の星が色とりどりに輝いているのは美しいが、悠は同じくらい、豊葦原の空が好きだった。豊葦原を創った神も、きっと同じことを思ったに違いない。
「わたしは空を創りたいな」
と悠は言った。
「豊葦原にあるような、広い空を。雨が降って、稲妻が落ちる。虹がかかる……朝と夜が来る」
「そうか、空か。それはすごい。考えたこともなかった」
ヒノトが感嘆した。真珠は首を傾げた。
「空って、どうやってできてるんだろう? どういう力で創れるのかな? 」
「陽から光が集まっているんだよ。七色の光が。だから、青くもなるし、赤くもなる。夜になれば、暗くなって星が見える。今見えているのと似ているが、豊葦原の夜はずっと暗いものだよ」
「常世国の夜は、星の位置が変わるだけなのにね」
三人は、しばらく黙って空を見上げた。ヒノトも真珠も、豊葦原に生きていたときのことを思い出そうとしているのだ、と悠には分かった。還ってきたときに〈すべてのもの〉の中に持っていた荷を下ろしてしまっていても、その荷はなくなったわけではない――かえって、ふたたび〈すべてのもの〉から生まれるものは、みなの荷を少しずつ分けてもらってくるはずだ。
今のふたりが思い描いている空がかつて見たものと同じとは限らないが、それでもふたりは、豊葦原の空の色をほのかにでも思い出せたに違いない。
「すごく、明るいものだった気がする」
しばらく経ってから、真珠が呟いた。ヒノトも頷いた。
「ああ。美しいものだったな」
そして、自分が今見ている空との差にやるせないような顔をして悠を見た。
「常世国の空に疑問など抱いたことはなかったが、思い出してみると切ないものだな。生きていた頃は青い空のありがたみになど気づいていなかったかもしれない……あまりに、当たり前だったからな。君が明るい空をどこかに創るというなら、わたしもその空の下で暮らしてみたいものだ」
「ヒノトは、よく空の下で寝そべっていたからな」
悠が言うと、ヒノトと真珠はぎょっと悠を見返した。
「……分かるのか? 」
「好んで覗いたりはしないが、分かる。空の下にいた記憶は、強く残っていたからすぐ見えたんだ。話そうか? 」
ヒノトは考えたが、それは本当に短い間のことだった。
「いや、今覚えていないのだから、構わない。空が美しいことを思い出せただけで十分だ」
「わたしも、寝そべってたりしたのかなあ」
真珠が呟いた。だが、真珠もヒノトと同じように、かつて自分が生きた記憶を深く辿ろうとはしなかった。真珠は寝そべってはいなかったよ、とだけ、悠は教えた。悠にとっても、詳しく知らない方がいいに違いなかった。
豊葦原に生きている間に起こることは、楽しいことばかりではない。真珠が豊葦原で辛い人生を送っていたとして――真珠がもう済んだことだから、と言ったとしても、悠は同じようには思えない気がしたのだ。
※
その晩の宴の最中に、悠と真珠はふたりで森へ抜け出した。常世国の昼と夜にはあまり違いがないとはいえ、夜の森はやはり人気がなく、虫の霊たちの鳴き声だけが聞こえてくる木叢は静かだった。
「森は美しいな」
悠は真珠の手を引きながら、頭の遥か上に広がる枝葉や、立ち並ぶ木立ちや、苔むした岩や、ひそかな水の流れを眺めた。砕いた水晶のような水面には、悠たちと、天上の星の粒がたゆたう。過ぎてゆく風は涼しかった。
悠は水に手を浸してみた。真珠と日照雨の力を感じる。
「この森は、真珠が創ったのか? 」
「この里の辺りの森は、そう。この杉も、あっちの榊も、わたしが生やしたの。この川は日照雨さまと一緒に創ったんだけど、初めてだったからあまり大きな川にならなかったの」
真珠は悠の隣で同じように水に手を入れた。小指の先ほどの小さな魚がふたりの指先に集まってきて、挨拶がわりにちょっと触れてから、また流れの中に消えた。
真珠は悠に笑いかけた。
「悠が常世国へ戻ってくるって聞いて、嬉しかった。一緒に何か創れたらいいなって、ずっと思ってたの」
「何を創りたい? 」
「きれいな泉があったらいいなと思うの。そのそばに、実のなる大きな木を創りたいな……」
「やってみよう。見ていて」
悠は両手を器の形に合わせて、蓮の前に差し出した。するりと水が湧き出し、水玉を散らしながらとくとくと豊かにこぼれた。
だが、水を創る間に手もだんだんと透きとおり、手の甲から水が滴りはじめたので、悠は仕方なく止めた。
「……だめだ。まだきちんと神になっていないからかな。あまり力を使おうとすると混ざってしまうんだ」
「きれいな水だったね」
真珠は悠の手からこぼれた水玉を、ほほえみながら名残惜しげに見送った。その手のひらに柔らかな土が盛り上がり、真ん中から細い芽が伸びる。新しい芽はどんどん育ち、真珠の目と同じ、さみどり色の葉を二枚開いた。悠は真珠の手に下から手を重ねた。
「わたしもやってみる。わたし、自分だけの木を創ったことがないの。いつかそのときが来たら、誰かと一緒に創ってみたいと思ってた。あの、火の山を創ったふたりみたいに」
真珠は夢見るようだった。悠はその目を飽かずに見つめた。
「そなたの目と同じ色だ」
悠は嬉しかった。真珠と初めて会ったのは、もうずいぶん前だ。そのときの悠は――真珠も同じだったが――ものを言うのもおぼつかないほど幼くて、真珠とまなざしを交わしたときに〈すべてのもの〉として胸に抱いた印象を、どう言い表せばいいのか分からなかった。だから、真珠に伝えることはできなかった。
だが、今なら。真珠がこちらを向いている。
「真珠の目は美しいな」
真珠は瞬きした。
「ほんとう? わたしの目が? 」
「ほんとう。ずっと思っていたんだ……わたしは、前に豊葦原で生きていたときにも、真珠に会ったような気がする。今はそのときのことを覚えていないが、きっと真珠の目はそのときと同じなんだ……」
真珠の根づかせた芽はまず低い木になり、枝葉を次々に伸ばして、たちまちふたりの背を超えた。雪のように白い花が開き、同時に黄金色の実がなる。爽やかな、よい香りがした。
「すっぱい」
真珠は実をひと粒取って口に入れたが、すぐに唇を尖らせた。
「まだ甘くない――だけど、きれいな木。悠のおかげでできた」
「泉も、真珠の助けがあれば創れるかもしれない」
悠は水玉がこぼれたところに触れた。柔らかく、温かい土。真珠そのもののようだ。中に幾本も、水の流れが通っているのが分かる。
悠は真珠の木から少し離れたところに立って、手を広げた。
「ここを窪地にして、泉を創ろう。今はわたしひとりではできないが、ふたりでなら創れる」
「ここに水を出すんだね」
真珠は悠の隣に来て、悠と同じように足元の土を触った。ゆったりとした大地の揺らぎとともに、悠たちの周りの地面がせり上がった――いや、違う。ふたりを真ん中にして、広く深く窪みができつつあった。時を遡るように草木が縮んで土に吸いこまれてゆき、むき出しになった土の香りが満ちた。
悠は真珠と手をつなぎ、土の下を行く水の流れのひとつそのものになった。〈悠〉がなくなってしまいそうになったが、大地に宿る真珠の力が周りから悠を守り、外へ導いた。
「来た! 」
真珠の声がすぐそばでして、〈悠〉は水から切り離された。手元から清水が湧き出している。ふたりは新しい窪地の緩やかな坂を上り、少しずつできていく泉を見守った。湧き出したばかりの水は細かな土や砂を巻き上げ、まだ美しくは見えなかった。
真珠が手を動かすと、水の入ったところに藻や水草が生えてきた。
「〈すべてのもの〉がはじめて開いたとき、あんなふうにぐちゃぐちゃに混ざったものの中で軽いものと重たいものが上と下に分かれたんだって。水と土が混ざっているのを見ると、いつもそのことを思い出すの。だんだんと土と綺麗な水に分かれてくるから」
ふたりの手はまだつながっていたが、ふたりとも互いの手を離さなかった。真珠ははにかんで悠を見た。
「わたしも、豊葦原にいたときのことは覚えてない。だけど、悠とは会ってたんじゃないかって、ずっと思ってたの。ううん、会っていただけじゃなくて、きっと一緒に長い間一緒に過ごしていたんじゃないかと思うの……だって、こんなに……」
真珠は最後まで言わなかったが、悠にはそれで十分だった。ふたりは、しばらく黙って新しい泉を眺めた。
「わたしは、真珠が好きだ」
悠は呟いた。悠がそうしようと思えば、濁った泉をすぐに澄ませることはできる。だが、悠は真珠のかたわらで、自然と泉ができあがっていくのを見ていたかった。
「豊葦原は、常世国と似ている――豊葦原にも、美しい森はある。でも、真珠がいるのは常世国だけだから……」
「それで、決めたの」
真珠の横顔は静かで、とても大人びていた。健やかな色の瞳が、遠い記憶を見はるかす。悠は目を細めた。一瞬、姿は変わらなかったが、悠には真珠が真珠でない人に見えた。真珠でないその人の面影が、悠にはなぜか、とても慕わしかった。少し、泣きたいような気持ちが混じっていた。
わたしも悠が好き、と真珠は話した。
「豊葦原にいたときのことが〈わたし〉だけの思い出じゃなくなったことを、嫌だと思ったことはないの。〈わたし〉の中からなくなって、〈すべてのもの〉に受け取られたことを。覚えてなくても、きっと同じひとを好きになったりしているんだと思う……わたしはわたしだもの。でもね、前にもこうやって悠といたとして、そのときのことを〈わたし〉の中に残しておけなかったのは、少し残念だったな」
「話そうか? 」
真珠の返事は分かっていたが、悠は尋ねた。
「話してもらっても、もうそれはわたしの思い出じゃない……」
真珠は首を振った。そして、
「また、新しく創ればいいもの。今、こうやって一緒にいるんだから」
※
神々の長い話し合いのあと、思金神はみなの前で悠に新しく名を与えた。
わたしたちはそなたを
「悠、という名で呼ぶのも構わない。遥かなるものを表す名だ。この神にはふさわしい」
悠に従って風が吹き、大地が鼓動した。悠は風や水の中に現れて世界を見た。だが、〈悠〉がいなくなってしまうことはなかった。みずからと、そのほか。生と死によって分かたれない緩やかな区切りが、そのとき悠にもたらされた。
「おかえり、輝若彦。器を壊さずに常世へ還りついた神よ」
早鷹が言祝ぐ。宴が催され、神々の祝福や楽の音とともに、悠は常世国へ迎えられた。
「豊葦原へ出たときは、我が子を先に常世へやることになるとは思わなかったなあ」
疾風が、眉を下げて笑った。
「おまえのような子が生まれるとは、思っていなかった。美しいものを創りなさい。いつか、母上にも見せてあげられるように」
「はい、いつか」
悠は頷いた。すでに真珠とともに創った木や泉があることは、誰かが気がつくまで誰にも明かさずにいようと決めていたので、父にも言わずにおいた。今はまだ、真珠との間にだけあるものにしておきたかったのだ。
悠と真珠が創った木はじきに六花樹と呼ばれるようになり、泉は青く暗い水の重なりを、深みまで見通せるくらいに澄んでいた。泉には幼い水霊たちが棲むようになり、蛍が何匹も光の尾を引いて飛び交っていた。泉の底には、悠が創った屋敷がある。悠と真珠は、よくふたりで水の底を歩いた。泉を創ったときに真珠が生やした水草は、そのときから変わらずに青くたなびいている。細かな泡に光をまとわせると、それが灯の代わりになった。
「光が射したら美しいだろうな」
悠は真珠とともに水から出た。水は、ふたりの衣を濡らしはしない。常世国の空には、ヒノメが創った星の明かりがあるばかりだ――大きい星も、小さい星もある。模様がある星もある。みずから光を放つ星と、その光に照らされて輝く星とがある。一番はじめにできた星はどれなのだろうと悠は思った。
悠は掌に星を創った。しばらく熱を帯びて輝いていたその星は、しばらくすると冷めて、崩れてしまった。
「あそこにある赤い星は、今わたしが創った星よりずっと大きいんだよ。だから、長く光っていられるんだ」
「ヒノメさまに聞いたことがあるの。あんまり大きく創ると、星が還るときに弾け飛ぶって。それで、散らばったかけらがまた新しく星になるんだって」
「そうか。……天にも終わりはないのだな」
悠は星ではなく、光そのものを創ってみた。何度試してみても、創った光を留めておくことはできなかった。悠が手を外すと、消えてしまうのだ。だが辛うじて、似た色を何かに宿らせることはできた。
「手のひらを出して」
両手を泉の水で満たし、真珠の手の上に水玉を落とす。水玉は真珠の力で丸く固まり、磨きたての水晶のように白く光った。悠は真珠から水玉を受け取って、両手で包んだ。小さな粒の集まりは、大きなひと粒になった。悠がその水玉に光の色を封じ入れるのを、真珠は目を丸くして見守っていた。光から生まれた七色は、照らすものがなくても鮮やかだった。
「真珠が持っていて」
悠は真珠の手に水玉を乗せた。真珠は不思議そうに、しばらく手のひらで水玉を転がしていた。いつもは悠よりずっと大人びているその顔が、このときだけ実にあどけなく見えた。
「すごくきれい」
「わたしたちの証にしよう。真珠の他に、それを持っているひとはいないから」
しばらく、ふたりの間に言葉はなかった。証などなくても、ともに時を重ねてゆけることを悠は知っている。それでも、悠はどうしてか、真珠にふたりで創った美しい水玉を手渡したかった――星を見ているうちにそう思いついたのだ。そうすることで、目に見える絆を通わせることができるような気がして……目に見える絆? まるで豊葦原の人のようなことを考えたことが、悠は自分でも不思議だった。豊葦原にいたときのことが、知らず胸に残っているのだろうか? それとも……。
ふいに、なんともいいようのない気配の塊を感じて、悠は身震いした。良いとも悪いとも区別できないその気配は、ただ、とても強かった。
やがて木立ちの影からするりと現れたものが何なのか、悠も真珠も知らなかった。何やら分からぬ塊は、どのようにも形を自由に変えた。目を凝らしてもその姿を正しく捉えることがどうしてもできない。辛うじて、どうやら細長く、赤みを帯びた色をし、鱗のような細かな金の
「なに、これ? 」
真珠は蛇に近づいて、よく見てみようとした。
「何かの霊かな? 」
「形を捉えられない――本来は姿があるものではないのかもしれない」
悠は〈すべてのもの〉の答えを探った。しかし、いくら問いをかけても、心に浮かぶものは何もなかった。
いや、〈すべてのもの〉に含まれないものなどありはしない――悠は真珠の横から同じように蛇を観察した。何か、答えが明かされないわけがあるに違いない――。
「おなじ。おなじ」
蛇が訴えた。煮溶かされて形を失ったようなその姿では口を利くどころか、生きているものなのかも分からなかったが、おなじ、と訴える声が思いがけず澄んだもので、悠と真珠は顔を見合わせた。男のものとも女のものともつかない、不思議に清らかなようですらある声だった。
「同じ、と言いたいのか」
悠が確かめても答えはなかったが、蛇は首を上げるような格好で熱心にふたりを見つめるそぶりを見せた。それからまた何かを言った。
「たらちねよ」
音の起伏なく繰り返される短い言葉はひどく聞きづらかった。悠はさらに赤い蛇に近寄り、よく耳を傾けようとしたが、待って、と真珠が止めた。悠の袖を引き、蛇を見つめる顔は少し青かった。
「近くへ行かないほうがいい……わたしは、あれが怖い」
怖い? 常世の神らしからぬことを真珠が言うので、悠は驚いた。肉の体に縛られない常世の神は、恐れや怒りを持たないものだ。ところが真珠は膝を抱えてその場に座り込み、顔を上げずにしゃくりあげはじめた。そうかと思うと、決然と立ち上がろうともした。真珠と真珠でないものが戦っているかのようだ。ようやく顔を上げたとき、真珠は辛そうに言った。
「わたしじゃない……これはわたしの心じゃない……」
土が、と真珠が言うより早く、木が倒れはじめた。かと思うと、灰色の枯れ木が槍のように突き出て、めちゃくちゃに伸びた。真珠の力が暴れているのだ。大地が揺れ、落ちた葉はざあざあ音を立てながら、蛾の群れのように天を埋めた。星の集まる常世の空には、傷口のような真っ赤なひび割れができ、そこから鈍色の雷が打ち落とされていた。泉の水霊たちが何事かと顔を覗かせたが、木がそちらへ向かって倒れてゆき、慌てて水の下へ戻った。
そして、あちらこちらから亡者たちが――常世へ戻りながら、豊葦原に縛られ続けているものたちがやってきた。死を迎えたときの傷を負い、病に冒され、腐り崩れた肉の群れだ。赤い蛇はうろたえて、おろおろとして森が狂っていくのを見ていた。六花樹は枯れはしなかったが、熱病にかかった人が身震いするときのように、何度かざわりと大きく葉を揺らした。
血の池だ! ひとりが泉を見つけて叫ぶと、亡者たちは恐れおののいて押し合いへし合いした。ぐちゃぐちゃと耳障りな音が響き、血や肉片が飛び散る。誰かの頭の半分が飛んできて、悠たちの足元に転がった。醜い光景だった。みな、誰かを先に行かせようとして押し合っているのだ。
何が起きているのか分からない。それに、真珠の様子がおかしい。早鷹、日照雨、ヒノメ、ヒノト、ひざか、八雲、誰でもいい、助けを呼ばなければ。悠は真珠とともにそっと場を離れようとした。だが――。
「鬼だ! 鬼がいるぞ! 」
足元の半分になった頭が片方しかない目玉をぎょろりと動かして、悠と真珠を睨んだ。その途端、亡者たちは動きを止めていっせいにふたりの方を向いた。
「どっちも大きくないぞ」
亡者たちは悠と真珠、それに赤い蛇を取り囲み、じりじりと間を詰めはじめた。
「それに、二匹しかいない……いつもいる大人もいない」
「だが、鬼であることに変わりないぞ……」
「先に連れてゆかれたものの恨みを忘れるな。あのものたちは無念にも、死んでなお責苦を受けているのだ」
亡者たちは口々に歌のようなものを口ずさんだが、ひとつひとつを聴き分ければそれは、すべて常世国のものに対する恨み言だった。低い、くぐもった何人分もの恨みがましい声はおぞましい旋律になり、読経のように悠たちにつきまとった。
「そのうちに、大きい鬼もやってくるぞ」
悠たちの足元で、半分の頭が裂けた口を動かした。
「一匹は、ここで殺してしまえ。もう一匹は、大人の目の前でやるんだ。鬼どもに思い知らせろ! 」
「殺せ! 」
「殺せ! 」
亡者たちは血を吐き散らし、朽ちた拳を振り上げた――悠の目に、亡者たちの記憶が次々と押し寄せてきた。恐怖や、悲しみ。苦しみ。嘆き。すべてが、怒りとなって悠たちに向けられている。
亡者たちは悠と真珠に襲いかかり、ふたりを引き離そうとした。しかし、大地が揺れ、枯れ木が槍のように突き出て、幾人かが薙ぎ払われた。真珠が支配しているわけではない。真珠は悠にしがみついて震えている。これほど弱々しい真珠を見たことはなかった。
まるで、人間の少女のようだ。
「鬼の力だ! 」
亡者たちは自分たちを襲ってくる木を恐れて、わずかに怯んだ。
大風が吹き、どうと音を立てて通り抜けざま木々を揺さぶった。悠が呼んだ風だ。風は吹き上がり、禍々しい雷を吹き払ってから、悠たちに身をすり寄せるように吹きつけていった。真珠が顔を上げ、悠を見つめた。しがらみなく、健やかに澄んだまなざしは、もとの真珠のものだった。
すべてのものは、もとはひとつであったのだ。そこには、恐れを生むものなど何ひとつなかった。こうして小さな体に分かれ、悠、真珠と別々の名で呼ばれるようになってさえ、自分たちはやはり〈すべてのもの〉だったのだ、と悠は真珠を見ながら思った。真珠の目には悠が映っていたし、悠の目の面には、きっと真珠が映っているだろう。
亡者たちも同じだ。思い出させるのだ。彼らが知っているはずのことを。
大きな力が天のずっと上に渦巻き、細かな粒が集まって、大きな星ができあがった。常世国にはなかった、強い光。穏やかな温もり。天に満ちていたきら星は白く隠れ、四方に幾筋もの光がまっすぐに射した。森中の清らかな水から柔らかな彩雲が生まれ、清冽な雨が金色に光りながらみなに注いだ。見よ、風と空とに、どこも隔たりはない。どのように名をつけ区切っても、そのしがらみはかりそめのものに過ぎない。
亡者たちは雨粒に打たれ、天を支配する若い神を見つめた。鬼ではない! このふたりは、鬼などではない。そしてひとり、またひとりと
六花樹の梢に、銀色に光るものがあった。いつの間に来たのか、見守っていた早鷹が、頷きながらほほえんでいた。
「いつまでも、小さい器に収まっていることはない」
青白い顔の群れに囲まれて、〈すべてのもの〉から悠に受け継がれた叡智が語りかけられた。
「そなたたちを従えているものは、何もない。恨みも嘆きも、雨に洗え。己の心から自由になり、すべてに戻れ。消えてしまうのではなく、もっと大きなものになるのだ。――わたしもそなたたちと同じところからきたが、そうして雨を注ぐのだから」
亡者たちは、もはや亡者ではなかった。泥が剥げるようにその心に折り重なっていた情が洗われたとき、彼らはみずからがいかに自由であったかに気がついたのだ。
悠の雨はみなの心を清め、穏やかに洗い流した。みな、光そのものが降るように輝く森に眩しげに目を細めた。
あなたは人の心を知っているのかと、ある魂が悠に尋ねた。そのひとは、頑なに悠の雨に逆らっていた。
「おれは死ぬとき、おまえはきっとろくろく弔われもせず、死んでから鬼どもに責められて、肉がみな削げ落ちるまで剣の林を曳き回されるのだと言われた。それでもおれが自由だというのか。それとも、あなたがたが救ってくれるのか? 」
「そなたは、都でひとを殺めたのだな」
悠は確かめた。
「そのひとのものを盗むためだ。殺めるつもりはなかったが、声を立てられそうになって思わず斬りつけてしまった――そなたもその後、大勢に殴られているうちに死んだ」
魂はぎくりと怯んだようだったが、目を背けはしなかった。
「そうだ。あなたのような神には分からぬことかもしれんが、罪と知っていてもなさねばならぬことがときにあるのだ。他に仕方がなかったのだ。おれの家のものは、おれが殺した男の宝から替えた米で、その日からしばらくをようやく生きなければならなかった。だがおれがそんなことになったせいで、みなから後ろ指を指されるようになり──」
「仕方なくはない。そなたがそれを選んだのだろう」
魂は目を剥いた。
「おれが選んだだと! そうしなければ一家が滅んでしまうかというときに、他に何を選べるというのだ? 」
「家のものとある男とを比べて、家のものを選んだ。罪を犯すか犯さぬかを比べて、犯す方を選んだ。みなを残してくる方を選んだ。そなたは強いられたのではない。みずからそれを選んだのだ」
「強いられたも同じだ。おれとて、最期は寄ってたかって殴り殺されたのだ。誰がそんなことを選ぶものか! 」
魂は喚いた。
「おれは苦しいのだ。おれは悲しいのだ。こんな目に遭ったのもみな貴族連中のせいだ。みなやつらが吸い上げて、おれたちには何も返してよこさんじゃないか。おれが人を殺めたのも、おれがあんな死に方をしたのも、おれの家のものが死んだのも、おれが亡者になったのも、すべてみな奴らのせいだ! あんな世が悪いのだ! それでもおれを裁くのか? 」
辛い、と魂はこぼした。なぜこんなことになってしまったのだ。おれのような貧しいものは、死んでからも卑しい卑しいと言われなければならぬのか。雨は特別強まりもせず、静かに魂に降った。悠は言った。
「そなたを卑しいと思っているのは、そなた自身なのではないか? 」
「なに……」
亡者は面食らったように黙り込んだ。他の魂たちも、耳を傾けている。
「生まれをみずから卑しんではいなかったか? 他に打つべき手はないと、諦めてはいなかったか? みずからは力ないものであると、思ってはいなかったか? 」
「しかし……」
「そなたを裁くものがいるとすれば、それはそなた自身だ。人を殺めるのが悪いのではなく、人を殺めてまで何かを求めようという、そなたの心が未熟だったのだ。そなたは、みずからそれを分かっていた。だから、人にみずからを裁かせたのだ――〈すべてのもの〉から生まれる限り、人の心から気高さを奪うことはできない」
「おれは、それほど気高い心を持ってなどいない……家のものが飢えていたから、米のひとつかみを求めただけだ……」
魂は呟きながら、みずからの行いを顧みはじめた。
「……ならば、おれがあの男を殺めなければ、何かが変わったというのか? 」
「死ぬという最期は同じだったかもしれない。それは誰にも分からない。だがもし人を殺めなければ、そなたはもっと楽な気持ちでここにいたかもしれないぞ。どんなに貧しくともみずからの心には背かなかった、わたしは最後までみずからに正直な生き方ができたとな。そなたの犯した罪は、みずからの心に従わず、従わなかったことを悔いていることだ。そなたがそなた自身を認めていないということだよ」
悠は続けた。
「肉の体は、魂の器であるというだけのものだ。人も財も誉れも、器とともに捨てなければならぬもの。恐れも惑いも怒りも、我と彼に区別なくばいだく必要のないもの。この世には、もともと良いも悪いもない。罪も罰もない。人の身を出たそなたが、今さら何に捉われることがある」
「では、剣の林は……」
真珠がこれを聞いて笑った。そんなもの、あるわけがない。魂は、姫神につられて笑った。馬鹿だったなあ、というように。
「あなたがたは、さっきは恐ろしい鬼に見えていた。だが、本当は神であられたのだな。地獄へ来てしまったとばかり思っていたが、地獄はわたしの中にしかなかったのだ……」
その言葉を最後に残して、あれほど頑張っていた魂は、他の魂たちとともにさらりと溶けるように還っていった。
「イザナミよ! 」
梢から悠たちのそばへ下りてきた早鷹が、天に呼びかけた。大きな女神の気配が、天の光を揺らしながら滑るように現れ、魂たちを迎えた。常世国へ戻り、もう一度生まれることを選んだものは、こうしてイザナミによって〈すべてのもの〉に迎えられるのだ。
悠は懐かしくイザナミの気配を見つめた。〈すべてのもの〉に還って生まれ、今は〈すべてのもの〉そのものである悠にとって、イザナミの気配は常に身近なものだった。
「素晴らしい空だ。常世に残っていたものが、大勢還った」
早鷹は新しい太陽を見上げながら悠を褒めた。その目が赤い蛇に留まる――この蛇だけが、悠の雨を受けても清められずにいた。早鷹にも、この蛇が何なのかは分からないようだった。
「ふたりとも、よく無事でいた。これまで、あんなふうに亡者が暴れたことはないのだが……」
「この蛇の力でしょうか? 」
「おまえの中にも答えがないのか」
早鷹は目を細めて蛇を眺めた。蛇は上げていた頭をうつむけて、ぐちゃぐちゃ乱れた。その姿はますますぼやけ、たとえほんのわずかにでも目を離したなら、もう前がどんなふうだったか思い出せないのではないかと悠は思った。
蛇は、早鷹たちを見ていなかった。その目は、ひたすらに天を見つめていた――天の、イザナミを。
「ははよ」
蛇はイザナミを見上げて言った。祈るような様だった。
だが、イザナミは――〈すべてのもの〉の中にあって、万物を受け入れる女神であるイザナミは、蛇を迎えようとはしなかった。魂ではないから? しかし、イザナミの気配には戸惑いも困惑も、静かに見守っている様子さえもなかった。
確かに、蛇をじっと見つめている気配がイザナミにはあった。そこにあるのは――拒絶、だった。
「イザナミさま……」
悠が呼んだが、イザナミは応えなかった。天で、気配が揺れ動く。後ずさりをするかのように。そして、イザナミは去ってしまった。
「ははよ! 」
蛇はイザナミが去った方へ進もうとし、追うことは叶わないと分かると、いよいよ崩れはじめた。こんなものが言葉を話し、ひとりでに動いているというのがまったく不思議だった。
「イザナミさまの……子ども? 」
真珠が不思議そうに呟いた。早鷹は首を振った。
「いや、これは魂ではないな。命あるものではない……もしかしたら、自分が何であるのか、自分でも分かっていないのかもしれない」
「自分が何であるか分からないか……」
悠は蛇のすぐそばに近寄った。辛うじて、赤く細長い形が残っている。蛇は悠が近くへ来ても悠を襲いはしなかったし、かえって見つめてくる様子はいじらしかった。
はじめに感じた強い気配が、変わらずにあった。知らず知らず心を浸し、混ざり込むような――真珠が恐怖に捉われて泣き出し、亡者たちを煽り立てたその気配。悠が無事だったのは、やはり〈すべてのもの〉の中に同じものがあるからに違いない。
これは、決して異端なものではない。
「あなたは、〈情〉だね。だから、〈我〉がないのだ」
悠は蛇に言った。
「あなたは、誰かが心に抱いた情だ。悲しみや、怒りや、喜びの塊なんだ」
「なるほど、常世の神が選ばない情があるのだな。それで真珠には防ぐ術がなかったのだ――わたしとて、あれほど心を乱されたのは初めてだ」
早鷹が真珠の背を抱いた。
「主はどうしたのだろうな。情だけがさまよい歩くなど、よほどのことだ」
「主を探しているのか」
これほどの強い力を持ちながらどこにも在ることができず、さまよってきたのか。助けを求められたのだと思った。
悠が差し出した手に、縋ろうとしたのだろうか。にわかに指先に痛みが走り、悠は驚いて手を引いた。そこから流れ込んできたもの――。
早鷹に抱えられるのを感じた。真珠が悠の名を叫んでいるらしい、それを超える声で自分が悲鳴を上げている。体の中を、刃が蛇のように這い回っている。触れた柔らかなものを、すべて切り裂いてゆきながら。
ただの情の塊ではない。強かったのだ。あまりにも強すぎたのだ。これが亡者たちの情を呼び覚ましたのだ。
男と女。ふたりの目から同時にふたりを見て、ふたりの耳から同時にふたりの声を聞いた。情と、その情に伴う記憶だ。〈すべてのもの〉にある記憶を見るのと似ていたが、ずっと受け入れがたく、悠に逆らうかのように痛みをふりまく。
だがやがてその情と記憶は痛みとともに悠の中に静かに染みていき、そこにあるのかないのか、誰のものであったか、悠に見分けることはもはやできなかった。……………
※
悠はふと、目を覚ました。父と母、ばあやが、やけに青い顔で覗き込んでいる。見慣れた屋敷の中だと分かったが、御簾から見えるのは知った景色ではなかった。一日の日が暮れかかり、吹き入る風は少し肌寒い。前から屋敷に棲みついていた小さなもののけたちが集まって、遠巻きにみなを見守っていた。
長い夢から覚めたような気がしたが、眠る前がどうだったのかを何も思い出せなかった。どうしてもだめだった。誰も口を開かず、ひぐらしの声だけが、時の止まったような中に聞こえていた。
「痛いところはない?
千尋? 悠は面食らったが、父と母が変わったわけもなし、自分が悠でなくなったわけでもなさそうだった。妙な気分だった。自分で自分の名が分からなくなるだなんて。
悠はおずおずと大人たちを見た。
「千尋というのは? わたしのことですか? 」
「そう。悠という名の他に、豊葦原で人として生きていけるように、おまえに新しい名前をもらったんだよ」
母が頭を撫でてくれた。父も母もばあやも顔つきを緩めた。だがそれも、ほんの束の間のことだった。
「ここはどこですか? 」
「ここは、豊葦原の真ん中にある山の国だ。都のような賑やかなところではないが、静かに暮らすにはとてもいい国だよ」
土地を守っている竹やぶのじいやだ、と言って、疾風がもののけたちとともに控えている翁を指した。翁は千尋へ、生真面目に礼を示した。
「山の国? なぜ……いつそんな……」
千尋は愕然とした。思い出せない。千尋は、
霞んだようになって何も思い出せなかった頭の中へ、ふいにひらめくものがあった。父の背を離れ、駆けていく自分。流れるように通りを抜け、出た先は大路だ。道行く人が、突然現れた千尋を見て驚く。一体何事かと、目を丸くしてこちらを眺めるその顔――。
「わたしは――」
恐ろしい痛み。恐ろしい風。大路が吹き飛び、吹き上げられる力ない人々。
悲鳴――。
あれは、外れの神の子ではないか。誰かが千尋を指して言う。やはり、我々とは違う。いつか、いつかとは思っていたが、とうとう――。
「わたしは……」
千尋は呆然と呟いた。背筋に冷たいものが走り、唇が震える。
「わたしは大路を……大路にいた人たちを……」
「おまえのせいじゃない! 」
母が耐えかねたように叫び、千尋を胸に抱きしめた。
「おまえのせいじゃない……」
「そなたの力は大きすぎたのじゃ」
千尋はぎょっとした。いつの間にかすぐかたわらに、竹やぶのじいやとは別のじいやが座っていた。豊かな白い髭をたくわえ、眉を下げた考え深そうな姿は優しそうで、フクロウに似た声で笑う。
「わしは、知恵を授ける神じゃ。疾風殿とは、古くからの馴染みでな」
「そうなのですか」
千尋の返事の何かが不躾だったのか、父と母が顔を見合わせるのを、千尋は目の端に見た。だが知恵のじいやは、少しも腹を立ててはいなかった。その口ぶりはどこまでも優しかった。
「大路のものたちは、わたしたちがきちんと
「だけど、……わたしは恐ろしいことをした……ひどいことを……」
「恐ろしい、かね」
知恵のじいやはゆったりと言った。
「何が恐ろしいのかね? 」
「恐ろしいに決まっています。きっと、無事に帰れた人だけではないのでしょう。わたしは、人を死なせてしまった……」
「死の何が恐ろしいのだね? 」
「何が……」
千尋は翁を見つめた。この翁は何を言っているのだと思った。
「恐ろしくない死がこの世にありますか? 」
「ふむ……」
知恵のじいやは唸った。父と母も、ばあやも、もののけたちも、じいやの他に口を利いたものは誰もいなかったが、千尋はみなが望んでいた答えを返せなかったのだと知った。
だが、何が? 何が違ったのだ?
よいかな、とじいやが話を改めた。
「母君も言われたが、大路のことはそなたのせいではない。そなたの力が、そう……そなたの手を離れて起きたことじゃ。そしてそれを、わたしたちは誰も思いつかなんだ。誰もそなたを助けてやれなかったのじゃ。許しておくれ」
「わたしは……」
うつむくと、胸元に輝くものがかけられているのに気がついた。美しい、氷のかけらのような青い石だ。中を銀の粒が滑る……。
「その石は、幸星という。手放してはならんよ」
とじいやが言った。
「そなたは、稀な生まれのものじゃ。それだけは覚えておいておくれ。……いつか、そなたが本当にそれを分かる日が来るだろう。そなたが、なぜその生まれを選んだのかも、な。よいな。そなたは千尋。千尋じゃ」
知恵のじいやは千尋の頭を撫でた。大きな厚い手だった。
「そなたの目は美しいなあ。玉のようじゃ……」
不思議な思いがした。前にも、似たような言葉を聞いたような気がしたのだ。それがいつだったか、誰の口から出た言葉だったかは最後まで確かなところへは落ち着かず、もしかしたら夢で見たかもしれない、と千尋は思った。
自分が何なのだったか、千尋は考えた。昨日はどんな日だった。その前は。その前は。
父の風は涼しく、かすかに湿った匂いがした。ひと雨来るのだろう。薄赤いような色をした世界で、あの雲に雨を含ませて運んでいるのはどの神なのだろう。
わたしの父は神だ。全き力を持つ、気高い神。だが、わたしは神ではないのだ。千尋は何とか思い出そうとした。神でも人でもない、と父に言われたことがかつてなかったか?
力はあるが、まともに使えないのではなかったか。それなのに、父のように神の持つ力を使おうとしたのだったか。でなければ、あんなにひどいことが起きるはずはない──。
夏の雨の、はじめのひと粒がそのとき山のどこかに落ち、それから土砂降りになって川を濁らせた。
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