四、滝の里

 明くる朝目を覚ましたとき、悠は正しい時の流れを見失ったかのような気分だった。確かにひと晩を過ごしたはずだが、悠の感覚ではひと月もふた月も経ったようだったし、もしかしたら一年くらい去ってしまったのかもしれないとすら思った。反対に、常世国へ来てまだ一時経っていないような気もした。


 宮ではヤエがもう起きていて、蓮の髪を梳いて身じたくを整えてやり終え、女たちが米をかしいでいるところだった。早鷹と疾風は、外に出ていていなかった。


 悠は蓮が気がかりだったが、南の廊に出て陽の光を浴びた蓮の顔は晴れやかだった。里に集まって建つみなの家からはそれぞれにかまどの煙が上っている。風の宮の中にも、温かく甘い姫飯の香りが満ちた。


 蓮が里を指しながら悠に話した。


 「あそこが、ひざかと千松の屋形。あれが八雲の。八雲は玉造りは上手だけど、菜っ葉を刻むのはからっきし。ひざかは、ヤエに負けないくらいお米を炊くのが上手。ヒノトがいつも煮炊きを助けてくれるんだよ」

 「ヒノト。昨晩宴席にいた神だな」

 「そう、火を守るひと。ヒノトの姉さまがヒノメさま。天の、星の火を守るひと。ほら、ヒノメさまたちの力。この、〈火の種〉に混じってる」


 蓮は〈火の種〉を見せてくれた。何のことはない、小夜も使っていたような火打ち石だったが、よく見ると細かな砂のような焔の光がきらきらと石に混ざっているのだった。温もりほどの熱を含んでいる。


 蓮の玉飾りに〈火の種〉はなかったが、この石だって、磨けば美しい玉になりそうだと悠は思った。


 「そなたの飾りも、八雲が? 」

 「そう」


 蓮は胸元を飾っている一連の玉を指でなぞった。翠や青や、薄紅の色石はどれも巧みに磨かれ、よく光を受けた。


 「こういう石は、わたしが土を整えるとできる。転がってるだけじゃ分からないけど、磨いてみるとこんなに綺麗に光るよ」


 だけど、と言って、蓮は飾りの真ん中に通された玻璃の玉を撫でた。目立つところに使うには少し小さいようにも思えたが、傷ひとつなくあくまで透明なその玻璃の中には虹と同じ光があった。


 「だけど、これは違う。これは磨いたものじゃなくて、はじめから丸くて綺麗だったの」

 「はじめから? まことか」

 「ひとにもらったものなの」


 ヤエが来て、黄色い丸い実をたくさん入れた器をふたりに差し出した。あの白い花が一輪添えられている。香りが立って、すぐに分かった。六花樹の実だ。


 「この実は、姫さまがくださる最高のお恵みです。素晴らしいごちそうですわ」


 蓮がひとつつまんで、皮のまま口に入れた。悠はそれを真似した。酸い味はわずかで、蜜をたくさん含んでいた。そして、風味がとてもよかった。


 「酸っぱくない? 」


 蓮は悠に聞きながらも、器の中の実の数を目で数えた。


 「早鷹さまたちの分は、別にしてあるの? ヤエたちの分も? 」

 「はい、姫さま。今朝はたくさん実を賜りましたから」


 ヤエはふくよかにほほえみながら頷いた。


 「間もなく他の娘たちが手伝いにまいりますし、ヒノメさまたちや、ひざかさまや八雲さまもお見えになるでしょう。若さまと姫さまがその器の実をみんな召し上がり、みなさまに同じくらいずつ差し上げ、その残りをわたくしたちが十分いただいても、まだ余るほどです」


 そのとき早鷹と疾風が朝風とともに戻ってきて、悠たちに挨拶した。


 「方々に使いを出してきた。悠が戻ったとな」


 と早鷹は言った。


 「ヤエ、みなに出すものは足りているかな? 」

 「もちろんですわ。みなさまがいらしたら、ご飯とお酒に、お菜、瓜、桃、それから枇杷も、たくさんお出しいたしますからね」

 「そうか。ではよい風が吹くように計らおう」


 早鷹が厨の様子を見に行くといって屋形に戻り、ヤエも悠と蓮の前を辞した。疾風が悠に言った。


 「これから、おまえを訪ねてたくさんのひとが来る。そのつもりで」

 「わたしを? 」

 「そう、かつてのおまえを知るひとたちだ。かしこまらなくてもいい。わたしたちも、そばについているから」


 疾風は悠と蓮が並んでいるのを目を細めて眺めてから、早鷹のあとを追って屋形の中へ消えた。


 蓮の親指は、ずっと虹の玻璃に触れていた。昨晩輝いて見えたのはこの石かもしれないと悠は思った。


 「蓮は、その石が好きなのだね」


 蓮は頷いた。


 「とても大切なものなの」

 「……そうか」


 好き、とうつむく蓮を見て、他に何か言いたいような気がした。あの六花樹の根元、水霊たちの棲む泉で初めて会ったときと同じだ。心の奥底から、細い糸で何かが引き上げられようとする。それこそ、本当に蓮に告げたいことなのだ。だが、喉元まで出たそれが何なのか、悠には分からない。心のままに口をついたとして、伝えることがたとえできても、得体のしれないものが出たと思うに違いない。それがどんなに美しいものでも。思うように心を告げられない胸の中が、どれほど痛んでも。


 蓮が知っているという〈悠〉と自分とは、同じだが違うのだ、と悠は思った。蓮が知っていた頃の〈悠〉であれば、蓮に何と言っていただろう?


 「それを贈ったひとも、そなたのことが大切だったのだろう」


 今の悠に言えるのはそのくらいのことだった。まったく心にもないことというわけではなかったが、そう言われて頷いた蓮を見ているうちに、どうしてか心が霞み、曇ったようになる気がした。


 やがて陽が高くなると、ひとり、またひとりと屋形を訪ねてくるひとがあった。早鷹と疾風、蓮は悠のそばに控え、客と挨拶を交わしては、それが誰かを悠に教えてくれた。男神も女神もいた。ひとりの神も、幾人かで連れ立ってくる神もいた。昨夜の宴席で言葉を交わした神もいたし、外国とつくにのものらしき神もいた。悠のことをみなが知っていて、礼は欠かなくとも、よそよそしく頭を下げてくるひとはなかった。悠という名の他に、どうやら彦神のものらしい名をみなが呼んだ。時折自分を指して出されるその名を悠はやはり聞き取れなかったが、それこそかつての悠を知るひとという証にもなった。


 神々はヤエたち厨の神のもてなしに喜び、客と客とでも互いに言葉を交わして、思い思いにくつろいだ。この日は精霊の子どもたちが手に手に琴や笛や鈴を持ち、拙いながら清らかな音を奏でて大人たちを和ませた。


 ヒノメとヒノトもやって来た。ヒノメは金糸と銀糸の縫い取りのある青い衣を着て、星くずのような大小の銀の玉を手巻きと帯に飾っていた。弟のヒノトは紅の衣を着て剣をふた振り佩き、鏃を通した飾りや磨いた鉄をたくさん身につけていた。


 そして、その後ろからもうひとり、悠のよく知るひとが悠に目配せしながら現れた。


 「いやあ、災難じゃったのう」

 「知恵のじいや! 」


 姉弟とともに宮へやって来たひとを悠が呼ぶと、ヒノメたちも早鷹たちも悠を見た。疾風だけが、幼い顔に似合わない涼しげなほほえみを浮かべた。


 「知恵のじいや? 」


 ヒノメは華やかな見かけにそぐわずぞんざいに腰を下ろすと、おもしろそうに聞いた。ヒノトは姉の隣に静かに座って一礼し、そして知恵のじいやは、髭の上からでも分かるほほえみを浮かべて、ヒノトの隣に落ち着いた。


 ヒノメは傍らの老人を、自分も目元を緩ませながら眺めた。


 「その御名を伺うのは久しぶりだね」

 「そうだったかな。そなたもそう呼んでも構わんぞ」


 知恵のじいやはフクロウのような笑い声を立てた。ヒノトは眉を寄せて悠とじいやとをかわるがわる見つめたが、それは単に不思議に思っているだけの顔であるらしかった。尋ねる声は鋭くはなかった。


 「なぜ知恵のじいやと? 」

 「ご自身で名乗られたのだ。里ではいつも、わたしの話を聞いてくださった」


 知恵のじいやは里にいたときと同じに頷きながら悠の話を聞き、それからおもむろに口を開いた。


 「わしはその親しげな呼ばれ方も好きなのだよ。それはそうと、呪いを止めてやれなんですまなかったのう。雨を降らせるだけで大変じゃったろうに、まさかあれほど走る力が残っておるとは思わなんだ。母御も、村のみなも大事ない。そなたの雨のおかげで日照りから救われ、嵐ももはや去ったでな。三日が経ったが、川の神も落ち着かれたようじゃ」

 「……三日? しかし、わたしがこの森に来たのは……」


 悠は絶句した。じいやは気づかわしげに頷いた。


 「さよう。豊葦原と常世国とでは、時の進みが同じでないのじゃ。豊葦原より早いときも、ずっと遅いこともある。常世の陽はな、豊葦原のものアマテラスとは違うのだよ」

 「どうりで、時が狂ったように思ったはずです」

 「そうか。まあ、時などあってないも同じじゃ。常世国でも豊葦原でも、日々同じように時が刻まれているわけではないでな」

 「そういえば、昨晩はなぜおまえがここへ来ることになったのかは聞いていないね。疾風がその……かわいらしい姿になったわけも聞かせてほしいものだ」


 とヒノメが含み笑いしながら言った。


 「呪いのことを知るためには、いずれ常世国へ来ることにはなったろうがね。なんだか、来ようとして来た、というふうではないし」

 「実は、豊葦原の川の神を怒らせてしまったのです」


 悠は橋が落とされたまでのことをかいつまんでみなに話して聞かせた。


 ヒノメと蓮が顔を見合わせた。


 「なんとまあ、おまえが代わりに水の神の務めを果たしてやったというのに。気短かな」

 「山の神は分かってくれたのですが、もともとわたしのことを嫌っていたようです。わたしの雨でずいぶん川を汚してしまったし、霊域を侵されたと思ったのでしょう。……神崩れと、罵られました」

 「まさか、それを信じてはいまいな」


 ヒノトの声が険を帯びた。悠が話している間はじっと聞いていたが、とうとう黙っていられなくなったらしい。


 「君が神崩れだと! よくもそんな口を利けたものだ」

 「だが、今の悠の様子ではそう見えてもいたしかたないな。いささか狭量とは思うが」 


 早鷹が腕を組んだ。知恵のじいやはどこまでも穏やかに言った。


 「神崩れとは何か、そなたは知っているかね? 」

 「いえ。他に言われたこともありません。ひとに使ったこともない」

 「そなたは知っていたとしてもひとに対して使わんじゃろうなあ。神崩れというのは、あまり褒められた呼び名ではないから」


 じいやの目は悲しげだった。


 「豊葦原に生まれた神のうち、みずからの情に溺れて捉われたものを神崩れと呼ぶのだよ。そうなってしまったが最後、みずから抜け出さぬ限り、その神はみずからの力を支配できずに滅ぶことになる。あるいは、他の神に滅ぼされる。神とは呼べぬものに成り下がる。そなたが神崩れなどと言われたのは、その呪いのためだ。呪いとは、ひとの情が凝り固まったものだから」

 「神の情は強いからな。その分、みずからを滅ぼす力もまた強いのだ」


 とヒノメが言った。


 「もっとも、豊葦原の神が神崩れを厭うのは、己もまたそうしたものに成り下がることを恐れているからだ。恐れこそは、神崩れのきっかけにもなりうるのだがな。豊葦原に生きるものには、等しくそうした情が受け継がれている――常世国から豊葦原へ出たものにはみな、イザナギとイザナミが抱いた死を恐れる心があるのさ」

 「死を恐れぬものなどいるのでしょうか」

 「いるさ。常世の神には、生も死もない。そんなものを恐れるのは、肉の体に縛られているものだけだ。死ぬということがどんなものだか、よく分かりもしないくせにいたずらに騒ぎ立てるものだけだ。見てごらん」


 ヒノメはてのひらを悠に向けて翳した。手の内から輝く光が、炎と同じ温もりをみなに与えた。神々は喜んで声を上げた。とろとろと燃える火に似た光は、ヒノメの手から湧き出ているようでもあり、手指そのものが輝いているようでもあった。


 ヒノメが何を命じるまでもなく、光はじきに、静かに消えた。


 「神が神と呼ばれ、力を揮えるのは、肉の体を超えた先にあるものを知っているからだ。それは常世の神も、豊葦原の神も変わらない。だが豊葦原の神には、そのことを忘れてしまうものもいるのだ。器として体を持っていると、その外のことが見えなくなってしまうこともあるのだよ」

 「肉の体を超えた先にあるもの――」

 「すべてがあり、何もないものだ。わたしたちはみな、そこから出てそこへ還る。豊葦原に生まれたものは、肉の体を器として己を他と分けなければ在ることができない。かつてイザナギが、生と死を隔てたからだ。本当はね、豊葦原があって常世国があるのではなく、常世国の中に豊葦原が生まれたんだ。あれはかりそめの世だ」


 ヒノメはヒノトと手を握り合わせた。ふたりの手は互いに溶け合うようにして、ほんの一瞬、曖昧に混ざり合ったように見えた。


 悠は自分のてのひらを見下ろした。見つめるうちにその薄い肉が淡く透けたような気がした。そんなことが起こるとは思えなかったが、そうして自分の手を見たことがあるようにも思った。そのときわたしの手は、今よりもずっと小さかった――。


 ヒノメが続けた。


 「おまえは今度、豊葦原にありながら死を超えたものとして生まれてきた。おまえが豊葦原に生まれるところは何度か見ているが、またずいぶんと難しい生き方を選んだものだね」

 「わたしがみずから選んだのですか? 」


 悠が驚いて聞き返すと、ヒノメだけでなくヒノトや蓮、知恵のじいやも頷いた。早鷹と疾風は悠を見てほほえんだ。ヒノメは続けた。


 「おまえばかりではない。豊葦原に生まれたことのあるものは少なからずいるよ。蓮もそうだし、ヒノトもそうだ。ひざかや八雲は、豊葦原で生きていた頃のまま常世国に戻ってきた。みな、みずからそれを選ぶのだ」

 「わたしは、何のためにこのような生まれを選んだのですか? 」

 「それを一番知っているのはおまえではないか? 」


 ヒノメは蓮を見て、試すように悠に言った。


 「悠。おまえには、蓮がどう見える? 」

 「姉上」


 ヒノトは苦い顔をした。ヒノメの声には、からかう響きがあった。


 悠は面食らって蓮を見た。蓮はためらったようだったが、気負いなく悠を見つめ返した。悠は目を細めた。そのとき。


 胸に押しつぶされるような強い力が襲ったが、剣を思わせるような痛みはなかった。快いような気さえする、柔らかな痛みだ。呪いの中にこんな情があるとは知らなかった――甘やかで、どこか痺れるような――。


 あなたと、と記憶の主が話した。悠はてのひらに、誰かの手を感じた。柔らかな肌だ。喜びが満ちていた。


 「こちらをご覧」


 突然ヒノメの声が割って入り、それがあまりに不愉快な妨げだったので、悠は記憶から醒めて、普段ならばしないような目つきでヒノメの方を睨んだ――息を呑んだ。声を上げそうにすらなった。そこにいたのは、ヒノメやヒノトとは似ても似てかないような有りさまの……口に出すのが憚られるような姿の……。


 白い蛆が一匹、ころりと落ちた。


 ふいに、呪いは治まった。瞬きを繰り返せば、そこに座っていたのはやはりヒノメとヒノトだった。


 「死を恐れるものには、常世の神はおまえが見たような姿に映るようだよ」


 ヒノメがあっけらかんと言った。悠は急いで蓮を見たが、蓮は蓮のまま、どこも変わってはいなかった。


 「蓮は……蓮は美しい姫です」


 ヒノメたちの、あまりに惨い姿を見たあとでは、蓮の美しさには胸を打たれるほどありがたみがあった。ヒノメは悠の動揺が気の毒だったのか、照れもしないとはおもしろくない、とひと言呟いただけで悠をからかうのをやめた。


 「死を恐れるものにとって、常世の神は穢れを振りまくように見えるのだろうな。今わたしたちがまっとうな姿に見えるということは、おまえの中の呪いは死を恐れているかもしれないが、おまえはそうではないのだ」


 早鷹はヒノメと同じくらいおもしろがりながらも、まじめな声で言った。銀色に輝くその姿にも、やはり人ならぬ美しさがあった。


 「幸星はどうしたね? 」


 と知恵のじいやが聞いた。疾風が半分になってしまった幸星をみなに見せた。


 じいやは頷いた。


 「常世の神に戻るときがきたのだ。呪いは痛むだろうが、傷を開かぬまま膿を出すことはできぬからのう」

 「呪いを解いたとき、わたしは今とは違う心持ちなのでしょうか」

 「生き死にのどちらにもとらわれず、そなたでありながら、そなたでなくなることが分かるようになろう。それが常世の神になるということだ」


 生き死にのどちらにもとらわれない心など思い浮かばず、悠は思わずじいやのまなざしから逃れるように目を伏せた。わたしでありながらわたしでなくなるとは、どういう意味なのだ?

 

 村に雨を呼んだとき蘇った感覚を思い出そうとしたが、今それは叶わなかった。


 「……ならば、ひとに死なれて嘆くのは間違いなのでしょうか? 」

 「何を、誰のために嘆くのか、そなたには分かるかね? 」

 「誰のために? 」


 じいやが何を問うてきたのかよく分からず、悠はじいやの顔を見つめた。底知れないような奥深い瞳は、答えを急かすことなく悠を見ていた。


 「よい、よい。いずれきっと、答えを得られるはずじゃ。のう、悠殿。現世うつしよにとらわれず、生き死ににとらわれず、それほど自由で安らかな心を持つものが、なぜひとの死を嘆くことがあるのかね? よく考えてごらん」

 「かつてのわたしであれば、分かっていたことなのでしょうか? 」

 「ああ、分かっていた。だから、そなたに分からぬはずはない」


 じいやは頷き、神々も同意した。


 ヒノトが言った。


 「豊葦原とは難しいところだ。表にある器ばかりを見て、魂を見ることができないのだから。わたしも、豊葦原にいた頃はそうだったらしい。こちらに戻って来てから、なんと些末なことに捉われていたのだろうと言ったと、姉上にお聞きした。だが生きている間は、その些末なことがこの上なく重大なことに思われるものだ」


 ヒノトは胸に手を当てた。掌から赤い光が漏れる。まさか魂が、と悠はぎくりとしたが、それは魂ではなくヒノトの支配する炎の色だった。


 「火だとて、家を燃やせば恐ろしがられるが、煮炊きをすればありがたがられる。水だとて、風だとて、土だとて、それはそこにあるだけだというのに――死だとて同じことだよ。生だとてな」

 「豊葦原のものには、それが分かりづらいのだろうか」

 「そうだな、光を受けることに慣れたものは、常闇を見ることが恐ろしくなる、とでも言おうか。その常闇の中からこそ、己が生れ出たのだとしてもだ。死を避け、嘆き、泣くのが当たり前のものが、そうでないものを信じることはたやすくないだろう。己の目の他に世を見るすべがなければ、そうなっても仕方がないがな」


 ヒノトはごく丁寧に話した。その言い方は余分に易しくもなかったし、そんなことも分からないのか、と侮ってもいなかった。今何も分からないからといって思い悩むことはない、というヒノトなりの励ましなのだと悠には分かった。目つきは厳しいが、ヒノトは誠実な彦神だ。その言葉の力はふいごのように、ひとの心に熱い風を吹き込む。


 「今度、君に剣をひと振り鍛えてやる。その左目と同じ、しろがね色の剣だ。君の心が呪いから断ち切られるよう、姉ともども願っている」



 ヒノメが日照雨の滝をそばで見せてやると言ったので、悠は蓮と疾風、姉弟とともに宴席を束の間辞し、滝壺のかたわらへ下りた。下から宮を見上げると、南の廊から早鷹とじいやが他の神々とともにこちらに手を振った。滝は宮を超えてまだ天高くから落ちて、上の方は今、薄い雲がたちこめてよく見えない。水が幾百年もかけて大きな滝壺と何条もの沢を森に生み出し、豊かな土をもたらしたのだと、蓮が悠に教えてくれた。


 だがやはり、昨晩月明かりに見たとおりに、日照雨の滝はその多くが凍てつき、今にも流れ出しそうな格好のままで止まっていた。


 「さながら玻璃の宮よな」


 ヒノメが氷のおもてに顔を映しながら呟いた。


 「主なきものとはこれほどわびしいのか……」

 「日照雨さまはここにお戻りになってはいませんが、お力を送ってくださいます。ですから、すべてが凍ってしまうことはないのです」


 みなを出迎えた水霊が言った。泉のみすずよりも大分年の長けた、時雨という名のその娘は、何か指し示すたびに銀糸を織り込んだ領巾をひらりと振った。鱗に似た輝きだ。


 時雨は細い流れの先をついと指差した。沢と呼べるほどには、水は満ちてはいなかった。


 「この流れを辿ってゆきますと、西には淡海がございます。途中田畑を潤しながら、わたくしたちの里を守っているのです」


 剣のように突き出た幾本もの氷の隙間を、ときにまばらに途切れながら、滝はわずかな水を落とし続けている。それが日照雨の力がまだ働いている証であり、今はそれしか働いていないという証でもあった。


 氷の気配は、眠っているようだった。疾風が氷の滝を見上げ、母上、と呟いた。


 「おまえたちも骨が折れよう。この図体ばかり大きい滝を、主のないまま守っているのだからな」


 ヒノメがいたわり深く言った。時雨はほほえみを浮かべて首を振った。


 「わたくしたちなぞ、日照雨さまのなさっていることに比べれば……それに、悠さまがこうしてお戻りになられたのですもの、きっともう間もなく、日照雨さまがお戻りになるのですわ」

 「……わたしが来たから? 」

 「さだめが動き出したのです。みなのさだめが」


 時雨の目には若やかな希望が輝いていた。悠は目を逸らした。


 「滝の御方は、――おばあさまは、どうしておられる? 」

 「〈すべて〉の中にいらっしゃるのですわ。魂たちを導くために――本来その役目を果たすべき方の代わりに」

 「こちらには、いらっしゃらないのか」


 何気なく氷に手を触れた途端、耳元で誰かの声がして、悠は驚いて手を引いた。振り向いてみたが、他の誰にも聞こえた様子はない。悠が熱いものにでも触れたかのようにどぎまぎしているのを、みなはただ不思議がっているだけだった。


 ヒノメが片眉を下げて笑った。


 「どうした? その氷、もしや熱いのか? 」

 「いえ……」


 ふたたび手を触れてみると、女の声が凛と聞こえてきた。祖母だ、と思った。疾風が何かしきりに言っているが、日照雨の声はそれに勝って悠に聞こえ、やがて他には何も聞こえなくなった。


 滝の持つ記憶の声だった。



 「死者たちを、還さなければならない。……わたしがその役目を引き受けよう」


 日照雨の声は気丈だったが、どことなく憔悴した響きがあった。


 水霊たちはざわめき、やがて一番年長の娘が口を開いた。時雨だ。


 「若さまと姫さまはどうなされました」


 沈黙があった。口を開いたのは早鷹だった。


 「……呪いを抜いてもらうことはできなかった。イザナミは、森に閉じこもってしまった。あのふたりは、しかるべき時の来るまではともにいさせることはできない。悠は豊葦原へ戻ったよ」


 神々と水霊たちのいる岩室の表で、ひゅうと風が鳴った。笛の音に似たその音は悲壮だった。早鷹が穏やかに言った。


 「案ずるな。常世国に永訣というものはない。あの子らは、かえって深く結びつくことになったのだ。おまえたちも、それを忘れてはならんよ。〈すべてのもの〉の世に、むやみな不幸などはないのだから」


 水霊たちは頷いた。日照雨はほほえんだ。


 「わたしはこれから〈すべてのもの〉に還る」


 誰にとっても喜びにはならないことだったが、日照雨は告げなければならなかった。みなの顔をひとりひとり順に見回し、ことさら明らかな声で。


 そのまなざしが、一瞬早鷹のまなざしと交わった。ふたりは何も言葉を交わさなかったが、一瞥ですべてが伝わるほどには、ふたりの分かち合った時は長かった。


 日照雨は遠く空を見放みさくような目をした。濁りない常世の神である日照雨に、それは珍しい顔つきだった。


 「……蓮には、かわいそうなことになってしまったね。ひとに〈かわいそう〉なんて思う日が来るとはまったく、この亡者の情というのは、余計なことばかり思ってしまうからいけない……」



 誰かに袖を引っ張られるのを感じて、悠は我に返った。もといたとおりに、日照雨の滝の氷に手を触れて立っていた。悠の袖を引いたのは疾風で、ヒノメと時雨がその後ろにいた。


 ヒノメは悠の顔を覗き込んだ。少し細めた目はヒノトとそっくりだった。


 「悠。……わたしが分かるか? 」

 「――ヒノメさま」

 「驚いたぞ。急にものを言わなくなったから」

 「この滝の……記憶が見えたのです。祖母の姿が――」


 氷を透いて目を凝らすと、滝の裏の岩室の口がぽっかりと黒く見えた。日照雨たちはそこに座り、話をしていた……そのときはまだ、この滝は凍らずに流れていたのだ……。


 「なるほど、水を支配できるものにしか分からないのだな」


 疾風は千尋と同じように氷に触れたが、ややあって何ごともなく離れた。何かが見えたわけではなさそうだった。


 日照雨の滝壺は、垂水たるみほどひどく凍りついてはいなかった。覗き込むと、水の重なりは深くなるほどにだんだんと青黒く遠去かり、その中には誰の姿も見えなかった。


 「奥にお宮がございます。日照雨さまのお宮です」


 悠のすぐそばで滝壺を覗いている時雨が、水面に映っている。昼日中の強い日射しにおぼろげではあったが、悠がそこに見たのは可憐な娘の姿ではなかった。


 「……そなた、龍なのか」


 時雨はうつむいてはにかんだ。その目が光の具合か、ほんの一瞬蘇芳色に光ったようだった。時雨の言う、日照雨の宮は澱んだ水のために隠されていた。


 記憶にあった日照雨の最後の言葉が気になり、悠はヒノメたちの肩越しに蓮の姿を探した。蓮は悠たちから離れたところで、先ほどからヒノトと何か熱心に話し合っているのだった。


 いや、話し合っているのではない。ヒノトは何かを訴えているが、蓮は黙っている。蓮は目の前に誰もいないかのようにヒノトを見ず、蓮を見ているヒノトの眉は吊り上がっていた。


 一体何を話しているのか、と思った途端、糸を手繰るような手ごたえとともに、ささやかな風がふっと通りすぎた。そして、声が聞こえた。蓮とヒノトの声が。


 「――それが一体、誰のためになる。いつまで黙っているつもりか」

 「……言ったところで、分からない。わたしは――」

 「言い訳だ。あなたほどの……」


 風はむらがあって脆く、ふたりの声は切れぎれにしか聞こえてこなかった。ヒノトは声を荒げたりはしなかったが、その目は厳しかった。


 「ならば、好きになさるがいい」


 ヒノトが最後に蓮に告げた言葉は、いやにはっきり、ヒノメや時雨にも聞こえたようだった。声はむしろ冷めていたが、込められた情は炎ほど熱かった。


 「あなたがそんなに臆病とは思わなかった」


 蓮の声は聞こえなかった。蓮は顔を上げてヒノトを見た。何も言わずに立ちすくむその様子は心もとなかった。


 ――そのとき悠の胸に起きたものを、どう言い表せばいいのだろう。何も言い返せずにうつむく蓮と、蓮を冷たく見下ろすヒノトを見ているうちに、渦巻きはじめたもの――悠の中から、吹き上がろうとするものを感じた。抑えようとすれば痛みが伴ったかもしれないが、今の悠には、鼓動を急かすその痛みがかえって心地よかった。


 早くどうにかしないと、煮えたぎったものが暴れだす。ヒノトを河原に突き飛ばし、その命を奪って、しかばねをめちゃくちゃにしてやりたい――。


 ヒノトはさらに言葉を繋ごうとした。


 「常世の神ともあろうあなたが、何というありさまだ。それではまるで――」

 「ヒノトさま! 」


 時雨の声に、悠は我に返った。今しがた自分が何を考えていたのか、その光景を思い浮かべてぞっとした。恐ろしくて、ヒノトの顔が見られなかった。


 一方の時雨はヒノトと蓮の間に割り入り、蓮を背にかばってヒノトを睨み上げた。ヒノトは顔つきを和らげると、それ以上は何も言わずにその場を離れた。


 「仕方のない子だ。どうも、怒りの裏にあるものが見えにくい」


 ヒノメが聞き分けのない子のことを言うような調子で呟いた。悠がヒノメを見ると、ヒノメも弟ではなく悠を見ていた。ヒノメの手が肩に乗るのを感じ、その手のひらの暖かさに、悠は何ともいえない重みを感じた。


 「蓮は聞き分けのない死者とは違うというのに。……あまりにも執心を捨てきれないものがいるときは、あの子の大喝も効くのだがな。あれは本当に腹を立てているのではなく、言われた側の心に隙を作り、我に返らせるためにやっている……はずだ。あれは、一度それで命を縮めたのだがな、いまだに怒りを選ぶ。傷つけたいわけではないのだ。だから悠、そんなに怖い顔をしてくれるな」


 まさか悠が何を考えていたかまではヒノメに見えまいが、悠は何も答えられなかった。あそこで時雨の声が聞こえなかったら、何をしていたか分からない。


 「抑えようとしてはならん」


 ヒノメが静かに言った。悠はぎょっとしてヒノメを見た。


 「抑えようとしても、苦しいだけで抑えることはできない。だが支配されてもならん。ただ、よく感じてみるといい。大丈夫だ。わたしたちは善悪でものを測らない。おまえの心を、恥じることはない」


 ヒノメはそれだけ言うと、ヒノトの帯を掴んで引っ張っていきながら悠たちに手を振った(ヒノトは抗ったが、ヒノメはしばらく手を放してやらなかった)。


 「わしらもそろそろお暇するかの」


 振り向くと、知恵のじいやが疾風と並んでにこにこ笑いながらヒノメたちを見送っていた。何の気配も悟らせずにふとかたわらへ現れた翁に悠は驚いたが、思えばこのじいやは、そもそも分からないことが多いのだ。急にあちこちに出たり消えたりし、どんなことでもよく知っている。何を治め、何を司り、どこに坐すべき方なのか、じいやは語ったことがなかった。一度、悠から尋ねたことがある。いずれきっと分かる、という答えだった。以来、やはり分からないままだ。


 望む答えが得られるとも思えなかったが、悠は尋ねた。


 「じいやは、どこからいらしてどこへ戻られるのですか」


 じいやは若者の逸る心を宥めるように悠の背を叩いた。


 「いずれ、きっと分かる。──さて、見送りはいらぬよ。心づくしのもてなし、礼を言う」


 じいやが頭を下げるので悠も倣った。その少し堅苦しい別れは、神が神を迎え、また送り出すのだということを悠に示していた。じいやは悠が頭を上げる前に、耳元で囁いた。


 「悠殿。いかに恐ろしい思いが湧き上がったとて、それはそなたの姿ではない。よいかな」


 悠はじいやを見た。じいやは片目をつぶって悠にほほえみかけた。


 「そなたは優しい、強い神じゃ。いくら呪いがあるとて、それは変わらぬ。強いからこそ、呪いが寄りついたのだよ。恐れるでないぞ。姫御と仲よくの」


 じいやが指す方で、ヒノトと別れた岩場から蓮が下りてくるところだった。時雨が案じ顏で見守っているが言葉のかけようがなく、困り果てて悠に目で助けを求めている。蓮の顔は沈んではいなかったが、悠はなぜか、蓮がじきに泣き出すのではないかと思った。


 蓮はゆっくりと歩いて滝壺の悠のそばへ来て、どことなく惚けた目で悠を見上げた。惚けて、あどけないようですらある目――悠は、今ならば蓮の考えていることをすべて見透せそうな気がした。内から瞳に熱が籠り、潤みを帯びる。やはり涙が、と悠は危ぶんだ。だが、蓮は泣かなかった。


 「また会おうぞ」

 「それではな。母上のことは案ずるな」


 挨拶が聞こえたので悠はそちらを見たが、じいやと疾風はもうそこにいなかった。蓮が悠の隣を、静かに行き過ぎる――。


 悠の目の端を、さみどりの光が横切った。ちょうど蓮の目と似た光だった。


 「蓮? 」


 呼べば姫神はこちらを振り向いたが、瞳の他には衣と領巾に淡い緑があるだけで、それとて水面越しに目を引くほど輝いてはいなかった。もう一度蓮の姿が映りはしまいかと悠は待ったが、蓮はそれきり水の近くへは来なかった。

 みんな待ってる、戻ろう、と蓮が言った。時雨が頷き、一礼すると、ふたりを見送ったところでその身は滝壺へ消えた。風の宮からは、神々の笑い声が聞こえていた。


 悠の目に先のさみどりの光が焼きつき、陽の光の残像がそうであるように、いつまでもそうして目蓋の裏に照っていた。あるいは、こちらを振り返り見た蓮の髪が、光を吸うほどの黒髪だったためかもしれない。



 その晩、悠は思いもかけないひとに出会った。見つけたのは木霊の、ひなたという少年だ。青い稲の揺れる月夜の田の端を、他の魂たちと一緒に歩いてきたのだが、陽を見つけると嬉しそうに話しかけてきたのだという。豊葦原から来たばかりの魂は、普通常世国のものに話しかけたりはしない──人であった身でありながら、清らかな気配のする老婆であった、と。


 「そのひとが、悠さまのことを話したそうなのです」


 早鷹の宮まで報せに来た千松は、ひざか譲りの黄色い目をわずかに鋭く細めた。悠は魂送りには呼ばれず、早鷹に廊から見ているようにと言われていた。


 「変わったものは感じられませんが、何しろ疾風さまのことまで口にしましたもので。疾風さまがお生まれになった森はここか、お子の若さまが、もしやいらしてはいないかと。――そう、花の枝を、持っているようでしたが……」


 千松に導かれていった先にはもう里のものたちが集まっていて、ぼんやりと白く光る魂たちを取りまいている。噂の老婆のかたわらには蓮が立っていて、何やら言葉を交わしている様子は、千松の口ぶりとは違って楽しげだった。早鷹も悠に気がついたが、悠を咎めはしなかった。


 「ばあや……」


 岩倉のばあやはすぐに悠に気がつき、生きていたときとまるで同じに、にこにこ笑ってみせた。


 「まあ、若さま。こちらにいらしたのですね」

 「ばあや。……死んだのか」

 「そろそろそのときかとは、思っておりましたもの」


 ばあやは何でもないことのようにそう言った。かえって、聞いている悠の方が悲しげなくらいだ。自分を囲むみなのことを、ばあやはやはりにこにこしながら見ていた。


 「あの日あなたがお帰りになったあと、元太が大雨が降るからと連れ出してくれて……ああこれは、若さまのくださる雨に違いない、と思ったところで、ばあやは気がついたらみなさまとここに立っていたのです」


 あれほど暑かったのが嘘のよう、といってはしゃぐばあやは、少し若返ったようだった。


 「……ばあや」


 見間違いではない。生きてきた姿を逆に辿るようにして、ばあやの髪は黒く染まっていき、皺がひと筋、またひと筋消え、肌は柔らかく戻っていく。


 もうばあやとは呼べない、小夜くらいの婦人になった魂は、ばあやだったときよりもっと穏やかな顔をしていた。悠は橋に集まってきた死者たちとばあやと、同じ死者同士で何がこれほど違うのだろうと考えた。腐った肉を引きずる女に、血まみれの子ども。それらとまるで違うねえや・・・の顔を見ているうちに、分かった。この人には、もう一度同じひととして蘇ろうという気持ちがないのだと。悔いも怒りも悲しみも、その魂にはないのだと。


 ねえやは最後に会った日と同じように両手で悠の頬を包んだ。その手はふっくらとして瑞々しいように思えたが、肉のない光だけの輪郭はとても儚げだった。


 「若さまが、あの頃のように見えまする」

 「あの頃? 」

 「嬉しゅうございますなあ。疾風さまとご一緒に、風を呼んでいらした頃――」


 悠は返事に困った。ばあやが覚えている悠と、今の悠とはまだ同じではない。


 それに、昼からずっと考えていること――ヒノトが蓮に心ないことを言い、蓮を傷つけた。それに怒りを感じた、というところまでは認める。だがそれからあとの、あの凶暴な情は? 蓮とヒノトの話を聞くために風を呼んだから呪いが働いただけだと悠は信じたかった――それとも呪いが強くなっていて、とうとう悠の心までを作り変えにかかってきたのだろうか? 自分が神であると同時に、人の子でもあるということを悠は忘れようがなかった。人が冷酷になろうと思ったら、どこまで惨いことができるのだろう? ……


 悠は不吉な思いをいだいたが、ねえやには何も言わなかった。未練になるようなことを口にすべきではないと思った。


 「まだ思い残したことがあるというものは、しばらくこの里に留まってもよい」


 と早鷹が魂たちに向かって言った。魂たちの中には、岩倉のばあやのように若返ったものもいたが、死んだときのままの姿で途方に暮れているものや、自分がどこにいて何をしているのか分かっていないようなものもいた。ひとの話など聞こうとしないものもいた。ヒノトが、そういう魂たちを里のものたちの側に引き入れた。魂たちには常世国のものがどんな姿に見えているのか、体もないのにひどく震えていた。


 「おまえたちは残れ。おまえたちほど頑固だと、いつまでたっても溶け残る」


 ヒノメが里の子どもの中から何人かを連れてきて魂たちの列に加えた。子どもたちはみなを見てもにこにこ笑い続けた。


 「おまえたちは、もうよかろう。みなとともに行きなさい。……悠、おまえは蓮とともに、あとから来るといい」


 そして、その日の魂送りがはじまった。


 八雲とひざかの持つ灯りが先導する木下路このしたみちを、神々と霊たちに守られながら、魂たちが輝く列になって歩く。悠と蓮は、みなの最後から歩いた。みなに寄り添うように流れる沢の周りには、金の光の尾を引いて蛍が飛び交っている。ねえやは今は陽と同じくらいの背丈の童になっていて、蛍が頬をかすめて飛んでゆくのを声を立てて喜んだ。魂送りのために辿ってきた道々の両脇の木々の枝には、いずれも玉石や鈴の飾りが掛けられていた。


 「さあ、もうすぐですよ」


 八雲が言い、光るくさびらを掲げた。


 一行の後ろからにわかに柔らかな風が来て、木々の飾りが順に清らかな音を立てた。梢を透かして、宵空に大きな気配が波のように広がった。何ものの姿もそこにはなかったが、悠はそのひとを追うことができた。日照雨さま、と蓮が囁いた。乱れ飛んでいた蛍たちが、そのひとから逃れようと散り散りになる。


 魂たちが光り輝く粒になり、日照雨の見えない懐に抱かれるように群れ集まる。みなが沢の上を横切るたびに、悠には水面越しにそれが誰なのかが分かった。岩倉のばあやだった魂は童の姿で、悠と蓮に向かって手を振った。それから魂たちに混ざった。日照雨が大きな気配のかいなで魂たちを残らず抱きとめると、魂たちは暗い空に溶けるように見えなくなった。


 「こたびもみなが世に還った」


 早鷹が言った。


 「いずれまた生まれ来るものたちよ。さいわいあれ」


 悠は日照雨のまなざしを感じた。日照雨はしばらく、天の上の方から悠と、そのかたわらの蓮とを見つめていた。悠の心に、ふいに言い表しがたい情が起こった。悲しく、寂しさに似ていたが、慕わしいような──。そして、来たときと同じようにして日照雨は去った。


 魂送りを無事に終えた神々は、みなそれぞれに別れて里へ引き上げていく。悠は水面越しにそれを見送った。ひざかと千松は山猫に見えたし、八雲は鳶に見えた。水霊たちは魚やみずちに見え、木霊たちは人の姿のまま、木や花の影をぼんやり背負っていた。そして悠自身の姿には、細長い蛇のような格好の暗い靄が重なっていた。よく分からない切なさは、まだ心を去らなかった。


 悠は息を吐いて、深く吸った。ヒノメの言葉を思い出す。抑えようとしてはならん。支配されてもならん。ただ、よく感じてみるといい。


 すると胸の靄がわずかに退き、中から素晴らしい輝きを持つものが現れた。と同時に、不思議な情は悠を離れていった。


 ふいに悠の肩越しに人影が覗き、悠はぎょっとして振り向いた。蓮が後ろにいて、悠と同じように驚いた顔をしていた。


 「なに、どうしたの? 」

 「いや……」


 悠は蓮の顔を覗いた。さみどりの目に罪はなく、恐れげもなく悠の目を見つめ返してきた。


 美しい目だ。底まで澄んだようなまなざしを辿って蓮の心が覗けたなら、そこには何があるのだろう。日照雨の滝で分かるような気がしたそれが、今は……。


 悠は飛び続ける蛍の方を向くことで、さりげなく蓮から目を逸らした。


 「そなたが近くに来たことに気がつかなかったんだ。蛍を追っていてね」

 「あれは蛍じゃない。まだ〈すべてのもの〉に還れないひとたちなの」


 蓮が蛍を見上げながら言った。一匹がふたりのそばへ飛んできて、蓮の手のひらの中でふわふわ明滅した。


 「さっき、ひざかが里に残る魂を分けていたね」


 と悠は聞いてみた。蓮は頷いた。


 「現世に諦めがつかない魂だよ。神も人も同じ。自分がもう体を離れたことを分かるようになるまで、しばらく森に置いてあげるの。ひざかたちみたいにそのまま守りになることもあるし、草の原で、叫びながら飛んでいったひとたちを見たでしょう。無理に還そうとしても、うまくいかないんだ」

 「どうやって分からせる? 」

 「自分の心は自分で満たしておけるんだって教えるんだよ。自分の外に幸いを求めても手に入らないって。時間はかかるけどね。……本当は、生まれてくる前のことを思い出すだけでいいんだけど」


 蛍が照らし出す横顔は優しかった。蓮はほほえみを浮かべて蛍を放した。


 悠は祖母の去った空を見上げた。魂たちが集ってあれほどきらびやかだったのが嘘のように、夜空は静かに広がっていた。


 「〈還る〉というのは、なんだ? みなはどこかへ連れられて行ったのか」

 「みんなこの世に戻った。この世の〈すべて〉に」


 蓮は手を広げて言った。悠はそこらじゅうにみながばらばらに散らばっていて、息をするたびに誰かの破片でも吸っているのではないかという気がして呻いた。


 蓮は笑った。


 「この世を作っている〈すべてのもの〉に還ったんだよ。みんなそこから生まれて、そこへ還る。何ものでもなくなり、何ものにでもなるということ。豊葦原にいた頃より、ずっと自由なはず。……あの人はそれを、ちゃんと知っていたんだね」

 「ばあやは本当に清廉な人だったよ」


 悠に頷き、おやすみ、と言って、蓮がかたわらから歩き去ろうとする気配があった。みなと同じ、里の方角だ。悠はそっと蓮を呼びとめた。


 「蓮にも宮があるのか」

 「六花樹。あそこにお宮がある」


 次の言葉までは、少し間があった。


 「でも、しばらく帰っていない。明るいうちは出かけることもあるけど」


 なぜ、と問いかけることはできなかった。兆しなく、どん、という鈍い音とともに足元が揺さぶられた。悠は蓮を支えたが、みな慣れているとはいえ足を取られたものもいたのか、遠くの方でわずかに悲鳴が上がった。


 「古い魂でも、まだ還れないでこうやって暴れるのもいる」


 蓮が言う間にも、今度は続けざまに、どん、どんと揺れが来た。ややあって、みなの声が聞こえはじめ、虫がすだきだす。どうやら収まったようだ。


 「聴いてほしい、見てほしい、知ってほしい。本当はそう思っているのに、あのひとたちは表の気持ちに覆い隠された自分の心を見ていないの。……そういう気持ちが積み重なると、呪いになる」


 悠は蓮を見つめた。蓮は悠から目を逸らして、今度こそ里へ戻っていった。



 六花樹は、改めてそばへ寄るといかにも見事な大樹だった。これほどの木は豊葦原中探してもあるまいと思われるほどに。水霊たちの泉を囲むように根が巡り、水中に見えているところには、煌めく泡の粒がついている。腕を広げて泉を抱え、守るようなその姿。水霊たちは眠っているのか、水面には魚影ひとつない。


 根と、根が抱えた大きな岩とでできた洞があり、注連縄がかけ渡されていた。調度はひとつもない。主が長く帰っていないことを伝えるかのように、ひっそりとただ洞の宮はあった。ひとつだけ、一連の玉飾りを通された鏡が中にかけられている。外から見えたのはそのくらいのもので、悠は注連縄をくぐることはできなかったし、恐らく他の誰も、中へ入ることは許されていないのだろう。主であるはずの、あの姫さえも。


 「……誰かいるのか? 」


 木の洞の暗がりに向かって、悠はなぜかそう声をかけていた。いらえはない。しかし……。


 鼓動が苦しいほど打ちはじめた。呪いが働くであろうことは分かっていた。悠は泉の水面に姿を映しながら、暴風に似た感情の流れと痛みとをじっと味わった。風が呼ばれようとするのを感じたが、悠はそれを許さなかった。力は悠に従った。


 泉に映った悠は、一心に何かを求めて叫んでいた。そうだ、確かにわたしには、求めているものがある。だが、おまえはわたしではない。


 次に映った悠は、顔を歪めて泣いていた。そうだ、わたしは、その顔にふさわしい想いを心にいだいた。だが、おまえもわたしではない。


 泣き叫ぶ声も枯れたのか、水面の悠は恨みがましい目でこちらを見上げてくる――違う。目が虚ろになり、口から呪詛の言葉を吐く――違う。怒りにまみれ、我を忘れて――違う。


 悠の胸の、銀色の輝きがまた靄を退け、靄よりも広くなった。鼓動はもはや痛みを生まず、そうして最後に映った悠は、水面を覗いている悠とまるで同じに、眉を少しだけ下げてこちらを見つめていた。悠は考えていたのだ。ひとの心にあってはあれほどの痛みとなり、こんなにも心を焦がす情が、何を想って生まれたものであるのか。悠がなぜ、その呪いを抱くことになったのかを。


 心の片隅に、捨て置けない焦りを感じた。水面の顔はふたたび恐ろしく歪に揺らぎ、醜いとすらもう言えなかった。呪いは何とか悠の心を繋ぎとめようとしたが、悠は水面から目を背けずにぴたりと見据えた。水面に触れると水が従い、美しい綾が偽りの像をさらった。あとには、水面を覗き込む悠の姿が、静かに乱れなく映された。


 確かめなければならない、と思った。蛍の沢で蓮が肩越しに悠を覗いたとき、悠が水面に見たのは蓮の姿ではなかった。さみどりの、ふたつの目ばかりが光る、黒い影で塗り潰された人影だったのだ。祀られた洞の鏡はわずかな光も照り返しはしなかった――。


 

 六花樹を見上げたとき、誰かの声が〈またま〉と呼ぶのが聞こえた気がした。それは滝で見た水の記憶のように外に保たれているものではなかった。〈またま〉は、悠の中から現れた。心に眠っていたものが、ふいに見出されたのだ。


 「またま……」


 この名を知っている、と悠は思った。わたしはこの名を知っているのだ。ひとがそう呼ぶのを聞き、わたしもそうして呼んだ――。


 誰を?


 「真珠またま


 ようやく何か思い出されてきたのか。初めて戻ったものは誰の名かも分からなかったが、悠は幾度かその優しい音の連なりをなぞった。


 癒えぬ渇きのようなものを感じた。悠は何としても、どうしても〈真珠〉にまみえなければならないと思った――だが、顔すら分からない〈真珠〉を想いながら心に浮かび続けていたのは。


 蓮のまなざしだった。

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