三、姫神

はじめにその若者を見つけたのは、泉を棲みかとしている水霊みなたまの娘たちだった。水を泳ぐときに小さな銀の魚になってみなで群れる姿は美しいが、長い袖が絡まって沈みかけている背の高い若者を運ぶには非力だ。しかたなく、辛うじて仰向けに浮いている若者の周りを、輪を描いて取り囲む。


 「どなたかしら? 」

 「神さまかしら? それとも、人? 」

 「人なら、こんなふうにはいらっしゃらないわ」


 娘たちはくすくす笑いあった。みなで集まると、どんなことでもおかしくてたまらないのだ。


 泉に主となる神はなく、幼い水霊が大勢棲んでいるばかりだった。娘たちはそれぞれに人の姿に変じて水面みなもから顔を出し、泉を抱えるように立つ大樹を見上げた。この木は、六花樹むつのはなのきと呼ばれている。どこの世を探してもこの一本の他に六花樹はなく、類まれな霊木とみなに敬われていた。


 夕方の風に乗って、清らかな芳香が立つ。根元にある宮のそばに、今は姫神がいるはずだ。


 「蓮さま」


 娘たちの助けを求める声を聞いて、連は木陰から顔を出した。小さな手に支えられていた若者は、蓮の手でそっと草に横たえられた。


 「蓮さま、この石……」


 水霊の中の、みすずという娘が拾い上げた青い石を蓮に差し出した。石には細かいひびが入っていて、それでもみすずの手の内側を輝かに照らしたが、蓮の手のひらに渡った途端に半分に割れてしまった。水霊たちは声を上げた。


 「まあ、どうしましょう。この方の持ちものでしょうか? 」


 娘たちは若者を覗いたが、蓮が若者の顔から髪を退けると、きゃっと言って飛びのいてしまった。一瞥すらくれていないのにまなざしの優しさが目に浮かぶような、うるわしい若者だった。


 「そうだね、このひとが持っていたものだと思う。でも、もう使えそうにないね」


 蓮は笑いながら言った。うぶな娘たちがかわいらしかった。


 「この石は、確か生死を分ける力があったんだったかな。このひとは常世の神だけど、この石で人と同じになって暮らしていたんだね」

 「蓮さまはこの方をご存知なのですか? 」

 「早鷹さまの若さまの若さまだよ。昔、この森から外の豊葦原へ出て行って、人と暮らすようになったひとがいたの。そのひとの若さま……」


 早鷹さまの若さまの若さま、ですって。幼い娘たちは囁き合った。早鷹さまの、お孫さまだわ。でも、お髪の色は全然違うわね。


 蓮は水霊たちに言った。


 「誰か、ひざかたちに知らせに行ってほしい。疾風さまの若さまがいらっしゃいましたって……木霊の誰かに、頼んだ方がいいかな」

 「蓮さま」


 みすずが蓮の手を引いた。


 若者がわずかに身じろぎし、ゆっくりと目を開いて、蓮を見た。



 はじめに吸い寄せられるようにその娘と目が合ったまま、ものも言わずにが見つめたのは、娘の目があまりに美しかったからだった。黒い髪と、抜けるように白い肌とがその身を少し脆そうに見せていたけれども、大きな瞳には健やかな命が満ちている。見たこともないような、さみどりの目だった。目を開いて、はじめに見たものがその目だったために、悠は自分が今どこにいるのか、どうしてこんなことになったのかをしばらく考えもしなかった。


 娘はやがて静かにまたたきすると、うっすらとつつましく朱の差した頬を、肩からかけた細長い領巾ひれで隠した。白い衣の上に袖の短い浅緑の衣を重ねて、長い裳を履いている。気高い姿ではあったが、今の都にこんな格好の姫はひとりもいない。


 「早鷹さまの若さまの若さま」


 ふたりが何も言葉を交わさないので、水霊のひとりが痺れを切らした。悠は驚いて起き上がった。気を失う前に何が起きたかを川に落ちたことから逆の順を辿って思い出し、血の凍るような思いが蘇った。だが、今悠を害そうとしているものは、ひとまず誰もないようだった。


 悠は周りに集まった精霊の娘たちを見回した。ひとり、ふたり、人の姿になりきれず、ヒレや鱗の残っている子がいる。傷ついた子はいなかった。


 「……おまえたち、人ではないね」

 「わたくしたちは、水霊でございます」


 ひとりが答えると、笑みを含んだひそやかなざわめきがさざ波のように子どもたちに広がった。


 「この国に、豊葦原の生きものはおりません。生きていたものはみなこの国へまいりますが」


 幾人かが、水に駆け込んだ。活発に水まりを跳ね上げたその身は瞬く間に小さな魚に変じ、素早い影となって泉に溶け込んだ。岸辺には大小の魚影が集まり、夕暗がりの少しの光をちらちらと弾いていた。


 「常世国……か? 」


 問うと、娘たちはいっせいに頷いた。悠は呆然とし、さみどりの目の娘を振り向いた。


 「姫御。……」


 そうして言葉をかけたのに、先は続かなかった。わたしはどうしてここに、だとか、そんなことを尋ねようとしたのだと思う。だが娘の顔を改めて見つめたとき、胸に湧いたのはもっと別の何かだった。確かに、何か告げたいことがあったような気がしたのだ。だがその先の言葉は喉につかえたようになって、いくら待っても相手に伝わることはなかったし、悠も自分が何を言いたいのかはまるで分かっていなかった。ただ、鼓動だけが悠を急かした。


 「そなた――」


 胸が詰まるようだった。会ったばかりの娘に伝えたいことなどあるはずがないのに、何でもない、と終わらせることがどうしてもできずに、悠は途方に暮れて美しい瞳を見つめた。娘は素直なまなざしで悠を見つめ返してきた。


 それで、尋ねてみるしかなかった。


 「……そなたは? 」

 「――蓮」

 「蓮……」


 答えてくれたあとに目元を緩めて蓮が笑ったとき、この姫は自分のことを知っているのではないかと悠は思った。


 「蓮は、わたしを知っている? 」

 「疾風さまのところの。……千尋? 」

 「ああ」


 悠は頷きかけて、蓮の手のひらの、真っ二つになった青い石に気がついた。幸星が割れている。悠を〈千尋〉にしてくれていたものが。


 「……いや、千尋と名乗ることはできない。〈千尋〉は、人として生きるための名だから」

 「それじゃあ、悠? 」


 蓮が言い当てた。悠は驚いて蓮を見返した。


 「やはり、そなたは」

 「わたしはあなたを知ってる」


 蓮は挑むような目をした。


 「でも、あなたはわたしを知らない」


 まったくそのとおりだったのだが、悠は頷けなかった。水霊たちが不思議そうにふたりを見守っている。


 「すまない。わたしはわたしのことをあまりよく知らないんだ」

 「それはあなたのせいじゃない。……それも知ってる」


 蓮が聞いた。


 「疾風さまも、ご一緒なの? 豊葦原から来たんでしょう? 」

 「父は――」


 答えようとした瞬間、胸がぎしりと鳴った。呪いだ。だが幸星がない今、悠はそこから逃れる術を知らない。


 なぜだ。何も力を使っていないのに。


 「わたしたちは……川の、神に――」


 悠は息を呑んだ。強い力だった。長く動かさずにいたために錆びついたものを無理に動かそうとしたような、奥底から突き上げてくる力が胸を破って飛び出そうだ。死と隣り合った痛みに吐き気すらした。


 水霊たちが悲鳴を上げたようだった。悠の耳は早い鼓動で塞がって、子どもたちの声は切れぎれにしか聞こえなかった。


 悠は、またあの女を見ていた。いや、姿を見ることはなかったが、すぐそばに女がいることが分かった。塗り潰されたように暗い光景の中で、女は何かを言い残して悠のそばを去っていった。


 悠は待たなくてはならないのだ。女がふたたび、悠の前に現れるそのときを――。


 「落ち着いて」


 突然はっきりと別の声が割り込んできて、悠は我に返った。蓮の声は、悠の中に渦巻くものに紛れることなく悠に聞こえた。何かの音色のような声だと思った。たおやかなはずのその声は、悠の心から幻の女をきっぱりと退けた。


 「それは、悠の記憶じゃない。自分が誰なのか、分からなくなってはだめ」


 悠が顔を上げると、両目からこぼれた涙が頬を伝ってぼたぼたと重たげに袖を濡らした。ひと息が苦しいくらいに、悠は泣いていたのだった。涙の隙から見えた世界はひどく歪んでいた。


 誰だ、と悠は呟いた。


 「誰なんだ、あれは……」


 真闇。灯かりもなく、顔も確かめられないひと。去ってゆく遠い背。垣間見た呪いの記憶を探っていると、何が悠に涙を流させたのかも分かった。


 悲しいばかりではない。その涙は、喜びの情がまさっていた。


 「会いたかったよ……」


 悠は自分の声がそう言うのを聞いた。蓮が眉間に皺を寄せ、自分の方が苦しげな顔をして悠を覗いていた。蓮の手の力を、肩に感じる。白い頬がいっそう白く、青く見えるほどだった。水霊たちはそれぞれに自分を庇っていたが、恐る恐る顔を上げた。泉の水面がうねり、立っていた波が揺り返しながら収まってゆくのを見て、またあの風が吹いたのだ、と悠に知れた。あの、凶暴な風が。


 「自分の心の中に、自分ではない人が住んでいる」


 蓮が少し震える声で言った。悠の呪いはいつの間にか鎮まっていた。蓮はずっと、悠の背を支えていた。


 「とても痛い。でも、あなたはあなたを保たなくてはいけない」

 「――そなた、分かるのか」


 蓮は悠の胸にそっと手を置いた。しなやかな手だった。


 「呪いがある。……そうでしょう」


 水霊たちがぎくりと動揺する気配があった。悠たちのそばから離れようとはしなかったが、その目は怯えているようだった。


 ある娘の頭から落ちて、泉を漂う赤い花の飾りがあった。悠はそれを拾い上げ、優しく娘の髪に挿した。


 「すまなかった。怖い思いをさせた……」

 「みんな、いいよ。泉に戻りな」


 蓮が声をかけると、水霊たちはふたりに礼を示したあとひとりずつ身を翻して水中に姿を消した。赤い花は、魚に変じたあとも目の縁の模様となって残っていた。蓮が言った。


 「大丈夫。あの子たちだって、むやみに何かを怖がったりするわけじゃない」

 「すまない。わたしは、力を自分の思ったとおりに支配できないんだ」

 「そう。それも呪いのせい? 」

 「そう聞いた。……そなた、もしや何か知らないか」

 「わたしが何か知っていたとしても」


 蓮は悠を見つめた。見透かすような目だった。


 「わたしが話したところで、きっとあなたには分からないよ。あなたが覚えていないなら、あなたが思い出すしかない」

 「ああ……そうだな。そのとおりだ」


 色形さまざまな草木を透いて、金色こんじきの光がいく筋も射している。土深く湧き出した泉のほとりは静かだった。泡の粒が生まれる、かすかな、優しい音が耳に触れるほどに。疾風は悠が常世国で呪いをもらってきたのだと言ったが、こんなに美しい場所のどこでそんなものが生まれたのだろう?


 ふと爽やかな香りを感じて、悠は辺りを見回した。泉の傍らにひときわ高い木が生えている。枝には緑の葉と、白い花、山吹色の丸い実がつき、ときおりその実がふつりと千切れて落ちる。花も、葉も、同じように長く枝に留まらないのだろう。


 悠の頭に、花びらが六枚ついた花が舞い落ちてきた。探した香りと同じ香りが、朗らかにした。


 「よい香りだな。愛らしい花だ」

 「六花樹、というの」


 蓮の声が和らいだ。悠と同じように六花樹を見上げたその目の色は、嫩葉わくらばと同じだった。


 「蓮は草木の姫なのか」


 悠の方を向いた蓮の目は、水面の光を映して輝いていた。悠は呟いた。まったく、自分でも思いがけずに。


 「美しい目だな」


 だが、これは呪いが勝手をしたのではなく、まぎれもない悠の本心だった。蓮はふいを突かれた顔をして、やがてゆっくりと悠から目を逸らした。いじらしい仕草だった。



 夕刻を過ぎた森の木間に、もう真闇が迫っていた。豊葦原の里と同じように草の中には虫がすだき、天高くに澄んだ月が昇りかけている。小さな鈴をたくさん振り鳴らしているような虫の声は耳に優しかった。泉の水霊の中では年長のみすずが悠と蓮に従ってきながら、ふと掌に鈴虫を乗せた。鈴虫は応えるようにりんと鳴いた。


 「この子、この間から森に棲みはじめたばかりなのです。豊葦原の野原で、かまきりに食べられてしまったのですって」


 森はしんとしていたが、どこか賑やかだった。木立ちの間を駆け抜けていく子どもの影や、大人たちの話し声、背を追ってくるまなざしはどれも和やかで、実にさまざまなところからその主たちの気配がした。頭上から少年たちのはしゃぐ声がし、足元からは女たちの声がする――なんとまあ、疾風さまの若君が! ごらんなさい、お美しい方だこと……。


 「姫さま」


 男の声がすぐ脇の木立ちからして、続いて人影がふたつ現れた。ひとりは小柄で、鋭い顔つきの老人だ。もうひとりは背が高く、柔和な目をしている。ふたりはずいぶん見かけの印象が違ったが、ふたりとも悠を見て寸分たがわず同じ顔をした。喜びのためにこみあげてくるものを、礼を欠くからといって伏せてみせるのがどちらも同じくらい下手だったのだ。


 ふたりは深くこうべを垂れ、老人の方から順に名乗った。


 「ひざかでございます」

 「八雲でございます。若さま、ようこそお戻りくださいました」

 「精霊殿か? 」


 悠が尋ねると、にんまりしたひざかの目がぎらりと黄色く光った。


 「さよう。豊葦原にいた頃は、山猫の爺だったのですじゃ」

 「わたくしは鳶だったのです。ひざかとは、豊葦原に生きていた頃からの長いつきあいになります」

 「ひざかと八雲は、かなり古い魂なの」


 蓮が言った。ひざかと八雲は暗くなりつつある道を先導するために明るい灯を持ってきていたが、長い柄の先で光っているものは炎ではなく、光を蓄えたくさびらだった。


 「豊葦原の森で体を離れて、この森に来たの。神に戻ることも、豊葦原に新しく生まれることもできたのだけど、ふたりともそのまま守りになるほうがいいって言ったんだって」

 「神に戻る、というのは? 」


 悠は聞いてみた。蓮はさらりと言った。


 「だって、もともとはみんな常世国に生まれた魂だもの。豊葦原に〈人〉が生まれるから〈神〉ができたけど、もともと違いはない。ひざかたちは森に棲んでたから、わたしのことを助けてくれているの」


 森の道はやがて途切れて、広く開けた草の原へ出た。茸の灯かりについてきていた大勢の声の主が、月明かりに照らされて一度に姿を現す。大小無数の影には、豊葦原の人々と同じように欠けがなかった――男と女。子どもと大人。親子。兄弟。恋人たち。みな蓮やひざかたちのように神代の衣をつけ、玉飾りをつけたり、髪を美豆良みずらに結ったりしている。当代の衣を着ているものもいないわけではなかったが、その着こなしはかなり奔放で、裳の上の五衣を短く切ったり、盤領あげくびの衣の袖をなくしたりしてあった。


 みなが集まって、ひざかたちの灯りを取り囲むようにして座った。美しいのや、賢そうなのや、深みのあるのや、厳しいのや、朗らかなのや、それぞれに違う目がぴかぴか光っている。ひとりの若者の目などはひざかにそっくりで、唇の端をちょっと上げて笑いかけてきたとき、これはあの山猫の子に違いないと悠は思った。


 草の原に一陣の風が吹き、銀色に輝く光を曳きながら、神がひと柱現れた。男神だ。同じように銀の髪を結った少年を連れている。森のみなをぐるりと眺め渡したあと、蓮とともに前にいる悠に目を留めた。男神は銀の髪を美豆良に結い、後ろ髪を小さな房に分けて、金の飾りをたくさんつけていた。


 「悠! 」


 男神は満面の笑みで悠に呼びかけた。悠はなぜか、その笑顔に父を思い出した。


 「戻ったのか! 待っていたよ」


 悠が気圧されて言葉に詰まると、男神はその様子を見て蓮や車座のものたちに目を遣った。蓮がわずかに首を横に振り、「まだ」と呟いた。男神の連れてきた銀色の少年が、早鷹の袖を引っ張った。


 「この子は〈千尋〉ではなくなりましたが、〈悠〉に戻りきったわけではないのです」

 「そうか……」


 男神は悠を見つめ、名残惜しそうな顔をしながらも、穏やかに言った。


 「急いたことをしてすまなかった。わたしは早鷹――おまえの祖父だ」

 「悠と申します。……おじいさま」


 この様子では、祖父とまみえるのもこれが初めてではないのだろうが、悠にはやはり覚えがなかった。


 「おまえもこちらに来ていたのだな。常世国へ来るにはあまりよいとは言えない方法だったが、何にせよ会えてよかった」


 少年がやけに大人びた口を利いた。いかにも幼い高い声に、小さな体。だが、そんなことにごまかされずに見ればその子は――。


 悠はまじまじとその少年を見つめた。


 「……父上? 」

 「そうだよ。おまえの風を鎮めようとしたが、かえってわたしが危うくなってな。残った力では、この姿にしかなれなかった」


 疾風は朗らかに言った。その仕草と口振りは、やはり父に違いなかった。


 「母上は無事だ。じいやもいらっしゃるし、案ずることはない」

 「そうですか……」


 悠はほっと息をついた。疾風は悠と蓮の間に入り、蓮に笑いかけた。


 「久しいな、花の姫。……そなたには、礼を言わなくては」


 蓮はほほえみ、首を振った。


 「さて……」


 悠を見る早鷹のまなざしが、胸の辺りで止まったのを悠は感じた。このひとには見えているのだ。悠は礼を欠かないよう、静かに問いかけた。


 「おじいさまには、わたくしの呪いがご覧になれますか」

 「ああ、見えるよ」


 早鷹はみなの輪に加わりながら言った。その目が車座を見回すと、幾人かが頷いた。


 「そうだな。呪いというほかないが……強いものだ。おまえの心に染みつき、おまえの力を支配している――しかも、おまえからは見えにくい。なるほど。昔よりおまえに馴染んできているな」

 「はい。父に教えられるまで、わたくしは己の内に呪いがあることになど気がつきませんでした。今や、呪いか己の心なのかも、明らかでないのです」

 「幸星はどうした? 」


 疾風が聞いた。悠は懐から割れた幸星を出して、疾風に見せた。


 「割れてしまいました。川の神に襲われたとき、ひびが入ったのです」


 疾風は幸星を受け取り、よく調べた。早鷹が覗きこんだ。


 「この子の力を押さえておけなかったのか」

 「どちらにせよ、常世国で人のままいることはできません。これはわたしがお返ししておこう。おまえが呪いと向き合うときが、今来たということだ」


 疾風は自分の懐に幸星をしまった。悠は車座を見回した。村人たちの期待とも、国津神たちの憎悪とも違う、ひとりの友を迎えるような、柔らかなまなざし。


 思い出せない。だが、この国のものたちは、わたしを拒まない。


 「呪いをもらったときのことを、わたくしは覚えておりません。呪いが暴れると、誰かの姿が見えるようになったのですが、……」


 悠が話していると、鼓動が早く打ちはじめた。呪いの話を続けることがとても恐ろしいことに思えて、口をつぐむ。出会って数刻もしないものたちを相手に、わたしは一体何を話している? 


 「なるほど、おまえの心はよほど居心地がいいようだな」


 早鷹の声で、悠は我に返った。たった今、わたしが考えていたことは何だ? 


 早鷹は厳しい目で悠をじっと見下ろした。悠の心と、悠の心にある呪いとを。


 「……今、わたしは……」

 「呪いに支配されていたな。呪いを解くことが恐ろしいと思ったら、それはおまえの心ではない。おまえの心の呪いが、おまえに成り代わっているのだよ。幸星がない今、おまえの心を呪いに隠すことはできない」


 早鷹は唸った。


 「何かに向けた情が、力を持ったもののことを呪いという。良いも悪いもない。だから、心を持ったものなら、誰でもひとを呪う力がある。呪いをかかえたものは心を支配され、ひとを損ない、みずから滅びゆく道を選ぶ。豊葦原は、そうしたものを学ぶところだ。みずからの心をもてあますことなく、苦しまずに生きるにはどうすればよいのかを」


 千尋は豊葦原の人々のことを考えた。都人も里人も――確かに、不満ばかり言っているものは、あまり幸福そうな顔はしていなかった。だが、そうした情と関わりなく生きている人もまた、見たことがなかった。


 「常世国のひとは、苦しまないのですか」

 「苦しむ必要がなくなる。苦しみを選ばなくなる。そのために、わざわざ豊葦原へ生まれようという魂もいるのだ。……いや、今分からなくてもよい。焦らなくともいずれ必ず分かる」


 早鷹は眉をひそめた。


 「おまえのその呪いは、おまえがこの国に来ていたときにおまえに宿ったものだ。わたしも覚えているよ。あの頃、おまえは神として常世国に暮らしていた。悠という名は、そのときからみなに親しく呼ばれていた名だ。だが、おまえにはもうひとつ別の名がある。〈千尋〉ではない。神としての名だ 」


 早鷹は座のみなを指して続けた。


 「わたしたちが知っている限りのことを、おまえに伝えることはできる。だが、何があったのかを伝えるだけではおまえは、本当に自由になることはできない」

 「――わたしが、本当に思い出さなければ……」

 「そうだ。おまえの心は、他の誰にも動かすことはできない。誰が何を話しても、たとえそれが本当のことだとしたって、おまえには偽りと変わらなく聞こえる。偽りを言われても、本当と変わらずに聞こえる。だがおまえが何を思い出せなくても、おまえの呪いは、おまえが祓うのを諦めない限りおまえを妨げようとするだろう。おまえの中で暴れるか、あるいは、おまえに成り代わろうとする。もう分かっていることだろうが」


 早鷹の言葉が終わるか終らないうちに、みなが座している大地がどんと強く揺れた。砂子のような星のちりばめられた空に何かの影が幾筋か、全天に響き渡る声を残して行き過ぎていった。悠はぎょっとしたが、森のものは平然としている。


 亡者じゃ、と呟いたのはひざかだった。


 「なに、珍しいことではありませんわい。還るのは嫌だというものが、駄々をこねているだけじゃ……」


 わたしの呪いのせいで死者が落ち着かないのではないか、と悠は思った。力を使い、神に戻ろうとした悠を妨げるために呪いが働いたとき、橋に死者たちが集まってきたように。呪いの強い情が、思いを残した死者たちを引きつけるのではないか……そうしているうちにまたどんときたが、みな何も言わなかった。小さな子どもまでが、まるで何事もないかのようにしていた。


 「恐れを抱くな」


 と早鷹は、諭すように悠に言った。


 「自分が何を感じているか、よく気をつけろ。おまえの心と、そうでないものを見分けられるようになりなさい。足りないのではなく、余分に持たされているのだ」


 早鷹は最後にいいな、と念を押したあと、ある美しい名を口にした。悠にも確かに聞こえたのだが、心に留めようとしてもだめだった。


 もう二度、早鷹の口から同じ名が呼ばれたが、やはり悠には覚えられなかった。聞いたそばからすり抜けて、耳には少しも残らないのだ。


 「分からないか。だから知っただけでは呪いは解けないと言ったのだ。おまえにとってみなが語ることは、この名と同じようにただ過ぎてゆくものでしかない。おまえの方で受け取ることができなければ、何か与えられたところで何も変わらない。何を受け取り何を拒むべきか、みずから決めて選べるようになれ。それとも――そうだ、おまえの方で用意ができたとき、自然とそれが分かるだろう」

 「今おっしゃったのは、どなたのお名前ですか」


 早鷹の言葉にうなだれながらも、悠はそれが気がかりだった。


 森のみなが、何とも言えない切なげな顔をした。早鷹は言った。


 「わたしが呼んだのは、おまえに与えられた彦神としての名だよ」



 常世の里ではその晩、しめやかな楽の音から宴がはじまった。疾風と悠を迎えるための賑やかな曲が草の原のみなを浮き立たせた。


 歌と踊りの輪には加わらず、脇で見物している八雲のもとへひざかがやって来て、八雲に持たせた土器(かわらけ)へ清らかな酒をついだ。八雲がひと口、ふた口を含んでいる間に、ひざかは一杯を干した。黄色い目が赤っぽく潤んでいる。良いことでも、悪いことでも、その目に涙の浮かぶとき、ひざかはこうしてやたらに酒をあおるのだ。


 「長生きはするものだな」


 もはやふたりともが〈生きている〉ということからは離れているし、豊葦原の森で生きていた頃は酒など舐めもしなかったのだが、八雲も心中は似たようなものだったので黙っていた。ふたりが見ている先で、常世の神々とともに悠と蓮が並んで琴を聴いている。弾いているのはひざかの息子で、千松せんまという若者だ。千松は父たちが見ているのに気がついていて、目配せしてよこした途端に弦を弾きそこねた。


 「何をやっとるんじゃ、おまえは」


 ひざかが声をかけると、和やかな笑いが上がった。千松はあっけらかんと弾き続けた。蓮が何かを話しかけ、悠がそれを頷きながら聞いている。尊い光景だった。


 ひざかと八雲は、悠が呪いを受ける前のことを知っていた。呪いを受けたあとで、悠がみずから言い出さない限り、この森へ戻ることはないといわれていたことも。


 いつ来るともしれなかった日が、こうしてふいにやって来たのだ。ひざかが湿っぽくなる気持ちが、八雲には痛いほど分かった。


 「待ち望んでいた日ですからね」


 と八雲は相槌を打った。


 「まだ、めでたしめでたしというわけにはいかないようだけれど……」

 「なに、どうにでもなるわい……」


 車座の宴では千松が琴を弾き終え、代わりに笛を渡された悠がそれを受けたことでやんやの喝采が起こっていた。歌口から吹き入れられた息吹きは細かに震える豊かな音色になり、ひざかは続けて話そうとしていたことをしばし忘れた。ひざかの耳の形は人のものと同じだが、もはや山猫だったときの記憶が遠くなりつつある今でも、猫の耳だったときと同じように動くことがある。悠の笛の音のする方に向いたひざかの耳は、耳だけが違う生きものになったかのようにぴくぴくと繊細に震えた。


 「本当に、あの方のお心に呪いなんぞというものがあるんじゃろうか? あの音は――」

 「そうは思えないね」


 すかさず八雲が言ってやると、ひざかはこらえきれずにはなをすすった。


 「さだめが動きはじめたのだ。姫さまも、これでようやく……」

 「動きはじめたばかりですよ。どこへ向かっていくかはまだ分からないのだから」

 「おまえは喜び方が足らん。心なく吹かれた笛の音の冷たさを、おまえは知らんのじゃろう」


 ひざかは勢いよくもう一杯土器をあおった。つられて八雲が含んだ酒は、涼やかな味がするのに喉をちりちり焼いた。



 木々は影ばかりの姿となってひっそりと佇んでいる。あれほど賑やかだった宴の名残りはないが、悠のために宮を整える早鷹たちの声はずっと騒がしい。悠が連れられてきたのは竹やぶ御殿よりも古い造りの屋形で、崖の途中、岩場にはりつけられるようにして建っていた。早鷹の宮だ。太い柱の並ぶ廊にはよく風が通り、今は美しい月が見えた。廊は南向きにせり出していて、里の灯かりを見下ろせば、まるで天空に座しているような心地がした。


 崖には一条の滝が落ち、廊にいる悠からは、月明かりにきらめくささやかな水の玉が弾けるのが見えていた。途切れそうな、か細い水の流れだ。辛うじて息をしているような、丈高い大滝は今、そのわずかばかりの流れを残して凍りついていた。


 「不思議な滝だな」


 廊の端へ行って眺めると、夏の宵であるというのにひやりとしたものが忍んでくる。蓮が傍らへ来て、悠と同じように下を覗いた。かすかな音を頼りに、ふたり真闇に目を凝らすと、はるか下に銀色の滝壺が輝いていた。


 「これは日照雨そばえさまの御滝。悠の、おばあさまの」


 と蓮が言った。


 「早鷹さまは、ずっとこのお宮に住んでいるの。日照雨さまの近くに。早鷹さま、この廊でよく日照雨さまと一緒に座っていた。日照雨さまは優しくて、静かなところの好きなひとなんだけど、本当はすごく強いの」


 夜風が涼やかに廊を渡っていき、蓮は緩く吹き流された髪を押さえた。一度だけ悠の鼻先をかすめた蓮の黒い髪からは、六花樹と同じ香りがした。どうやら、柔らかな髪らしかった。


 「日照雨さまは、もう長いこと〈すべてのもの〉の中にいる」

 「〈すべてのもの〉? 」

 「そう。みんなそこから生まれて、そこへ還るの。豊葦原の死者が迷わないように、日照雨さまが導いていくの……」


 蓮の声はだんだんと途切れていって、最後は別の声が大きくなった。


 耳元で、自分でない誰かの声がする。おまえのせいだ。おまえのせいだ。


 おまえのせいだ!


 絶望と喪失。怒り。最奥に、蝕まれるような悲しみ。振り下ろした手に握った剣は、何か柔らかなものを切り裂いた。温かい返り血を体中に浴びて、悠はその場に突っ立っていた。……


 「わたしではない! 」


 廊の手すりに縋り、崩れるように膝をつきながら、悠は死にもの狂いで叫んだ。切り裂いた記憶を見たのに、切り裂かれているような痛みが襲ってくる。剣が突き立てられ、肋をすり抜けて、内腑をかきまぜる――。


 蓮が話してくれたことが、呪いの恐れに触れたのだと思った。痛みで悠の心をくじき、呪いを守らせようとしている。


 いや、この痛みは。早鷹たちが異変に気がつき、間仕切りの布を抱えたままのひざかと八雲が駆けてくる。風が吹いている。日照雨の滝の流れを巻き込んで、雨のように注ぐ。冷たいしずくを感じながらも、悠は考え続けた。これは、呪いが害を成す痛みではない。呪いとともに現れた〈誰か〉が心に受けた痛みを、わたしはこの身に受けているのだ。わたしの心だけでは、受け止めきれないほどの痛みなのだ。


 「落ち着け」


 疾風は小さな手で悠の背を懸命に撫でた。父は体だけでなく、仕草までどことなく幼い。千尋はそれで、かえって心が鎮まるのを感じた。風が収まり、頭がはっきりする。ひとたび去ってしまえば、あれほどの痛みがまるで夢の中のもののように消えた。ひざかが唇を噛み、背を支えてくれた。


 「大丈夫です」


 悠は背を伸ばし、目元に溜まった涙を払った。


 「姫さま」


 八雲が押し殺すような声で蓮を呼んだ。大きな鋭い声では、障りがあるというように。蓮は応えず、八雲の腕の中へ崩れ落ちた。玉を連ねた首飾りごと胸元の衣を強く握りしめたために、指の節が白く浮いている。


 「どうした! 」


 その声に悠を見た蓮の、薄く開いた瞳から、涙がいく筋も伝っていた。声を出してものを言うことが辛いのか、蓮は首を振って力なくうつむいた。


 「休ませてやってくれ」


 霊たちは蓮のために柔らかい敷布を延べようとしたが、蓮はみずからそれを制した。


 「いい。……何でもないもの」

 「本当か? みな、頼む」


 悠が促すと、見守っていたものたちは従った。蓮も、二度は言わなかった。こぼれ続ける涙の方が、今はよほど雄弁だった。悠は擦らないようにしながら蓮の涙を指先で拭った。早鷹が悠のかたわらから蓮を覗き込み、優しく言った。


 「今夜は悠の頼みを聞いて、この宮で休んでくれ。今のそなたを見て、そう言わないものはいない。――誰か、一晩ついていてくれないか」


 やがて幾人かの守りを残してみなが宮を辞してしまうと、早鷹の宮に静けさが満ちた。悠は早鷹と疾風とともに南の廊で森を見下ろしながら、滑らかな衣越しに胸に触れてみた。何か棘のあるものや、角(かど)のある固いものが分かったわけではない。


 ただ、呪いと記憶の主との関わりは明らかでないにしろ、あのすべてを塗り潰すような重い痛みは、記憶の主がかつて感じた情を表しているのだ、と心を呪いと分かち合っている悠には分かった。痛みを伴うのは、決まって悲しみや怒りや、恐れを抱いたときだった。喜びや楽しみも同じ痛みを生むのかを、悠は考えた。


 「わたしは明日豊葦原に戻るよ」


 疾風は立ち上がって、眼下に広がる里と森を見下ろした。今の疾風は、立ち上がっても高欄の上から頭がやっと出るくらいしかなかった。


 「そのうちには、力が戻ってもとの姿に戻れるだろう。おまえの母上との約束でね。母上が豊葦原にいる間は、わたしも豊葦原にいると。……父上、この子をよろしくお願いします」

 「案ずるな。すべてが収まるところに収まるさ――」


 悠は祖父と父の前を辞して廊を離れ、間仕切りのとばりの奥をそっと窺った。蓮が厨を守るヤエという女神につき添われて静かに眠っている。黒々とした髪は月の光さえ受けず、まったく暗がりと同じに溶け込んでいたが、逆に頬は仄白く、そこだけが浮き上がって見えた。今は、泣いてはいなかった。首の玉飾りのひと粒が、きらりと光を弾いた。


 悠は蓮の安らかな顔つきを見つめながら思いを巡らせた。日照雨が〈すべてのもの〉にいると蓮が言ったとき、呪いが働いた。かつて悠が呪いを受けたことと、祖母がみなのもとを離れていることにはかかわりがあるのではないか。おまえのせいだ。おまえの呪いのせいで、おまえの祖母は祖父と引き離された。


 呪いの記憶がおまえのせいだと言ったとき、悠は確かに、罵倒されているものを見たのだ。それは大声で泣きながら、真っ二つに断ち切られた――。


 広い森のどこかから遠鳴りに、どんという音がした。屋形は少し揺れたが、蓮もヤエも、目覚めはしなかった。悠は耳を澄ました。亡者たちが大地を叩いているのかもしれない。木々の鼓動のようにも聞こえるその音は、決して恐ろしくはなかった。

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