ねずお

久田高一

ねずお

 男は,「ねずお」と呼ばれておりました。その由来といえば,痩せ細り角張った身体に血走る目玉,上唇に収まらず斜め前に突き出た前歯から連想される「鼠男ねずお」というのと,男が日夜ほとんど眠らない「不寝男ねずお」とを掛け合わせたところにございました。

 ねずおはまた,元来大変不器用な男でありました。彼は缶詰工場で働いておりましたが,一度ツナの肉詰の際,何をどう間違えたか,緑のタイルへぶちまけました。今日こんにち,ツナの肉詰めは機械が行ってくれますから,人間はボタンをいくつか押せばよいだけでございます。

 このような失態を度々犯したものですから,折檻は免れません。損失を埋め合わせるため,彼は元々少ない睡眠をさらに切り詰め,一日中せっせと働きました。首を切られず済んだのは,わずか残った工場長の温情でありましょう。

 あの日も,ねずおは半刻ばかりの睡眠の後,風呂にも入らず,工場への道をとぼとぼ歩いておりました。未だ暁は水平線に没しており,頼りない往来のランタンが,彼の前歯を照らしているのみであります。ねずおは,まだその前兆はなくとも,ほぼ確実に犯すであろう,本日の失態について思い倦ね,溜息をつき,丁字路に差し掛かりました。失態は,彼の予想以上に早く訪れたのでございます。ねずおは赤信号に突っ込んだものですから,夜明け前特有の,勇猛なる大型トラックに撥ねられてしまいました。

 幸いにも,トラックの運転手はねずおを轢き逃げることはせず,彼は病院へ運ばれ,一命を取り留めました。しかし,四肢はもう使い物にならず,頭だけが働いている有様です。一時は悲観にくれた彼でありましたが,忌まわしき不器用な手足が動かないのがなんであろう,何ら変わりのないことじゃないかと,ある種達観した心持ちで,不貞寝を決め込むことにいたしました。彼は人生で初めて,ぐっすりと眠り込んだのでございます。

 次に目覚めたとき,ねずおはいつになく爽快な気分を感じておりました。その由来を探ってみると,愚鈍だった頭が,よく働いていることに,彼は気が付きました。これならば,もう失態を犯すこともないような感じがいたします。それどころか,工場の生産ラインがいかに非効率だったか,そしてその改善策までも考えることが出来ております。ねずおはこのアイデイアを工場長に伝えれば,汚名返上間違いなしだと,元気よく跳び起きようとし,出来ず,戦慄いたしました。彼は四肢の動かぬことを,思い出したのでございます。そして初めて,暗い部屋にがんじがらめにされた自らの精神を実感いたしました。

 このかん,医師がねずおの意識に気付かず,親族のいない手遅れのものとして,バルビツールを注射したことは,失態の只中にいる彼には,ありがたい救いだったのでございます。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ねずお 久田高一 @kouichikuda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る