プリヴェート絶望

だっちゃん

序章 地の底

 今年の夏は観測史上最高気温を更新したらしい。昼からの出勤だから寝坊を気にすることはないけれど、駅前のバスターミナルの横に設置された気温計の37.1度という値を見ると気が滅入ってくる。

 昔の同僚たちは今ごろ冷房の効いたオフィスでタンブラーに淹れたアイスコーヒーでも飲みながら決算書をつついていることだろう。今さらあの生活に戻りたいわけではないけれど、順応することのできなかった自分自身のふがいなさにはいつだって打ちのめされる。

 夜はネオンで煌々としている商店街もこの時間帯に人影はなく、アスファルトの向こうに陽炎が立ち上り、乾いた空気だけが辺りを覆っている。何処からかジジジ、ジジジ、とセミの鳴く声が聞こえる。気温が高すぎるとセミも弱ってしまうらしい。心なしか今年は弱弱しい気もする。私も同じだ、と思う。今の生活はきっと私に合っていない。自分の心も身体も日々に削り取られていく確かな実感がある。客観的に見ても惨憺たるものだろうと思う。けれど今さら現状に抗う気力はもはや残っていない。それに、ここ以外きっと自分が生きていくことの出来る場所はないのだろうと思う。それは自己憐憫でも卑屈になっているわけでもない。ただの事実として、負けに負けが込んだ先に今へと流れついたのだから。ここでさえ合わないというのなら、きっと合っていないのは「この世」そのものということになってしまう。それを考えるのは辛うじて今はまだ踏みとどまっているけれど、決して遠くない未来だということも判る。

 JR大塚駅から数百メートルのところにある築古の寂れた三階建てのビル、その二階部分に「サロンド・ペロ」が入居している。おそらく有名ヘアカラー剤をもじったと思しきこの間抜けな店名を自分の店につけようなんていう勇気、私にはない。

「あ、アヤカさん。おはようございます。」

 スーツを着た歯の抜けた中年の男が卑屈に挨拶してきた。

「田島さん。おはようございます。」

 あまり話したことはないけれど、田島はパチンコに競馬に競輪に、ありとあらゆるギャンブルに溺れつくした挙句、首が回らなくなりここに流れ着いたらしい。いずれにしても素性の知れない男だ。こんな店に働く人間も、来る人間も、素性の知れた人間なんてただの一人もいないのだが。

 控え室で過度に性的なランジェリーに着替えスマホをバッテリーに繋いだ。この時間からピンサロにやってくる客はそう多くはない。まだ私以外にキャストもいない。SNSを開くと、「パル美、オリンピック開会式 辞退」の文字が躍っていた。やっとか、と思う。ニュースフィードの端にあるイイネ! ボタンをタップした。

 パル美は過去、陰惨ないじめを同級生の知的障碍児に行い、それを音楽誌で武勇伝のように自慢していたミュージシャンだ。雑誌発刊当時、その事実は大して喧伝されなかったものの、東京オリンピックの開会式直前にエグゼクティブプロデューサーとして一枚噛んでいることが判った途端ネット上で過去を掘り起こされ、大炎上していた。

 もちろん私には何の関わりもない。オリンピックにさして興味もない。ただ多くの人が盛り上がっていることに自分も賛同するだけで、自分は社会の前向きな一員なのだという気がしてくる。そのくらいでしか、今はそういう実感を得ることができない。

 こうして控え室でスマホをいじっている時間だけは心穏やかでいられる。SNSには絶え間なくニュースフィードや誰かのどうでも良いご高説が流れ込んできていて、そういう文字の波に飲まれている間だけ、ネガティブで何も生まない思考の頒布から逃れることができる。

「エリカさん、お願いします。3番テーブルです。」

 田島が声をかけてきた。コップにイソジンを入れてウガイをし、入口においてある100均のカゴにおしぼりを数個取り出して入れフロアに足を踏み入れた。

 フロアにはソファが8席並べられており、ついたてのようなものはない。こんな人に見られる場所で男のナニを咥えこまなければならない。最初はもちろん抵抗があったけれど、もはや慣れてしまった。それは「される側」にとっても同じことだろう。薄暗い室内では天井にかかるミラーボールだけを頼りに移動しなければいけない。冷房は必要以上にかけられておりほとんど極寒といっていい。冷え性の私には少々キツい。3番テーブルを覗き込むと、既に客の男は下ばきを脱ぎ去っており半裸となっていた。靴下ははいたままだ。その間抜けな姿で腕組みをし、私の身体を眼光鋭く舐めたのが判った。

「こんにちは~。アヤカで~す。よろしくおねがいしま~す。」

 形だけの笑顔と愛想で挨拶をすると男が応じた。色黒で年嵩だががっしりとした肩幅をしている。

「ち。なんだ、年増かよ。外れだな。」

「いやだもう、冗談キツイですよお。今日はお仕事ですかあ?」

 甘い声を出して男に媚びる。酷い言葉をかけられるのも日常茶飯事だが、そういうことにも慣れてしまった。相手が私を一端の女とは見ずただの生処理の道具だと思っているように、私もまた客の男を一端の男あるいは人間としては見ていない。ライン工と変わらない、ただの流れ作業だ。

 男の前に跪き、ナニに顔を近づけると重たい熱気のようなものを感じた。この炎天下の中歩いてここまでやって来たのだから当然だろう。ナニ自体からだけではなく、その周りからも瘴気のように熱が放たれている。

 男のナニは興奮しているのかビクビクと脈打っていた。皮を剥くと鼻を衝く臭いが鼻孔を刺激し、口の中にヨダレが溢れ出た。一体何日洗っていないのだろう。カリの下には白い恥垢がところどころに溜まっている。目をそらしたいが、それは得策ではない。これからこれを口に含むことになるのは私自身なのだ。アルコールをたっぷり含ませたおしぼりで撫でると、その刺激に反応して男が「う。」とくぐもった声を上げた。

 アルコールに痛みを感じるということは性病に感染しているということだ。今の男の声はただの快楽によるものだろう。念入りに男のナニを拭ったが、それでも鼻を近づけるとアルコールの向こう側に微かなアンモニア臭を感じる。いずれにしても完全にキレイにしきることができるわけではない。どこかで「えいや。」という気持ちで口に含むしかない。

 男の尿道に舌を這わせ、唾液をナニに垂らして手淫によって馴染ませ十分に自分の臭いにしてから口に含み、首を動かして男のナニを刺激した。持ち時間は15分。客との相性によっては15分ずっと首を動かし続けなければいけないこともある。ひたすら無心に、自分はそういうマシーンなのだと言い聞かせる。しかしこの仕事をするようになってからというもの、首とアゴに負担がかかるのか痛みがある。チク、という痛みを覚えるたびに、自分はマシーンなどではなく人間なのだという現実に引き戻される。なるべく口を開かず、首を動かさず、舌で刺激して男を絶頂に導く。男を喜ばせることはサービスなどではなく自分を助けるためにほかならない。

 まもなく男が「うっ!」と言ったが早いか、私の顔を掴みナニの根元まで押し付けた。そして喉の奥に濃厚で生臭いモノをぶちまけた。素早く口の中のものを唾液とともにおしぼりの上に吐き出した。一部を飲み込んでしまい、食道に精子がこびりつくのを感じる。

「たくさん出ましたねえ。」

「ああ、ああ。おお。」

 一度射精をしたことで正気に戻ったと思しき男は、自らの格好の間抜けさに気づいたのかそそくさとズボンを履いて退店していった。控え室に戻り、イソジンで念入りにウガイをした。こんなことは何でもない。

 簡単な単純作業。私にはもはや減る物も失う物もありはしない。あと何回か同じことを繰り返せば今日が終わる。ただ「今日を終える。」ことだけが至上命題で、その他のことはどうでもいい。

 終電になり退勤すると、湿気た空気の塊が私を包んだ。昼間の暑さは耐え難いけれど、極寒の店内で冷え切った身体を程よく温めてくれる夏夜の暑さはむしろ心地がいい。早く家に帰ってシャワーを浴びたいと思う。

 板橋の本蓮沼にあるアパートまで20分足らず。この短い時間が苦痛だ。

 こんな深夜でも、車内には酔いつぶれたサラリーマンがちらほら散見される。私は、どんなに酒を飲んでもあんな風に取り乱したりはしない。だけど彼らは尋常の世界に生きていて、自分はそこを外れて暮らしている。そのことに居た堪れない気持ちになる。

 地下鉄から階段で地上へあがり、そこから大通りを外れて数分の古い木造アパートの1階。安アパートの多いこの辺りでもとりわけ安い家賃、それくらいしか取り柄のない部屋にはオートロックも何もありはしない。けれど治安にかけるお金がない。愛着のない部屋に帰る道程は、出勤するのと同じくらい足が重い。

「ただいま。」

 誰にともなく呟く。とたんの扉を開くと、暗い廊下の奥で干してある洗濯物が人の姿に見える。天井に吊るされ、風もなくギシギシと音を立てて揺れる自分自身の亡霊だ。

 壁の電気を点けると亡霊は消え、いつもの何もない部屋がある。

 最近まで付き合っていた男は、ある日私の財布から数万円を奪い去り、それきり二度と帰ってくることはなかった。きっと新しい女でも見つけたのだろうと思う。よく女に手をあげる愚図を絵にかいたような男だったけれど、それでも部屋を暖めてくれていた。たったそれだけで贖うことのできるものがあった。今このがらんどうの部屋に、私以外の何者もいない。それはこの世界に私だけが冷え物だということに外ならない。

洗濯物を吊るすロープを解いて輪を結い首を入れたのなら、今すぐにでも全てをしまいにすることができるのだと思った。

 随分長く歩いた気がする。出来の悪い茶番劇だった。もう、ここまででいい。この人生はもはや詰んでいて代わり映えなんてしない。ここから先にあるのは真綿で首を絞められるような緩慢な死だと思う。

居心地の悪い1Rにもこの世界にも自分の居場所なんてない。早く砂になって、ここではない何処かへ消えてしまいたい。底の見えない空虚がそこに横たわっていた。

 だけど、と思う。

 何かが喉につかえていて、その一歩を踏み出せないでいる。死ぬことならばいつでもできる。それなら「いま一度。」この世の浄土を見てから予行演習でもしておこうと思った。押し入れの奥深くにしまっているクッキーの空き缶を引っ張り出し、中にあるビニールの小袋を取り出し、耳かきで慎重に粉末を取り出し、鼻孔に押し当てて吸い上げた。

 そうすれば朝が来る。家事をしよう。犬に餌をやって、優しい旦那さまにご飯を作らなくちゃ。ピー・ガガガ・ピー。どこかでFAXの着信音が鳴っている。

 

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